太公望、自覚する
メンチ城を守っていた張奎は、太公望の太極図によって宝貝を封じられ、直接攻撃に出てきた。聞仲を心酔していた張奎の思いを汲んで、太公望は張奎を伴って封神台へと向かった。
それまで太公望の後ろに乗っていた
は、太公望と張奎の邪魔にならないように四不象から降り、皆とともに彼らの帰りを待つことにした。それに、封神台も一応元始天尊の宝貝だ。
が行くとなんらかの影響があるかもしれない。
「
っ、無事か!? 体調はなんともないさ?」
の姿を見つけた天化が走ってきた。武王か誰かに、宝貝を使ったことを聞いたのかもしれない。
の体中をべたべたと触って、異常がないか確認していた。
「うん。ちょっと疲れたぐらいで……」
「そっか。良かったさ」
以前まで、宝貝を使うと疲労ですぐに眠りを必要としていたものだが、今は通常の眠りだけで回復できるようになっているはずだ。これも、夢の中での特訓の成果だ。
それから、天化といちゃいちゃして太公望を待った。彼が帰ってくると、周軍はメンチ城を通過する。張奎が通過の許可を出したのだ。今日は、このままメンチ城で休息だ。
その夜、太公望の帰還とメンチ城の無血開城を祝って、武王ら首脳陣でささやかな酒盛りが行われた。本当はこんなことをしている場合ではないが、朝歌侵攻という大きな戦いを目前に控え、兵士たちにも何杯か酒が振舞われた。
久しぶりの宴会は、太公望を囲んで行われた。次々と注がれていく酒を、太公望は上機嫌に飲み干していた。
はその様子を、黄酒のお湯割りをちびちび飲みながら、天化の隣から眺めていた。
(望ちゃんも、みんなも嬉しそう……やっぱり望ちゃんがいると、みんなの雰囲気が違うな)
しかし、明日のことも考慮して、宴会は早々に切り上げられた。天化は、眠そうにしていた天祥を伴って部屋を出て行った。これから弟を寝かしつけるのだろう。後片付けをして、皆自分の割り当てられた部屋へ帰っていった。太公望を除いて。
「望ちゃん、もう寝るよ。ほら、部屋行くから、立って」
「うい〜まだわしは飲めるぞ〜」
「もうみんな寝ちゃったよ。ほら、しっかりして」
管を巻く太公望に肩を貸し、なんとか立たせる。太公望を半ば引きずる形で、彼の部屋へと向かう。身長差も体重差もあまりないので、彼を送るくらいなんともないと思っていたが、甘かった。太公望は今酔っているので、体重がほぼ全部のしかかってくるのだ。重いし、歩きづらいことこの上ない。
苦労して太公望の部屋までたどり着き、彼を寝台へ座らせる。寝転がすと、そのまま寝てしまうと思ったので、まずは座らせたのだ。
だが、太公望はそのまま座らず、
が彼の寝間着を取り出している間に、寝台へと寝転がってしまった。
「あ、こら! もう、望ちゃんしっかりしてってば」
「うー」
「んもう……」
太公望の口からは意味不明な言葉しか出てこない。
は寝間着に着替えさせるのを早々にあきらめた。なんだか唐突に面倒になったのだ。太公望の上着だけは脱がせてやり、それを近くにあった卓上にたたんで置いた。上着だけでも皺になるのを回避したかったのだ。
もうこれで自分の部屋に戻ろう。そう思い、太公望の体に布団をかけようと近寄ったその時、太公望に腕をつかまれて引っ張られた。
「わっ」
はそのまま寝台へと引きずり込まれた。酔っ払いに絡まれる前に脱出しようとしたが、その前に太公望に体を捕まえられてしまった。目の前にある太公望の胸をたたくが、腕は離れない。
「ちょっと、望ちゃん。私、自分の部屋で寝たいんですけど」
「おぬしも一緒にここで寝ればよい。前はこうして、身を寄せ合って寝ておったではないか」
「それは、そうだけど……」
一体何年前の話をしているのだろうか。確かに、二人旅の頃に、野宿の寒さに耐えかねて太公望と抱き合って寝たこともある。しかし、今は状況が違う。寒いわけでもないし、ちゃんと割り振られた部屋がある。なにを好き好んで狭い思いをして寝なきゃいけないのか。
なにより、この状況を知ると鬼神のように怒る男がいる。
(天化にばれたら死ぬ。望ちゃんが)
「望ちゃん、もう離してってば」
「今日ぐらいいいではないか。淋しいことを言うのう」
「あのね、いくつなんですかあなたは……」
「ニョホ、相変わらず抱き心地が良いのう、おぬし」
「あっ、ちょっともう、どこ触ってんの、エロじじい……」
太公望の手が
の脇腹を撫で、ついでに尻も揉まれてしまった。彼にそんな気がないと知っていても、セクハラはセクハラだ。ますます天化に知られたら困ることができてしまい、
はやけくそで体をもぞもぞと動かした。が、どうあっても開放してくれない太公望に、やがてあきらめて盛大なため息をついた。
ふと気が付くと、太公望が寝息を立てていた。
(寝るの早っ!)
