朝歌へ進軍開始


 周軍はいよいよ殷の朝歌へと進軍を開始した。今からおよそ半年後には、朝歌への最後の関所・メンチ城につく。それまでには太公望は戻っていると、楊ゼンは予測を立てている。実際は半年どころか九ヶ月もかかってしまうのだが。
 軍師代理の楊ゼンの補佐として、は今日も今日とて忙しい。長い眠りから目覚めた翌日には、さっそく楊ゼンの部屋で走り回っていた。
 楊ゼンは太公望と比べ、処理に滞りがない。サボらないからだ。太公望の処理能力のすごいところは、サボっていても最後にはなんとか間に合わせるところなのだが、楊ゼンはマルチタスクの処理が上手い。なにをさせても優秀だ。
 楊ゼンの決裁した巻物や竹簡を運び終わり、執務室へと戻ってきた。楊ゼンが顔を上げる。

ちゃん、ご苦労様。本当に、体調はもういいのかい?」
「うん。ただ寝てただけだから、なんともないよ。楊ゼンさんも疲れてない? お茶いれようか?」
「うん、じゃあお願い──あ、やっぱりいいや」

 楊ゼンが言いかけた言葉を、あわてて撤回した。彼らしくもなく焦っているように見えた。

「これから、みんなの訓練の時間だし……後ろで、怖いお兄さんが見てるし」
「え?」

 楊ゼンの後ろというと、窓しかない。閉められた窓を開けてみると、そこにはいつの間にか天化がいた。楊ゼンを睨んでいる。確かにこれは怖い。

「わっ、天化!?」
「楊ゼンさん。とふたりきりになるときは、窓も扉も開けといてって言ったはずだけど? 密室でなにしてたさ」

 楊ゼンが苦笑いして頭を掻いている。しまった、という顔だ。どうやら、と二人きりで仕事をするにあたって、天化が楊ゼンに釘を刺していたらしい。

「いや、なにもしてないよ。そろそろ訓練に行こうと思ってたから。本当になにもしてないから、だからその手の莫邪の宝剣はしまって」

 楊ゼンが、天化の右手にある莫邪の宝剣を指して言った。天化は疑わしそうに鼻を鳴らすと、を手招きする。

「ふうん? 、ちょっとこっちに来るさ」
「ん? うん」

 天化は、近寄ってきたの手を掴んでと引き寄せると、の首筋や胸元に鼻先を近づけてにおいをかいだ。どうやら、本当になにもされていないか移り香で確かめているらしい。なんという念の入れようだ。天化がこのように、人前で仲を見せ付けるような行為をするのは初めてではないので、特に慌てたりしない。恥ずかしいのでやめてほしい、とは思うが。

「特に、においが移ったりしてないさね……、なにもされてないよな? 指一本でも触れられたらセクハラで訴えていいからな」
「う、うん、なにもされてないよ、大丈夫」

 が頷くと、天化はようやく宝貝をしまった。やっと殺気から逃れられた楊ゼンが、苦々しいため息をついた。

「もう、だから言ったじゃないか。信用ないなぁ」
「疑わしい行動するほうが悪いさ。ほら、さっさと訓練に行くさ」
「ああ、わかったよ。じゃあ、ちゃん。一時間ほど休憩時間ね。休憩終わったら、僕のサインじゃなくてもいいやつに、決裁しておいてくれるかい?」
「はい」

 楊ゼンはに指示を出すと、天化の視線から逃れるようにそそくさと部屋から出て行った。天化はそれを見送ると、窓から部屋へと上がった。すぐさま、を抱き寄せる。

「……天化。楊ゼンさん、私にそんな気持ち、これっぽっちもないと思うよ」
「そうかもしんねぇけど、心配なんさ。男はいつどこでなにするかわかんねえもんさ」

 の言い分を封じるようにキスが降ってきた。それに応えて天化の背中に腕をまわすと、天化はを抱き上げた。びっくりしてとっさに天化の肩にしがみつく。彼はそのまま、を抱えて部屋を出ようとした。

「わっ、ちょっと待って天化、どこ行くの?」
「ん? 俺っちの部屋。なに、ここでする? 俺っちはそれでもいいけど」
「えっ、なんですることになってるの!?」
「なんか、ムラムラしてきたさ。これから休憩なんだろ? 一時間もあれば一回ぐらいできるさ」
「ひぃぃ……!」

 はぞっとした。昨夜あんなにしたのに、天化の精力は底なしなのか。こうなっては誰も止められない。なにを言おうが、一発やらなければ止まらない。休憩時間なのにまったく休憩できないとはこれいかに。の悲鳴をよそに、天化は時間を無駄に出来ないとでもいうように足早に自分の部屋へ向かう。
 天化の部屋に着くと、彼はさっそくを寝台へと横たえた。早速上着を脱いで、にのしかかる。ここまできたらもう逃げられない。は大人しく、天化のキスを受け入れた。

