第二話
その一件以来、毎朝彼女と話すようになった。俺が彼女のマンションを通る時間に、ちょうど鉢植えに水をやっている。話題は主に鉢のバラのこと。そして、俺のことだった。
彼女の名前はといった。俺が名乗ると、俺のことをゆきむらくん、と呼ぶようになった。
俺が中学生だと知ると、たいそう驚いていた。
「うそ、大人っぽいから高校生かと思ってた」
「まあ、それもよく言われるよ。あと少しで高校生だしね」
「うーん、でもそっか。そしたら私とは十歳も違うんだ。中学生かあ、若いな……」
「十歳ね。それぐらいならまだ十分若いうちに入るだろ。俺のことを若いとか言えるような歳じゃないと思うけど」
「いや、そんなことないよ……幸村くん、落ち着いてるのにそんなに年下だったんかあ……」
なんだそれ。褒めてるつもりなんだろうけど、俺は全然いい気分にならなかった。年下って随分はっきり言ってくれるじゃないか。俺は年下扱いされるたびにイライラした。なんだこの女と思った。
「じゃあ、。俺はそろそろ行くから」
「あ、うん。って、ちょっと待って。なんで呼び捨てなの、私は年上でしょ」
「だから? 俺のほうが花に関しては先輩だろ」
「う……そうだけど。そうなんだけどね……十歳も年下の子に呼び捨てにされるって、なんだかなあ……」
「悔しいなら、もっと勉強すればいいんじゃないかな」
笑って言ってやると、不満そうな顔をしつつもはなにも言い返さなかった。元々趣味でやっていた俺に、花に関しては勝ち目がないと思ったのか。
それとも、花の世話をあまり好きにはなれないと思っていたからなのか。
はあまり、自分から深い事情を話そうとはしなかった。世間話程度の軽い話題ならなんでも話してくれたが、なぜバラをいきなり育てようと思ったのかとかは話してくれなかった。俺も、そのへんの事情はなんとなく聞きづらくなって、あまり踏み込めないでいた。
けれど、毎朝バラの状態について話せばわかることがあった。それは、が花の世話を楽しいと思っているわけではないということだった。
花の世話をおざなりにしているとか、そういうことではない。ただ、花が生長して楽しいとか、花が咲くのを楽しみにしているとか、そういう様子に乏しいのだ。ガーデニングをしていて楽しいこととか嬉しいことは、やはりきれいに咲いた時と、無事に育っていると実感した時。にそういう話をしても、特に芳しい反応は返ってこなかった。
じゃあ、なんでバラなんか育ててるんだ。
でも、私はこのバラがよかったんだと言っていたのは、どういう理由なんだ。
――あの時、このバラを見てあんな表情をしていたのは、どうしてなんだ。
気になる。
気になるけど、聞けない。
いや、聞いたら聞いたで意外とあっさり教えてくれるかもしれない。俺が勝手に、なんとなく聞きづらくなってるだけなんだし。
けれど、やはりあの表情が引っかかった。ただバラが好きだからバラを最初に育てることにした、そんなふうには見えない。
なんとなく。なんとなくだが。
(男がらみ……とか)
それが、今俺が予想できる範囲で一番妥当な線だった。
あの淋しいような、焦がれるような顔は、恋をしているように見えた。
不覚にも、あの表情をきれいだと思ってしまったのは、恋する女性はきれいになると聞いたことがあるからだと、俺はその時なんとなく思った。
朝、いつものようにマンションの前にはがいた。今朝はもう水やりを終えてしまったらしい。如雨露を鉢の横に置いて、剪定が終わった後のバラを見ていた。剪定も、俺がちゃんとやれよとせっついてやらせた。思いのほかばっさりと切ってしまうことに怖がっていたが、いつまでも放置しておくこともできない。不安そうなに、ここをこう切るとかいくつか助言をしていった俺は、思ったよりもお人好しなのかもしれない。
いつものように声をかけようとして、できなかった。
