天化封神
朝歌が見えてきたところで、天化は馬を下りた。夜明けまでまだ時間がある。少し早く着きすぎたようだ。馬を放し、歩き出す。
朝歌を懐かしむ感情が湧いてきたところで、不意に声をかけられた。前方の岩陰にいた人物を見て、天化は顔をしかめた。
「おう、天化!」
「スース……」
天化が一番会いたくなかった人物だ。
太公望は、天化の傷の状態も焦りも、気付いていたのだ。だとしたら、今の天化の決意もわかっているだろう。
だが、こうして天化を止めようとするのは、殷を倒すのは人間という、揺るぎない理想があるからだ。ゆえに、太公望を説得するのは至難の技である。天化は、自分の行動が太公望からすればわがままに過ぎないことを自覚している。実力で破ることも、心情に訴えることも、そのどちらも難しい。これ以上なく厄介な人物だった。
太公望が風を起こす。天化も莫邪の宝剣を構えるが、勝てる見込みは少ない。紂王との戦いのために体力を温存しておきたかったが、そんなこと考える余裕などない相手だ。天化は足を踏み込んだ。
「おぬしは絶対、わしには勝てぬ!」
飛び上がった天化を、太公望の風が吹き飛ばした。やはり、強い。太公望は顔を一層険しくすると、宝貝を無効化しようと太極図を発動させる。
「
を悲しませる気か!」
太公望から、愛しい名前が紡がれる。天化はこみ上げる気持ちをぐっと抑えると、立ち上がって下肢についた砂を払った。
「もう、別れてきたさ」
「──!?」
太公望が驚愕している隙を狙い、天化が宝剣を構えて踏み込む。一か八か、このタイミング以外に太公望を攻撃するチャンスはない。
しかし、攻撃は出来なかった。天化の周りの空間が、四角に切り取られる。直後に聞こえてきた笑い声に、太公望と天化は身を硬くした。
「行かせてやりゃあいいじゃねぇか。遅かれ早かれ、どうせ殷は滅ぶんだからよぉ」
「王天君!」
天化の姿は空間の向こうに消え、後には王天君が残した紅水陣が残る。広大な陣は、朝歌の空をほぼ全土覆っている。
紅水陣が足止めだとわかっていても、朝歌の人間を人質にとられてはそれを先に解除するしかない。太公望は不快感を隠そうともせずにくちびるを噛みしめると、太極図を発動させた。陣が壊れると、王天君の笑い声が大きくなった。
「いいじゃねぇかよぉ。黄天化は自分の戦いに行って満足して死ぬ。邪魔者がいなくなったあんたは、愛しの
を手に入れる。万事解決じゃねぇか」
「――っ!? なにを、馬鹿げたことをっ!!」
心を突かれた太公望が声を張り上げた。太公望の怒りは王天君を楽しませることにしかならず、一層笑い声が響く。太公望の心がかき乱れる。
「欲しいんだろ、
が……ハハハハハ!」
高笑いが消え、王天君の気配も完全に消えた。太公望は頭を激しく振って思考を切り替えて、四不象に飛び乗った。王天君の意図が気になったが、今はそれを考えている場合ではない。一刻も早く天化を追わなければ。
王天君の言葉が、太公望の心の奥底に住み着く。
が欲しい、と。
***
日の出までになんとか目の腫れを引かせた
は、楊ゼンらとともに行軍に加わった。
天化も、太公望もいない。誰についていこうかと少々迷ってから、楊ゼンの馬の後ろに乗った。彼は深刻そうな顔をして
を見ていた。楊ゼンも、なにが起こっているか察しているのだろう。なにか言いたげに
を見つめてきたが、
の目元の状態に気づいて、結局なにも言わなかった。いつものように
に挨拶した後は、彼は黙って手綱を握っていた。その気遣いがありがたかった。なにか言われてしまったら、叫び出してしまいそうだった。
日の出から行軍を始め、朝歌へと到着する。
城門をくぐった矢先、禁城のほうから魂魄が飛んだ。まっすぐに封神台へと向かっていく魂魄は、紛れもなく天化のものだ。
「あれは……」
楊ゼンが、振り向かずにこちらを伺う気配がした。
は、その光を見えなくなるまで瞬きもせずに見ていた。
(天化……天化!)
