別れ話をしよう
紂王との戦いは、唐突に打ち切られた。民を傷つけたこと、拠り所にしていた妲己の姿を見失ったことで紂王が我に返ったのだ。その紂王を、王天君が朝歌へとさらった。
すぐにでも追いかけようとする天化を、太公望が厳しく止めた。朝歌へ入るのは、まず人間の武王が一番でなければならないと。
ぐっ、とこぶしを握り締める天化を、
は彼の背後から見ていた。広がった腹の傷を、皆から見えないように押さえている彼の姿を。彼の足元には、滴った血が円を描いている。
天化は今夜、夜陰に乗じて朝歌へと行ってしまう。そこで、彼は――
は、夕暮れ時に天化をテントへと呼び戻した。テントに入ってきた彼の表情は、若干焦りが見える。血の流れる量が、以前と比べて一気に増えたのだ。一瞬でも無駄にできない、だから早く朝歌へ行きたいと顔に現れていた。
「
、どうしたさ?」
天化の声を背後に聞きながら、
はつばを飲み込む。
今、言わなければ。彼は翌朝にも、その短い生を終えてしまう。もう二度と会えなくなってしまう。
が引き留めたところで、やっぱりなにも変わらないかもしれない。天化は誰のためでもなく、自分のために紂王と戦うことを決めたのだから。
がなにを言っても無駄かもしれない。
それでも――引き留めたい。行かないでほしい。いかないでほしい――
「天化……今夜、朝歌に行くんでしょう?」
背後で、天化の雰囲気が緊張したのがわかった。なぜ
がそれを知っている、と問いかけるような視線を感じる。
「ああ」
「どうしても?」
「今行かなきゃ、俺っち、なにもしねぇで死ぬさ」
死ぬ、という言葉を天化の口から聞き、
は今度こそ心を決めた。天化は、自分の余命を悟った上で覚悟を決めている。
は、くじけそうになる心を落ち着かせるために深呼吸した。
「朝歌へ行くなら、別れるって言っても?」
「……え?」
「どうしても朝歌へ行って紂王と戦うなら、私と別れて」
天化が、
のほうへと歩み寄った。
がなにを言っているのか、なぜ突然こんなことを言いだしたのか、理解できないのだろう。
「な、に、言ってるさ。別れるなんて」
「嫌なら、行かないで」
死に急ぐように決意を固めた彼を、行かせたくなかった。周軍とともに朝歌に入ることを選んでいたら、彼はもう少し長く生きていたかもしれない。覚悟を決めている彼に対してこんなことを言い出すのは、よほど愚かなことなのだろうが、
はそれでも言った。
天化が、タバコの煙を吐いた。テント内に、タバコのにおいが漂う。そのにおいが消えるまで、天化は黙ったままだった。
「……どうしても、黙って行かせてくれねぇ?」
は、沈黙で肯定した。なにかしゃべってしまうと、必死でこらえている涙がこぼれてしまいそうになる。
こんな聞き方をするということは、譲れないのは朝歌に行くほうだと言っているのと同じだ。天化の次の言葉は、この時点で決まっているようなものだった。
「……なら、別れるさ」
予想に違わぬ天化の言葉に、
は俯いた。やはり、なんであっても彼の決意は変えられない。
がここで、紂王と戦った後に死ぬ、と先のことを告げても、彼は行ってしまうだろう。死を前にしてなにかを成し遂げるために、彼は行くのだ。
「……そう。じゃあ、お別れだね。さようなら」
は、できる限り冷たく聞こえるように言い放った。そうしないと、泣いてしまいそうだった。こんなタイミングで泣いては、優しい彼はきっと心残りに思ってしまう。天化の足枷になるくらいなら、冷たい女だと思われたほうがましだ。
「……それで、終わりさ?」
天化の声にも色はない。
が小さく頷くと、きびすを返す天化の足音がした。これからテントを出て、朝歌へ出立するのだろうか。
結局、最後まで彼になにもしてあげられなかった。父の死で彼の心に空いた穴を埋めることも、彼の焦りを和らげてやることもできなかった。天化は
に、あんなに心を割いてくれたのに。
はくちびるをかみ締める。
「……ごめんなさい……」
のつぶやくような声を耳にして、天化の足音が止まった。ぎりっ、というこぶしを握る音が聞こえてきた。
「……なんで、そこで謝るんだ!? どうしてっ……!」
叫び声に、
は振り向こうとして失敗した。天化があっという間に間合いを詰め、
を後ろから抱きしめたからだった。
「俺っちが死ぬのは
のせいじゃない! 俺っちが朝歌へ行くのをとめられないのも、
のせいじゃねぇ!」
「……っ! でも、」
「俺っちは、自分の心に従って行くんさ! 紂王を倒すことがオヤジを超えた証だと思ったから、なにがなんでも行く! たとえ、あんたを捨てても! だから、あんたはそれを謝る必要なんかねぇ!」
