第七話


 十月の下旬に差し掛かる頃、赤いバラが咲いた。
 朝は肌寒い日が多くなってきて、日中も過ごしやすい気温になってきた。のバラは朝の清廉な空気の中、蕾を綻ばせていた。
 往年の大女優の名を取った名花は、初心者の手入れゆえか、少し小ぶりのように見えた。まだ開ききっていないうちからそう思えるほどだったが、初心者が病にも害虫にも大きな被害を出さずにここまでやれていることは、褒められるべきだろう。
 は、まだ五分ほどしか咲いてない花弁をそっと撫でながら、愛おしげに目尻を下げた。
 俺は、その横顔を見ながら、赤いバラをぐしゃぐしゃにしてやりたい衝動に駆られた。

 ***

 どれだけに不満を抱いても、とは変わらず毎朝会っている。どれだけイライラしても、気がついたら次はいつふたりで出かけられるだろうかと考えてしまう。初めてのデートの日、にとって俺はまだ異性として意識するような立ち位置ではないと思い知らされても、かといってのことを考えない日はなかった。
 はあの日以降、週末に予定が入っているらしく、誘いには乗ってこなかった。先約があるならしょうがない、と思いつつ、誰との予定なのかは気になった。男? と冗談めかして尋ねると、「残念ながら友達だよ。ていうか私にそんな男いないの、わかってて聞いてるでしょ」と返ってきて、ちょっとだけ胸を撫で下ろす自分がいる。
 放課後、担任の元へ補習プリントを提出して職員室を出る。同じタイミングで行きあった真田と蓮二も職員室から出てきて、俺たちはそろって教室へと歩き出した。三人とも、新たな補習のプリントを手に持っている。

「思ったよりプリントの量が多いな」
「まあ、期間中の出席日数と授業の分も兼ねてるしね」
「合宿中にやるしかあるまい。就寝前の自由時間を使えば事足りるだろう」

 幸いにも俺たちは成績もいいほうだし、やるべきことは溜め込むタイプじゃない。真田の言う通り、毎日少しでも時間を割いてやれば、合宿後の提出期限までに間に合わないということはないだろう。

「どうだ、せっかく三人そろっていることだし、部活に顔を出していかないか」

 蓮二の誘いに、俺も真田も頷いた。帰り際にテニスコートを眺めたりはしていたが、顔を出すのは引退してから初めてのことだ。合宿が近いので、試合勘も戻さないといけない。
 蓮二は俺にとのことを聞かない。この間のデートの後、「あの幸村精市が女連れだったと噂になっているぞ」と言ってきたことはあるけど、その時の俺の反応が芳しくなかったから、それ以来蓮二からのことに触れようとはしてこない。
 に関しては、上手くいかないことばかりだ。
 毎日会っているのは俺なのに。あんなに楽しくデートをして、俺と距離が近くなって恥ずかしがったりしてたはずなのに、あのバラが咲いただけで片想いを募らせて切ない顔をする。距離が縮まったと思ったらまた離される。
 にこれ以上近づくためには、あの片想いをなんとかしなきゃいけない。
 それはわかっているんだけど、だからといって一朝一夕に諦めさせる方法なんてない。が前に、「ほかの男との交際が長続きしない」と言っていたのは、の心の中に常に片恋の「先生」がいるからだ。その「先生」との関係自体がこじれてしまってなお慕っているのは、やはり諦めきれないからなのだろう。
 そんな思いを抱えている女を、どうやったら振り向かせられるんだろう。
 どうやったら俺のほうを見るんだろう。そんなバラじゃなくて、隣にいる俺を見ろよ。
 ここに来て、どうすればいいのか分からなくなっていた。毎日会えるのに、手を伸ばせば触れられる距離にいるのになにもできなくて、イライラが募る。
 けれど、合宿の日も近づいてきていて、俺はのことばかり考えているわけにもいかなかった。なにせ、U-17日本代表の選手や、その候補となる高校生たちが集う場だ。どんな相手がいるかわからないし、俺も気を引き締めていかないと。
 部活に顔を出して、引退した三年どうしで打ち合ったりしている間は、のことを考えずに済んだ。ラケットを握っている間はテニスに集中できる。気がつけば、現役の部員と同じような時刻までテニスをしている日が多くなった。
 のことを考えている時は、ああだこうだとあることないことを考えてしまう。今なにをしているのかとか、今メッセージ送ってもいいかなとか、いらぬことを色々。考えたってしょうがないのに、気がついたらそうなっている。そんな状態に俺はイライラして、今すぐに会えたらこんなに考える必要はないのにな、とに会いたくなってくる。毎朝会えるのに、おかしい。

