第九話


 夜、の帰宅時間に合わせて久しぶりにのマンションの前に行くと、そこには相変わらずバラの鉢植えが鎮座していた。花の時期は終わって、花首もとっくに切り取られている。これから冬に入って、植え替えしたり剪定したりする。寒さにも弱い花だから、防寒もしなくちゃいけない。の部屋は日当たりがいいから、部屋の中に入れるのもありだ。
 コツコツというヒールの音に顔を上げると、が帰ってきたところだった。俺に気づいて、軽く手を振ってくる。そういう何気ない仕草にもいちいち喜んでしまうのだから、一ヶ月弱ほど会えなかったのは予想以上に俺に影響を及ぼしているのかもしれない。喧嘩の後っていうのもあるだろうけど。
 一ヶ月ぶりのは、ちょっと頬が痩せたように見える。俺の目の前に来ると、少しぎこちない笑みを浮かべた。俺も表情を和らげたつもりだけど、の目にはぎこちなく映っているのだろうか。

「……久しぶり」
「うん……久しぶり。待った? 寒かったでしょ」
「ううん、今来たところだから」
「そっか。とりあえず、どうぞ」

 部屋までの道のり、合宿はどこに行ってたのかとか、どういう人達が集まるものだったのかを聞かれた。そういえば、そんなことも話してなかったな。改めて、なにも話さずに喧嘩別れしてしまったことを思い出した。
 部屋に着いて、の招くままに玄関へと足を踏み入れる。手に持っていた例の物は、玄関の三和土に置かせてもらうこととする。

「お茶入れるから、そのへんに座ってて。上着はそこのハンガー使ってかけてね。あ、それともなんか食べる?」

 が上着を脱ぎながら言った。

「ありがとう、お茶でいいよ。すぐお暇しなきゃいけないし」
「そっか、もうおうちで食べてるよね」

 今は夜の八時半過ぎ。の言う通り、俺は既に夕食を済ませていた。は俺との話が終わってからなにか食べるのだろうか。
 の部屋にいるんだなと思うと、わけもなくドキドキしてくる。一度入ったことはあるものの、あの時は座る前に出かけたっけ。初めてふたりで食事に行った時のことだ。あの時よりは部屋の中は片付いていて、やはり殺風景というか無骨というか、彩りが少ない部屋だ。

「はい、お待たせ」

 ローテーブルの上に、紅茶のカップが置かれた。俺は礼を言ってからそれに口を付けた。よくあるティーバッグの紅茶の味だが、その温かさが緊張をほぐしていく。がひと口すすってカップを置くのを見てから、俺もカップを置いて息を吸い込んだ。

「あの……」
「この間は……」

 お互い同じタイミングで喋り出して、見事に被ってしまった。がどうぞと言って、俺もそっちからでいいよと譲って、でもせっかく来てくれたから幸村くんが先で、と押し切られた。まあ、ここで押し問答していてもしょうがない。じゃあ、と改めて息を吸い込んだ。

「この間は、ごめん。ひどいことを言ってしまったし、あんな言い方する必要なかった」

 ここはもうストレートに言った。メッセージでも送ったけど、ずっとこうやって顔を見て謝りたかった。はすぐに首を横に振った。

「ううん。幸村くんが言ったことは事実だった。そりゃ、確かにショックではあったけど……でも、幸村くんが私のことを考えて、ああやって指摘してくれたんだなって思ったんだ。思っていたことをはっきり言ってくれたおかげで、私が客観的に見てどんな状態なのかもわかったし」

 は自嘲気味に少し笑って、今度は俺に頭を下げた。

「むしろ、今まで気を遣わせてごめん。相当イラついたよね。あまりにもみっともなくて」
「顔を上げて。思ったことを口にしなかっただけだし、みっともないと思ったことはないよ」
「……そういうのが気を遣ってるんだって」

 と言って、は顔を上げた。少しの間、お互いなにもしゃべらなかった。は紅茶をひと口含んで、くちびるを湿らせている。カップの中の温かみのある赤を見つめる顔に、暗い色はない。すっきりしたような顔に見える。

「幸村くんと喧嘩してから、あの人とのことをよく考えたんだ。幸村くんは、意味もなくあんなこと言ったりしないから。言われた意味をよく考えて、それから、あの人への想いをどうしたいのかって」

