4、六月その2


 六月も下旬に差し掛かる頃、やっと梅雨が始まったかのように、ここ数日雨が振り続いていた。放課後の物理室は、お世辞にも風通しがいいとは言えなかった。今も、窓の外はしとしとと雨音が絶えない。日没までは時間があるためまだ明るいが、曇っているのでどことなく薄暗い。

「……で、ここの数値はこの公式に……ちゃん、聞いてる?」
「うあっ、はいっ」

 かつかつ、とチョークが黒板をたたく音が止んで、先生の優しげな声が響いたことにより、私は意識を窓の外から目の前へと戻した。黒板の前には、白衣を着た普賢先生がにっこりと笑ってこちらを見ていた。その笑顔は優しいけど、今は少し怖い。

「聞いてなかったんだね。ちゃん、自分の中間テストの点数、覚えてる?」
「……はい……すみません……気をつけます」
「よろしい。期末は是非頑張ってね」

 私は今、期末テストに向けて、苦手科目である物理を普賢先生に教えてもらっているところだ。中間の成績は、クラスでも下から数えたほうが早いくらいで、普賢先生はそれを良く覚えているらしい。自分から教えを請うておいて集中できないなんて、そりゃあ普賢先生だって怒るだろう。普賢先生は一見優しく見えるが、言うことははっきりというタイプだ。その点については、望ちゃんよりも容赦がないといってもいい。

「じゃあ、そのページの問二から問五まで解いてみて」
「はい」

 普賢先生に言われたとおりに問題を解く。授業中や先生に見てもらっている間はすらすらと解けるのだが、これが宿題や試験となるとわからなくなるので不思議だ。簡単な問題はさすがに解ける。だが、応用になるとだめだった。一つつまずくと、後の問題を解くのが難しくなるのが物理だ。数学は成績悪くないのに、なぜか物理は悪い。
 問五を計算中に、普賢先生が机の前までやってきた。私がちゃんと問題を解けているか見に来たのだろう。少し緊張しながら計算を終え、解を導くと、普賢先生は満足そうに笑った。

「うん、よく出来ました。全部あってるよ」
「良かった……」
「テスト中も、この調子だといいんだけどね」
「う……はい、頑張ります」

 苦笑いを返しつつ、勉強が終わったので背伸びをしていると、普賢先生が隣の席に座った。

「それで、望ちゃんとはどこまでいったの?」
「え!? はい!?」

 突然望ちゃんの名前を出され、びっくりして大声を出してしまった。何を言い出すのかと普賢先生を見れば、相変わらずの微笑を湛えていた。表情が読めない。

「な、なんですか突然」
「言葉のとおりだよ。望ちゃんとの仲は進展したの?」
「進展て……ないですよ。第一、私がこの高校に通っている以上は進展させようがないじゃないですか」

 というと、普賢先生は「それもそうだね」とあっさりと返してきた。普賢先生は、私の気持ちに気付いている数少ない一人である。というか、相談できるのはこの人しかいない。私が自分の気持ちに気付く前に察知した人なのだ。

「それに、普賢先生だって気付いてるんでしょう? 望ちゃん、好きな人がいるって」
ちゃん……」

 そうなのだ。私が望ちゃんへの恋をあきらめなくちゃならないのは、望ちゃんに好きな人がいるからだ。その相手もわかっている。才色兼備で有名な、家庭科教師の竜吉公主だ。超がつくほどの美人で、性格は公正明大、品行方正、おまけに家柄もいい。勝てる気がしない。勝負をする気にもならない。

「気付いてたんだね」
「そりゃまぁ、望ちゃんを見てたらわかります。気付いてないのなんて、竜吉先生本人だけじゃないですか?」
「まぁ、確かに望ちゃんはわかりやすいもんね」
「だから、私はこのままでいいんです。このまま、この気持ちにサヨナラするんです」
「告白しないの?」
「え?」
「だって、結果なんてまだわからないでしょ?公主が望ちゃんをふるかもしれないんだし」
「そんな……そんなこと、できませんよ……だって、そんなの、望ちゃんを困らせるだけじゃないですか」
ちゃん……」

 私だって、それくらい考えたことがある。この気持ちをただ捨てるなんて簡単にできないから、せめて望ちゃんに打ち明けようと。でも、考えれば考えるほど、告白なんて出来なくなってしまう。私に告白されたら、望ちゃんはどんな顔をするだろう。どんな気持ちになるだろう。きっと、困って頬をかきながら、一生懸命考えてくれるに違いない。なんて言葉を返そうかと。私を傷つけないで、どうやってあきらめさせるか、悩むに違いない。そんな顔、見たくない。出来がいいわけじゃない私の頭でだって予想できることなんだ。

「だから、いいんです。私はこのままで」
「……それでいいの? 本当に」
「……いいんです」

 しばらく私と普賢先生は黙ったままで、物理室はしん、となった。私は普賢先生との話を終わらせるつもりで、教科書とノートを片付け始めた。それを見て、普賢先生は小さくため息をつき、立ち上がった。
 きっと普賢先生は、色々と私に言いたいことがあるんだと思う。行動しないうちにあきらめるなとか。でも、私はそれを素直に受け入れられない。望ちゃんを困らせるくらいなら、私の気持ちなんていくらでもあきらめる。

「普賢先生、今日はありがとうございました」
「いいよ。生徒の面倒を見るのは教師の役目でしょ?また何かあったら、いつでもおいで」
「はい、ありがとうございます」
「見返りは、物理のテスト十位アップでいいから」
「ただじゃないんですね……」

 教師としてその発言はいかがなものかと思いながら、物理室を後にした。特別教室棟の廊下を通用口に向かって歩きながら、普賢先生の心配そうな顔を思い出す。

(……しょうがないよ。だって、望ちゃんは従兄妹だし、先生だし……こんな気持ち、捨ててしまったほうが……きっとお互いのため……)


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