第十話


 十二月のメルボルンは夏に入ったばかり。三十度を超える日はまだないが、日差しが強くて、少しの外出でも日焼け止めは欠かせない。でも空気は乾燥していて、日本のようにじめっとまとわりついてくるような暑さは感じなかった。夜は少し肌寒く感じることもあるけれど、普段から羽織るもので調節し慣れている俺にとっては、体調管理はそれほど難しいことではなかった。
 U-17ワールドカップは、ドイツ代表とのエキシビションマッチから始まった。日本は予選リーグを勝ち進み、決勝トーナメントへと進んでいた。
 トーナメント初戦、相手のアラメノマが棄権したことで不戦勝となり、俺たちは他国の試合観戦に来ている。会場に着いてバスを降りたところで、ポケットに入れた携帯端末が震えた。

「おはよう。今朝の様子、昨日と変わりなし。今日は雨が降る予報なので部屋の中に入れておいてる。行ってきます」

 から写真と一緒にメッセージが送られてきた。サマータイムのメルボルンと日本の時差は、約二時間ほど。こうやって毎日、マンションを出る前に、頼んだ大苗の様子を俺に報告してくれている。俺が言った「毎日報告して」という言葉をきちんと守ってくれるは、やっぱり真面目だと思う。

「おはよう。今日もありがとう。日本は寒そうだね。風邪引かないようにちゃんとあったかい格好していってるかい? 行ってらっしゃい」

 こういうの、いいなあ。行ってらっしゃいとか行ってきますって言える仲、いいよね。これをと言い合えるなんて、毎朝楽しみでしょうがない。

「嬉しそうだな、精市」

 俺の表情の変化に目聡く気づいた蓮二が指摘してきた。

「ああ、うん、ちょっとね」
「今更濁しても遅いぞ。その顔はさんだろう」
「まあ、そうだね。ふふ、蓮二には隠し事できないなあ」

 なにを言われても嬉しそうに返す俺の様子に、蓮二がやれやれと肩をすくめた。
 あの日、俺が強引にキスをした次の日から、はちょっとだけ俺を警戒するようになった。別に避けられているわけじゃないし、朝に会ってはいたんだけど、俺が近づく前にマンション内に引っ込んでいくことが多かった。時々、俺になにかを聞きたそうな目をするのに、俺に必要以上に距離を詰めさせなかった。これは間違いなく、あのキスのことを意識しているに違いない。どうしてキスをしたのかとか、色々気になっているのは間違いない。そうこうしているうちに俺が日本を離れて、は直接問いただす機会を逸してしまった。メッセージでそんなことを聞けるはずもないから、肝心なことは横に置いておいて、毎日律儀に俺の言いつけを守ってくれているというわけだ。

(可愛いなあ、もう)

 のことを考えていたら、居ても立っても居られなくて、気が付いたら電話をかけていた。今だと電車の中かもしれないけど、運が良ければ繋がるはず。

「……もしもし、幸村くん?」

 かなり長いコールの後、に繋がった。周囲がざわざわしているから、駅かどこかかな。

「もしもし。ごめん、いきなり電話して。時間は大丈夫かい」
「うん、少しなら。どうしたの?」
の声が聞きたくなったから」
「……!」

 単刀直入に言うと、が言葉を詰まらせた。

「メッセージを見たら、我慢できなくなって」
「う、あ、あのねえ……朝から私をからかうんじゃないの」
「からかってなんかないさ、心外だな」
「いや絶対面白がってるでしょ」
「本当だよ。信じてくれないのかい? 俺はこんなにに会いたいのに」
「……!!」

 またが黙った。動揺が電波の音声越しにも伝わってくるようだった。今頃、ひとりで携帯を持ちながら、赤い顔でおろおろしているのかもしれない。

「会いたいな」

 そんな想像をしたら、余計に彼女が恋しくなった。顔が見たいし、直接声が聞きたいし、くるくる変わる表情を見たいし、なんなら抱きしめたい。
 端末のレシーバーから唸るような声がかすかに聞こえて、その後にわざとらしい咳払いが聞こえた。

「……私、幸村くんには色々聞きたいことがあるんだけど」
「へえ。偶然だね、俺もに言いたいことがあるよ。会って、直接ね」

 は俺にあのキスのことを聞きたいんだろう。なら、もう俺の気持ちを伝えたほうが手っ取り早いかな。キスしたのは冗談なんかじゃなくて、本気だからってことを。

「……と、とにかく、もう出勤しなきゃいけないから、もう切るね。今日はトーナメントの初戦だっけ?」
「そう。でも、日本の対戦相手が棄権したから、今日は不戦勝だよ。試合は明日から」
「そう……じゃあ、また明日メッセージ送るね」
「ああ、待ってるよ。……帰国したら、俺とまた会ってくれる?」
「え? あ、う、うん……」
「よかった。じゃあそろそろ切るよ。仕事、いってらっしゃい」
「……うん、いってきます」

