紂王との激戦


 翌日、黄河の渡河に成功した周軍は、先に集結していた東、南、北伯の軍と合流し、兵力を二十五万まで拡大させた。
 朝歌へと目を向けた先に、殷軍七十万と妲己三姉妹の姿があった。妲己は軍の上空で傾世元禳を振り、兵士に誘惑術をかけている。あれでは、周軍の兵士たちも誘惑術に絡めとられてしまう。殷の兵を降伏させるためにも妲己をなんとかする必要がある。
 太公望は周軍の指揮を武王に任せると、を後ろに乗せて、妲己の元へと向かった。妲己との対決である。

「太公望ちゃん。ちゃんも、久しぶりん」
「妲己」
「妲己、以前のようにはゆかぬぞ!」

 太公望はスーパー宝貝・太極図を開放し、妲己の誘惑術を解こうとする。しかし、妲己の力は強く、太極図の無効空間が押し返されてしまう。殷の兵士たちの誘惑術はまだ解けない。それどころか、気を抜くと周軍兵が誘惑術にかかってしまうので、太公望は絶えず力を使い続けるしかない。彼の額に汗がにじみ、呼吸が乱れ始めた。
 それでも周軍は武王の指揮により、殷軍を黄河へと追いやって実質的に戦える兵力を拮抗させた。
 すると、妲己がお色気ポーズをとった。術の力が三割増しになり、太極図が押し返される。周軍の兵士たちにも誘惑術がかかり、武王が刺されてしまった。

「武王!」
(いけない……! せめて、羌族が加勢に来るまで……!)

 羌族の到着が思ったより遅い。太極図が本来の使い方をしていないうちは、の宝貝も使えるはずだ。は覚悟を決めると、宝貝に集中する。
 妲己の誘惑術は、香りを媒体として人間の体内に侵入し、思考を奪って思いのまま操る術だ。空気が媒体ならば、の宝貝で操ることが可能だ。
 は周軍の周辺の空気が殷軍へ流れるように波を起こす。香りが、周軍から殷側へと運ばれる。それに気付いた妲己が、おもしろそうに口角を吊り上げた。

ちゃん、やるわねん。ここまで宝貝を使えるようになってたなんて」
、無理をするな!」

 太公望がを振り返る。広範囲にわたって空気を操っているので、早くもの集中力が途切れ始める。
 と、その時、地鳴りを響かせて羌族の騎兵が現れた。頭領の邑姜が名乗り、太公望を一喝する。

(ま、間に合った……望ちゃん……)
「それでも、羌の戦士ですか!」
「……なんと……わしと血を同じにするものが助けに来おったよ」

 太公望は気を持ち直し、太極図を再び開放した。は、最後の力を振り絞る太公望を励ますように、その背をぎゅっと抱きしめた。

「望ちゃん!」
……しっかりつかまっておれ!」

 太極図の無効空間と誘惑術を拮抗状態に持ち直し、武王は軍の態勢を整えた。再び、殷軍を黄河へと押し出す。
 勝敗を悟った妲己が、早々と傾世元禳を下ろして誘惑術を解いた。次々に殷軍の兵士たちが正気に戻っていく。
 妲己はすう、と息を大きく吸うと、猫なで声で叫んだ。

「いやぁぁん、太公望ちゃんがいぢめる〜ん。紂王さま助けてぇ〜ん」
「なにっ!?」

 妲己の声に反応して、象に乗った少年が現れる。天子の服を身に纏った少年こそが紂王だった。見た目は完全に少年のそれで、紂王の息子の殷郊によく似ていた。
 はぎくりと身をこわばらせた。この紂王こそ、天化を死に追い立てるのだ。無意識に、太公望の服を強く握っていた。
 太公望は力を使い果たし、息を切らしている。その様子を見た仲間たちが、紂王の前へと進み出る。

「紂王は俺たちに回してテメーはダレてろ!」

 雷震子らの声に、太公望は太極図を下ろした。四不象を降下させると、ふらふらと地面に降り立つ。は、あわててその肩を支える。

「望ちゃん!」
「ぬぅ……、おぬしにこれを預ける。さすがに、持っているのもやっとだ」

 太公望から太極図を渡された。は太公望を岩の上に座らせ、自分も彼の隣に座った。その座った瞬間を狙って、太公望がの膝目掛けて上体を倒してきた。ちょうど、膝枕の態勢になった。

「ちょっと望ちゃん、なに勝手に人の膝使ってんの?」
「ちょっとぐらい良いではないか……この間も、ど、同衾した仲だというのに」
「同衾て自分で言って動揺してるし。あのね、もうすぐ天化が」
「うーむ、疲れたのう……」

 天化がもうすぐこちらへ来るので、こんな態勢を見られると怒られると言いたかったのだが。太公望の蒼白の顔を見ると、それを言い出せなくなった。彼がこのように疲労をあらわにすることなどほとんどない。今回は、それほどまでに力を使ったのだ。
 が小さく息を吐いたところで、天化の声が聞こえてくる。案の定、声が怒っている。怪我を理由に体力を温存させに来たのに、こちらへものすごい勢いで駆け寄ってくる。温存とは一体。

