36、ついに襲来


 本格的な冬がそろそろやってくる。
 カレンダーをにらみ、卒論の締め切りまでの日数を数える。あと一ヶ月と少し。真面目にゼミに出席しているものの、卒論の進捗としてはこれっぽっちも進んでいない。

(そろそろバイト減らさないとな……)

 シフトの希望を出さなければいけないのでカレンダーを見ていたのだが、思ったより自分がやばい状況にあるということを自覚せざるを得ず、気分が落ち込んだ。カレンダーを表示していた携帯をしまって、サークルの部室へと向かっていた足を、図書館へと向ける。サークルに顔を出すのは卒論が終わった後でもいい。今は卒論のほうが大事だ。
 図書館の近くにいくと、否応なく先日の学園祭のことを思い出す。ライトから向けられた視線や表情、言葉、そして伝わってきた体温。どれかひとつでもの心臓をおかしくするには十分なのに、ひとつ思い出すと、連鎖するようにすべてがの中にあふれる。
 思い出したくなくて、視線を下げながら図書館の中へ入る。意識を無理やり卒論のテーマへと持っていき、検索機で資料の場所を探る。そうしているうちに、動悸はおさまった。
 図書館で資料に向き合うこと一時間余り。不意にポケットの中の携帯が振動したことで、は集中を切った。
 携帯に届いたメッセージには、カムの名前で「いまどこ?」とあった。は端的に打ち返す。

「今大学の図書館」
「忙しい?」
「そうでもないけど、どうかした?」
「直接話したいからサークルに来れない? ライトさん達関連。ていうか、先に言っちゃうと新しいメンバーが俺のとこに来た」

 そこまでメッセージのやりとりをして、は思わず立ち上がった。幸い、まわりに人がいなかったので奇異の視線を向けられるようなことはなかった。
 新しいメンバー。というと、のところにいるライト達や高谷のところにいるフリオニール達以外の、ということだろうか。
 すでにこちらの世界に来ている人数から計算すると、残るふたりのうちひとりか。または、ふたりともカムのところにやってきたということか。
 すぐ行く、と返信して、は図書館をそそくさと後にした。

***

「――それで、彼のもとへオニオンナイトとティナがやってきたというわけだな」

 の話を、ライトがざっくりとまとめた。
 夕食後の一服中、いつもの四人とで食卓を囲みながら、カムから聞いた話を説明した。といっても、カムのもとへ残るふたりのコスモスの戦士――オニオンナイトとティナがやってきたのは、つい昨日のことだ。一晩開けて、カムがに事情を話したというわけだ。ちなみに高谷はバイトでその場にはいなかった。後でメッセージを送っておくとカムが言っていたので、バイト終わりにでも事情を知るだろう。

「これでコスモスの戦士がそろったってことか」
「それになんの意味があるのか、全然わかんねーけどな。コスモスからなんの接触もないのは、オレらだけじゃなくてフリオニール達も同じみたいだし」

 コスモスから接触があったのは、バッツたちが来て対応に苦心している矢先のことだった。あれからも彼女の夢を見ていない。コスモスの戦士たちは、この世界に来てから一切彼女の気配を感じないと言っている。そこへティナ達が来たというのは、なにかコスモス側で事情があるのだろうか。

(コスモス、今どうしてるのかな……)

 高谷の前にも現れていないようで、彼女の状況が気になるところであった。明日、カムにコスモスの夢を見ていないか、確認したほうがいいだろう。
 翌日、カムがオニオンナイトとティナを連れての家までやってきた。
 フリオニール達の時と同じようにこちらから伺おうとしたが、「さすがにその人数はうちには入らないから」とカムに言われてしまったので、今回は招くことになったのだ。
 はライトとともに玄関先に出て三人を待つ。バッツ達は三人を迎える準備をしている。
 ライトとふたりきりになるのは、あの学園祭以来だ。あれ以来ライトの態度に変わりはない。変わったのは、の心境だけ。

(なんだろ、緊張する……)

 その緊張が初めて会うライトの仲間へのものなのか。それとも、ライトへのものなのか。

「やはり、君は中で待っていたほうがいいのでは」
「え?」

 急に声をかけられ、少し上ずった声が出た。いつの間にか彼はのほうを見ていた。

「君が冷えてしまう」

 氷のような瞳でまっすぐに見つめてくる。この視線が最近は苦手だ。どんな誤魔化しも嘘も見透かして、本心を読まれそうで。

「え……い、いや、まだ五分も経ってないし、大丈夫だよ」
「しかし」

 というと、ライトは視線を下げて、の手元を見た。

「この前は、とても冷えていた」
「あっ……! あ、あの時は、ライトさんたちが来る前から受付で外に出てたから冷えてただけで……!」

 ちょうどその時のことを思い出して気まずくなっているというのに、なんというタイミングで話すのだ。これ以上掘り起こされてはたまらないと、手をばたばたと振りながら慌てて取り繕う。が、これではあの時のことを意識しているのだともろばれである。