「ん……天化」

 天化はくちびるを離すと、にっこりと笑った。機嫌を直したらしい。

「スースもしばらく帰ってこないみたいだし、これから邪魔されずにふたりでいられるさね」
「ん? これからって、遠征じゃないの?」
「楊ゼンさんに頼んで、俺っちと、一緒のテントにしてもらったさ」
「え」

 は青ざめた。以前の遠征でなんとか回避した最悪の事態が、の知らないところで決められていた。なんということだ。彼を止められる人がいない状況なのに。
 しかも、彼は楊ゼンに「頼んで」と言ったが、おそらく「脅した」の間違いだ。楊ゼンの苦々しい表情が手に取るようにわかる。

「遠征の間も、ずっと一緒さね」
「……天化、えっちは夜だけね。ほかのみんなの邪魔になっちゃ悪いから」
「ええ!? 、それは生殺しさ」
「う……でも、朝も昼もやることはあるんだし……その傷にも、よくないよ」
「むー……仕方ないさね。がそう言うなら、夜だけにしとくさ」

 はほっと息を吐いた。これで、進軍中に腹上死の危険はなくなった。天化は不満そうだが、が精も根も尽き果てている状態で情事に及んでも、すぐに意識を失ってしまうだけなのは目に見えている。やがてあきらめたのか、天化は残念そうに息を吐いてからにキスを落とした。行為を再開するらしい。

「ん……」
……」

 やがて、彼の部屋を甘い声が支配する。限られた時間の中での行為は、激しいものになった。

***

 九ヶ月後、周軍はメンチ城を前に行軍を停止していた。周軍の軍師が、予想に反していまだ戻ってきていないのだ。
 膠着状態のまま、三ヶ月経つ。そろそろ行動を起こさなければならない頃合いだ。補給線は整っているので兵糧は心配ないが、この状態が長引けば兵士たちの士気が低下する。意を決して、楊ゼンはメンチ城の前へと進み出た。
 先行した人間の兵士たちは、張奎の宝貝で首から下を土の中に埋められてしまった。北門へと向かった張奎を追って、楊ゼンら仙道が駆け出す。

は危険だから、ここにいるさ!」

 天化はに言い残すと、自身も北門へと向かった。後には埋まった兵士たちが残された。
 は兵士たちの前に立つと、宝貝に意識を集中させた。今が使い時だ。思ったより範囲が広いが、九ヶ月も力を温存していたのだ、問題なく使えるだろう。
 呼吸と意識を大地へ合わせ、無になる。すると、大地は瞬く間に、埋まっていた兵士たちを押し上げた。

「うおぉ! なんだこりゃ!?」

 埋まっていた南宮カツが、声を上げる。そう時間をかけずに兵士たちを足首のあたりまで押し上げると、は宝貝を止めた。ここまですれば、あとは自力で脱出するだろう。

「すげぇ……これが、ちゃんの宝貝か……」

 武王が、無事に解放された兵士たちを見て、感嘆した。
 実践で宝貝を使うのは初めてだったが、夢の中で繰り返したイメトレ通りになってよかった。しかし、体にのしかかる疲労は、イメトレ以上のものを感じる。実際の肉体と夢の中ではギャップがあった。一日三回まで使えると目算を立てていたが、この調子では実践だと一日二回までにしたほうがいいかもしれない。
 が一息ついたところに、上空から桃の種がひとつ降ってきた。は足元の種を見て呆れた。こんなことをするのは、ひとりしかいない。

「望ちゃん!」
「おお、! 久しぶりだのう」

 上空を見上げると、両手に桃を抱えて四不象に乗っている太公望がいた。地上に降りた彼はに状況を確認すると、武王に下がって兵士を待機させるように指示した。それが終わると、太公望はじっとを見つめた。

「……?」
「なにをしておる。早く乗らんか」

 ぶっきらぼうにそう言うと、太公望はから顔を背けた。四不象がにこにこ笑っている。
 あんなことがあったのに、太公望はを受け入れようとしてくれるのか。許されなくても仕方ないと思っていたのに。は嬉しくなって、四不象に飛び乗った。

「御主人、素直じゃないっスねー」
「う、うるさい!」
「望ちゃん……」

 久しぶりの太公望だ。寝ている期間も含めると、約一年ぶりになる。ぎゅっと太公望の背に抱きついた。

「……、すまんかった」

 太公望が、前を見たまま言った。夢の中でを感情のままに責めたことを後悔しているらしい。は首を横に振った。彼のこれまでの苦難を思えば、責められても当然なのだ。それなのに、太公望はに歩み寄ってくれるのか。嬉しくて、心の底から安堵して、思わず涙が出そうになった。それをごまかすように彼の背中に顔を押し付けた。

「ううん、いいの。私こそ、色々黙っていてごめんなさい」
「わしはおぬしに未来のことなど聞かぬ。だからおぬしも、以前と同様にしておれ」

 が腕に力をこめると、太公望がの手に自分の手を重ねた。これで仲直りだ。

「よし! スープー、行くぞ!」
「了解っス!」

 太公望の掛け声に四不象が勢いよく上昇し、メンチ城北門へと向かう。
 は太公望のにおいとぬくもりに、自分が随分安堵しているのを感じていた。


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