 カップの中の紅茶をゆらゆらと揺らしながら、は話し出した。あの男のことを話す顔にしては、今まで表情に出ていた淋しさや恋しさがない。

「ずーっと考えて、それで気づいたんだ。あの人が好きっていうより、あの人を好きでいることが好きだったんだ、私。いつの間にか、そんなふうに変わっていったことに気づかないまま、あの人が好きなんだって思いこんでた。急に奥さんが亡くなって、好きでいることが難しくなって、呼吸の仕方がわからなくなったみたいに苦しかった。自分の本当の感情も、なんで苦しいのかも、幸村くんに言われるまで自覚してなかった。だから、あの時言ってくれてよかったんだ。結構落ち込んだけど、だからこそ色んなことに気づけたし、冷静になった。――ありがとう、幸村くん」

  そうか、は自分の中で片想いを昇華できたんだ。だから憑き物が取れたような顔をしてたんだ。不毛で行き場のない感情の終着点を、見つけることができたんだ。そのきっかけになれたのなら、喧嘩して、どうしようと悩んでいたことも良かったかなと思える。結果良ければすべて良しじゃないけど、こんなにいい表情が見られたのなら、悩んだかいがあった。

「……よかった。じゃあ、これから前を向けるね」

 俺の言葉に、照れくさそうに髪を耳にかけながら、でもやっぱりいい表情では笑った。

「そうだね。やっとって感じだけど」
「でも、あのバラはどうするんだい」
「あのバラは、ちゃんと世話し続けるよ。当初の目的はなくなったけど、花に罪はないっていうか……私の不器用な世話でも花をつけてくれたところを見ちゃうと、愛着がわいてきて」

 うん、いいんじゃないか。俺としても歓迎するよ。あのバラに関するしがらみがなくなったのなら、別に忌々しいとも思わないしね。
 もしかして、健気な花の姿を見て愛着を抱くのは、心がすっきりしたおかげなのかなと思ったりもする。良い変化がに訪れていることは確かなようだ。

 ***

 が空になったカップを置いて、腕時計を見た。

「そろそろ幸村くんは帰らないといけないかな?」
「……うん、そうだね。さすがに帰らないと」

 夕食の後、ちょっと走ってくると言ってジャージを着て家を出てきたから、さすがに帰らないといけない頃合だ。今から帰ったら、十時は過ぎないと思うけど遅くなってしまうな。

「そういえば、幸村くん、来た時になんか持ってなかった?」

 立ち上がった俺を見て、が言った。そう、その話もしなくては。というか、本題と同じくらい重要な話だ。

「うん、ちょっと玄関に置かせてもらってるんだけど、持ってきてもいいかな?」
「え、うんいいけど。なになに?」
「それは見てのお楽しみ」

 俺は玄関に置いていたビニールの手提げ袋に包まれた物を持ってきて、に渡した。

「はい、これ」
「わ、結構重い……って、これ、大苗……?」

 の戸惑った声に、俺は頷いた。
 俺が昼間に探し回っていたのは、バラの大苗だった。いい物が見つからなくて途方に暮れていたところ、いつも寄る花屋の元店主が、趣味で育てた大苗を譲ってくれたんだ。元々これといった品種は考えてなかったけど、おじいさんの育てた品種は程々に育てやすかったし、色も俺好みだったから、気づいたら「買います」と申し出ていた。本当にあの花屋さんには感謝している。

「十二月からまた遠征でね。しばらく日本を離れるから、そのバラの世話を頼むよ」
「え、日本を、って……海外遠征ってこと?」
「そう、オーストラリア。U-17中学生日本代表に選ばれたから、高校生の代表選手と一緒にワールドカップに」
「す、すごい! 幸村くん、本当にすごいんだねえ……!」
「え、あ……うん、ありがとう」

 顔をぱっと輝かせたが手放しで俺を褒めるから、思わずときめいてしまった。くそ、可愛くてなにを言おうとしたか忘れたじゃないか。
 咳払いをひとつして、気を取り直す。

「だから、その間、俺のバラも面倒見てくれないかな。このバラの管理方法とかは、メモに書いて袋の中に入れておいたから」
「え、うん、いいけど……このバラ、品種はなんていうの?」
「それは咲いてからのお楽しみ」
「咲いてからって、まだ半年くらい先じゃん……」

 俺代わりとして置いていくものとしては、これ以上なくふさわしいものだと思う。あの赤いバラに俺のバラを並ばせることになると思うし、そうなれば毎日俺のことを思い出すきっかけになる。メッセージを送る理由にもなる。とにかく俺のことを毎日考えてほしい。
 そこまで話して、本当に帰らないとまずい時間を過ぎていた。門限なんて特に決められてないけど、あまり遅くなると心配をかけるし、不審がられてしまう。名残惜しいけど、今日はもうさよならしないといけない。
 直前海外合宿まではまだ日があるけど、こうやってじっくり話す機会はもうないだろう。俺は学校とテニスがあって、は仕事。毎朝会えるけど、そんな短いやり取りじゃなくて、もっと話したい。あと何回会えるかなと思うと、また胸が痛くなってきた。
 玄関の三和土でスニーカーを履いて、俺は背後のを振り返った。元のように笑いかけてくれる。ああ、なんかもう抱きしめたい。