バラの株を見つめるの横顔が、悲しそうに見えた。悲しそうに、少しうらやましそうに、緑を見つめていた。
(だから、なんなんだよ、その顔は)
どう見てもちょっとガーデニングやってみようかな、って人間の表情じゃないよ、それ。
「あれ、幸村くん。おはよう」
「……おはよう。今日も暑いから、ちゃんと水やるんだよ」
「もうやりましたー。さすがに私でもそれくらいはわかります」
「へえ、そうかい」
こうやって話すと、いつも通りのように見える。話すようになってからまだそんなに経ってないから、これがいつも通りなのか確証はないが。
俺の前ではあんな顔も、そんなそぶりすら見せないんだ。
それがなんだか異様にイラっとして、そっけない返事をする。はそんな俺に気を遣ったのかそれとも気づいてないだけなのか、いつも通り「いってらっしゃい」と笑顔で見送って、自分はマンションの中に引っ込んで行った。
なんであんな愛しいものを見つめるような目をできるのに、世話自体はたいして好きでもないのか。
(あんな表情するぐらい特別ってことだろ、要するに)
その、の特別の理由はなんなのか。
知りたい。なんの変哲もない、どこにでもいるような女を、目を惹き付けられるほどきれいに見せた理由が知りたい。
そうすれば、俺のこのイライラとか、よくわからなくてすっきりしない気分も晴れるんじゃないだろうか。
***
部活が終わって帰途に着く頃には、夏場の長い日も落ちていて周囲は暗い。本来の部活であれば、三年は夏の全国大会で引退だが、内部進学が多い立海はその限りではなかった。俺も内部進学で、しかも成績も十分だったから、まだ部長として部に所属していた。
さすがにお腹空いたな、などと思いながら歩いていると、のマンションの前まで来ていた。
マンションのエントランスから漏れる明かりにぼんやりと照らされた鉢植えは、朝と変わっていない。土の表面が少し乾いているので、はまだ仕事から帰っていないのかもしれない。
。その名で思い出されるのはほかでもない、俺がきれいだと思ったあの顔だった。
「……お前、あいつのなんなんだよ」
と言っても、目の前の緑からは返事が返ってくるわけなかった。
「そんなこと知りたいの?」
「――っ!」
背後からかけられた声に心底びっくりして、俺は数センチ飛び上がった。後ろを振り向くと、俺の驚きようにびっくりしたが目を丸くしていた。
「お、どろいた、いつの間に」
「う、うん、ごめん、てっきり足音で気づいてるのかと思って、普通に声掛けちゃった。大丈夫?」
「大丈夫……」
まだ心臓がバクバク言ってるけれど、なんとか表面上落ち着きを取り戻した。今あたりが暗くてよかったと思った。
「幸村くんの意外な顔見ちゃったな」
俺の隣にしゃがみこんだは、笑いながらそんなことを言っていた。なにが面白いんだと睨むと、ごめんごめんと軽く謝ってから笑い声を止めた。
見れば、は朝に見るすっぴんと部屋着姿ではなかった。オフィスカジュアルというやつに身を包んでヒールを履いて、ちゃんと化粧をしていた。いつもよりぱっちりした目元と色付いたくちびるに、ちょっとだけ意識を割かれた。
「今帰ったんだ」
「うん。幸村くんも部活帰り? 遅くまでやってるんだね」
「まあ、全国制覇してるテニス部だからね。今年は逃したけど」
「へえ、幸村くんすごいんだ」
「……それは、今いいから」
俺が暗に、さっきの質問の答えを促すと、は少し言葉を選んでから話し始めた。
「私ね、好きな人がいるんだ」
――やっぱり。
予想していたことが当たった。当たったけれど、特に嬉しくはなかった。
「その人ね、私の学生時代の先生だったんだ。もちろん奥さんいてさ、今も昔も私の完全な片想いなの。でも、社会人になってから奥さんが習い事に行ってる日だけ、一緒にご飯食べに行くようになったりしてね。私のことはあくまで教え子のひとりとしてしか見てくれないのに。それで、なかなか諦めきれなくて、それで」