涙は出なかった。昨日散々泣いたせいかもしれないが、不思議と落ち着いていた。楊ゼンが、またなにかを言いかけて、やめた。
人々の波をかき分けた後、武王、邑姜、楊ゼンらの馬が走り出す。目印の四不象が浮いているのに気づくと、そこを目掛けて走った。
やがて、太公望と紂王の姿を見つけ、武王、邑姜、楊ゼンの三人は、馬を下りて駆け寄った。太公望の小さい後姿が、物も言わずに泣いていた。
彼は、仲間の気配を感じ取ると立ち上がった。その目に涙はない。
も、ゆっくりと馬を下りた。
それから、紂王が武王を連れて城壁へと上がる。群衆が見守る中、武王が紂王の首をはねて勝利を宣言すると、歓声が割れんばかりに上がった。武王が、民衆に認められて王になった瞬間だ。
は、その様子を太公望らから少し離れたところで眺めていた。
太公望がばた、と後ろに寝転がった。喪失感と達成感とで呆然としながら、
の姿を探す。
彼女は、ただ目の前の光景を見ているだけだった。表情はない。太公望が恐れている感情は、その顔にも目にもまだない。
***
それから、朝歌に入城した武王らは、戦後の処理と国の立て直し、民の生活の保障に追われた。
天化の封神が発表され、天祥の顔から笑顔がなくなった。
は、不思議なことにこの時も涙が出なかった。
を気遣う仲間たちを以前と変わりない態度で迎えるものだから、たいそう仲間たちを驚かせた。ともすれば淡々としているとも取れる様子に、仲間たちは心配になったようだった。しかし新しい国の仕事に追われるうちに、次第に気を遣われることもなくなっていった。
は、それがありがたかった。
建国から十日ほど経った頃、
はひとり、部屋の前の廻廊から月を見上げていた。
忙しさはまだまだ続く、というより、終わりがない。こんなふうに月を眺めることなど、久しくなかった。
太公望は、そろそろ仙道を人間界から引き上げる。それに向けてラストスパートの忙しさだ。
の手には、天化のタバコがあった。一本取り出してくわえ、宝貝で火をつける。紫煙が上がり、独特の香りがあたりに漂う。フィルターから煙を吸い込むと、肺が煙たくなったような気がした。
美味くはない。ただ、煙たいだけだ。
「こら、不良娘」
不意に声をかけられ、
はゆっくりと声のしたほうへ振り返った。楊ゼンが、こちらへと歩いてくるところだった。
は内庭に面した手すりに肘をついて寄りかかりながら、楊ゼンが来るのを待った。楊ゼンは、
の隣で同じように手すりにひじをついた。
「不良?」
「タバコ、吸ってるじゃないか」
「別に、とっくに成人してるから不良じゃないよ」
「もしかして、元の世界で吸ってた?」
「え、いや吸ってないけど、どうして?」
「いや、初めて吸う割に、煙たがらないなぁと思って」
「子供じゃないんだから、これぐらいで咳き込んだりしないよ」
会話が途切れる。
は月を見上げた。よく晴れていて、月の光がまぶしいくらいだ。月の光で影が落ちるもの、もう珍しく思わなかった。
――天化と初めて出会ったのも、月が明るい日だった。告白されて恋人になったのも、初めて体を重ねたのも、こんな夜だった。
火をつけたタバコを吸うでもなく、ぼんやりと月を眺めていると、楊ゼンが口を開いた。
「……泣かないのは、天化くんとの約束?」
「……え?」
「君、彼が封神されてから、ずっと泣いてない」
「……別に、そんなんじゃない」
「師叔のところで、泣いたりした?」
「望ちゃんに、会ってない」
第一、太公望の前では泣けない。この世界に来てから、いつだって泣くときは太公望のそばで泣いていたが、今回ばかりはできない。彼は、天化を止められなかったことを絶対に悔やんでいる。太公望が今、
に対してどんな気持ちでいるのかがわかるから、彼の前で泣くことだけはしない。彼のほうも、
に対して複雑な思いがあるようで、