「そうか」

 バッツやジタンなら速攻でからかってきそうなの反応にも、ライトは穏やかに目を細めるだけだった。もさすがに落ち着いて手を下ろす。ライトの生真面目な性格が、今はありがたい。

「えーっと、もう声かけていいかな?」

 が一息ついたところへ、遠慮がちな声がかかった。見ると、カムが線の細い美少女と利発そうな少年を連れて立っていた。
 この様子だと、先ほどのとライトの一連のやり取りは見られていたに違いない。

「いるならいるって言ってよ!」
「え、いや邪魔しちゃ悪いかなって」

 余計な気遣いを。気を遣うなら後ろのふたりにしてやれと思う。というか、こんな目の前で出歯亀している時点で気を遣っているとは言えない。
 咳払いをして気を取り直すと、黙っていたライトが後ろのふたりに声をかけた。

「オニオンナイト、ティナ。元気そうでなによりだ」

 ライトの柔らかい声で、後ろのふたりから戸惑いの表情がなくなった。

「ええ、あなたも」
「無事でよかった」

 珍しくライトも口元を緩めていて、とても和やかな雰囲気である。このふたりは異世界に飛ばされてまだ間もない。仲間が元気に過ごしていると知れただけでも安堵したのだろう。

「寒いし、ほかの三人も待ってるから中へどうぞ」

 家の中ではバッツ達がお茶の準備をして待っていた。バッツが作った茶菓子とジタンが入れたお茶をスコールが並べていた。

「久しぶりだな、ティナ、玉ねぎ!」
「相変わらずお前はティナの騎士なんだなー」
「あんた達も相変わらずでなによりだよ」

 さっそく歓迎するバッツとジタンをよそに、スコールが静かにカムとティナをリビングの奥の席へと招いた。ティナが花のような笑みを浮かべてお礼を言っていた。

「それで、ここの家主さんは?」

 バッツとジタンのちょっかいをスルーして、オニオンナイトがに尋ねた。手に紙袋を持っている。丁寧なことに、訪問するにあたって菓子折を持ってきたのだ。

「私だけど……」

 気を遣わなくていいのに……と、苦笑いしつつ答えてやる。すると、彼はを見上げて怪訝な表情になった。

「え……って言ったっけ、あなたが? ここの?」
「うん」
「カムと同じくらいの年齢に見えるけど」
「うん、同い年だよ」
「……ほかに、住んでる人はいないの?」

 オニオンナイトはおそらく、カムと同い年のがカムより広い部屋に住んでいるのが不思議なのだろう。まあそう思うのも当然だ。ライト達が現れなければ、カムと同じようにワンルームの部屋に住んでいた。それが普通だ。

「はじめはライトさんとひとつの部屋で一緒に住んでたけど、後からバッツ達三人が来たから、コスモスが気を遣って広いところに住まわせてくれたんだよ。だから、私が家主で間違いないよ」

 ざっくりと事の成り行きを説明すると、オニオンナイトがぎゅっと眉根を寄せた。

「え……まさか、この人達とずっと住んでるってこと!? 男女で!?」
「う、うん、まあそういうことだね」
「信じられない……! 大の男がこんな年頃の女性の部屋に寄ってたかって押しかけて、恥ずかしくないの!?」
「おいおい誤解すんなって、おれ達は別に押しかけたわけじゃないぞ。一時的にのところに世話になったら、そのままコスモスがと暮らせるように援助してくれただけだって」
(……それを、世間一般では押しかけたというんじゃないか?)

