太公望、思い悩む


 翌朝起きると、まぶたが見事にはれ上がっていた。昨夜、あんなに泣いたのだから無理もない。こんな顔では、とてもじゃないが皆の前に出られない。は着替えると、水をもらいに行った。
 女官から水を一杯もらい、飲み干した。女官が心配して濡れた手巾を渡してきた。礼を言って、はそこから立ち去った。
 この顔では、今日は誰にも会えない。部屋にこもろうにも、姿を見せないを呼びに誰かが来るかもしれない。その対応をするのも億劫だ。どこか、人の来ないような場所を探して、は禁城の中を歩き回った。
 人気を避けてうろついていると、古い書庫のようなところに行き着いた。普段、仕事で行き来している書庫とは別のものだった。中は薄暗く、ほとんど物置に近いような雑然さで、そこここに竹簡や巻物が積み上げられている。床は、人がひとりやっと通れるぐらいのスペースしか空いてない。明り取りの小さい窓から、少しだけ光が漏れている。掃除もろくに入っていないのか、ホコリくさい。ここなら人は来ないだろう。
 光に当らず、かといって離れすぎずのところに腰を下ろして、濡れ布巾を目に当てた。部屋の鏡で見た顔はひどいものだった。昨夜はあれから、楊ゼンの隣で気が済むまで泣き、月が空の真上になった頃に、部屋へと戻った。しかし、泣いたせいで興奮し、中々寝付けなかった。
 朝食に現れないことは、楊ゼンがみんなになんとか言い訳してくれるだろう。水をもらった女官に口止めしなかったのが、今更になって悔やまれる。

(まぁ、私のことなんて誰にも言わないだろうけど)

 妲己の恐怖政治の元で働いていた女官だし、余計なことは口にしないだろうと思いたい。宮中勤めなど賢くなければ務まらない。
 濡れ布巾といっても、冷たさはない。この分だと、腫れが引くまでに相当時間がかかるかもしれない。はため息をつくと、その辺においてあった巻物を手に取った。
 巻物の中身は、殷の初代王、湯王の伝説のようなものが書いてあった。特に面白くはなかったが、暇つぶしにはなるだろうと、それを読む。読み終わると、またその辺に転がっている巻物を取る。
 そうして暇をつぶしていると、いつの間にか光の差す方向が変わっていることに気がついた。小窓から外の様子を伺ってみると、どうやら昼前のようだ。食べ物のにおいもかすかにするが、食欲はあまりない。
 このまま、ここで一日つぶそうかと思っていると、書庫の扉が開かれた。
 はすぐに立ち上がり、棚の影に隠れた。座っていた位置ではすぐに見つかる。
 棚の影から扉を伺う。顔を覗かせたのは太公望だった。彼は、きょろきょろと書庫の中を見回している。彼と目が合ってしまった。

? そこにいるのか?」
「……うん、望ちゃん」

 が小さく返事をすると、太公望はこちらへと近寄ってきた。が見つかって、ほっとしたような顔をしている。

「望ちゃん、もしかして私を探してた?」
「う、うむ……」

 太公望は、後ろ頭を掻いた。視線を泳がせると、言いにくそうに口を開いた。

「楊ゼンが、を探せとうるさくてのう。食事にも来んし、気になってのう。……ここのところ、姿を見てなかったし、な」
「そう……たしかに、久しぶりだね」

 が微笑むと、太公望が目を細めた。に、ゆっくりと近づいてくる。

「こんなところでなにをしておったのだ」
「……目、腫れてたから。みんなに見せられなくて」

 が濡れ布巾をひらひらと振る。それは、もう水分を失ってほとんど乾いている。まぶたの重さはかなり軽減されているが、それでもまだ腫れは残っている。太公望にそんな顔を見せたくなくて、は背を向けた。
 太公望が黙った。しまった、要らぬ心配をかけてしまったかもしれない。がどうごまかそうかと思っていると、不意に後ろから抱きしめられた。

「……、わしを恨んでいるか?」

 思ってもみなかったことを言われて、は太公望のほうを向こうとした。太公望は、の肩へ顎を乗せる。
 やはり、太公望は悔やんでいた。彼にとっての大切な仲間を止められなかったことを、後悔している。それに加えて、が悲しむことを防いでやれなかったとも。

「天化を止められなかった。あるいは、わしが、間に合っていれば……」
「望ちゃん……もしもの話なんて、意味ないよ。そんなこと言い出したらきりがないし……大体、私だってそうだよ。未来を知っていたのに、って」

「天化は、最後に紂王と戦えて、満足だったんじゃないかな? 私は天化に責められなかった。謝る必要なんかないって、逆に怒られたぐらいだよ。だから、私は、望ちゃんを責めたりしないよ」

