5、通り雨



 山姥切国広から太郎太刀へ近侍の引継ぎが終わり、遠征部隊の編成が始まった。最初のうちは無理に資材を得ようとしなくてもいい、全員無事に帰って来さえすればいい。それはだけではなく山姥切も同じ考えだったようで、最初から成果を得ようとするのではなく、まずは仲間たちを長旅に慣れさせることが第一だと言った。そう考えているのなら、まず無茶はしないだろう。やはり彼を隊長に任命してよかったとは改めて思った。
 やがて遠征の準備が整い、初遠征へ出発する日がやってきた。無茶はしない、安全策を取ってくれると山姥切のことを信用しているが、それでも出先で何かあったらと不安は拭えない。見送りの朝、しっかりと目の下に隈を作った主人を見て、呆れたように山姥切はため息を漏らした。
「そんなに心配するな。獣道はなるべく避けるし、戦闘はしない」
「うん。わかってるんだけどね……やっぱり心配は心配なんだよ」
「俺はあんたの……あんたたちのほうが心配だけどな」
「え? あ、ちゃんと仕事はするよ?」
「……そういうことじゃない」
 目の前で盛大にため息をつかれてしまった。彼が何を心配しているのか想像はつく。おそらく太郎とのことを言っているのだ。だが、その心配事のもう一人の張本人がの後ろに立っているのだ。本人を前にして明らかな反応をするのも気が引けた。
 あまりぐだぐだとしゃべっていても埒が明かないので、山姥切は太郎に視線を定めた。
「こいつのことは頼んだぞ。というか、今後はあんたが近侍だからな。しっかりと目付けを頼む」
「はい」
(目付けって……すっかり小姑みたいだな……)
 山姥切の言い様に不満がないわけではないが、口は悪いものののことを心配しているとわかっていたので黙っていた。
 出発する彼らの姿を、は見えなくなるまで見送っていた。これから数日、少しだけ本丸が静かになる。



 本丸の敷地は広い。刀剣男士たちが当番を決めて世話をしている畑や厩舎、その奥には裏山のような丘がある。本丸は政府の管轄地にあたるので間引きなどの手入れはされているが、普段人の出入りは全くない。ゆえに、一人になるにはうってつけの場所だ。
(まあ、ここに来るまで畑とか通るから、誰にも気付かれずにここに来るのは難しいんだけど)
 山姥切が口を酸っぱくして「行き先を告げてから出かけろ」と言っていたので、誰にも何も言わずに一人になるのは至難の業だった。刀剣男士たちにも、を見かけたらどこへ行くのか、何をしているのかを尋ねろと言い含められているようで、心配してもらっている分、気が抜けないと感じる時もある。
 要するに、はここへ一人になりたくて来たのだ。ここは、静かで風が木々を揺らす音しかしない。晴れた日にここへ来ると、木漏れ日が気持ちいい。
 太郎が近侍になるということは、好きな人が四六時中そばにいるということで、嬉しいよりも落ち着かないのだ。これが親しい間柄だったり、恋人同士だったらそれは幸せだろう。しかし今のところの片想いなのだ。太郎の姿を見るたびに、声を聞くたびにどきどきして上手く立ち回れない。彼を失望させたくなくて、審神者の仕事をしっかりとこなさなければいけないと思うが、頭が回らないせいか上手くいかない。一息つかなければ仕事も進まないと思ったは、一方的に太郎に休みを申し渡して下がらせると、誰にも何も告げずに裏山へとやってきたのだ。
(さすがに、変だと思われたよね……でも、ちょっと頭を冷やさないとダメだ……)
 戦場に出ている日もあるので常に一緒というわけではないが、圧倒的に一緒に過ごす時間が多い。だらしないところを見られてないかと気が抜けない。自分でここ数日のことを振り返って、空回りしていると自覚があるほどに挙動があやしい。報告書は書いてないし、日課任務は抜けがあるし、太郎から見ればさぞ頼りない主人に映ることだろう。その上、こんな風に自分のことばかりに目が行って、勝手な行動を取ってしまう。
「ダメだなぁ本当に」
 心が落ち込んでいく。だが、頭を冷やすにはこれぐらいでいいかもしれない。今日ここでしっかり落ち込んで、冷静にならなければ。しゃがんだ体勢で、膝の間に顔を埋めて目を閉じた。こんな時に山姥切がいれば話を聞いてもらえるのかもしれないが、彼は重要任務の真っ最中だ。
 はあ、とため息を膝の間でつくと、不意に葉擦れの音とは違う、枯葉を踏みしめる音がした。野犬か何かだろうかと顔を上げると、背の高い人の姿がみえた。太郎だ。
 休みを言い渡したはずなのに、どうしてここにいるのだろうと彼を見つめていると、太郎もに気付いた。彼は足早にこちらへと近寄ってきた。
「主、探しておりました」
「どうしました? もしかして、本丸で何かあったんですか?」
「……いえ」
 彼は言葉を選ぶように口を閉じた。仲間たちに何かあったのではないとすると、彼がを探していたのはなぜだろう。は視線で続きを促した。
「今日一日、主の姿を見かけなかったのでどうされているのかと……誰に尋ねても貴方の行き先を知らず、肝が冷えました」
