二太子封神


 呂岳のウイルスから兵士たちが完全に回復した。武王と周公旦も合流し、準備は万端となった。
 北、南、東それぞれに仙道を振り分ける指示を太公望が出したところで、崑崙で修行していた紂王の二太子が黄巾力士に乗って現れた。あれから七年余り経ち、二人はすっかり成長していた。
 再会を喜び合おうとしたその時、申公豹が落とした雷光によって二太子の進路が阻まれた。申公豹は、二人の太子に選択を迫る。殷を滅ぼす手伝いをするか、太子の責任を全うするか。
 弟の殷洪は、すぐに太公望の側につくと決めた。兄もまた、太公望に協力するのかと誰もが思っていた。しかし、殷郊は申公豹の手を取った。弟の非難を受けてもなお、彼ははっきりと言った。

「僕は次の王だ! 国のために身を削る義務がある!! ──これが、僕の生まれ持った運命だから!」

 は、太公望の隣でそれを呆然と聞いていた。なにもかも――自分の死さえ覚悟して、生まれ持った役目を果たそうとしている。まだ幼さを残す顔立ちの少年が、自分の運命を信念を以って選び取ったのだ。

(運命……なんでもそんな言葉で片づけるのは好きじゃない……でも、私がここに来たのが運命だったら、私にはなにが出来るんだろう……)

 この世界に干渉できないのはわかっている。わかっていても、目の前で繰り広げられる戦いになにも出来ないことがつらい。もう大切な存在となってしまった仲間たちが血を流しているのを、文字通り見ていることしかできない。この先に、避けようのないつらい別れも待っている。それもまた、なにもできないというのか。そんなものが自分の運命とは認めたくなかった。
 殷郊は申公豹の後ろに乗り、殷へと戻ってしまった。弟の殷洪は、兄を説得しようとそれを追いかける。

「元はと言えば、わしが蒔いた種だ……ここは、わしに任せてほしい!」

 は、太公望の背中を見つめる。毅然とした態度を取っているが、傷ついている。七年前、敵になるかもしれないとわかっていて助けた。しかし、実際に目の前で敵になってしまうとなると衝撃は隠しようがない。的になってしまった以上、彼自身の手で打ち破らなければならないのだから。

「おそらく、いくら呼びかけても殷郊は帰っては来ぬだろう。ならば……」
「望ちゃん……」

 は太公望の名を呼ぶ。今のにできることは、彼のそばにいることだけだ。

***

 翌日、殷軍と周軍は移動を開始した。三日後には、いよいよ両軍がにらみ合っていた。
 太公望は崑崙まで上がり、二太子の師父からそれぞれの宝貝の設計図を受け取っていた。新しい宝貝も受け取ってきている。
 殷軍の包囲を完了し、太公望が投降を勧告する。理想的に決まった包囲に戦意をそがれた殷軍が次々と投降していき、人の戦争は決した。
 は武吉と一緒に四不象に乗って、上空から戦況を見守っていた。武吉と四不象が、戦場で人がたくさん死んでいく光景を目の当たりにし、怖いと言った。も、立ち昇ってくる血のにおいに吐き気をこらえるのが精一杯だ。

(なんて生臭い……あんなにきれいに包囲してほとんどを投降させたのに、こんなに人がたくさん死んでいるなんて……)
ちゃん、大丈夫っスか? 気分が悪いなら降りて休んでも……」
「大丈夫……ここで、望ちゃんが戦っているのを最後まで見てなくちゃいけない……」
(そんなことしか出来ない……!)

