8、十一月その1


 十月末、文化祭が始まった。天化との話し合いのあと、天化は私に合わせるかのように、私に一切接触しなかった。嫌がらせもなりを潜めて久しい。このまま行けば、すべて丸く収まるんじゃないだろうかと、私は比較的楽観視していた。
 今日は文化祭最終日。もう十一月だ。日曜日で、生徒からの招待券を持った一般の人も学内に入っているので、期間中でもっとも活気があった。ただ、生徒の顔には多少疲労が見受けられる。それでも、どこの教室も楽しそうだった。
 私は、自分のクラスのたこ焼き屋を手伝い、最後に生徒会に差し入れる分のたこ焼きを焼いて、教室を抜けた。土行孫くんを探しに、蝉玉もついてくる。

「ハニーったら、どこいったのかしら。ちゃんと教室で待っててって言ったのに」
「うん……まぁ、すぐに見つかるんじゃないかな……」

 女の子好きの土行孫くんのことだ。女の子の尻を追っかけまわして、どこかで騒ぎを起こすからすぐに見つかるだろう。

「んで、のそれは?」

 蝉玉が、私の持っているたこ焼きを指しながら言った。

「生徒会室への差し入れ。今頃ぐったりしてると思うし」
「へー。天化には?」
「なんで?」
「だってあいつ、期間中顔見せてないじゃん。一回くらいはのところに来るかと思ったのに」
「んー、まぁ、忙しいんじゃない?」
「ふーん……ま、いいか。あんたたち家が隣だし、いつでも会えるから。あっ、ハニー! 見つけたわよ!」
「げっ!」

 他の教室で女の子を追い掛け回していた土行孫くんを見つけ、一目散に蝉玉が走り出す。土行孫くんは悲鳴を上げて、蝉玉から逃げ回っている。

「あはは……仲いいなぁ」

 若干棒読みでつぶやいて、私は再び歩き出そうとした。すると、教室の中にいた竜吉公主先生に声をかけられた。

「む、ではないか」
「あ、公主先生。ここって公主先生のクラスだったんですか」
「うむ」

 なるほど、どうりで女子のレベルが高いわけだ。

はこれから生徒会か?」
「はい。皆おなか空かせてる頃ですので、差し入れを持っていくところです」
「そうか、気が利くな。…………ん?」

 公主先生が、不意に私から目線を外し、私の後方──廊下のほうへと視線を投げた。私も振り返ってみたが、人が行き来しているだけで、何も変わったところはなかった。

「どうかしましたか?」
「……いや……なにか、嫌な視線を感じた。……私にではなくお前のほうにだが」
「え?」

 よく聞こえなくて聞き返すが、公主先生は首を横に振った。

「いや……それより、早く持っていかなくて良いのか?」
「そうでした! じゃあ先生、失礼します」

 私はおなかを空かせた生徒会の面々を思い出すと、挨拶もそこそこに生徒会室へ向かった。たこ焼きをぐちゃぐちゃにしないように、できるだけ優しく持ちながら走った。私のその後姿を、公主先生がじっと見つめていたことには、気付かなかった。

「……念のため、太公望に知らせておくか……」



 私は生徒会室のある棟へ向かって渡り廊下を早歩きをしていた。人が多いので、走るのは危険だと思ったのだ。生徒会室周辺は何も出し物がないので、人はあまりいなかった。生徒会室の手前には自習室がある。今は当然のことながら利用者はいない。その自習室のドアを通り過ぎたところで、私は突然後ろから腕をつかまれ、自習室へと引きずりこまれた。奥のほうの壁へと突き飛ばされ、背中に衝撃が走る。持っていたたこ焼きを落としてしまい、頭の片隅でああ、もったいない、などと場違いなことを考える。痛みでつぶっていた目を開くと、自習室のドアの鍵を閉める女子生徒が目に入った。彼女がゆっくりと私のほうへ振り向く。制服のリボンの色は、一年生を示していた。ゆっくりと私のほうへ近づいてきた彼女は無表情だった。それが、得体の知れない怖さを感じさせた。

「なんであなたなの?」
「…………な、に?」
「なんで、私じゃないの?」

 そこで、彼女の顔に見覚えがあることに気がついた。この人、前に天化がタバコ吸っていたときに、天化を探していた剣道部の一年生だ。
 なるほど、彼女は天化を好きで、たぶん告白したけどふられて、天化の彼女でもないのにそばにいる私が目障りなんだ。

「ちょっと……落ち着いてもらえませんか。私は天化とは恋人でもなんでも」
「だって、天化先輩が好きな人がいるって! いつもそばにいる人だって言った!」
「いっ……た!」

