あの恋を、続きからもう一度 第三話


 意図的に光量を絞られた照明、広いベッド、広いソファ。ベッドと向かい合う壁には大きなテレビが備え付けられている。
 防音の室内はしんと静まり返っていて、俺との立てる布擦れの音しかしない。
 を見下ろすと、広いベッドに横になった彼女の胸が呼吸のタイミングで上下しているのが目に入った。すぐに目を逸らした。
 気でも紛らわそうかとテレビを付けたくなったが、電源はおそらくこの部屋を出るまで入れることはない。この部屋のテレビから流れる映像は普通のホテルとは違っていて、それをひと目でも目にしてしまったら俺は理性を保つ自信がない。
 ここはホテルの一室。しかもホテルの前にはラブとかファッションとかがつく。
 そう、俺はとラブホテルにいる。

 ***

 なぜこんな状況になったのか。
 今日は花の金曜日。仕事終わりにを誘って飲みに行った。俺もも明日は休みだからか調子よくお酒が進んでいった。上機嫌に笑っているを眺めながら、ああこれが恋人どうしだったらいいのになあとか思っていた。
 店を出て、これからどうしよう、結構いい時間だけど二軒目に誘ったら来てくれるかななどと考えていると、の口数がやけに少ないことに気が付いた。さっきまでおしゃべりだったのに。さっき……というか、会計する前くらいから少し静かだなとは思っていたけど。
 不審に思ってを見ると、先ほどまでの笑顔はどこへやら、無表情に口元を押さえていた。

、大丈夫かい? もしかして気持ち悪い?」
「……うん……ちょっと、飲み過ぎたかも……」
「駅まで歩ける?」

 今日は駅から歩いて十分ほどの雰囲気のいいお店を職場の先輩に紹介してもらった。普段なら特に困る距離でもないけど、この様子のをヒールのある靴で歩かせるのはさすがに不安だった。

「……大丈夫、だと思う」

 はそう言ったけれど、どう見ても大丈夫じゃなさそうだった。仮に駅まで歩いたとして、そこから電車に乗って帰宅なんてもっと気分が悪くなってしまいそうだ。
 とにかく、どこか休めそうなところ。座って水が飲めそうな。
 あたりを見渡す。細い一方通行の道の、大通りとは逆の方向にライトに照らされたこぎれいなビルがあった。目を凝らしてみると、HOTELの文字が見えた。
 入口の周りは一見するとビジネスホテルに見えなくもないが、自動ドアの横の立て看板には「休憩二時間五千円〜」と書いてあるのが見える。
 俺は内心かなり迷った。でもをこのまま寒い中立たせておくわけにはいかないと思い、

「少し休んだほうがいい。あそこのホテルに入ろう」

 と言って、の手を引いてゆっくりと歩きながらラブホテルに入ったのだった。

 ***

 体調の悪いをあのまま放っておけないし、かといってどこか違うお店を探そうにも土地勘がないし、周囲を調べている時間も惜しかった。
 だから俺の判断は間違っていなかったと思う。
 エントランスで部屋を選んだり、部屋に着いてのコートとジャケットを脱がせたりした時はさすがにどうしようかと思ったけど。

(こんな形でとこういうホテルに来るとは思わなかったな……)

 が寒くないようにエアコンの温度を上げたせいか暑くなってきた。そこで、まだ自分のコートを脱いでなかったことに気づいた。冷静であろうとしているけど、たぶん思ったより混乱している。
 はペットボトルの水をひと口飲んでから横になって、今は目を閉じている。眠っているのかどうかわからなかったが、念のため起こさないように静かにコートとジャケットを脱いでハンガーにかけた。
 手持ち無沙汰になった俺は、どうしようとをちらっと見てはベッドの上の彼女に動揺して、考えが上手くまとまらなかった。とりあえずにシーツをかぶせておく。水はまだ冷蔵庫に残っているのをさっき取り出した時に確認済みだ。
 ああ、あと洗面器も持ってきておいたほうがいいかな。そんなに深刻そうではないけど、もしもの時のために近くに置いておいたほうがいいだろう。
 部屋はとりあえず一番高いやつを選んだんだけど、それに見合った広い浴室だった。パウダースペースもきれいに整っていて、アメニティグッズもたくさん並んでいる。浴槽も広くてバブル機能もついてる。大きいテレビだってある。それこそカップルがふたりでゆっくり入るためにあるんだろうなと思った。俺とは残念ながらまだ恋人じゃないから使うことはない。
 洗面器を手に取って戻ると、はまだ目を閉じたままだった。ベッドに近寄って彼女の顔を覗き込む。水を飲んで温かい部屋で休んでいるおかげか、顔色はホテルに入る前よりも良く見える。部屋の暖色照明のせいかもしれないけど。
 その時、ふいにが目を開けた。油断していたから内心びっくりしたが、かろうじて表には出さなかった。

