第六話


 十月に入ると、暑かった日差しがようやく和らいできた。九月は結局最後まで暑い日が続いて、ちっとも秋らしくならなかった。
 衣替えの月でもあるが、月初めの日中にブレザーは暑い。教室内には、ブレザーを脱いで過ごしている生徒が多かった。
 放課後、俺と真田、そして蓮二は、部活の引き継ぎについて話すために屋上のベンチに集まっていた。屋上庭園には、園芸部が手入れしている花壇がある。秋の花が彩る花壇はそれなりにきれいで、なかなか真面目に手入れされているようだった。
 俺は蓮二に、昨夜のことを言葉を濁しつつ話していた。

「なんとも反応に困る話だが、俺たちの年頃ではある程度仕方ないと言えるのではないだろうか。精市の、さんに対しての感情の変化については、俺も興味深いところだが」

 蓮二は俺の相談にそう結論づけた。俺は昨夜の自己嫌悪をまだ引きずっていて、朝からテンションが低いままだった。

「感情の変化、ねえ……まあ、そういう対象として見ちゃったのは、そうとも取れるのかな。元々は全然なんとも思ってなかったから」
「あくまで好意は抱いてないと言い張るのだな、精市」
「だって、それが事実だし」
「そうか」

 蓮二は薄く笑って、それ以上もうなにも言わなかった。なんだよ、蓮二のほうこそ俺がを好きってことにしたがってないか。ここで何度も否定すると必死感が出るから、俺ももうなにも言わないけど。
 面白くなくて、俺はもうひとりの同席者に目を向けた。
 真田は、この話題になってからむっつりと黙ってしまった。てっきり、「そんな煩悩に取り憑かれるなど、たるんどる!」って言われてもしょうがないと思ってたのに、真田の表情は怒りを抑えているような感じではない。それとも、俺がいつの間にか年上の女と知り合ってたことに驚いているのかな。
 今朝は気まずさに抗えず、とは会わなかった。朝練ももう俺たち三年は出なくてもいい。あの時間に家を出なくてもいいことになるから、もし朝に会わなかったことをに聞かれても言い訳はできる。でも、ずっと避けているわけにもいかないし、このまま会う機会が減ることは望んでない。だから、なにかしら理由をつけてあの時間に登校するつもりではある。

(まあ、補習のプリントもあるしね)

 八ヶ月も入院していたから、出席日数を補填するための補習が申し付けられていた。夏休みもほぼ補習に当てられてしまった。その上、U-17日本代表強化合宿に招集され、俺は十一月からまたしばらく学校を休まなくてはいけないので、その分の補習も追加されている。
 あとひと月もすると、としばらく会えなくなるんだ。

「十一月はどうするつもりだ、精市」

 ちょうど同じことを考えていたらしい蓮二が口を開いた。

「合宿には参加するってもう決めているから、どうもこうもないよ。まあ、いつでもメッセージは送れるしね」
「そうか。すでに些細なことでもメッセージを送れるような仲になっている、ということか」
「またそういう変な言い方する。いやまあ、ある程度は気安くなってるほうだとは思うけど」
「では、このひと月でもう少し仲良くなっておいたほうがいいんじゃないのか。気まずいからといって避けずに。昨夜のことは精市しか知らぬことなのだから、堂々としていればいい。弦一郎もそう思わないか」

 そこで真田に振るのか。いきなり水を向けられた真田は、かといって動じていない。閉じていた目を開いて、重々しく言った。

「幸村とそのさんとのことは、俺が口を出すことではない。お前は、自分が良いと思った道を選び、突き進む。そういう男だ」

 やっぱりたるんどるとは言わなかった。その言い草が意外で、俺は真田の顔を見た。

「ふむ、弦一郎も応援しているそうだ」

 蓮二がまとめると、についての話は終わった。それから、本来の話題である部活の引き継ぎについて話し始めた。

(俺が良いと思った道、か)

 正直、まだとどうなりたいのか、よくわからない。性欲の対象にしてしまったとはいえ、とそういう関係になりたいのか、と問われると首を傾げてしまう。ただセックスがしたい、とかそういうんじゃない。したいかしたくないかと聞かれると、そりゃしたいけど、それだけじゃなくて。
 どう思っているのか、どうしたいのか。その答えを見つけるためには、もっとのことを知る必要がある。知り合ってから今までもそうしてきたように、もっと。どんな些細なことでもいいんだ。
 なにを見つめているか知りたい。考えていることが知りたい。今までどんなふうに生きてきたのか知りたい。これからどうするのか、知りたい。俺のことをどう思っているのか――

