第八話


 十一月、俺はU-17日本代表合宿に参加していた。
 山の中の合宿所は、施設の設備もテニスの環境も、なにもかもが整っていて、多人数との長い共同生活でも特に不便を感じることはなかった。俺と同室になった不二と白石は面白い趣味を持っているし、話していて気が合うところがあったのも大きいかもしれない。
 合宿は厳しいトレーニングばかりだったけれど、基礎や筋力トレーニングは別に部活でも同じことをしていたし、ついていくことは苦じゃない。代表入りしている高校生たちの実力には驚かされたりもしたけど、目指す高みがまだ上にあることを実感して、逆にやる気が湧いてきた。最初の組み分けで、いわゆる負け組となった真田や蓮二たちの雰囲気が、黒いジャージを着て戻ってきた時に少し変わっていたのも面白かった。ほかの学校の様子も知れるいい機会だし、テニスに関しては毎日いい刺激をもらえる場だった。
 そんな環境にいるのに、俺は心身共に充実した毎日、とはいかなかった。
 その原因はやはり、とのことだった。
 あれ以来会わずに合宿に来て、連絡も取ってない。もう十一月の下旬になるのに、だ。ほぼ毎日だったメッセージのやり取りもなくなった。まあ、当然か。俺はあんなことを言って傷つけたんだから、のほうから連絡が来るわけない。俺からメッセージを送らなければ、もう二度とから連絡が来ることはないかもしれない。
 テニスしている時や、合宿所のみんなと話している時はよかった。けれど、ふとした瞬間にのことを思い出す。携帯を触っている時、ベッドに横になって目を閉じた時。最後に見た、あの傷ついた顔を。
 その度に、胸が痛む。
 俺は、に言いたいことをぶつけたこと自体は後悔していない。この期に及んであの男に後ろ髪を引かれているに対し、あのまま黙っていることなんてできなかった。言った内容も、間違ったことは言ってないと思う。
 それなのに、俺の心はあの日以来、じくじくと痛みを訴えている。
 でも、じゃあどうすればよかったんだ。も俺も、ああでもしなければ先へ進めなかっただろう。だからあれでよかったんだ。
 痛みを感じる度に、どうするべきだったかを考えて、そして同じ結論に達する。

(もうどうすればいいんだ。合宿中だから会いに行けないし、連絡も取りづらい)

 こんな状態になっても会いたいなんて、本当にどうかしてる。俺ってこんなやつだったかな。ほかの女の子と付き合ったりした時は、拗れそうになったらもういいかな、って割り切ってたと思うんだけどな。いや別にとのことは恋愛沙汰じゃないけど。
 割り当てられた部屋の中、ベッドに寝転がりながら、なんの通知も入っていない携帯の画面を見て、長い息を吐いた。すると、同室のふたりが苦笑いをこぼした。

「えらいでっかいため息やったなあ、幸村クン」
「ああ、気に障ったならすまないね」
「あー、そういうんとちゃうねん。ただ、なんていうんかなあ」
「幸村が悩んでるなんて珍しいから、少し気になってね」

 不二が穏やかに笑いながら言った。就寝前の自由時間、こうやってふたりと会話することが多い。この時間に、ほかの部屋を訪ねるのも気が引けるからね。テニスのことでも趣味のことでも、このふたりと話すのは楽しい。なんとなく馬が合うっていうのかな。立海の奴らと話すのも気安くて楽しいけれど、あいつらとはまた違った話しやすさがある。

「悩むのが珍しいって、俺はどんな奴だと思われてるんだい」
「幸村は、悩むよりさっさと話し合って解決するタイプでしょ」
「意外と行動派やもんなあ。ストレートな物言いするし、そういう意味では裏表ないねんな、幸村クン」
「フフ、そう言われるとなんだか照れくさいな」
「その幸村にため息をつかせるなんて、その『携帯の君』は一体どんな人なんだろうねって、白石と言っていたのさ」
「『携帯の君』、ねえ……フフ」