はそこで言葉に詰まった。俺は口を挟まずにを見ていた。彼女は、感情のない顔でバラを見つめている。
「このバラは、その奥さんが育ててるのと同じものなんだ。この花が咲いたら、あの人も私のところで足を止めてくれるんじゃないかって」
なんて不毛なんだろうと思った。元々実ることのない恋心を自分で諦められなくして、縋るように取った手段が恋敵と同じものを育てるとは。自分から出口を無視して迷ったままのこの女も、そんなことに使われたこのバラも、そんな女の表情ひとつで気になってしまった俺も、まとめてかわいそうになってきた。
「思ったよりつまんない理由だったでしょ」
自嘲気味に笑ったに、俺はなにも言わなかった。聞き出したのは俺だし、外野の俺がどうこう言えるような話じゃない。まあバカバカしいと思ったのは確かだけど。
けれど、やっぱり。想い人の話をするは、どことなく悲しげで、きれいだった。俺が見たあの顔は、叶わぬ恋を思っての表情だったのかと思うと、納得できるものがあった。
「バラが好きとかそういう純粋な理由で始めたんじゃないんだ。だから、幸村くんには呆れられてもしょうがないと思ってるよ」
「呆れはしないよ。逆に納得した」
「納得?」
「バラの世話、全然楽しくなさそうだったから」
「そうか、表に出てたか。でも、だからって途中でこの子を捨てたりはしないよ。自分で始めたことだし、責任持って育てようとは思ってる」
「ふうん」
「花が咲いても、あの人にはもう関係ないけど」
「え?」
最後のは、うっかり口を滑らせたみたいだった。しっかり聞いてしまった俺が、どういうことだと視線を向けると、はしまったという顔をした。
「その人のために育ててるんじゃないのかい。それを関係ないって」
「亡くなったの、奥さん。少し前に」
俺の言葉を遮るようにが言った。息を飲んで、俺はまた言葉を失った。
「だから、あの人はこのバラを見ても奥さんを思い出すだけ。そもそも私とはもう会わないし、あの人」
別にやましい気持ちでと会っていたわけではなかっただろうに。けれど、それでも自分の妻に黙って若い娘と食事に行くことは、その男にとって後ろめたさを感じずにはいられなかったのだ。だから、亡くした存在に対して更に罪悪感を思い起こさせる女に、二度と会うはずもない。
「……それで、いいんだ?」
「もう、どうしようもないから」
そう言って、淋しそうにバラの株を撫でる。
「こんなふうになってもまだ好きなの、自分でもほんとバカだなって思うよ」
俺はまたイライラした。バラを撫でる指先でさえ艶を含んでいて、その白い指先が薄暗闇の中で浮き上がっているようだった。
俺もバカな女だと思う。責任とかいいから、そんないわくが付きまくったバラなんて捨てればいい。花壇があるくらいだからこのマンションの大家だってガーデニングは好きだろうし、譲ればいいんだよ。なんなら俺がもらってもいい。そんなに苦しむなら、捨てればいいんだ、そんな恋は。
俺がなにも言わずにいると、が立ち上がった。
「さて、これでこの話はおしまい。続きようもないしね。幸村くんも、もう遅いから早く帰ったほうがいいよ」
「ああ、うん」
気軽に話すようなものじゃない話題を聞き出したことについて、謝ろうかと一瞬思ったが、やめた。
代わりに、もうひとつ聞きたかったことを聞くことにした。
「ねえ、このバラの品種は?」
は少し考え込んでから、思い出したように言った。
「――」
彼女が口にしたそれは、真っ赤なバラの品種だった。大女優にちなんだ名前の、赤バラの名花中の名花。
情熱の花言葉にふさわしい、大輪を咲かせるバラの名だ。
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