 スコールは心の中でバッツに突っ込んだ。オニオンナイトも同じことを思ったのか、半目でバッツを見ている。

「そうそう。大体、オレ達は日々リーダーの厳しい視線に晒されてるんだから、いくらが魅力的なレディでもなんの過ちも起こせねえっつーの」

 特大のため息をついてジタンが愚痴った。途端にライトの目線が厳しくなるが、彼はさりげなくソファを滑ってライトの間合いの外に避難した。

「まあオニオンナイトが怒るのも無理ないかもね。だって、俺のところに来た時、男のとこにティナを泊めるなんてできない! って頑なだったものね。俺には彼女がいるのにさ」

 カムののんびりした声がリビングに響いた。ピリッとしかけた空気がほぐれていくような、柔らかい声だった。彼はいつの間にかスコールが示した席に座り、お茶を先に飲んでいた。そのあまりのくつろぎように、オニオンナイトも脱力して、に菓子折りを押し付けてからティナの隣に座った。も、ソファの一番端に座る。

「当たり前でしょ。僕はともかく、ティナを若い男のひとり住まいの部屋に住まわせるなんてできるわけない。恋人がいるって言ったって信用できない」
「これだもん。だから、ふたりとも俺の彼女の実家に滞在することになったんだわ」
「え……それ、オッケーだったの?」
「彼女の実家はあっさりオッケーってさ。これもコスモスの力の賜物かね」

 なるほど、の引っ越しの時と同じようにコスモスの力が働いているならば、そのあっさり加減も頷ける。というか、それしか考えられない。いきなり彼氏から「この人達を住まわせてくれない? 期間はいつまでになるかわからないけど」と言われても、普通ならまず承諾しない。
 それまで黙っていたライトが、口を開いた。

「カム。君の元に、コスモスは現れたのか」
(あ……さすが、はやい)

 ライトが気にするのは当然だ。彼らとしては、いつか帰らなければならないのだから。いつまでもいられるわけがないから、帰る手がかりはどんなことでも掴みたいはず。
 それがわかっているのに、どうして冷や水を浴びせられたように心が冷たくなっていくのだろう。どうして、ライトの横顔をまっすぐに見られないのだろう。
 カムはちらりとのほうを見て、それから言葉を選んで答えた。

「うーん。ごめん、それはわからない。俺はコスモスの夢は見てないと思うけど、実際どうかな。夢を見た後にそのことを忘れているだけかもしれない。不確かでごめんね」
「――そうか」

 ライトの声は静かで平坦だった。けれど、なぜか聞いていられなくて、は立ち上がろうとした。
 その時、一足早くティナが立ち上がった。

「ごめんなさい、お手洗いを借りたいのだけど」
「あ……うん、じゃあ案内する」

 ついでにオニオンナイトが持ってきたお菓子も広げてしまおう。紙袋を持ってティナと共にリビングを出る。リビングの引き戸を後ろ手で閉めながら、ティナを案内する。

「階段の手前にあるドアがお手洗いだよ」
「ありがとう。でも、ごめんなさい。それ、口実なの」
「え?」
「つらそうに見えたから」

 誰がと言わないまでも、十分わかった。ティナはを気遣って、リビングから連れ出したのだ。

「……私、そんな顔してたんだ」
「余計なことだった?」
「ううん。ありがとう、ティナ」
「お菓子を持っていくの、手伝うわ」
「え、いいのに」
「あなたと話したいの」
「私と?」

 ティナの言葉が意外で、思わず菓子折の包装紙を外す手を止めて聞き返してしまった。こんなに他者と積極的に関わってくる女の子だっただろうか。

「あの四人、すごく伸び伸びしてる。私達のいた世界でも、あんな様子見たことない」
「そう……?」
「戦いの世界だったから。仲間と一緒に過ごしていても、どこか張り詰めていた。特にあの人がそう」
「あの人って、ライトさん?」

 ティナは黙って頷いた。

「彼、あなたの前ではあんなに柔らかい雰囲気になるのね。あなたと出会ったから、かしら」
「え……? いや、そんなこと……ティナにだって、同じじゃない?」

 先ほど玄関先で再会した時も顔を綻ばせていた。ここは平和な世界だから、元いた世界のように気を張り詰める必要はない。そのことも関係しているのではなかろうか。
 そう思ったのだが、ティナからすれば違うらしい。首を振る彼女を見つめて続く言葉を待ってたが、ティナは静かに微笑んでを見つめ返すだけだった。それがますますわからなくて、は疑問符を浮かべまくる。
 オニオンナイトが持ってきたのは、餡子が中に入っている小さいパイの詰め合わせだった。餡の種類も、定番の小倉や抹茶だけでなく、季節限定の芋やかぼちゃなどもあっておいしそうだ。

(かぼちゃ……おいしそう……)

