第三話


「おはよう、幸村くん。今日も部活なんだね」

 九月も半ばに差し掛かったというのに、今日も今日とて朝から暑かった。
 土曜日の朝、俺はいつも通り一日部活だ。そして、いつも通りに例のマンションの前を通ると、いつも通りにがいた。
 正直、あの話を聞いてから、との距離感をどうしたらいいのかわからなかった。俺としては、ずっと気になっていたことを聞き出せたので、その点ではすっきりはした。でも、すっきりした分、別の重いなにかがとの間に居座ってしまったように思えた。これまでのようにうかつに近づけないような、重いなにか。まだ十四年しか生きてない俺には、その重いものをどうやってどかせばいいのか、すぐにはわからなかった。
 そんな俺を知ってか知らずか、はいつものように挨拶してくる。その顔も声も、あの話を聞く前となにひとつ変わらない。俺に気を遣っているのかいないのかは不明だが、あのことで年下の俺に気を遣われたくないと思っているのはなんとなくわかった。

「おはよう。そっちは眠そうだね」

 いつもより重たげなまぶたを見て言った。は苦笑いしながらまぶたをこすった。

「ああ、うん。最近少し仕事が忙しくてさ、帰りが遅くなってるからちょっと寝不足」
「ふうん。お仕事お疲れ様」
「ありがと。でも明日はちゃんと休みだし、そう考えると日曜日も部活がある幸村くんよりはまだ忙しくないのかもね」

 ということは、今日も仕事か。俺は少し考えてから、ちょっとだけ思い切った。

「あのさ、連絡先、教えてよ」
「え?」
「もし今日も帰りが遅いようなら、俺が帰りにバラを見てやってもいいよ。だから、遅くなりそうなら俺に連絡してくれる?」
「え……いや、いいよ。さすがにそこまで幸村くんにしてもらうわけには」
「別に、に気を遣ってるわけじゃないよ。帰りに通ったら、俺が気になるってだけ」

 俺が携帯端末を取り出しながら、あくまでついでということをさりげなく強調しながら言うと、はしばらく渋った後、

「……うん、じゃあ、お願いするかも」

 と言って、自分の端末を取りに部屋へと戻っていった。がどこの部屋に戻るのかを横目で追いながら、俺はちょっとだけほっとしていた。もしかしたら、は押しに強くないのかもしれない。

「幸村くん、ありがとう」

 お互いの連絡先と、メッセージアプリのIDも交換し終わってから、が言った。心なしか申し訳なさそうに眉尻が下がっている。そこまで遠慮するようなことでもないし、感謝されるほどのことを申し出たわけでもないのに。

「いいよ。じゃあ、また連絡して」
「うん、お昼すぎには一回連絡するね。いってらっしゃい」

 マンションが見えなくなるところまで歩いた俺は、周囲に誰もいないことを確認して、ポケットから端末を取り出した。メッセージアプリを起動して、増えたの名をもう一度目にした。
 お腹のあたりがくすぐったいような、ふわふわとなにかが押し上げてくるような、不思議な感覚がした。今近くに知り合いがいなくて本当によかったと思った。

***

 今日の部活はなんだか調子がいい。午前中は、大体いつもみっちり基礎トレーニングをする。基礎は大事なことだけど特に面白いということでもないから、そんなにテンションも上がらないんだけど、今日はなんだか違った。部員たちも心なしかいつもより動きがいい。いいことだ。これなら午後からの打ち合い、俺が後輩の相手をしてやってもいいかもしれない。
 そんなことを考えていたら、あっという間に十二時になった。
 弁当をつつきながら、ちらりと端末を見る。まだからの連絡はない。

(昼過ぎっていっても、一体何時なんだ)

 俺にとっては今とかそのあたりなんだけど、がそもそも何時にお昼を取っているかがわからない。午後一時からだっておおいに有り得る。そうなると、俺はまた練習に戻ってしまって、端末を触れる状況にない。連絡をもらってもすぐには返信できないかもしれない。
 どうしよう、今メッセージ送ってみようかな。連絡すると言われたけど、別に俺から送ったっていいじゃないか。仕事はどう? とか、軽い感じでさ。

「どうした幸村、全然箸が進んでおらんではないか。そんなことでは午後の練習に遅れてしまうぞ」
「あ、うん」

 傍らに置いた端末に手を伸ばそうとしたら、真田が中身の減ってない俺の弁当箱を見て、声をかけてきた。真田の視線を受けて、俺は弁当を食べることに集中せざるを得なかった。
 結局、俺の昼休みの間にはからの連絡はなかった。
 午後からの打ち合い、後輩の相手をしながらも、頭にあるのはからの連絡のこと。今頃メッセージが来てるかもしれないとか、来てたらなんて返そうとか、やっぱり真田なんて気にしないで俺から送っておけばよかったとか、色々考えていた。後輩が何人か引きつった表情で俺から逃げるようにコートから離れていったけど、それがなぜなのかも気にならなかった。