そういえば、太公望は今日、実戦で初めて太極図を使ったのだった。それはすぐに寝ついてしまっても無理はない。
無理やり太公望を振り払って部屋に戻ることもできた。けれど、太公望の寝息を聞いていると、なんとなくそれができなくなった。
なにもかもあきらめて、
は目を閉じた。
自身、宝貝を使って疲れている。
(明日、みんなが起きる前に起きてここから出ないと……)
天化にばれないように、みんなが寝ているうちに部屋に戻ることを計画して、
は意識を手放した。
翌朝、日が昇る前に起床できた
は、誰にも見つからずに自室に戻ることに成功した。同室の蝉玉はまだ眠っている。そそくさと自分の寝台へ横になる。なんとか天化にばれずに済みそうだと、胸をなでおろした。
***
朝歌は、黄河を超えれば目と鼻の先である。周軍は、黄河を目前に野営していた。渡河中に敵の襲撃があるかもしれないので、武器の手入れや隊列の確認など、準備を万全にしておく必要があるのだ。就寝までにやらなければならないことは、たくさんあった。
は先行部隊の報告をまとめ、地図を見て考え込んでいた太公望に伝える。先行部隊には周辺の様子を探らせていた。地理条件の把握が、戦闘では欠かせない。
楊ゼンが太公望の元へとやってきた。斥候が持ち帰った敵軍の情報を報告しにきたらしく、おそらくそのままふたりは作戦の確認に入るだろう。
は、邪魔ではないかと太公望を見やった。
「
、ここはそろそろ良いから、おぬしはもう休め。疲れているであろう」
「え? もう、いいの?」
「うむ。後は、楊ゼンにでもやらせるとしよう」
「師叔……僕もほかにやることがあるんですが……」
「うん、じゃあもう休むね。お休み、ふたりとも」
太公望が
の頭を撫でた。
は手を振って、自分の寝所へと戻っていった。
楊ゼンはにふたりに発言をスルーされて、傷ついたように床にのの字を書いていた。が、太公望の表情を見て、安心したように微笑んだ。
「太公望師叔も、完全復活といったところですか。やはり
ちゃんがそばにいると、貴方の顔つきが違いますね」
「は?」
楊ゼンの言葉に、太公望が素っ頓狂な声を上げた。しばらくぽかんと口を開けていた彼は、楊ゼンの言葉の意味を理解すると、らしくもなく動揺をあらわにした。
「な、なにを言うておる……
がいなくても、わしはちゃんと働いているではないか」
「え、まさか気付いてないんですか? 師叔の顔、
ちゃんがいると、普段の五割増しで明るいですよ」
「な……!」
「それはやはり、
ちゃんが師叔にとって、特別だからでしょう?」
「ば、馬鹿なことを言うでない!
はわしにとって……その、妹というか、娘というか、孫のようなもので……」
太公望がしどろもどろになって言い訳する。このように狼狽する彼は、武吉が弟子入りする時以来かもしれない。
楊ゼンは、珍しいこともあるのだなと太公望が慌てる様子を眺めていた。しかし、太公望の言い訳は、どれも説得力に欠けていたし、聞き飽きたものだった。はあ、と盛大なため息をつくと、楊ゼンは呆れた顔を隠さずに言った。
「まさか師叔、本っっっ気でそう思っているんじゃないですよね?」
「よ、楊ゼン……」
「そうだとしたら、貴方も案外馬鹿だったということですね。もし
ちゃんが今すぐ元の世界に帰ってしまうことになっても、師叔は同じことを言えますか?」
「う、わ、わしは……」
「ご自分がどんな目で
ちゃんを見つめているのか、どんな顔して
ちゃんのそばにいるか。本当に気付いてないんですか?」
太公望には楊ゼンの言っていることがわからなかった。自分にとって
は特別なのかなど、改めて考えたことなどなかったのだ。
は、封神計画の初期から太公望と共に旅してきた。その付き合いは、もはや十年になろうとしている。お互いの性格や嗜好、考え方など、手に取るようにわかるまでになってしまった。当たり前に隣にいる存在であるし、四不象に乗っている時だって、後ろに
の体温があるのはすでに当然のことになりつつある。
本当に正しい選択をしているのか、また間違って多くの人を死なせてしまうのではないかと迷ったこともある。自分を責めることもあった。それを、いつもそばで見守ってきたのは、
だ。太公望になにか言うわけではない。慰めるわけでもない。決して踏み込んではこないが、呼びかければすぐに応えてくれるような、手を伸ばせば触れられる距離にいてくれた。
が元の世界に帰りたがっていることを知っている。表情に出したりしなかったが、不意に故郷を思い、ため息をついて遠くを見ていた。その思いを知っていても、今日まで別れを意識していなかったのは、自分の隣で
が楽しそうに笑っていたからだ。自分は
を笑顔にできるのだと思うと、一層彼女のそばが心地よくなった。
「…………あ…………え?」
(
が、帰る……
と別れなければならぬ日が、いつか来てしまう……)
なんということだ。最初はそれをわかっていて
を助けたはずだったのに、いつの間にか忘れていた。改めてその事実を突きつけられて、ひどく心許なくなった。いつまでもふたりでいられるものだと、無意識に思っていたのだ。
元の世界に帰ってしまえば、
の笑顔を見ることも、
と触れ合うことも出来なくなる。当たり前になった彼女の存在を、もう二度と感じることができなくなってしまう。
それを理解した瞬間、無性に
の顔が見たくなった。手に触れて、この胸に抱きしめたくなった。――つかまえて、安心したくなった。
(まっ……!! 待て、早まるでない!
はもう、天化の恋人で、わしは――わしは?)
一体なにを考えているのだろう。そもそも
は天化の恋人になっているのだし、もう太公望のものではない。自分は
のなにひとつだって自由にできないのに。
――もう?
(まさか……わしは、
のことを……本当の、本当に)
太公望の表情が、みるみるうちに険しくなって苦味を増していく。それに比例するように、みるみるうちに顔が紅潮していく。
楊ゼンは苦笑いをこらえきれなかった。この様子だと、太公望は今ようやく自覚したようだ。まさかとは思っていたが、本当に自覚がなかったなんて。
太公望が、恨みがましく楊ゼンを睨んできた。
「…………なんてことをしてくれたのだ、おぬし」
その苦渋に満ちた声に、楊ゼンはやれやれと手を上げた。
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