「こら、このエロじじい! なにに膝枕してもらってるさ!」
「けちだのう……少しくらい、分けてくれてもいいではないか」
「ダメさ! 減る!」
「あのねえ……」
「御主人……」

 の小さい突っ込みと、四不象のため息が重なった。ふたりとも休みに来たのに、喧嘩していてはどうしようもない。ここは天化に譲ってもらおう。

「天化、少しくらいダメかな? 望ちゃん、妲己相手にあんなに頑張ったんだし」

 がそう言うと、天化はぐ、と言葉に詰まった。

「うっ……まあ、確かに……が言うなら、仕方ないさね。でも、ほんとにちょっとだけだかんな!」

 天化は渋々了承すると、自分はの隣に座り、の肩を抱き寄せた。
 それから、太公望が何気なくの太ももを触っているのを目撃した天化は、太公望を問答無用での膝から落とした。岩肌に頭をもろにぶつけた太公望は怒った。天化はそれ以上に怒っていた。
 紂王との戦いは苦戦を強いられていた。戦闘力に定評のある楊ゼンとナタクが、ふたりがかりでも決め手を与えられずにいた。それどころか、だんだんと紂王の力がふたりを上回り始めた。
 戦いの様子をはらはらと見守っていた天化だったが、太公望のあまりにもダレた様子に我慢の限界を迎えた。から太極図を取り上げると、太公望に強引に持たせて怒鳴りつけた。はふたりのやり取りを黙って見ていたが、天化のある言葉に、胸をえぐられるような痛みを覚えた。

「オヤジやコーチも、やっぱこの人に見殺しにされたんじゃねーかって……」
(違う。いつも見殺しにしてきたのは、私だ……)

 に向けて放った言葉ではないことはわかっている。しかし、先のことを知りつつもなにも干渉できないでいるにとって、心に深く突き刺さるものだった。

『あなたにはどうすることもできないよ。どんなに助けたいと、流れを変えたいと思ってもね』
(天化の死も、私は変えられないの?違う……なにも出来ないからって、なにもしないのは言い訳だ)

 老子の言葉を隠れ蓑にして、自分の身を守ってきたのは自身だ。自分が行動しなければなにも変わらないのは、どこの世界だって同じことだ。
 無理やり太極図を持たされた太公望が鼻血を出して倒れこんだ。見かねた四不象が、主人の弁護をする。天化は、一言太公望に謝罪すると、莫邪の宝剣を手に駆け出した。
 天化の後ろ姿に、黒い影のようなものがちらついた。言いようのない恐怖を感じて、は叫んだ。

「天化!」
「……ん?」

 岩ひとつ分ほど離れたところで、天化が振り返った。その瞳は、なんの不安も映していない。自分がなにをすべきか、選び取った後の目だ。は、かけるべき言葉を失った。

「……気を、つけて」

 代わりに出てきたのは、ありふれた言葉だけだった。喉元で言葉にできない不安と恐怖が渦を巻いている。なにかをしゃべるとそれが溢れ出しそうで、口を閉ざした。苦しい。大切な存在を失うという恐怖に、息もできずにいた。
 天化はにっこりと笑い、に右手を振った。そして、一目散に紂王の元へと走っていった。その姿が小さくなるにつれ、の胸の痛みは増していった。目頭が熱くなる。

「……おぬし、なにか知っているな」

 鼻に詰め物をした太公望が、を見て言った。は俯くばかりだ。いざという時になにも出来ないのであれば、なにも知らないのと同じだ。
 太公望がを手招きした。招かれるままに彼の元へ近づき、そばで膝をつくと、太公望はまたの太ももに頭を乗せた。

「そんなに泣きそうな顔をして、強がるでない。……わしがいる」

 は、我慢できずに涙をこぼした。わしがいると言ってくれた太公望の顔を、まともに見られなかった。楊ゼンらで紂王がどうにもならなくなったら、空っぽの状態の彼が出るつもりなのだ。あるいは、天化を失うことを恐れているを励ましたのかもしれない。
 けれど、天化は死ぬ。殷を打倒する上で、有効な手段とされてしまっているのだ。避けられないのだ。

「……私に、そんなこと言わなくていい。私はまたっ……!」
「なら、黙っておる。おぬしも黙って泣け」

 太公望の手がの頬に触れ、流れる涙をぬぐった。しかし新しい涙が次から次へと出てくる。は乱暴にまぶたをこすり、無理やり涙を止めた。
 顔を上げて、紂王と天化の戦いを見つめる。天化の戦っている姿を見られるのは、これが最後かもしれない。記憶に焼き付けるように、彼の姿を目で追った。
 そんなを見上げ、太公望は一瞬だけ表情を苦しそうに歪めた。


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