 の声が途切れて、ツー、ツー、という無機質な音が耳に入ってくる。その音で、と電話をしていた高揚感が少し落ち着いてくる。端末をまたポケットに入れると、荷物を持ってフランス代表の試合会場へと急いだ。
 本当は、俺のバラが咲いたら、気持ちを伝えようと思っていた。でも、もうキスしちゃったし。バラの次の開花まで半年くらいあるのに、もう気持ちを抑えきれなくなってきている。あと半年もこんな中途半端な関係のままなんて、俺には耐えられそうにない。このまま黙っているなんて、にも不誠実だろう。
 日本に帰ったら、一番にに会いたい。
 会って、俺の気持ちを伝えたい。

 ***

 ワールドカップの熾烈な戦いを終えて、俺は日本に帰ってきた。久しぶりの日本はやっぱり寒くて、飛行機に乗る前まで夏のオーストラリアにいた体には少々堪えた。それも、東京からの電車に揺られているうちに慣れた。
 に帰国したことをメッセージで知らせると、夜遅いにも関わらず、割とすぐに返信が来た。

「おかえりなさい、幸村くん」

 ああ、こういうのもいい。いいんだけど、やっぱり直接聞きたいな。

(早く、会いたい)

 そのまま明日会う約束を取り付けて、俺は電車の中で目を閉じた。
 このまま。神奈川に帰るこの足で、のところに行けたらいいのに。
 明くる日。夜遅くに実家に帰った俺は、少し疲れが残る体を起こし、学校へと向かった。もう終業式は終わっていたけれど、課題の提出やら補修やらがあったし、期末テストも受けなければいけないから、冬休みに入っても年末まで学校に行かなくてはいけなかった。
 のマンションの前を通ると、そこにはバラの鉢植えはなく、の姿もなかった。寒さや雨対策で部屋の中に入れているのだろう。外に出てくる必要がないからか、今朝は会えなかった。
 学校を終えて、テニスの軽い練習も終わった頃には、どっぷりと日が暮れていた。
 約束の時間まで付き合ってくれた真田と蓮二の見送りを受けながら、のマンションへと向かった。あいつらには、今日の結果に関わらず礼をしないとな。
 今日はもう帰ってきているというとこなので、マンションのエントランスを抜けて、まっすぐの部屋へと向かった。インターホンを鳴らして、玄関の黒いドアからが姿を見せた時は、会いたかった気持ちがもう爆発しそうだった。

「お、おかえり、幸村くん……」
「……ただいま、

 部屋に入ったところで抱きしめたかったけど、が思いのほか早く中へと引っ込んでしまったので、不発に終わった。靴を脱いで三和土に揃えてから中に入ると、キッチンでがお茶の用意をしているところだった。

「すぐ持っていくから、座って待ってて」

 この時、不意打ちで抱きついてやろうかなと思ったけど、お湯を使ってるから危ないのでやめた。火傷でもさせたら大変だし。
 コートを脱いでハンガーにかけたところで、窓際にある鉢に目が留まった。あの赤いバラと、俺が残していったバラ。どちらも開花には程遠い。今は寒さに耐えながら、花を付ける力を蓄える時期だ。

「あんまり変わりないでしょ」

 気がつけば、隣でが同じようにバラを見ていた。テーブルには湯気が立ったお茶のカップが置かれてある。

「うん。毎日送られてきた写真と同じだね」
「写真撮りながら、これ毎日送る必要あるのかなって思ったよ」
「だって、毎日と話したかったからね」

 と言うと、は俺を見てしばらく黙った。それから、意を決したように口を開いた。

「幸村くん、どうして私にキスしたの」

 やっぱり、の聞きたいことはあのキスのことだった。まあそうだろうなと思った。あれをなかったことにされたら、逆に俺が困る。

「どうしてって、理由に見当はつかないのかい?」
「つかないから聞いてるんだよ」
「本当に?」

 俺はに向き直って、瞳をまっすぐに見つめた。

「本当にわからない? 俺がどうしてキスしたのか。本当に、心当たりはない?」

 あのキスの前はともかく、キスの後から俺は、結構あからさまだったはずだよ。電話でもメッセージでも、に会いたいとか声が聞きたいって、ストレートに言っていた。綺麗な場所や花の写真を撮って送って、いつかと一緒に来たいって送ったりもしたしね。その度に動揺してたのは、俺の本心を感じ取っていたからだろう?
 は困ったように口を閉じて、それから俺の視線から逃げるように顔を伏せた。