 この手のお菓子は大好きなのだが、ついつい食べ過ぎてしまうので危険だ。今は卒論中だからとかなんとか言い訳して、自分を甘やかしてしまいそうだ。気を付けないとあっという間に増量してしまう。
 適当な大皿に乗せたそれを持って、リビングへと戻る。テーブルの、できるだけ自分から遠い位置になるように置いて座る。あまり見ていると食べたくなってしまう。目の毒だ。

「おっ、うまそうなの持ってくるじゃん!」
「オレ抹茶ー」
「あんたたちほんと遠慮しないよね」

 真っ先に手を伸ばすバッツとジタン、呆れるオニオンナイトを尻目に、冷めてしまったお茶を飲む。お菓子戦争には参加しない。おいしさを知ってしまったらだめだ。自分を甘やかす口実がある今は、それすらも危険だ。
 手にした自分のカップには、茶渋が付いていた。これはそろそろ落とさなければならない。メラミンスポンジを買ってこなければ……と思っていると、の前にお菓子がそっと置かれた。隣に座っているライトが、の分を置いたのだ。かぼちゃ餡のパイだった。

「……ライトさん?」
「君の分だ」
「え、あ、うん……なんで、かぼちゃにしたの?」
「君の好きな味だろう」

 さも当然といった口調で、あっさりと言ってのける。
 がこういうお菓子を好きなことも知っている。好きな味も知っている。当然のように。

「……ありがとう」

 いつものことといえば、そうだった。けれど、この時はなんだかすごく照れくさくて、ライトの顔を見られなかった。目線を反らしたまま、お礼を言った。
 ふと顔を上げた先で、ティナが微笑んでいた。ライトとのやり取りを見ていたのだろう。それも恥ずかしくなって、パイの包装を荒く破った。

***

 夕方近くになって、カム達は帰っていった。夕飯も食べていくかと聞いたのだが、今日はカムの彼女の実家でお好み焼きを食べるのだそうだ。お世話になりたてということもあって、そちらは断りにくいのだろう。ティナ達とのご飯はまた別の機会ということになった。
 夕飯も食べて、風呂も済ませた後、は卒論の資料と向き合っていた。自分が掲げたテーマに関するところを抜き出すために、まずは資料全体を読みこむ。別に全体を読みこむことは絶対必要というわけではない。ゼミの教授が引用資料についても突っ込んだことを聞いてくるので、突っ込まれた際にまごつかないようにするための保険も兼ねて読んでいる。
 ふと時計を見ると、もう午前二時近くになっていた。
 もうそろそろ切り上げよう。これ以上起きていると、明日また起きられなくなる。
 資料を片づけて、通学に使っている鞄にしまい込む。明日はまた大学の図書館に行こう。
 寝る前に水を飲もうと、階下に降りる。キッチンの電気をつけて、自分のカップで水を飲む。透明な水だとカップの茶渋が余計に目についた。明日の帰りに百均に行くか、などと思っていると、リビングの引き戸が開いた。
 ライトだ。

「あ……ごめん、起こしちゃった?」
「いや、眠ってはいなかった。君は、そつろん、だったか」
「うん……でも、もう寝るよ。また明日学校に行かなきゃ」

 そうか、とライトが言った。
 いつもの返答なのに、声がいつもと違っているような気がして、ライトのほうを首だけで振り返った。彼は、キッチンの電灯の下にいた。
 ライトはの視線を受けても、なにも言わなかった。もなにも言わず、視線を手元のほうへ戻した。
 蛇口から水滴が落ちて、シンクを汚した。きれいに拭かれたシンクは、引っ越してきた当初と変わらずにきれいなままだ。が見ていないところで、同居人たちは懸命に家事を手伝ってくれている。

「私は――私達は、君の負担になっていないだろうか」

 平坦な声だった。
 いきなり、思いもしないことを聞かれ、は声量を抑えることも忘れて聞き返した。

「え……どういう意味?」
「オニオンナイトが言っていただろう」
「あ……大の男が寄ってたかって押しかけて、ってやつ?」

 ライトがうなずいた。
 そんなこと、今更聞かれても。というのが正直な感想だった。
 ついさっき、水垢ひとつないシンクを見て、みんな手伝ってくれているんだと思った矢先に。タイミングがいいのか悪いのか。手の中にあるカップをいじりながら、は答えた。

「私がみんなにしてあげてることなんて、もうほとんどない気がするよ。料理だって掃除だって洗濯だって、もうみんなできるじゃん」
「だが、それはバッツ達が来て、コスモスの支援もあるからだろう。私は……なんの事情もわからない、君の元へと押しかけた」

