第一話


 中学生の頃の記憶を探ると、真っ先に思い出すのは、俺の青春を捧げたテニスのこと。
 そして、次に思い出すのは、あるひとりの女との出会いだ。
 どれだけ経とうと、昨日のことのように色鮮やかに思い出せる。俺の大切な記憶だ。

 ***

 出会ったのは八月の終わりごろ。出会ったというよりも、俺が元々その女を一方的に知っていて、その時にやっと声をかけたというものだった。
 初めてその女を見かけたのはもっと前で、全国大会の前だから八月の頭ぐらいだろうか。その頃にやっと部活に復帰した俺は、久しぶりに朝から部活に行くことになっていた。朝、テニスバックを持ってこの道を通って学校へ行くのも本当に久しぶりだと、感慨深く周囲を見渡しながら歩いていた。
 いつも通るマンションの前に、ひとりの女性がしゃがみこんでいた。通りに面したマンションの玄関口には、小さい花壇がある。その花壇の横に、鉢植えが置かれていた。彼女は鉢植えの前でしゃがみこんでいた。
 鉢には、見たところバラの株が植えられていた。今は夏なので花はない。すべて切り取られている。
 そんな枝ばかりのバラの株を、女性は早朝のラフな格好のままじっと見つめていた。
 なにを熱心に見ているのか、つい気になってしまった。
 害虫でもついていたのか、それとも病気になった葉でもあったのか。バラは病気にかかりやすいからなあ、と思って目を向けた。
 女は、淋しそうに目を細めて、バラを見ていた。
 例えるなら、恋しい相手を待ち続けているような。その恋しい相手は来ないとわかっているのに、それでも来てくれることを期待して待たずにはいられない。そんなような目をしていた。
 俺は、その横顔を、きれいだと思ってしまった。
 きっと起きて間もないラフな服装のままで、化粧もなにもしてなくて、髪だってまだ乱れが残っている。そんな、お世辞にもきれいとは言えない格好の女を、表情ひとつできれいと思ってしまった。
 それから毎朝、俺はマンションの前を通って、その女を目にしてから部活へ行った。入院する前は、女が世話している鉢を見たことがなかったから、おそらく俺が入院している間に置いたんだろう。だから、通学路にあるこのマンションに、淋しい顔をした女が住んでいることも知らなかった。
 毎朝勝手に彼女を観察するようになって、わかったことがいくつかある。あんなふうに淋しげな顔をするのは、毎日というわけではないことだ。毎朝鉢植えに水をやって、それからさっさと自分の部屋へ帰っていく日もある。というか、そういう日がほとんど。株を見つめて思案にふけるのは、本当にあの日が偶然だったようだ。
 そしてもうひとつわかったこと。どうやら彼女は、植物を育てるのに慣れていないということ。水をやっている現場しか目にしたことがなかったけれど、鉢植えの状態を見れば、不慣れだということはわかった。
 ガーデニングを始めようと思った人間にとって、バラはハードルが高い花だ。常に害虫と病気のことを考えなくてはいけない。その対策で月に数回の薬剤散布は必須。鉢植えで育てているということはおそらく四季咲きバラ、ということは年に二回の剪定も必須だし、肥料も月ごとに必要になってくるはず。雨にも暑さにも気を付けてやらなければいけない。もちろん品種にもよるけれど、基本的に手間暇をかけて育てる花なのだ。
 どうしてそんな難しい花をいきなり。バラが好きなのかな。
 ついにはそんなことを思い始めていた。言葉を交わしたこともない、名も知らぬ女に。いつの間にか図書室でバラの栽培に関する本も借りてしまっていた。なんで俺が借りるんだ、この本を読むべきは俺じゃない。そう思いながら、四季咲きバラについて詳しくなるまで読みこんでいた。
 それから全国大会が始まって、俺はそれどころではなくなった。毎日見ていた彼女のことは頭から追いやって、代わりにテニスのことを考えた。
 そして、負けた。
 まあ、それはいい。いや全然よくないけど。でももう負けてしまったことは変わらない。全然よくないし内心悔しくて仕方ないけど、負けは負け。俺の今までのテニスは壁にぶち当たったというわけだ。

(テニスを楽しむ、ね)