 ***

「あ、幸村くん、おはよう」

 翌朝、俺はいつもの時間に家を出た。が相変わらず水をやっている。途端に、日曜の夜にオカズにしてしまったことを思い出して、罪悪感がぶり返してきた。表に出そうになるのを堪えて、俺は笑みを浮かべた。

「うん、おはよう」
「昨日この時間に来てなかったけど、どうしたの?」
「朝練がもうないからね。この時間に出る必要がなかっただけだよ」
「そうだったんだ。じゃあ今日は?」
「部活を引退しても、やらなきゃいけないことは結構あるんだ」
「へえ……幸村くん、部活引退しても忙しいんだね」
「そ、れよりさ」

 このまま話が終わってしまいそうな感じがしたから、なんとなく口を開いていた。自分で話があるように振っておいて、実のところなにも考えてなかった。

「ん?」
「……日曜に言ってたご飯の話、次はいつなのかなって」

 苦し紛れに出した話題としては、なかなかいいボールを投げたのではないだろうか。我ながら機転の利く頭をしていると思った。

「お、さっそくその話を振られるとは」
「うやむやにはさせないよ。ちゃんと日を決めたいなと思って」
「えっと、ちょっと待ってね……」

 はポケットから携帯を取り出すと、スケジュールを確認してから第三土曜を指定してきた。今日からだと少し日が空いてしまうけど、は先月忙しかった分、友人と会う約束を今月にしていて、なかなか空いている日がないと言った。

「俺もその週末は予定がないよ。予約入れてもいい?」
「はーい、どうぞ」
「……なんだか、デートの約束みたいだね」

 このやり取りのくすぐったさに、笑いをこぼしながら言うと、も一瞬目をぱちくりさせてから笑い出した。

「あはは、もう、幸村くんのおマセ」
「おマセって、もっと小さい子に言う言葉だと思うんだけど」

 少なくとも、もうすぐ高校に上がる男子に言うセリフじゃない。俺の憮然とした表情を見ながら、まだは笑っている。なんだよ、くすぐったいなとか思ってたのは俺だけか。
 当日の詳細はまた連絡することにして、俺はと別れて学校へ向かった。
 あと二週間以上もある約束なのに、妙にそわそわしてしまう。それは俺が年上の女性との約束に慣れてないせいかな。それとも、別の理由か。
 その後、平日は学校があるから意識しなくて済んだけれど、夜とか週末になるととの約束を思い出しては携帯を見ていた。そんなことをしても、約束の日まで時間が進むわけじゃないのにね。
 当日はご飯だけって約束だったけれど、それじゃ前回と同じだ。なんかこう、変化が欲しいよね。ご飯のついでに、どこかに出かけるとか。
 でも、出かけるっていってもどこへ行ったらいいんだろう。って休みの日に出かける時はどこへ行くんだろう。俺は美術館とか植物園とかが多いけど、ってそういう所に興味あるかな。どこか行きたいところはあるかって聞いてもいいけど、質問してきた理由を聞かれるのは少し都合が悪い。
 ここは、なにか理由でもつけて、買い物に付き合ってもらうのが一番無難だろうか。誘いやすいし、も疑問に思う可能性は低いかも。
 思い立ったが吉日、俺はさっそくメッセージを送った。

「ねえ、ご飯食べに行く日なんだけど、時間あるなら買い物に付き合ってくれないかな」

 しばらく置いて返ってきたメッセージは、相変わらずあっさりとしたものだった。

「買い物? いいけど、なに買うの?」

 あっさりと承諾されていて、ほっとした反面、こんなにあっさりしているってことはなんら意識されていないのかな、とも思う。とりあえず、上手く誘えたことを喜ぶべきだろうか。