「幸村くん……? 私、寝てた?」
「十分くらいね。気分はどうだい? 気持ち悪くない?」
「……さっきよりは良くなったと思う。ありがとう」
「良かった。後で胃薬買ってくるから、は休んでて」
「え……でもここ……」

 が部屋の中を見渡しながら言った。

「……ごめん、近くにあったから。下手に君を歩かせたくなかったし」
「え、あ、うん……ごめん、迷惑かけて」
「そんなこと今は気にしないで。良くなるまでそばにいるから」

 は少し戸惑ったように俺を見た。

「あの……」
「うん?」
「……ううん、なんでもない」
「え、なんだい?」
「その……こういうこと聞くと、失礼かもしれないし……」
「ここで濁されるほうが気になるよ、言って」

 俺が促してもは言うか言うまいか迷っていて、少しの間部屋がしんとした。それからはかなり言いにくそうに口を開いた。

「幸村くんは、平気なのかなと思って……」
「――こういう場所に、といることが平気なのかってことかい?」

 が小さく頷いた。
 珍しく墓穴を掘ったかもしれない。意識しないようにしていたのに、本人から話題を提供されるとどうしても考えてしまう。ラブホテルの一室に男女、なにも起こらないはずがなく……なんて。
 意識しないはずがない。だって好きな人とホテルにいるんだ。こんな状況で下心が完全にないと言い切れる男がいたら会ってみたい。あいにく俺は下心も性欲もあるし、それが相手ならなおさらだ。脱がせたコートから香ってきたの残り香で興奮しそうになったのはついさっきのことだ。俺も大概酔っている。

「ご、ごめん……やっぱり言うんじゃなかった……」

 複雑な心境が表情に出ていたのか、が慌てて撤回した。シーツを引っ張って顔を隠している。
 くそ、可愛い……正直、こんな状況になったことは少しだけ憎らしいと思うけど、それでも可愛いと思う心が大部分を占めているんだから俺は頭がおかしくなったのかもしれない。

「いや、言わせたのは俺だし、もう聞いちゃったから……そりゃあ、下心が完全にないとは言わないよ。俺も男だからね。でも、体調が悪いに無理強いは絶対にしないよ。それだけは信じて」

 手を伸ばしての前髪をかき分け、額に触れる。はびっくりしたように目をつぶったが、俺が額に触れただけで手を離すと、ゆっくりと瞼を開いた。

「今夜の一瞬だけ君の体が手に入っても嬉しくないんだ、俺は」

 俺の本能はその頬にもくちびるにも、体にも触れたいけど。一瞬触れただけで胸が熱くなりそうだったけれど、それを抑え込む。

「本当に、君が好きなんだ。明日も明後日もその先も、とずっと一緒にいたい。の心が一番欲しいから、だから、今日は抱かない」

 心を向けてくれなければ、体だけ繋がったって意味がないんだ。十年も会えず連絡も取れなかった好きな人にせっかく会えたのに、目先の欲望に飛びつくなんて馬鹿な行動でこの関係を壊したくない。
 だから俺は、どんなに触れたくても我慢できる。
 は俺の顔をただじっと見ている。俺の言葉がの中でどんなふうになっているのかわからないけれど、少しでも俺の気持ちが伝わっただろうか。

「そこのソファで寝るから、気分が悪くなったら遠慮せず起こして。シャワーはいつでも浴びていいよ。俺は朝に使わせてもらうから」
「……ごめん、本当に、こんな手間かけさせて」
「だから、本当に気にしないで、ゆっくり休んで」
「……ありがとう」
「うん、謝られるよりありがとうって言ってもらえると嬉しいな」