との私的な会話を避けているようだった。
「じゃあ、本当にどこでも泣いてないんじゃないか。なにを強がってるんだい?」
「いや、あのね……天化を送り出したのは、私だよ」
楊ゼンがこんな風に絡んでくるのは珍しい。
に対しては親戚の子に接するように優しかったが、今は
を挑発してくる。なぜこんなに絡まれるのだろうか。楊ゼンの意図が見えず、困惑しきりだった。
「天祥君に遠慮でもしているのかい?」
「だから、そんなんじゃないってば」
「じゃあ、なんでこんなところで天化くんのタバコなんて吸ってるんだい。ひとりで、泣きもしないで。一体誰に気兼ねしてるのか知らないけど、そういうの、見てていらいらする」
「い、いらいらって……」
は、思わずひじを滑らせた。楊ゼンからこんな態度を取られるのは初めてだった。彼の顔を見上げると、
をまったく怖くない表情だったが睨んでいた。
「素直になったらいいじゃないか……誰も、君を責めたりしない。天化くんだって」
別に、泣くのを我慢していたとか、気丈に振る舞おうとか、そういうわけではなかったのだが。楊ゼンからすれば、
が無理をしているように見えたのだ。だが、淡々とした姿勢を崩さなかった
に、ただ「我慢しなくていい」と言っても聞き入れないだろう。そう思った楊ゼンは、こんなやり方で
を泣かそうとしているのだ。
『俺っちが死ぬのを止められなかったからって、謝る必要なんかないさ』
楊ゼンの言葉で、天化の言葉がよみがえってきた。
天化は自分の思うとおりに紂王と戦って、満足していただろうか。最後には、笑っていただろうか。
のことなんか思い残さずに――
彼の心が晴れていたらそれでいいのに。最後に見せた、あのいつも通りの笑顔でいてくれれば、それだけで。
は、タバコを思い切り吸い込んだ。案の定、慣れない煙たさに耐え切れずに咳き込む。
「ごほっごほっ、うえ、苦い。よくこんなの毎日吸ってたなぁ」
「
ちゃん……」
「こんなの吸っても、体に悪いだけなのにね。ほんと、なんでだろ……」
楊ゼンは、黙って視線を月に移した。
が泣き出したからだ。ぱたぱた、と涙が手すりに落ちる音がした。
もう、タバコを吸っている彼の姿を見ることはできない。タバコは程々にと注意することもできない。もう、いない。封神台へと行ってしまった。
「天化……死んじゃ、やだよ、帰ってきてよ」
「……もう、帰ってこないよ」
「わかってるよ、楊ゼンさんの馬鹿」
「ば……ひどいなあ、馬鹿扱い?」
「わかってる、わかってるの。天化がもういないって、帰ってこないことなんて、わかってるの。わかってて送り出したの」
「
ちゃん……」
すべて覚悟の上だったのに、やはりつらい。彼の姿を見ることも、声を聞くことも、体に触れることも、もうできない。
この明るい月がいけないのだ。月が明るいせいで、思い出してしまう。天化と出会った日のこと、思いを告げられた日のこと、初めて体を重ねた日のこと。そのほかにも、たくさん一緒に過ごしたこと。
それらが浮かんでくるたびに、突き付けられる現実が悲しくて仕方がない。
「天化、てんかぁ……帰ってきたら、結婚してって言ってたのに……! 元の世界なんて帰らずに、結婚するから、帰ってきてよ、天化……自分の筋を通すとか、わからないよ。生きてこそじゃないの、天化……やだよ、天化。いないのは、嫌だよ……」
は、涙を流しながら、タバコを吸った。やはり、苦くてまずい。タバコを足元に落とすと、踏みつけて火を消した。楊ゼンは、その様子を黙って見ていた。
顔を覆って、恨み言を並べながら泣いていると、楊ゼンがそっと頭を撫でた。
はなにも言わずに泣かせてくれる楊ゼンに甘え、体力が尽きるまで泣いた。
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