「……心当たりって……だって、そんなこと、あるわけない……」
「どうしてそう思うんだい」
「だって、私……こんなに歳上で、幸村くんみたいにすごくもなんともない平凡な女で、」
「それで?」
「それで? え、っと……だから、そんなはずないって……だから、どうしてって……」
「それで終わり?」
「う……」

 言葉もなく再び俯いたに、俺は心の中でため息をついた。そんな理由で俺の気持ちから逃げようだなんて、甘いよ

「まず歳上だから、って言ったけど。君、自分が片想いしてた相手は、いくつ上だったんだい」
「……え? うーん……二十ぐらい上だったかな……?」
「じゃあ、俺がを好きになってもまったく不思議じゃないよね?」

 ああもう言っちゃった。好きって言っちゃったよ。本当はもっと格好付けたかったのに、がこんなこと言い出すから。

「あと俺みたいに、とかなんとか言ってたけど……それについては俺も、なんでを好きになったのか、よく分からないんだ」
「……はい?」

 から気が抜けたような声が返ってきた。やっと顔を上げてくれたな。そうそう、ちゃんと俺の顔を見て、俺の気持ちを聞いてくれないと困るよ。今まで散々振り回されたんだから。

「最初は、年上の女に欲情してるだけなのかなと思ったんだよね。ってほんと無防備だったから、襲おうと思えばいつでもできたし」
「え、ちょっと、そんなこと考えてたの?」
「うん、実はね。俺も男だからね」

 そう言って目を細めると、が頬を赤らめた。なんだ、あんなこと言っておいて、ちゃんと俺の気持ち分かってるんじゃないか。

「でも、それだけじゃなかった。俺は……ずっと、あの赤いバラに向けている目線を、俺のほうに向けてほしいって思ってたんだ。最初にを見た時から。あのバラを見つめるが悲しそうで、恋しそうで、綺麗で」

 そう、だからを手篭めにしただけじゃダメなんだよ。心を向けてもらいたかったんだ。のことを知れば知るほど惹かれて、だから、毎日俺を意識してもらおうとしたし、のことを手伝うって口実で強引に連絡先も交換した。かっこいいって言われた時はどうしていいかわからないほど嬉しくて、デートに行けるようになった時は天にも昇るような気持ちだった。これが恋人どうしだったらもっとよかったのに、って思ったのを今でも覚えてる。

「でもはどうしようもない片想いの最中で、その上俺の気持ちには鈍感だし、すぐ年下扱いしてくるし、本当にイライラさせられたよ。その度に、俺はをどう思ってるんだろうって悩んだ」
「そ、それは……ごめん……」

 が肩を落としたけど、俺はもう気にしてないと言うように首を横に振った。

「でも、どんなにイライラしても、笑いかけられると一日上機嫌でいられるし、近づくだけでドキドキするし……あのバラを見て悲しそうな顔をするたびに、俺ならを悲しませたりしないのにって思った」

 あのバラを見てイライラしたのは嫉妬だ。を俺から奪い取る忌々しいバラだと、心の底でずっと思っていた。俺のことを見て欲しい、俺ならだけを見ているのに、どうしてそんな男がいいんだよって。だから、が片想いを昇華した後は、あのバラのことなんてどうでもよくなったんだ。

のことを考えると、どうしたらいいかわからなくなるんだ。そばに行きたくて、抱きしめたくて、俺のことを見て欲しくて――が欲しくてたまらなくて、どうしたらいいかわからない」

 さっき、好きって言ったけど、好きなんかじゃ収まりきらない。への感情とか欲望が、一気に湧いて押し寄せてくるんだ。もうひとりじゃどうにも出来ない。に受け止めてもらわないと、今にも爆発しそうなんだ。

「ねえ、だから俺のものになってよ。歳なんて関係ない。そんな言い訳で逃げないで、俺の気持ちを受け止めて」

 俺の今の気持ちを全部視線に込めて、を見つめる。お願いだから、俺に振り向いてくれないか。今すぐ俺と同じ気持ちにならなくていいから。少しずつでいいから、俺のことを好きになってよ。