 いきなり今までのテニスへの姿勢を変えられるとは思ってない。けれど、やれることは思いつく限りやってみよう。そうするしか強くなれない、勝てないというならやるしかない。
 九月に入って新学期が始まった。今日も今日とて朝練だ。夏休み中よりも少し早めに家を出た。
 例のマンションの前を通りかかると、そこにはまだ誰もいなかった。鉢植えの土は、夏の朝日を受けて乾いている。これから水をやるみたいだ。
 俺はじっとバラの株を見る。
 枝に、ふくらんだ蕾がある。このままだと、今日にも小さい花が咲いてしまうかもしれない。秋の開花に向けて、夏はこういった蕾をすべて取り除くのが基本だ。夏にも咲かせたいとか秋は別に大輪をつけさせたいわけじゃないとかなら違うかもしれないが。

(こういうのを見ると、やっぱり初心者だよな。どうしてバラなんだろう)

 俺はどうするべきか少し迷って、柔らかい芽をつまもうとした。ハサミで切ったほうがいいのはわかっているが、あいにく今は剪定用のハサミを持ってない。

「あ」
「え? ……あ」

 そこへ、聞きなれない女性の声がした。視線を上げると、あの彼女が如雨露を片手に俺を見ていた。やっぱり起き抜けに顔を洗ってきてそのまま来ました、みたいな格好をしていた。

「えーっと……?」

 顔にも声にも驚きが表れていた。そりゃそうだろう、見知らぬ学生が自分の鉢の蕾を取ろうとしているのだから。なんなんだろうと思われて当然だ。

「……これ、秋に花を咲かせたいなら取り除いたほうがいいと思って。ハサミあるかい?」
「え、ハサミ?」
「このままぶちっとやってもいいけど、ハサミのほうがいいだろ。俺も青臭い手で学校行きたくないし」
「うーん……? ちょっと待ってて、取ってくる」

 戸惑いながらも、如雨露を置いてエントランスに入っていった。彼女の後姿を見送って、俺はこっそり長い息を吐いた。いきなりの展開に、内心ではドキドキしていた。
 彼女はすぐに戻ってきた。まだ新しいハサミで柔らかい蕾を切った。

「こういうのは見つけ次第切り除くものだけど、気づかなかったかい」
「あー、うん。昨日帰ってきてから水やってたんだけど、暗くて気が付かなかった」
「切らなきゃいけないこと、一応知ってはいるんだ?」
「そりゃ、まあ」
「慣れてなさそうだけど、一応勉強はしてるんだね」
「一応は余計だよ、もう。思ったよりはっきりものを言う子なんだね。君、朝によくここ通る子でしょ」

 なんてことだ。気づかれていた。

「俺のこと、知ってるんだ?」
「知ってるとは違うかも。よく見かける子だなあと思ってただけ」

 俺もそうだよ、と言おうと思ってやめた。

「私がこういうの慣れてなさそうって、よくわかったね」
「まあ、なんとなくね。ハサミも新しいし、もしかしてガーデニング自体もそんなに慣れてない?」
「というか、初めてだよ。なにかを育てるのは」
「……本当に初心者じゃないか。それなのにバラから始めるなんて、苗を買った花屋に止められなかったかい」
「あはは、よくわかったね。初めてなら別のにしたらってやんわり止められたよ」

 それはそうだろうと思った。もし俺が店員でもそう言うだろう。せっかくガーデニングに興味を持った客を逃したくはないだろうし。

「でも、私はこのバラがよかったんだ」

 それは、どうして。
 そう聞こうと思ったが、彼女が口を開くのが先だった。

「立ち話してて、時間は大丈夫? 部活の朝練とかあるんじゃないの?」
「……あ」

 そういえば、すっかり時間が経っていた。少し早めに出たのに、今はそんな余裕もなくなっている。
 はっとした俺の表情を見て、口元に手を当てて笑いをこらえている彼女。俺はその表情を目に焼き付けながら、学校へ向かうために短く挨拶して走り出した。去り際に、ひらひらと手を振っている彼女が目に入った。

(なんだ。案外普通に話せるじゃないか)

 走りながら、そう思って安心している自分がいた。そして、なんでこう思ったのか不思議に思った。もしかして、話してみたいとか思ってたのか?
 マンションから離れたところで走るのをやめた。元々、余裕がなくなっただけで、特に走らなくても遅刻はしない時間だった。でも、それならどうして走ったりしたのか。

(……普通に。笑うとあんな顔するんだ)

 短い距離でも走ったことで、少し体が汗ばんでいた。その熱は、夏の日差しを受けて、まだ収まりそうになかった。


第二話→



inserted by FC2 system