「母の誕生日が近いから、プレゼント選ぼうと思って」

 妹の誕生日が近いことにしてもよかったけど、さすがに妹へのプレゼントを年上のに付き合ってもらうのは不自然かと思って、とっさに母にした。

「そうなんだ。うん、私でよければ付き合うよ」

 その作戦が功を奏して、はあっさりと納得した。俺みたいな年下にあっさりと誘われちゃって、本当に大丈夫なんだろうか、この年上は。俺としては好都合だけど。

「よかった、ありがとう」

 ご飯を食べた後に繁華街の商業施設まで足を伸ばすことになって、なんだが本当にデートっぽくなってきたな、と思っていたら、

「本当にデートみたくなってきたね」

 なんて送られてきた。
 同じことを考えていたことにわけもなくドキドキして、なんて返そうかとしばらく悩んだ。

「じゃあ、ちゃんとおしゃれしてくるんだよ」
「もー、油断するとすぐそういうこと言うんだから」
「スカート履いてきてよ」
「え、なにその注文」
「だって、がスカート履いてるところ見たことないから。だからスカート履いてきて」
「ええ……んもう、そういうのはさすがに私の自由!」

 その日はそれでメッセージの応酬が終わった。さすがにスカートまでは期待できないか。ご飯の後の予定をゲットできただけでも良しとするか。俺は満足して、当日を待った。
 ――当日、待ち合わせていた駅でを見つけた俺は、思わず開口一番に、

「……スカートだ」

 と言ってしまった。ふんわりとした膝下のスカートと、ヒールの低いパンプスを履いたは、照れくさそうにスカートの布地を摘んだ。

「だって、スカートが良かったんでしょ、幸村くん」

 つまり、スカート履いてきてって俺が言ったからスカートにした、ということだ。まさか本当にそうしてくれるとは思ってなかったし、私の自由とかなんとか言ってたのに。
 苦々しい表情をしているを見て、胸の中心が熱くなった。

「ちょっと、黙らないでよ幸村くん……笑ってくれないと逆にいたたまれないじゃん……」
「……いや、なんていうか……、可愛いなあと思って」
「かわ……!? もう、からかわないでよ」

 あ、赤くなった。ますます可愛く思えてきて、俺は顔がゆるむのを抑えきれなかった。笑うな、ってが怒っていたけど、照れ隠しだってわかっていたから全然怖くなかった。
 俺が冗談半分で言ったことなのに、ちゃんと実行してくれるなんて。真面目というかなんというか、可愛いとしか言葉が見つからなかった。

「もう今度から幸村くんの言うことは絶対聞かない」

 まだ笑い続けている俺を見て、がふくれっ面になった。俺がからかっていると思ってるんだろうな。とんでもない、からかってなんかいないよ。

「ごめんごめん。うん、スカートも似合ってる。可愛いよ」
「……恥ずかしいから、この話終わり。もう行くよ」

 と言うと、俺の左腕の袖を掴んで歩き出そうとする。そういうところも可愛く思えて、心の中で悶えていたのは内緒だ。
 スカート姿も、スカートを履いてこようとしてくれたところも、全部ひっくるめて可愛い。思わず笑顔になってしまうほどに、俺は上機嫌になった。数日前のメッセージを送った俺、本当にいい仕事をするじゃないか。
 がまず連れて行ってくれた創作フレンチのお店は、魚のムニエルが絶品だった。俺の好みに合わせてお店を選んでくれたことも、なんだか嬉しくて、の顔を見つめてはにこにこしてしまった。は、「ご機嫌だね」と言って苦笑いしていた。
 ご飯を食べた後、繁華街のショッピングモールに足を伸ばした。落ち着いた雑貨屋に入ると、は俺よりも真剣にプレゼントを選んでいた。やっぱり真面目だ。なんというか、はこういうところがたまらないな、と思う。俺はというと、商品を手に取って悩んでいるの横顔ばかり見ていて、肝心のプレゼントはなにを買ったのかもさっぱり覚えていない。ただ、が勧めるものを買って、彼女が嬉しそうに笑っていることが嬉しかった。
 そう、基本的に真面目なんだよな、。バラの世話にしたってそうだ。想い人との関係が破綻した時点で、バラを捨ててもなにも言われないだろうに。

(そういえば、あのバラももうそろそろ開花するな)