 その形容の仕方がなんだかおかしかった。俺は仰向けからうつ伏せになって、枕をクッション代わりにしながら足をぷらぷらさせた。

「君、なんて高尚なものではないけど、そうだね、俺にしては珍しく手をこまねいてるんだ」

 そうだよ。ちょっと聞いてくれるかい。この俺を悩ませるなんて、本当にひどい女なんだ。
 俺は不二と白石に『携帯の君』こととの喧嘩を語ってみせた。相手が年上だと知ると、白石は「うーん、さすが幸村クン」とかなんとか言って天を仰いでいた。そうか、白石はこう見えて奥手なんだっけ。モテそうなのにね。

「なるほど、不毛な片想いをなんとか諦めさせたくて、喧嘩してしまったんだね」
「うん。別に、後悔してるわけじゃないんだけど、モヤモヤするというか……」
「そうだね。間違ったことはしていないと思うよ、僕も」
「せやな。俺も、その人に先に進んでもらいたいって幸村クンの気持ち、わかる気がするで」
「うん。直接会ったことがないから想像でしかないけど、その人にとってもいい転機になったんじゃないかな。自分でわかっていても、誰かに言ってもらわなきゃいけないことは、あるよ」
「……そうだね」

 不二と白石は、俺の話を真剣に聞いてくれていた。茶化したりせずに最後まで聞いてくれたこと、そして、俺の行動に共感してくれたことが、なんというか、恥ずかしい話がすごく安心した。

「でも、幸村はその人を傷つけたことを後悔してるんだね」
「……え?」
「間違ったことはしてない。けど、傷つけたことに対して自分が傷ついてる。だから胸が痛むんだろう?」
「…………」

 そんなふうに指摘されて、びっくりした。そういうことなんだろうか、この胸の痛みは。

「幸村クン、その人のことが本当に好きなんやな」
「うん。大切にしたいんだね」

 今まで蓮二の冷やかしにも、自分の心にも散々逃げてきたけど、こうも客観的な意見を言われると、もう逃げられないかもしれない。

「幸村が言ったことは間違ってない。けれど、正論を突きつけることが必ずしもその人を救うことにはならないって、幸村は知ってる。だから、不安だったんだね」

 俺は、のこと――

「……そう、かもしれないな」

 この期に及んでまだ俺が中途半端な言い方をしても、不二と白石は笑うだけだった。
 俺は、怖かったんだと思う。今まで付き合ってきた女の子たちとは、随分あっさりした接し方しかしなかったから、こんな気持ちになるのは初めてだった。だから、自分の心からも逃げていた。に対する元々の感情を認めないまま色々なことが起こって、その上さらに俺の中で色々な感情が生まれたから、どんどん俺の中はぐちゃぐちゃになっていった。だから、今なぜこんなに胸が痛いのかもわからなくなって、とどうなりたいのかもわからなくなっていた。
 本当に、ひどい女だよ。
 この俺に自分を見失わせるなんて、お前くらいだよ。
 こんな俺にした責任、取ってもらわないと困る。諦めて俺のほうに振り向いてもらわないと、困るんだ。こんな気持ちになったのは、が初めてなんだから。
 だから、なんとかしてもう一度会わないと。

「それで、幸村はこれからどうするんだい」
「決まってるさ。このまま終わりたくない」
「せや、その意気やで幸村クン」
「まずは、謝らないとね。傷つけたのは事実だから」
「これを口実に会ってしまえば、こっちのものだよね」

 そう、もう一度会ってくれれば、なんだって話はできるんだ。会って、顔を合わせて話をすれば。

(問題は、が返事をくれるかどうか)

 携帯のメッセージ画面を開くと、とのやり取りはあの喧嘩した日の前日で止まっている。
 今送っても大丈夫だろうか。俺のことを着信拒否とかしてないだろうか。
 そんなことを考えると、また怖くなってしまうけれど、今は案ずるより産むが易しだ。送ってみてから考えればいいんだ。俺はそう自分に言い聞かせると、メッセージを打った。