(合宿中は、どんなことでメッセージを送ればいいんだろう)

 共通の話題なら、やはりあのバラのことだ。でも、俺はなるべくならバラの話題を振りたくない。遠く離れてまで不愉快なバラのことを思い出したくない。まあ、合宿中のこととか送ったりのことを聞けばいいのかな。
 そんなことを思いながら、学校の最寄り駅までたどり着く。もう午後七時を過ぎていて、俺は空腹を感じながら、行き交う人々を縫うようにして歩いた。改札を通ってホームに行こうとした時、今しがた思い浮かべていた女に似た顔が視界の端を横切った。
 思わず視線で追う。と思しき女は、俺の向かうホームとは違うホームへと行こうとしている。もう後ろ姿しか確認できなかったから、と断定はできない。一瞬横目で見た顔はかなり似ていた。けれど、にしては珍しくスカート――というかワンピースだろうか――を着て、高いヒールを履いていた。いつも仕事の時はパンツスタイルで、低いヒールしか履かないのに。
 自然と体が動いていた。もしあれがだったら、一体どこへ行くんだろう。今日は土曜日だから、友人か会社の人と食事といったところだろうけど、それにしたってやけにめかしこんでいるような気がする。

(まるでデートにいくような格好で、どこへ)

 ホームへの階段を上がると、と思われる女は周囲をキョロキョロと見渡していた。その横顔は、やっぱり俺の思った通り、で間違いなかった。

(誰かを、探してる……?)

 は携帯端末を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。誰かと待ち合わせのようだった。俺の読みはいい線いっているな、と思っていたその時、が誰かに手を振りながら携帯を下ろした。
 その横顔が、今まで見たことがないくらいに嬉しそうで、俺は一瞬、こっそり後をつけていることを忘れて見入った。
 満面の笑みを浮かべているわけじゃないのに、和らいだ目元とか、手を振った相手に向かう軽やかな足取りから、明らかに喜色がにじみ出ていた。ヒールの高さもまったく気にしないで相手に駆け寄る姿は、恋する少女を思わせた。
 俺はそこまで考えてぎくりとした。まさか、が待ち合わせていた相手って。
 恐る恐るが駆け寄った相手を見ると、中年の男性だった。中肉中背だがだらしない雰囲気はなく、背筋は伸びている。飛び抜けてかっこいいとかそういう感じではないけれど、ひそかに女子生徒に人気を集めそうな男だった。
 ――あれが、の片想いの相手だ。
 直感的にそう思った。の様子からも一目瞭然だった。彼女は控えめに笑っているが、どことなくソワソワしていて落ち着かない。そして、相手の男と顔を合わせてから、ずっと相手を見ている。
 対する男は、表情になんとなく後ろめたさがにじんでいる。に対して表面上はにこやかに接しているが、と一定以上の距離を保っている。居心地悪そうな足元の動きや、一瞬途切れる笑顔からは、との再会を喜んでいるようには見えなかった。
 の表情が満面の笑みではない理由はこれだ。男が自分と会うことを喜んでいないことをわかっている。そして、男がにそれを気づかせようと表に出しているから、は相手に合わせて表情を控えめにしている。
 ホームにアナウンスが響き、電車が流れ込んできた。と男は連れ立って県の都心部行きの電車に乗り込んだ。これから食事でも行くんだろう。俺は、電車が出発するのを待たずに踵を返し、自宅方面のホームへと歩き出した。
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。今の情報から頭が勝手に色んなことを考えている。頭も感情もぐちゃぐちゃの中、体だけは冷静に自宅へ帰ろうとしていた。
 ショックだった。の恋する様子を目の当たりにしたのが。そのがあからさまに適当にあしらわれているのが。
 俺は、の片想いを歓迎したことも応援したこともない。むしろ今すぐ諦めてほしいと思っている側だ。けれど、あんなふうに傍からでも望みがないとわかる片恋を見るのは気分がいいものじゃない。