 十月は、四季咲きバラ二度目の花の時期だ。あのバラも、蕾が膨らんでいてそろそろ開きそうだった。週が明けたらすぐにでも美しい花が咲いているかもしれない。
 はあのバラを見て、なにを思うんだろうか。やっぱり、叶わぬ恋の相手を思い出すのかな。
 そんなを想像すると、ちくっと胸が痛んだ。考えが暗い方向へ傾く前に、この事について考えるのをやめた。
 買い物が終わった俺たちは、モール内を見て回ったり軽くお茶をしたりしてデートを楽しんだ。休日はなにをして過ごしているのか、とか、美術館とかそういうところに興味あるのか、とか、俺は聞きたいことをなるべく聞き出した。
 夕方、帰りの電車は混んでいた。休日を楽しんだ親子連れ、カップル、仕事だった人で窮屈な空間になっていた。乗り込んで移動する隙間もなくて、ドアを背にしたに、壁になるようにして立つ。混んでいるから、必然的に俺との距離も近かった。
 目線をすぐ下に向ければ、の顔がある。ちょっとでも足を踏み出せば、体もくっついてしまう距離。いいにおいもする。香水なのか柔軟剤なのかシャンプーなのか、俺には区別がつかなかったけれど、の香りだと思うとまた胸が熱くなった。
 ふと、の前髪の隙間からのぞく目を見ると、がせわしなく目線を動かしていることに気が付いた。どうしたんだろう。痴漢……は、ドアを背にしているし、近くの乗客も女性が多いからそれはないだろう。なんだか落ち着きなく、左右に視線をやっている。まるで、目の前の俺のことを見ないようにしてるみたいな。
 そこまで考えて、俺はある可能性に至った。

「……もしかして、照れてる?」

 だけに聞こえるように言うと、の頬が赤くなった。

「……い、言わないでよ……」

 と言うと、は顔を横に向けてしまった。でもそのせいで、赤く染まった耳と首元も俺の目の前に晒されてしまった。

(う、わ……)

 どうしよう。触りたい。
 触りたいっていうか、キスしたい。
 こんな衝動を異性に覚えるのは初めてで、どうしたらいいのかわからなかった。しかもこんな混んでる電車の中で。一体どうしてくれるんだ。
 俺と同じで、こんなに近いことに照れているのかな。もしそうなら、俺たちって結構考えること似てるんじゃない? うわ、どうしよう、またキスしたくなってきた。でも、こんなところじゃキスはさすがに無理か。じゃあ、電車の揺れに乗じてちょっとぐらい触れないかな。体をくっつけるだけでも……いや、やっぱり無理か。ちょっと落ち着こう。
 俺たちとその他大勢を乗せた電車は、もうすぐ俺たちが降りる駅に着く。この空間を出てしまえば、この気持ちはどうすればいいんだろう。俺とは、どういう顔をして帰り道につけばいいんだろう。
 熱くなった胸に戸惑っているうちに、アナウンスの声がして、俺たちは揺れが収まった車内から吐き出された。
 のマンションまでの道がもっと長ければいいと、こんなに思ったことはない。
 俺は電車の中での雰囲気を引きずっていて、隣を歩いているに左手を伸ばそうとしていた。

「混んでたね、電車」

 が突然話し出すから、左手は元の位置に戻った。

「あ、ああ、そうだね」
「幸村くんがあんなに近くて、思ったより身長高いんだなーって思ってたら、急に照れくさくなっちゃった。ごめんね、変な感じになっちゃって」

 と言って、はいつものように笑っていた。

「……いや、別に、謝るようなことじゃないよ」

 あの、電車の中での甘酸っぱい雰囲気は、どこかへ行ってしまっていた。あんな感じになっていたことも夢だったんじゃないかってくらい、はなんでもない顔をしていた。
 少なくとも、の中で、あれは引きずるような出来事ではなかったんだ。
 そう思うと、胸の中心から急激に熱が失われていった。
 ――やっぱり、こんな女、好きなんかじゃない。
 さっきのキスしたいとか触りたいとかって衝動は気のせいだ。もしくは、距離が近くていいにおいもしたから正気を失ってたんだ。とにかく、平静じゃなかったんだ、あの時は。
 意識しまくっていたのは俺だけだったなんて悔しすぎて、認めたくなくて、そう心の中で繰り返した。後々になって思うと、俺も大概負けず嫌いで往生際が悪いなと冷静に受け止められるんだけど、この時は本当に認められなかったんだ。


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