「午前中は機嫌がいいと思っていたが、打って変わって気が乱れているな、精市」

 後輩の列がひと段落したところで、小休止を取る。ドリンクを飲んでいると、柳蓮二が俺のほうへ歩み寄ってきた。

「そうかい? 別にいつもと同じだと思うけど」
「ふ、俺の目をごまかしきれると思っているのか。ちなみに、今日はいつもより三十八パーセントも多くスマートフォンを見ている」
「……」

 そんなところまで見ているのか。さすがはうちの参謀だ。蓮二の前では隠し事もままならないな。
 これは正直に蓮二に相談したほうがいいかと思い、口を開こうとした、その時だった。
 フェンスの向こう、道路に一台の車が停まっているのが見えた。その傍らに、女性がひとり立っている。女性はこちらを見ているような気がして、俺も見返した。――と気づくまで、そう時間はかからなかった。俺は両目とも視力がいいんだ。

「蓮二、ちょっとこれ持っててくれるかい」
「精市?」
「後で説明するから」

 と、蓮二に俺のドリンクを押し付けてフェンスまで寄っていった。は俺が近づいてくるのに気が付くと、ひらひらと右手を振った。
 どうして立海に。なんでテニス部の練習を、俺のほうを見てたんだろう。
 ――もしかして、俺を、見に来た?
 暑いのにジャケットを羽織って、センタープレスされたパンツを着たは、やっぱり朝のとちょっと違っていた。フェンス越しに会話できる距離まで近づくと、はにっこりと笑った。

「お疲れ様。メッセージ送ろうかと思ったけど、練習の邪魔になったら悪いかなーと思って」
「それは、気にしなくてもいいけど。なんで立海に?」
「仕事のおつかいの帰り。近くまで来たから、幸村くんどうしてるかなーと思って寄ったんだ。打ち合ってる姿が見れてラッキーだった」
「え、」
「幸村くん、テニスしてる時かっこいいね」

 の言葉は、俺の耳から入って、胸のあたりで弾けた。
 返事もできずに、ただ彼女がしゃべっている姿を見ていた。は、「あ、普段の幸村くんがかっこよくないとかそういうことじゃないよ!? 誤解しないでね!」と焦ったように付け加えていた。

「普段は穏やかだから、幸村くん。口を開けば厳しいことも言うけど、基本的には人当たりいい優しそうな少年じゃない。でも、テニスしてる時の幸村くんは、なんていうかなあ……迫力あって、目も表情も鋭くなって、かっこいいなって思っちゃった。勝負の世界に身を置いてるんだなーって」
「……わかった。もういいよ、もういいから」

 ギブアップするように、片手をの前に上げて、もう片方の手で額を覆った。
 後になって思い返せば、さりげなく「少年」と言われているんだけど、この時の俺は気が付かなかった。そこに気づけるような冷静さはまるでなかった。柄にもなく、俺は照れていた。
 かっこいいなんて、今まで散々女の子から言われてきた言葉なのに。どういうわけか、今はこれ以上かっこいいと言われるとどうにかなりそうなほど、体の芯が熱かった。

「仕事、戻らなくてもいいのかい」
「そうだね、そろそろ戻らなきゃ。あ、待って、本題。今日も遅くなりそうなので、よければ水をやっておいてもらえないかな」
「……わかったよ。じゃあ、俺も戻るから」
「うん、頑張って」

 と言って、社用車らしきセダンに乗って、は去っていった。車の免許持ってるんだ、と横目で見送って、コートへ戻った。
 俺のドリンクを持ったままの蓮二の視線が刺さる。どうせ、さっきのやり取りもしっかり見られていたことだろう。今日の俺の様子にも気づいているようだし、蓮二にはのことも話しておいたほうが面倒が少なそうだ。

「上機嫌……いや、嬉しそうだな、精市」
「……頼むから、今はなにも言わないでくれないか」
「そのほうがよさそうだ。お前からの説明に期待しよう」

 力なく返すと、蓮二が小さく笑った。
 この後の練習がどうだったか、正直あまり覚えてない。部員たちはなんだかすごく疲れた様子だった気がするけれど、俺は体力的にはいつもと変わらない疲労感だったので、気のせいだと思うことにした。
 そんなことよりも、心の浮き沈みが激しかったせいで、今日は精神的に疲れた。
 あー、ほんとイライラする。全部のせいだよ、もう。


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