「そ、それはすみません……」
「供を連れずに外出される際は、行き先だけでもお告げ下さい。……それとも、やはり……」
「……?」
 太郎の言葉尻をよく聞き取れず、聞き返そうとしたが、太郎はその前に首を振ってしまった。この話は終わりとでも言うように。
「話は後にいたしましょう。雲行きがあやしくなっております」
 太郎の言葉に上空を見上げると、確かに晴れていた空が曇っていた。下ばかり向いていたせいか気付かなかった。差し出された右手に、一瞬躊躇してから手を重ねて立ち上がった。太郎の篭手をしていない右手から、熱が伝わってくる。落ち込んでいたはずの心は、それだけでざわついてしまう。
 手を引かれながら裏山を下り、厩舎まであと少しという距離のところで雨が降り出した。ぽつぽつ、と大粒の重たい水滴が降ってくる。どんよりと重たい雲がかかっていた。通り雨だ。
「わ、降ってきちゃった」
「失礼。主、こちらへ」
「え」
 ぐっと手を引かれたと思うと、は太郎の腕の中にいた。が濡れないように、自分の着衣の袖でを覆うように腕を上げて、その中にを閉じ込めていた。状況がわかった瞬間、顔から火が出るのではないかというくらい頬が熱くなった。
「このまま厩舎まで走ります。足元にお気をつけ下さい」
「はっ、はい……!」
 正直、厩舎までどうやって来たのか覚えていない。気付いたら厩舎の軒先にいて、太郎の腕から解放されたことでやっと現実に帰ってきたのである。足元が少し濡れたくらいのに対して、太郎は毛先から水滴が滴るくらいに濡れてしまった。
「ごめんなさい、私がいつまでもあんなところにいたせいで……太郎さん、少しかがんでもらえますか」
 は懐を探って手巾を取り出すと、太郎の濡れた髪を拭こうとする。
「主にそんなことをさせるわけには……」
「もう、今はそういうのいいから」
 太郎の言葉をさえぎって、背伸びして太郎の髪を拭く。困ったようにを見つめていた太郎は、やがて諦めて身をかがませた。後々思い返すと水も滴るいい美青年だったのだが、このときは早く拭かなければとそれしかの頭になかったので、そんなことを意識する余裕がなかった。
 小さい手巾で出来るだけ拭き終わると、太郎は身を引いた。気休め程度にしか拭えなかったが、やらないよりはマシだろう。濡れた手巾を懐に入れるわけにもいかず、母屋に帰るまでどうしたものかと考えていると、太郎が話しかけてきた。
「主、寒くありませんか」
「私ですか? 私はあまり濡れてないので寒くないです。太郎さんこそ、寒くないですか?」
「私のほうこそ、お気遣いには及びません。元は刀なのですから、傷は負いますが体調を崩したりはしません」
「あ、そうか……なんか、もう審神者の仕事にも慣れたつもりだったんですけど、まだまだですよね、私。そんなの普通に考えればわかることなのに」
 目の前にいる太郎に好意を寄せているせいもあるのかもしれないが、いまだに刀剣男士たちが元は刀だったという意識が薄い。どこからどう見ても人間で、と同じような生活をしているから、つい体調などを聞いてしまうのだ。
「いつまでもこんなんじゃ、頼りないですよね」
 つい自虐的になってしまう。太郎にこんなことを言ったところで、この人は気にも留めないかもしれないのに。今は近侍という立場だから、の言葉を聞いてくれるだけだ。そう考えると再び心が落ち込んでいく。自然と顔がうつむいてしまう。そこへ、太郎が遠慮がちに言葉を発した。
「……こんなときに、どのような言葉をかければよいか……山姥切国広ならばわかるのでしょうか」
「え……?」
 思わず太郎を見上げると、彼は憂いたような顔をしてを見つめていた。の目を静かに見つめると、独り言のような調子で続けた。
「貴方を探している最中、わからないことばかりでした。貴方がどこへ行ったのか、なぜ私に何も言わずに出て行ったのか……考えても、私が貴方のことを理解していないから……近侍としてまだ頼りないからだと、そのことしか、わかりませんでした」
「え……?」
「私がもっと貴方のことを理解していれば、もっと早くに貴方を見つけられたかもしれません。もしそうなら、貴方を雨の中走らせる事などなかったでしょうに。申し訳ありません、やはり私は、貴方の近侍としてふさわしくないのでは……」
「太郎さん、それは違いますよ!」
 は思わず声を荒げて太郎の言葉をさえぎった。
「私が何も言わずに勝手に出てきたのが悪いんです、太郎さんは悪くないです!」
「しかし……今日、急に私を下がらせたことにも何か理由があるのでしょう。それが、私に関係がないとは思えません」
「あ、いや、その……なんていうか、太郎さんをがっかりさせたくなくて、審神者の仕事をしっかりしないと、って気を張ってたんですけど……それで自分で勝手に気詰まりしちゃったというか……だからその……つまり、太郎さんは悪くないんです!」