(どうして、はあんな男をいつまでも)

 あとは、俺と毎日会っているのに、俺にはそんな顔したことないくせにとか、服気合い入りすぎだよ、相手が引いてたよとか考えて、それから。
 これから食事して、それだけで帰るのか、とか。
 ホテルに入っていくふたりを一瞬想像して、目の前が真っ赤になりそうなほど、カッと腹の底が熱くなった。
 目の奥に焼き付いたの白い肌。あんな中年の男にいいようにされるくらいなら――
 いや、落ち着け。あの様子ならそれはない。を目の前にしても罪悪感を隠せなかった男に限って。もそんな男を強引に誘えるほど、器用な女じゃない。
 自分で自分を落ち着けながら歩いて、いつの間にか自宅へたどり着いていた。こんなに混乱した頭でもちゃんと帰って来れるのだから、人間という生き物は不思議だ。

(もう、今日はなにも考えたくない)

 もうなにも考えないほうがいい。明日もテニスの練習があるし、ご飯を食べてお風呂に入ってなにも考えずに早く寝よう。俺が考えたって、あのふたりのことはどうしようもない。なにもできないんだ。

 ***

 翌朝、俺は珍しく目覚まし時計で起きず、時間を過ぎても起きてこないのを不審に思った母親に起こされた。目覚まし時計を見ると、アラームの設定が解除されていた。ということは、アラームが鳴った時に起きて止めて、また寝たということだ。まったく覚えがない。
 いつもちゃんと起きるのに珍しい、疲れているならちゃんと休みなさいという両親の言葉を流しながら、朝食を流し込んで家を出る。

(休んでどうにかなる疲労なのかな、こういうのは)

 昨夜、なにも考えずに眠りたかったけど、目を閉じるとあのホームでの光景がまぶたの裏で再生されて、全然寝付けなかった。考えてもどうしようもないと結論は出ているはずだったが、心がそれについていけてなかった。肉体的にも精神的にも疲れていたはずなのに、心の中は乱れていて、布団の中で寝返りを打っては目を開けてを繰り返していた。結局、寝たのは日付を越えて深夜になる頃だった。
 のマンションの前まで来た。
 の姿はない。ビロードのような美しい花弁が開ききった赤いバラがあるだけだった。
 そのバラを見るだけで、昨日のとあの男がフラッシュバックする。
 ――今すぐに、このバラを握り潰してぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。

「幸村くん?」

 バラの鉢植えの前でしゃがみこんでぼうっとしていると、の声がした。視線を上げた先には、朝の化粧っ気がない、いつものがいた。

「おはよう。どうしたの、なんかぼーっとしてたけど」
「……なんでもないよ」

 と言うと、まだ少し怪訝そうに首を傾げながら、そっか、と言った。
 俺は今までになくイラついた。
 俺の様子に、本当に気づかないのか。俺がなんでもないって言っても、本当は全然なんでもなくないってこと、少しはわかってくれてもいいんじゃないのか。なんで俺のことにはこんなににぶいんだよ。あんなに――

(あんなに片想いの男の顔色を伺ってたくせに。あの男には、そんな気を遣うくせに!)
「昨日、例の片想いの相手とどこに行ったんだい」

 気が付けば、こんなことを口走っていた。の目が驚きで瞠られる。
 くそ、もうどうにでもなれ。

「……え?」
「昨日、会ってたんだろ。駅で見かけた」
「……そ、そうだったんだ。びっくりした。幸村くんに言ってなかったから、どうして分かったんだろって思っちゃった」

 と言って胸を撫で下ろしたは、俺がイライラの頂点に達したことに気づいてない。そのことも、火に油を注ぐ結果となった。

「で? 食事に行って、なにを話してたんだい」
「なに、って……普通に、お互いの近況とか、話しただけだよ」
「へえ、それだけのために、あんなにめかしこんでたんだ。随分気合いが入ってたから、それ以上のこともあるのかと思ったよ」
「……なに、それ。なにが言いたいの」