 それは、こまかいところを省いた言い方をすればライトの言葉の通りだった。けれど、実際はそうではない。

「うーん……でも、カムにも協力してもらってたし、ライトさんにも色々させてたし……ライトさんが気にするようなことなんてなかったよ」

 ライトがなぜ今になってそんなことを気にするのか。ライトとふたりで暮らしていた時も、居候が四人に増えてからも、適度に頼ってきたはずなのだが。
 ライトの考えはよくわからなかったが、がライトたちに思うことはひとつだ。

「私は、バッツもジタンもスコールも、ライトさんも……いてくれてよかったって思ってるよ」
「……」
「慣れないこともあってちょっと大変だったことも、ないとは言えないけど……でも、みんながいる生活が嫌だと思ったことは一度もない」

 そうだ。負担に思っているならとっくに投げ出している。
 ひとりだったら、キッチンはこんなにきれいじゃない。ひとりだったら、こんなふうに負担を気にかけてくれる人もいない。
 体が冷えないか心配してくれたり、わざわざ好きな味のお菓子を取ってくれたり。そんなこともないのだ、ひとりだったら。

(わたしは、ライトさんに)
「いてほしいよ」

 ほとんど無意識に出た言葉だった。それを本当に口に出して言ったのか。自覚する前に、それは起こった。
 肩に、なにかあたたかいものが触れた。
 次いで、肩とうなじの間のあたりに、ぬくもりが触れた。それは、先ほど肩に触れたものよりも少しだけ熱かった。
 ライトのほうを見る。
 いつの間にか、彼の胸がすぐ後ろにあった。肩に触れたのは、彼の左手だった。
 では、うなじに触れたのは――。
 吐息が重なりそうなところに、くちびるがある。
 ライトの端正な顔が、すぐ目の前にある。
 氷の色の瞳がこちらを見ている。奥の瞳孔が広がったり縮まったりしている。
 吐息が近い。自分の息なのか、彼の息なのか、もうわからない距離。
 くちびるの熱。これは、吐息の熱なのか。それとも――。
 固まっていた手の中から、するりとなにかが抜けていく。一拍遅れて、硬質な音がキッチンに響いた。
 その音が、を現実へと戻した。

「あ……カップ、」

 見ると、蛇口の下でのカップが割れていた。派手に割れていたわけではないが、取っ手が取れ、カップのほうにもひびが入っている。
 伸ばした手が破片に触れる前に、ライトの声が制した。

「触らないほうがいい、私が片づけよう」
「え……でも」
「どしたー? なんかすごい音したけど」

 カップが割れた音で、バッツが起きてきた。眠そうな間延びした声が、階段を下りてくる音とともに近づいてきた。

「すまない、起こしてしまったか」
「んー、いいけど。ああ、のカップが割れちゃったのか」
「あ、う、ん……あの、すぐに片づけるから」

 の落ち着かない様子を知ってか知らずか、バッツがいつもの調子で手を振った。

「ああ、いいよ。おれとリーダーで片づけるから、はもう寝な。明日も学校に行くんだろ?」
「で、も」
「いいんだって。もう二時半だぞ、ハイおやすみ」
「え、あ……ありがと、おやすみ……」

 バッツに階段へと押しやられ、半ば混乱状態のまま部屋へ戻った。
 自分だけの空間に戻ってくると、だんだんと冷静になっていく。
 あれは。カップを割る前の、あれ。
 ライトとの会話の後の、あの状況は。
 肩を引き寄せられて、くちびるがうなじに触れた。
 それから――。
 くちびるにかかる熱を思い出して、思わず口元を覆った。

(どうしよう)

 触れたのだろうか、くちびるは。一瞬、かすったかもしれない。吐息が熱くて、それがくちびるなのか、吐息なのかもよくわからなくて、現実を割く破砕音が響くまで、なにが起こっているのかわからなかった。
 今も、なにが起こったのか、理解しきれないでいる。
 どくどくと、体中が心臓になったかのようだった。
 一層冷え込んできたこの頃にあって、熱い。触れられたところが熱い。

(どうしよう、どうしよう)

 触れられたところが、熱い。もう熱は残っていないのに、いつまでたっても余韻が抜けない。
 頭の中にあるのは、ライトのことばかりだ。ライトの声、手、顔、くちびる。

(わたし、私……もうだめだ、)

 ライトのことが思い浮かぶたびに、胸が痛くなる。
 もうごまかせない。
 今まで一生懸命自分の気持ちから目を背けてきたのに、こんなところで。

(わたし、ライトさんが好きなんだ)


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