「この間は、ひどいこと言ってごめん」

 色々と打っては消してを繰り返して、やっと送ったのがこの一文だった。
 そう、ひどいことを言ってしまった。あんな言い方しかできなくて、ごめん。傷つけて、ごめんね。

「できれば、会って直接謝りたいんだ」

 から返信がないうちに続けて送る。
 会って直接謝って、仲直りしたいんだ。元のように、毎日なんでもないことを話したい。時々をからかって、年上とは思えないような反応が見たい。またデートだって行きたい。

(とにかく、なんでもいいから会いたいんだ)

 まだ既読の文字はない。俺は、人生でこんなに緊張したことがあったかと思うくらいに、ドキドキしながら画面を見つめていた。不二と白石も、固唾を呑んで俺を見守っている。
 今は九時を少し過ぎたところだから、は起きているはず。でももしかしたら仕事かもしれないし、そう簡単には既読はつかないかもしれない。
 そう思って、携帯を枕元に置いた。このまま見続けていたら、緊張で眠れなくなりそうだった。不二と白石も、少し体から力を抜いたようだ。
 と、その時、俺の携帯から着信音が鳴った。この長い電子音は電話の着信だ。
 画面を見ると、そこにはの名前が表示されている。から、電話。
 不二達を振り返ると、彼らは心得たとばかりに席を外してくれた。いい奴らだ。

「も、しもし」

 緊張で言葉が上手く出なかった。

「……もしもし、幸村くん」

 の声だ。山の中だからか少し通話の音質が悪いけど、の声が耳元で響いた。

、あの」
「私こそ、ごめんね」
「……!」

 まさか、から謝られるとは思っていなかった。俺が二の句を告げられずにいると、は静かに続けた。

「それだけ、伝えたかったの。急に電話してごめん。それから、メッセージありがとう」
「……俺が謝らなきゃいけないのに。ねえ、会いに行ってもいいかな。直接謝りたいんだ」
「うん……いいよ」
「よかった。合宿が終わったら、また連絡する」
「合宿? 幸村くん、今家じゃないの?」
「そうだよ。十一月の頭からね。少し音質が悪いのもそのせい」
「そう……朝に見かけなくなったから、愛想尽かされたのかと思った」
「そんなことあるわけない」

 逆だよ。俺のほうが愛想尽かされないか、ずっと不安だった。だから、電話してくれて今すごくほっとしてるんだ。まだ俺はと関わってもいいんだって。

「じゃあ、もうそろそろ切るね。おやすみ、幸村くん」

 こうやって普通に挨拶できることが、こんなに幸せなんて。単なるおやすみって一言だって、今の俺を幸せにする。

「うん、おやすみ。……電話、嬉しかったよ」
「……うん」

 からの通話が終了して、元の画面に戻る。その画面が自動で暗くなるまで、俺は携帯を握ったまま動けないでいた。
 やがて、話し声がしなくなったことに気づいた不二と白石が、部屋に入ってきた。

「どうやった、幸村クン……って、なんや、愚問やったな」
「その顔は、うまくいったみたいだね」
「……ああ。ありがとう、ふたりとも。君たちのおかげだ」

 ふたりのほっとした顔を見たら、俺も緊張が解けた。
 これ、夢じゃないよね。本当にと仲直りのきっかけを作れたんだよね?
 着信履歴もメッセージの履歴も、あと不二と白石の喜んでる顔も、全部が今の出来事は夢じゃないと証明してる。

(本当に、よかった……)

 がメッセージを読んでくれて、電話してきてくれてよかった。怖かったけど、メッセージを送ってよかった。
 その夜は、緊張じゃなくて嬉しくてなかなか寝付けなかった。昼間にあんなにハードなトレーニングしたのに、俺の心はふわふわと雲の上にいるみたいに落ち着かなかった。

 ***

 それから、高校生日本代表にくっついて中学生代表もU-17ワールドカップの参加が認められ、俺はその中学生日本代表に選ばれた。それはいい。世界の舞台を中学生で経験できるなんて幸運なことだし、もちろん行くに決まっている。
 問題は、ワールドカップに行くとなると、とまた長期間会えなくなるということ。