 さすがに俺の悪意に気がついたのか、が眉をひそめて声を低くした。今更気づいたって遅い。今俺は、お前に現実を突きつけてやらないと気が済まないんだよ。

「明らかに抱かれにいくような格好に見えたけどね」
「ちょっと、なに言って」
「相手の男は明らかに面倒くさそうな態度だったのにね。俺から見てもわかったよ。なのに、はひそかに期待してたんだ?」
「……ねえ、幸村くんでも言っていいことと悪いことがあるよ。一体なんなの?」
「一体なんなんだって、こっちのセリフだよ。あんな、あからさまに会いたくなかったって顔してる男を、一体いつまで引きずってるんだ!」

 の目が、信じられないものを見るような色をたたえた。今までの片想いについて、なんの言及もしてこなかった俺がこんなことを言い出したから、急にどうしたのかと混乱しているのかもしれない。そんな目を見ても、今更止まれない。

「ずっと思ってたんだ。こんなバラを育てて、一体なにになるっていうんだ。自分でもわかっているんだろ、このバラが咲いてもあの男が振り向いてくれるわけじゃないって。なのに、今更会って、一体なにを期待してたんだよ! 奥さんが育ててたのと同じバラが咲いたから、私のところに来てって誘えるとでも思ってたのか!?」

 八月の末からと会っていてわかったことは、実らない片恋をしていて、かつそれを自分でも受け入れているということ。決して実らない恋。相手は振り向くどころか、自分に対して負の感情を抱いているということもわかっている。自分でも諦めているんだ。なのに、限りなく薄くなったつながりをこのバラに見出して、いまだに縋っている。
 昨日あの男と会っていたのは、十中八九バラが咲いたからだ。このバラを見てもらいたかったんだ、この女は。あの男のために育てた花を、たとえ不格好でも見てもらいたかったんだ。誘ったところで来る可能性は低いのに。そして、万が一バラを見てもらったところで、あの男が思い出すのは亡くした伴侶のことだろうに。
 そんなこともわからないのかよ。本当にイライラする。自分でも諦めているくせに、なんで捨てられないんだよ。

「俺が考えたってわかることなのに、どうしてわからないんだ。その恋はもうとっくにどうしようもないって、もう忘れるしかないって、いい加減受け入れろ!」

 もうあの男はを見ることがないって、認めろよ。自分でも本当は気づいていて、諦めてることを受け入れろよ。どうしようもないなら、もう忘れたらいいんだ。時間がかかってもいいから、あの男のことを考えないようにして少しずつ。新しい恋をしたっていい。だからもう、

(――もういい加減、そばにいる俺を見ろよ!)

 は大声を出した俺に体を震わせて、それから、ゆっくりと顔を伏せた。なにも言わずに俯いたは、やがて俺に背を向けて、マンション内へと走っていった。がどんな顔をしていたのか、俺からでは見えなかった。
 ついに言ってしまった。内心ずっと思っていたことを突き付けてやった。
 そして、傷つけた。
 俯く前に見えたの表情は、やっぱり信じられないものを見たような顔をしていて、そして、泣きそうに歪んでいた。
 ラケットバッグを抱え直して、俺は学校へと歩き出した。
 もう後戻りはできない。おそらく、が今一番言われたくないことをはっきり言ってやった。もしかしたら、今部屋の中で泣いてるかもしれない。
 そう思うと、胸が痛んだ。言いたいことを言って、確かにすっきりした。すっきりはしたけれど、胸が痛い。

(これでいいんだ。後悔なんてしない。間違ったことは言ってないんだ……)

 ずきずきと痛む胸を、後悔しないと言い聞かせることでごまかして、俺は歩き続けた。
 胸が痛むのは、きっとと初めてぶつかったからだ。喧嘩をするのも体力がいるし、ショックを受けることもある。だから、そのせいだ。
 けれど、胸の痛みはなかなか取れなかった。俺がU-17日本代表の合宿へ行っても、痛みは続いた。


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