 太公望の手に、自分の手を重ねる。太公望はその手をぎゅ、と握り返してきた。は、背中から伝わってくる心地よい体温に、目を閉じた。

「それとも、望ちゃんは私を責める?」
「……いや、責めぬよ」
「私も、同じだよ。天化は、自分の筋を通して死んだの。私はそういうの、まだよくわからないけど……でも、愛しいって思うよ」

 太公望が、息を飲む気配がした。彼はの肩から顔を上げると、言葉を選ぶような間を置いて、に問うた。

「……おぬし、天化を愛しているのか?」

 は、少し沈黙した。太公望の質問の意図がわからなかったのだ。

「うん、愛してるよ」

 太公望が再び沈黙した。やがて、再び腕に力をこめてを抱きしめると、そうか、と力なくつぶやいた。
 夕方、仙道は人間界から引き上げるとの太公望の決定が通達された。
 翌日、人間界からの出立である。

***

 寝台に身を横たえたに、太公望は覆いかぶさった。
 彼女の頭の横に手をついて、顔を近づける。はそっと目を閉じ、少しだけくちびるを開いた。太公望はそれをキスの了承だと思い、己のくちびるを重ねた。
 柔らかいくちびる感触に、太公望の体が一気に熱くなった。舌をの口の中へ差し入れると、たどたどしくが応える。ん、と小さく甘い息が漏れ、ますます体の熱が上がる。
 くちびるを離し、の首筋に鼻先を埋める。彼女の香りを吸い込んで堪能してから、服を乱した。胸元があらわになり、白い肌が目に入った。
 この白い肌を、雪原を踏み荒らすかのように、今から自分が汚すのだ。
 そう思うと、すぐさまをめちゃくちゃにしてやりたくなった。凶暴な欲を残った理性で押さえ込み、ゆっくりと胸元に赤い花を散らしていった。

「ん……あ、望ちゃん……」

 普段とは違う、高く甘い声で名を呼ばれる。
 どうしようもなく愛しくなって、太公望はまた、そのくちびるにキスをした。



「──っ!?」

 くちびるが触れる瞬間、太公望は覚醒した。飛び起きて自分の寝台を確認する。そこにはいない。行為をしたという形跡もない。それを確かめると、脳が急激に現実へと戻った。今の光景は、すべて夢だったと。己の欲望が生み出したものだったのだ。
 太公望は自分の口元を覆い、荒い息を整えた。激しい動悸の中で、いつかの王天君の言葉が頭に響いた。

『欲しいんだろ、が』

 脳内で生々しく再生された声に、太公望の心がふたつに分かれた。
 違う、に手を出せるわけがないと、まっとうに叫ぶ心。
 そうだ、今すぐの体を自分のものにしたいと、渇望する心。
 そのどちらも、本心だ。大切にしたいと思う心も、欲望のままに奪いたい心も本物だからこそ苦しい。
 ぎゅっ、と胸元の辺りの服を握り締める。

は、天化を愛していると言ったのだ……! わしが、その心を踏みにじれるわけがなかろう!)

 必死に自分に言い聞かせる。けれど、そう簡単に胸の疼きは消えない。
 思いを自覚して以来、の姿を見ると、否応なく胸は早鐘を打つ。周の建国後以来、を避けていたのは、責められることを恐れていたのもある。しかし一番の理由は、天化を思うを見たくなかったからだ。の口から天化を愛していると、聞きたくなかったのだ。

……)

 昨夜が楊ゼンのもとで泣いたと知った時、彼に対する嫉妬でどうにかなりそうだった。これまでは、いつだって自分のもとで彼女は泣いていたのに。それを、別の男の前で泣き顔を見せたのだ。あの愛しい泣き顔を、太公望以外の誰かに。

(違う、はわしのものではない)

 再び湧き上がる嫉妬心に、言い聞かせる。しかし、いくら言い聞かせても、熱情は湧き上がってくる。
 昼間の、あの薄暗い書庫でのことを思い返す。腫れた目元を隠しながら、太公望の腕に抱かれながら、天化を愛していると言った

(なぜ……こんなに近しい間柄だというのに、なぜ、抱きしめることしか叶わないのか。なぜ、わしらの間にはなにもないのか。いっそ、西岐に身を置く以前に戻れたら……)

 頭の中に広がる、過去の幸福な記憶。四不象ととで旅をしていたあの頃。が、いつも太公望のそばにいたあの頃。ふたりで旅をしていたあの時ならば、は自分だけのものであったのだ。の世界に、太公望しかいなかった。

(違うというのに!)

 欲しいと渇望する心と、それを真っ向から否定する心が、太公望の胸で渦を巻く。
 己の心の中をぐちゃぐちゃに乱していく苦しみに、太公望は眠れぬ夜を過ごした。


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