 まさか好きだから意識しすぎて、とも言えず、遠まわしな言い方をしようとするが、最後のあたりはまどろっこしくなってしまった。意味不明なことをいう主人だと思われたかもしれないが、とにかく太郎は悪くないのだと、それだけは言いたかったのだ。かなり無理な結論付けかもしれないが。いや、論理にすらなっていないかもしれない。
 最後だけやたら強調するを呆気に取られたように見ていた太郎は、やがて表情を柔らかくした。珍しく笑っていた。
「今まで、貴方のことを不思議な考え方をする方だと思っていました。ですが、思わぬところで私と似ている部分があるのかもしれません」
「似てる……私と太郎さんがですか?」
「はい。私も貴方と同じようなことを……近侍として役目を果たさなければ、私を信用して用いてくださった貴方に申し訳が立たない、しっかりしなければと思っていました」
「そうだったんですか……なんだ、知らずにお互い空回りしてたんですね」
 お互いに、目の前の相手を見ているようで、実は自分のことを考えていた。相手が本当は何を思っているかなど、表情を見て言葉を聞かないとわからないのに。はおかしくなって笑い声を上げると、太郎も目を細めた。久しぶりに、ちゃんと太郎と話をした気がする。
「私、これからもっと太郎さんのことを頼ります。審神者として未熟だし完璧なんかじゃないですけど、それでもがっかりしませんか?」
「はい。主をお助けすることが近侍の本分です。主、私も至らない点が多々あると思いますが、それでもいいのでしょうか?」
「はい。私は太郎さんがいいです」
 が何気なく言った言葉に、太郎は固まってしまった。何か変なことを言っただろうかと思い返すと、なんだか告白めいた台詞を言ってしまったような気がしてきて、は慌てて顔の前で両手を振った。
「あ、いや、その、変な意味じゃないですよ!? 決してやましい意味なんかないんです。ていうかやましいってなんだ、あ、でも太郎さんがいいと思っているのは本当の本心からで……!」
 一体何について弁解しているのか自分でもわからなくなってきた。しゃべればしゃべるほど逆効果のような気がしてきたので、もう黙ったほうがいいかもしれない。すっかり赤くなっているだろう頬に手を当てて隠そうとすると、不意にその手をつかまれた。つかむ相手は目の前の太郎しかいない。太郎はつかんだの手を下ろさせると、赤く染まった頬にそっと触れた。
「本当に……貴方は不思議な方です。だから、貴方という人を知るたびにこんな気持ちになるのでしょうか」
「た、太郎さん」
「貴方が主でよかったと、心からそう思っています」
 まただ。またあの時の、太郎とはじめて会ったときの感覚がを支配していく。目の前の景色から太郎だけが切り取られたように、太郎のことしか考えられなくなる。頬から伝わる微熱に神経が集中する。
 通り雨が去って雲間から日が照っていることに気がついた太郎が、「さあ、帰りましょう」と言っての手を引いて歩き出した。は、それに自分がなんと答えたのかはっきりと覚えていない。ただ、歩きながらもう少しこの時が続けばいいのにと、大きな手を握り返したことは確かだ。



 それから三日後、遠征部隊が帰ってきた。本丸の外に出ていた仲間たちの報告によれば、全員薄汚れているが、特に目立った外傷もなく無事なようだ。太郎はその報告を聞くと、主人にそれを伝えるために離れへ向かった。
「主、太郎です」
 と声をかけるが、返事がない。いつもなら、この時間は部屋にいるはずだが。太郎は失礼します、ともう一度声をかけてから部屋に入った。
 は文机に突っ伏して転寝をしていた。部屋の飾り窓が開け放たれて、心地よい風が主人の髪を揺らしていた。政府からの書類がぱらぱらと風で音を立てているが、きちんと文鎮が置かれているので飛んで行ったりはしなかった。抜けているところもあるが、元々真面目で几帳面なの性格がこういうところで出ている。近寄って寝顔を見ると、また目の下に隈ができている。おそらく、遠征部隊のことが気がかりでよく眠れなかったのだろう。太郎はそれを見ると、このまま寝かせておこうかとも思った。しかし、遠征部隊が無事であることを知らせることのほうがの心を安心させるだろうと思い直し、もう一度声をかけようとした。
「う……ん、た、ろう……さん……」
 寝言で名を呼ばれ、心臓をつかまれたような感覚に陥った。掠れたような声に、暗い顔色の無防備な寝顔。今すぐ起こして遠征部隊の無事を告げて、この人を安心させてあげたい。だがもう少しこのまま、この寝顔を見ていたいような。そう、自分だけが主人の寝顔を見ていられるこの瞬間がもう少し続けば。
「……貴女のことが……私は、貴女のことを……」
 心臓をつかまれたような感覚は、締め付けるような苦しさに変化した。刀であるはずの太郎が覚えるはずのない痛み。思わず胸をさすってみるが、外傷などはない。そのまま、胸の辺りの衣服をぎゅっと握り締めた太郎は、母屋が遠征部隊の帰還で騒がしくなるまで、主人の寝顔を見つめていた。


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