 私の言葉をさえぎって、彼女は叫びながら私の肩を強くつかんだ。心の箍が外れているのか、力に容赦がない。彼女の表情が鬼気迫るものになっている。私の体に悪寒が走る。

「あなたさえいなければ」

 と、何度もつぶやくと、私の首を絞める。さすがにこれはまずい。恐怖で体が動かないままだったが、とっさに手を首と彼女の手の間に滑り込ませる。ぎりぎりと締まる手を、痛みをこらえながら必死で引き離そうとするが、離れるばかりか締まる一方だった。

「うっ……! まっ、て……! 落ち……着、いて……っ!」

 何とかしゃべってみるが、目の前の女の子は聞いてくれる気配がない。しゃべった分だけ息が苦しくなる。血が止まって頭がぼうっとする。

(も、う……ダメ、かな……苦しい……)

 音が遠くなる。目の端から苦しさで涙がこぼれる。
 遠くなる耳に、どかん、というひときわ大きい音が聞こえてきた。気が遠くなる直前で、首の拘束が解かれた。一気に流れ込んでくる酸素を求めて、肺がせわしなく活動する。喉は追いつけずに咳き込む。

「げほっ、げほっ」
……無事か」

 背中を優しくさすってくれたのは、望ちゃんだった。気遣わしげな声をしている。私はまだまだ息が整わないので、声を出したくても出せないでいた。視線を女の子の方へ向けると、両手を天化に拘束されていた。暴れる女の子を取りおさえて、落ち着かせているようだ。

「……はぁ、っ、望……ちゃん……」
「もう大丈夫だ」
「っ……」

 望ちゃんの優しい声を聞いて、一気に力が抜ける。張り詰めていた心が緩んで、涙がこぼれてきた。怖かった。直接自分に憎悪を向けられ、首を絞められて、とても怖かった。私は望ちゃんの服を力なくつかむ。望ちゃんは背中を撫でている手とは逆の手で私を引き寄せて、頭を撫でてくれた。

「怖かっただろう。よく頑張ったな」
「う、んっ……」
「わしがそばにおるぞ」

 望ちゃんの手の温かさを感じながら、ハンカチを取り出して涙を拭いていると、天化の厳しい声が聞こえてきた。女の子はやっと落ち着いたらしく、観念して大人しくしている。その後ろに、竜吉公主先生も見えた。天化の表情は声と同じように険しい。

「あんた、こんなことして何になるんさ」
「……せんぱ……」
「こんなことしたって俺っちの気持ちはあんたには向かない」

 女の子の表情は、私たちのほうからは見えなかった。でも、女の子の体が凍りついたように動かなくなったのはわかった。

「でも、でも……!」
「確かに好きな人がいる。けど俺っちは、別に報われようなんて思ってない」
「え……」
「でも、気持ちは簡単には変わらない。だから、あんたの気持ちには応えられない。ごめん」
「せん……ぱい……」
「もう、こんなことすんな。あんた自身を貶めるだけさ」

 その言葉を聞いて、女の子は崩れ落ちた。公主先生が彼女の肩をさすっている。様子を見てくれるようだ。すすり泣くような声が聞こえてきたけど、天化はその子から目線を外して私を見た。天化が罪悪感いっぱいの表情で近づいてくる。私は、そのときにはもう涙がひいていた。

、ごめん。こんなことになって」
「え……いや、気にしないで」
「落ち着いたなら保健室へ行くぞ。立てるか?」

 私が頷くと、望ちゃんが私の手を引いて立ち上がらせた。

「うん……望ちゃん、天化もどうしてここに?」
 ふらふらする足を何とか立たせると、私は聞きたかったことをたずねた。

「公主が、の周辺におかしなものがいると教えてくれたのだ。天化から相談を受けておったから、事情は把握しておったしのう。肝が冷えたわい」
「え……そうなの?」
「あーた、あいつに何もするなって言ったけど、そういうわけにもいかないだろ。スースに相談する分には約束を破ったことにはならねぇし」

 天化が呆れた声で言った。けれどやはり、視線は申し訳なさそうにしている。

「犯人を探し出すのは難しい。だが、あぶりだすのは比較的簡単だ。手を出してくるとすれば、文化祭の喧騒に乗じて……だとは思っていたが、こんなに過激だとは想定外だった。……すまん」
「あんなに思いつめてるとは思ってなかったんさ」
「そうだったんだ……ごめんね、二人とも。ありがとう」

 天化は一層ばつが悪そうになった。元をたどれば自分が原因だと、そう言いたいのを我慢しているようだった。望ちゃんは私の頭をもう一度撫でると、安心したように目を細めた。

「……おぬしに大事無くて、よかった」
「望ちゃん……」
「何かあったら、悔やんでも悔やみきれん」

 それって、どういう意味なんだろう。そのときは安堵のほうが大きくて、疑問に思わなかった。聞けなかった。いつか、聞けるのだろうか。


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