(ただでさえ、俺は中学生としてしか見られてないのに)

 会えなくなったら、その年下の中学生男子としてしか見られてないってことも、の中でだんだん薄れていってしまうんじゃないか。先月の喧嘩で俺の印象がどうなっているかわからないけど、電話をくれるってことは、少なくとも嫌われてはいない。むしろまだ好印象を持っていてくれてる……と思う。でも、そんなの毎日会えなくなったらどうなるかわからない。その間に、あの「先生」との関係がどうなるのかも気になるし、もしかしたら別の男がに言い寄ってくる可能性だってある。
 俺は、帰りのバスの中、移り変わる景色を眺めながら思案にふけった。山の中の合宿所では雪がちらつくこともあったけど、こうして平野部に帰ってくると、まだ所々に紅葉が残っている。こんな状況でなければ、美しい朱や黄色を見て、心癒されていたのかもしれない。
 なんとかして、俺がオーストラリアに行ってる間、俺のことを覚えていてもらう方法はないか。
 いや、まずあの「先生」との関係をどうするのか、確かめなければ。あの関係をどうにかしないと、俺もどうにも動きにくい。
 あの男を忘れさせて、なおかつ俺のことをずっと気にしてもらえるような、なにか良い方法はないか。
 そこまで考えて、俺はひらめいた。
 が毎日してることがあるじゃないか。毎朝といわず、仕事から帰ってきた時も目にしているものが。
 そこに、俺をねじ込めばいいんだ。
 解散場所の学校に着いた俺たち立海勢は、俺の手短な号令で解散となった。あっさりと話が終わったことに、真田も他の連中も呆気に取られていたけど、そんなことを気にしていられなかった。俺は一刻も早く花屋に行きたいんだ、わかってくれよ。
 合宿の大荷物を一旦実家に置いて、服を着替えてから、俺は花屋を巡った。
 俺の目当てのものはこの時期に多く出回っているものだけど、なにせ花としては人気なものだから、どこへ行っても売り切れか、栽培の難易度が高い品種しか残っていなかった。特にこの品種と決めていたわけじゃないけど、が面倒を見ることになるから、育てやすさも考慮してあげないと。
 思いつく花屋を回ってみたけれど、やっぱりない。諦めてネットで探すしかないのか、でもネットだと俺がワールドカップに行くまでに間に合わないかもしれない、と肩を落としつつ、家の最寄り駅まで戻ってきた。

「あ、幸村君じゃないか。まだ探してるのかい」

 駅の近くにある花屋の前を通りかかると、花屋の主人が声をかけてきた。俺が普段からよく覗いている花屋で、もう常連になっている店だ。今声をかけてきたおじいさんは先代の店主で、今は店を継いだ娘さんを時々手伝っている人だ。
 俺が花屋巡りを始めるにあたって、一番最初に訪ねた店だ。さっきは今の店主である娘さんしかいなかったけど、おじいさんも俺がアレを探しているのを知っているらしい。娘さんから聞いたのかな。

「はい、なかなか見つからなくて……やっぱり難しいですね」
「はは、予約を取ってるところが多いからね。その様子だと、結構な数の店を回ってきたな?」
「ええ、まあ」
「はっはっは。どうだい幸村君、君にちょっと見せたいものがあるんだが」
「え?」

 今の話とどう関係あるんだろうかと思いつつ、元店主が招くままに店の中に足を踏み入れた。俺はそこで、探していた条件にぴったりなものを提示されて、一も二もなく買い取った。
 これで、に会う準備はできた。
 店を出ると、まだ夕方に差し掛かった頃だった。が仕事から帰ってくるまでには時間がある。とは、さっそく今日会うことになっている。早めに仕事を上がれるといいんだけど、そればかりは俺が考えてもしょうがない。
 だめだ、久しぶりに会うからか気分が落ち着かない。一旦家に帰って、お茶でも飲んでゆっくりしよう。俺は元店主のおじいさんから買い取ったものを持ち直し、家まで歩き出した。


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