「……もう、勘弁してよ」

 絞りだすような声で、がつぶやいた。

「キス、された日から、全然知らない男の子になったみたい……私も、どうしたらいいか、全然わからない……」

 困惑しきった様子で俺から視線を外すと、赤いバラの株に指を這わせた。株を見つめる視線は、以前のような感情はない。

「ほんと、最初はただの、かっこいいけどちょっと生意気な中学生だったのに。いつの間に、私……やっぱりあのキスがいけないんだ、そうだよ……」
「……?」
「どうしてあんなキスしたの? あれがなければ、今でも幸村くんをただの中学生の男の子だと思ってたはずなのに。――あのキスで、火がついちゃった」

 そう言って、俺を振り返ったの顔は、やっぱり困惑しきっていた。赤い頬と潤んだ瞳で、俺をにらんでいた。

「あの日から、幸村くんのことばっかり考えてるんだよ。このバラを見ても、あの人のことを全然思い出さなかったんだよ。これってやっぱり、そういうことだよね?」

 そういうことだよねって、なんで俺に聞くんだよ。の気持ちがわかったことなんて、今まで一回もないんだよ。だからあんなに悩んで四苦八苦してたのに。
 でも、不思議だね。今だけは、の気持ちがわかるよ。こんな赤い顔と熱い目で見つめられて、俺のことばっかり考えてるって言われて、確信しないはずがない。

「俺たち、両想いってことだね」

 が顔を真っ赤にしたのを見て、俺はもう我慢できなくて、目の前の体を力いっぱい抱きしめた。すぐに苦しそうな声がから上がったけれど、今回だけは許してほしい。こんなに幸せな気持ち、ほかにどうしたらいいのかわからないんだ。
 俺の背中にの腕が回って、俺たちの体がくっついた。俺はが逃げないことに、少しだけ冷静さを取り戻して、腕の力を緩めた。伝わってくる体温と体の感触がどうしようもなく愛おしくて、すごく幸せだった。
 体を離して、の顔を覗き込む。俺の意図を汲んで、顎を上げてそっと目を閉じたに、俺は迷わずキスをした。
 ああ、好きだ。本当に、心から、大好きだよ
 くちびるが触れあうたびに、俺の中のあふれ出そうな感情が、微熱となってに流れていく。そうか、キスとかハグって、想いを伝えるための行為なんだね。知識として知っていたけれど、行為の本当の意味を、本当に好きな人とすることで理解した。
 何度も何度もキスとハグを繰り返して、やっと離れた頃には結構な時間が流れていて、が入れたお茶はすっかり冷めていた。その冷たいお茶は、熱くなっている体と心を落ち着かせるにはちょうどよかった。

 ***

 ――とまあ、そんな感じで紆余曲折を経ながらも、俺たちは晴れて恋人どうしになった。
 あれから半年。は相変わらずで、俺は高校に上がって、また学校とテニス部でそこそこ忙しくやっている。月に二日ほどしか休みがない部活だから、デートもままならないけれど、帰りにの部屋に寄ったりして、まあ今のところはうまくやれているんじゃないかな。真田や蓮二からも、俺たちはラブラブだとお墨付きをもらっているし。
 今日はその珍しい部活が休みの日で、俺は午前中からの部屋に遊びに来ている。出かけるのはお昼から。まずは、咲いたバラを愛でて、思う存分を褒めてやらないとね。
 そう、今は春の開花の時期。赤いバラの隣に、薄い紫の大輪のバラがあった。
 が丁寧に世話をしてくれたおかげで、俺が渡した大苗も、立派に花をつけたようだ。

「きれいな紫だね」
「そうだね。が良く世話してくれたおかげだよ。ありがとう」
「どういたしまして。ほんと、きれいに咲いてよかった」
「そうそう、この品種の名前、花が咲いたら教えるって約束だったね」

 俺は園芸用のハサミで咲いたバラを花茎の中間で切ると、その大輪の花をへと差し出した。

「ブルームーンていう品種だよ。花言葉は神の祝福とか、奇跡。神の子って呼ばれてる俺にぴったりだと思わない?」
「へえ……うん、確かに幸村くんにぴったりって感じがするよ」

 バラにしてはトゲが少ないブルームーンを受け取って、は微笑んだ。
 俺たちの周囲には、青いバラ特有のさわやかな匂いが漂っている。が元々育てていた赤いバラは、美しい花を咲かせるものの、香りはそこまで強くない。逆に言えば、そっちは香りに邪魔されず、本来の花の美しさを楽しむバラといったところだ。

「あともうひとつ、花言葉があるんだ」
「うん?」

 バラを持っているの肩を抱き寄せると、俺はその無防備なくちびるにキスをした。表でこういうことをすると、は照れて怒るんだけど。

 でも、愛の告白はどこでも、何度したっていいと思わない?

「幸せの瞬間、だよ」





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