 はくちびるを強くかみ締めた。自分の無力さに、悔しくて泣きたくなった。
 そして、太公望と殷郊の戦いが始まった。強力な宝貝・番天印に、新しく杏黄旗を授かった太公望が応戦する。

「私は殷を守る! たとえ、どんな手を使ってでもっ!!」

 殷郊の悲痛な叫びが、上空ののところにまで届く。その声が聞こえるたびに、の胸が締め付けられた。

(どうして、そこまでとらわれる必要があるの……? 確かに、今はそれしかないと感じるかもしれない。でも、何ヶ月、何年、何十年と先は? また別の選択肢が出てくるかもしれないのに、どうして命を投げ打ってまで……)

 そこまで考えて、は首を振って考えるのをやめた。血のにおいで朦朧としてしまっていた。
 殷郊は、自分でも愚かなことをしているとわかっていて、それでもこの道を選んだ。心の赴くがままに。それを自分が非難してはいけないし、その資格もない。

「御主人!」

 そうこうしているうちに、太公望の利き腕が番天印によって飛ばされた。は、悲鳴を上げそうになるのをこらえた。
 やがて、弟を失った殷郊が錯乱し、誰彼構わずに番天印を刻む。太公望は一瞬の隙を突いて殷郊の懐へ入り、彼に致命傷を与えた。殷郊の魂が封神される。

「……スープー、降りてくれる? 望ちゃんの手当てしなくちゃ」
「ら、了解っス」

 地上へ降りたは、太公望の元へと駆け寄り、血を止めるように彼の左腕を押さえた。彼は、呆然と殷郊の封神を見守っていた。つらい表情など、すべてを押し込めて。

***

 その後、失血で気を失った太公望の手当てをし、はそのまま太公望に付き添っていた。太公望の顔色は悪い。失血のせいだが、心痛もあるかもしれない。が太公望とふたりきりでも、この時ばかりは天化もなにも言わなかった。
 寝台の傍らに座って太公望の白い顔を見下ろしていると、彼がゆっくりとまぶたを持ち上げた。

「……か」
「望ちゃん……」
「わしのところにおって、よいのか?」
「うん」
「……そうか」

 太公望は、寝台に身を沈めたまま天幕を見つめている。天幕の白い布を見つめながら、なにを思っているのだろう。
 は、太公望にどんな言葉をかけていいのかわからなかった。いや、そもそも言葉を望んでいるのか、ひとりにしたほうがいいのかもわからない。
 太公望は、人に己の感情を見せない。皆に対して常に平等で、分け隔てなく接する。それが上に立つものの振る舞いだと理解しているからだ。今、が下手に彼の心に入り込んでしまって、その高潔さを汚すことにならないだろうか。
 殷郊を自らの手で封神して、殷洪も戦いの中で失って、つらくないはずがないのだ。きっと、自分を責めている。この優しい人に、一体になにができる。どうして踏み込んでいける。結局なにも決断できないは、悔しくて自分に腹が立った。一番そばにいる彼に、なぜなにもできない。一体なんのためにこの世界に来たのか。その無力感に、ただひたすら悲しくて悔しかった。

「……望ちゃん、悲しいよ」

「悔しい、悔しいよ……」

 こらえきれずに、涙を落とした。それがきっかけとなり、ぽたぽたと一気に涙があふれ出る。目を閉じて、は衝動に抗わずに泣いた。
 どうして、分かり合えないのだ。殷郊も殷洪も、過酷な運命の諸悪の根源がなんであるかわかっていたのに。死んでまで守ることなど、あるのだろうか。生きていれば、分かり合えたかもしれないのに。生きていれば、ほかの道もあったかもしれないのに。にはわからなかった。

よ……殷郊は、安らかな顔をしておったぞ。悔いのない、清々しい表情であった。わしも、あれが間違いだったとは思っておらぬ」
「嘘ばっかっ……死ぬほど後悔してるくせに……!」
「そうだ、後悔している。けれど、何度考えても、あの戦いは間違ってはおらぬとの考えに行き着くのだよ。おぬしには、わからんかもしれぬのう」
「っ、ごめん、わかんない……」

 はそばにおいてあった手巾で顔を拭き、それからぐちゃぐちゃになった顔を隠した。太公望の右腕が伸びてきて、を引き寄せた。右手での頭を抱え込むような体勢になった。は太公望の胸に顔を埋め、また涙を流した。

「あのふたりの死を悲しんでやれ。戦いの中にあっては、悲しむということが忘れ去られてしまう。おぬしだけは、それを忘れるな」
「うん、うん……」
「……泣き止むまで、そばに」

 は、太公望にすがり付いて泣いた。太公望は、が泣き疲れるまでずっと抱きしめていた。


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