「俺が遠征に行ったら、毎日あのバラの様子を報告してきてくれないかい。写真も送って」

 冬の時期に入るし、本当は毎日の報告は過剰なくらいだけど、と毎日メッセージを送り合う口実だからいいんだ。も毎日ってところを怪しんだのか、ちょっと首を傾げたけど、最終的にはわかったと頷いた。

「……でも、そっか。また幸村くんにしばらく会えなくなるんだ」
「うん?」
「それは、ちょっと……いや、かなり……うん、さびしいな……」
「――」

 そう言って、本当にさびしそうな顔をするもんだから。
 俺がを見つめるきっかけになった、あの淋しげな顔。俺を思って――
 気がつけば、との距離を一瞬で詰めて、そのくちびるに自分の口を押し付けていた。
 くちびるから伝わる柔らかい感触と微熱。が瞬きするたびにまつ毛が俺の顔に当たって、ああびっくりして目をぱちくりさせてるんだなってことがわかった。
 一瞬か、それとも長く触れ合っていたのかわからない。押し付けていたくちびるを離すと、俺がキスする前に見たまんまの顔では固まっていた。
 その表情に嫌悪感はなくて、ただ驚いているだけのような気がする。目の前の中学生がいきなり自分になにをしたのか、その情報処理が追いついてないような。夢とか錯覚とか言われたら、そのまま信じてしまいそうな。
 ――なら、もう一回すれば夢にはできないよね。俺とキスしておいて、錯覚とか気のせいで済ますなんて許さないよ。
 呆然としているの体に腕を回して、玄関脇の壁に押し付けた。が意識を取り戻す前に、薄く色付いたくちびるにもう一度キスをした。

「ん、っ……!」

 さすがに今度は俺を押しのけようとしてきた。もう遅いよ、逃がさない。左腕での腰をきっちりと抱いて、右手での頬を固定する。の困惑が、震えとなってくちびるから伝わってきた。
 いきなりこんなことして、びっくりしたかい。でも、が悪いんだよ。あんな顔であんなこと言って、俺を煽るから。もうすぐ離れなきゃいけないって時にそんなことされたら、誰だって我慢できないよ。
 いっそ舌も入れてやろうかなと思ったけど、のくちびるが固く引き結ばれていて、できなかった。まぶたをぎゅっとつぶってるから、くちびるにも力が入ってるんだろう。
 強ばる体を抱きしめて、その体の柔らかさにも熱が上がる。柔らかいし、いいにおいもするし、ああもうのことしか考えられない。
 いつまでそうしていたのか、それともそんなに長い時間でもなかったのか、よくわからなくなっていた。俺はいい加減にくちびるを離して、最後にぎゅっとを抱きしめてから手も離した。は少し息が上がっていて、びっくり顔のまま言葉もなく俺を見上げていた。

「……じゃあ、俺のバラ、お願いね」

 正直なところ、俺は俺で混乱状態だったんだけど、なんとかこれだけ言い残して部屋を後にした。バタンと玄関の重い扉が閉まるのを背中で聞きながら、俺はマンションを足早に立ち去った。マンションを出たところで、走り出した。急がないといけないというのもあるし、体を動かして頭をすっきりさせたかった。走ってくると言って家を出てきたから、汗も流せてちょうどいい。
 脈拍が上がっていく中で、だんだんと頭が冷静になってきた。

(キス、してしまった……夢じゃない)

 本当はキスする予定じゃなかった。あわよくば抱きしめたいとかそんなことは思っていたけど、それは未成年男子が抱きがちないつもの欲望だ。だから、本当に現実でキスしてしまって、今更ながらにどうしようと思っている。

(……でも、まあ、しちゃったものは、しょうがないよね)

 俺の予定ではこんなはずじゃなくて、今日は仲直りしてバラも託してめでたしめでたし、で帰るはずだった。でも、もう起こってしまったことはどうしようもない。
 色々と段階を飛ばしてしまったけど、キスしたことでも俺への意識を変えるだろう。まったく異性として意識してなかった中学生を、これからどの位置づけにするのか。
 、今頃どうなってるかな。我に返った時、いきなり俺にキスされたことをどう思うかな。
 家までの暗い夜道、俺はいつものランニングよりも速いペースで走った。どんどん加速していくへの気持ちを、俺の中で燻る熱を、発散させたかった。色んな感情とか欲望を、澄んだ冬の夜空に吐き出してしまいたかった。


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