「……天化……!」
天化の絞りだすような声に、
は我慢できずに涙を天化の腕に落とした。天化が一層強く抱きしめてくる。
は、その腕を強く握りながら、顔をくしゃくしゃにした。
「俺っちは自分の思うことをする。あんたは、俺っちが目指してたものを知ってるだろ?」
「うん、うん……」
「だったら、腹の傷のことなんか今は目をつぶって、俺っちを送り出すさ。俺っちが死ぬのを止められなかったからって、謝る必要なんかないさ」
は、声にならずに頷くしか出来なかった。しゃくりをあげて、涙を流す。
先のことを知っていても、なにもできなければ意味がない。むしろ知らないほうがよかったのではと、天化の死を前にして思っていた。けれど、自分を責める必要なんかないと、天化は言ってくれた。最後まで、
の心を案じてくれた。
天化は
から離れると、テントを出ようと歩き出した。土を踏みしめる音が遠ざかっていく。
幕を上げる布ずれの音がして、
は顔を覆った。見送ってやりたいのに、嗚咽がおさまらない。後ろを振り向けない。
と、そのとき、天化が足を止め、
へと駆け寄った。もう一度
を強く抱きしめると、顎を掴まれて口を吸われた。
「う……んっ」
「最後に、これが最後だから……」
天化はそう言って、またキスをした。今度は舌を使う深いキスになった。お互いの口の中と舌を行き来しあって、呼吸すらも惜しんで。
「
、愛してる」
「私も、私も天化を愛してる……!」
天化がくちびるを離すと、唾液が糸を引いた。
のくちびるに残った唾液を、天化が音を立てて吸い取ったのが、最後になった。
天化は
の涙を指でぬぐうと、いつもと変わらない笑みを浮かべた。
「オヤジを超えるために、行くさ。
、俺っちを愛してるなら、見送って」
「……っ、うん」
幕を上げ、テントを出ようとする天化の背中を見つめる。
これが、最後だ。彼の姿を目に焼き付けるために、今だけは必死に涙をこらえる。
「なあ、
。もし、俺っちが
のもとに帰ってきたら……その時は、俺っちと結婚してくれねぇか?」
「え?」
思ってもみなかったことを言われ、思わず気の抜けた声を出してしまった。天化はニッと笑って、身をかがめて一瞬だけ
のくちびるを掠め取る。
がくちびるの感触を感じ取った次の瞬間には、天化はもう走り出していた。幕が天化の手から離れ、テントの中が真っ暗になる。
はあわてて後を追って外に出た。
「天化……」
彼を乗せた馬は、あっという間に見えなくなった。遠くで馬のいななきが上がり、蹄の音が聞こえなくなった。今度こそ、朝歌へと行ってしまった。
はテント内へと戻り、幕を下ろした。
本当は、天化の姿が見えなくなった時点ですぐにでも泣き崩れたかった。だが、そうすると天祥らに見つかってしまうかもしれない。
が泣いているところを見られたら、ほかの仲間たちに天化の行動が気づかれてしまう。天化のみちゆきを、誰にも邪魔されたくない。だから、力を振り絞ってテントに戻った。寝台へと足を運ぶと、膝ががくりと落ちた。寝台に突っ伏して、ひたすらに涙を流す。
行ってしまった。やはり、変えられなかった。けれど、今は純粋な悲しみだけだ。天化と話す前に感じていた罪悪感のようなものは、今はない。天化が、最後に
の心を救ってくれた。
彼らしい別れの仕方だった。我を通したように見えて、一貫して
のことを案じてくれていた。プロポーズのようなことを言ったのは本心からかもしれないが、気遣いも含まれていただろう。おかげで、
が天化に最後に向けた顔は、泣き顔ではなかった。
どこまで優しい男なのだろう。なんて情の深い男なのだろう。こんな、いつも天化をやきもきさせてばかりだった
に、深い愛情を注いでくれた。
暗闇に目が慣れる頃、ふとまぶたを持ち上げると、枕の横になにかが置かれているのに気づいた。それを手に取ってみる。
「……? なんだろう、これ……」
小さい、手のひらサイズの紙箱。このようなものは、天化と会う前にはなかったはずだ。暗い中、よく見るために顔を近づけてみると、独特のにおいが鼻をくすぐった。
においが、紙箱がなんであるかを示していた。その正体がわかった瞬間、
は息を飲んだ。
「タバコ――天化の」
いつの間に置いたのだろうか。先ほどのやり取りの中、
はずっと天化に背を向けていたので気がつかなかった。
紙箱をつぶさないようにそっと握って、胸の前で抱きしめる。天化が
に残したものだ。
「ばか、ばか……!」
(涙が止まらないよ、天化)
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