 笑顔を返すと、もようやく安心したように笑った。
 それからは少しもぞもぞとした後、本格的に眠った。しばらく様子を見て寝息が安定していたので、コンビニへ胃薬を調達しに行く。戻ってからも特に顔色に変化はなく、俺はほっと胸をなでおろした。
 合皮のソファに横になって目を閉じる。足が伸ばせるような大きいソファで、一番高い部屋を選んでよかったと思った。酒が入っていたせいか、すぐに眠気はやってきた。
 翌朝、胃薬を飲んで体調が回復したは俺に土下座せんばかりの勢いで謝ってきた。

「本当にごめん! こんなにお世話になるなんて、もうどう謝ったらいいか……いい歳なのに、飲み過ぎるなんて恥ずかしすぎる……」
「だから、本当に気にしないでいいよ。そんなに気になるならまた俺とデートしてくれればいいから」
「本当に、申し訳ない……ここの料金は私が払うし、次の、その、デ、デートするときは埋め合わせするから」
「え、お金のことなんて気にしなくていいのに。俺、自分が払うつもりで一番高い部屋選んでしまったよ」
「ダメ! ここは絶対私が払います! 付き合わせてしまったのは私なんだから、それぐらいは当然でしょ」

 それからなにを言っても頑として譲ってくれなかったので、が精算することになった。世話らしい世話もしてないんだけど、こういうところできっちりしているのは性格なのか、それとも俺が年下だからだろうか。
 それよりも、俺は気になることがあった。

、昨夜のこと覚えてる?」
「昨夜?」
「俺の言ったこと」

 シャワーも浴びてふたりとも身だしなみを整えてもうホテルを出るだけというところで、俺はに尋ねた。

「俺は本当にのことが好きで、ずっと一緒にいて大切にしたいって言ったんだけど、覚えてる?」
「なっ……! お、覚えてる……」

 きょとんとしていたは、俺がストレートに告白したことで一気に顔が赤くなった。

「よかった。酔ってたから、もしかしたら忘れてるかもしれないと思って聞いたんだ。そのままずっと覚えてて」

 そう、昨日あれだけ言葉と態度で伝えた俺の気持ちを忘れてもらっては困る。昔も今も、たぶんこの先もずっと君に惚れてるんだ。そのことを信じてもらわないとね。

「そ、その……幸村くんの気持ちは、わかったから……その上でこんなことになったのも、本当に申し訳なく思ってるから」

 がまだ赤みの引かない顔で言った。
 俺としてはまったくの骨折り損だったわけじゃないし、どうあれと一緒にいられてよかったとは思っているんだけど、はそうは思えないようだ。

「うーん……何度も言うけど、本当に迷惑だなんて思ってないんだけどな」
「いや、そういうわけにもいかないから。幸村くんの好意に甘えるわけにはいかないよ」

 なんというか、きっちりしている。まあ俺が逆の立場だったらと同じことを言うと思う。それならもう、の言葉に甘えちゃおうかな。

「じゃあ、ホテル代ともうひとつだけもらおうかな」
「いいよ、朝ごはんおごろうか?」
「うん、それも悪くないけど」

 完全に無防備なの体を抱き寄せて、わざとゆっくりと顔を近づける。俺がなにをしようとしているのか察したのか、が固く目を閉じた。
 俺は一息置いてから、の額にキスをした。
 顔を離してを見下ろすと、は目を開けて固まっていた。

「これだけ、今回はもらっておくよ。さ、もう行こう。朝ごはんは食べる? 胃を休ませたいなら家まで送っていくよ」
「ゆ、幸村くん……!」

 はさっきよりも赤くなった顔で口をパクパクさせている。動揺からかなにを言ったらいいか整理できないんだろう。俺は笑いをこらえつつ、部屋を出た。
 ――顔を近づけて、目をぎゅっとつぶるを見た時、そういう反応をするだろうと思っていたよ。まだくちびるにキスをするのは早い。まだ俺のことを警戒する心が残っているうちは焦っても仕方ない。本音を言うともどかしいけど、急いては事を仕損じると言うしね。
 もっと会って、もっと俺のことを知ってよ。少しずつでいいから、俺のことを好きになって。
 望みが少しでもあるなら、振り向いてくれるまで俺は諦めないよ。


←第二話          第四話→



inserted by FC2 system