呂岳のウイルス


 トウ九公を軍に加えた太公望たちは、朝歌への関所のうちの、その最西端で冀州候の軍と対峙していた。武成王の話によると、冀州候・蘇護は妲己の父親。妲己のせいで肩身の狭い思いをしており、常識人であるという。説得すれば周へ帰化するかもしれないとのことだった。
 さっそく説得に行ってくると、武成王が身を翻したその時、「ちょい待ち!」という声とともに、黄巾力士が降り立った。

「天化!」
「傷は治ったのか!?」
「んー、完治じゃねえけど動けるさ」

 太公望への返答もそこそこに、天化は黄巾力士から飛び降りると、真っ先にへ飛び掛った。

! 会いたかったさー!」
「え……? ぎゃああ!?」

 飛びかかってきた天化に、はこらえきれず後ろへ押し倒された。彼自身の重みと運動エネルギーが加わったそれは、もはやタックルに近かった。が目を回している隙に、天化はに抱きつき、愛おしそうに頬ずりした。

「ほんとに久しぶりさ……会いたくて気が狂いそうだった」
「て、天化……」

 こんなことを言われると、先ほどのタックルを非難する気が失せてしまう。はしょうがない、と息を吐くと、天化の頭を撫でた。

「私も、淋しかったよ」
「……っ! 、愛してる!」
「ぐ、ぐええ……」

 天化が一層力強く抱きしめてきたところで、太公望がやたら大きな咳払いをした。はっとして辺りを見ると、太公望と四不象が呆れ顔でこちらを見ていた。そして、武成王が申し訳なさそうな顔で、武吉と天祥が嬉しそうな顔をしていた。我に返った天化は、起き上がってを助け起こした。

「親父、蘇護のとっつぁんを説得しにいくんだろ? 俺っちも行かせてくれよ」
「天祥も行く! お姉ちゃんも行くよね?」
「え、私?」

 は太公望を振り返った。ここで行ってもよいのかと、視線だけで問う。それをしっかりと察した太公望は、困ったように眉尻を下げた。天祥はしっかりとの手を握っていて離しそうにない。

「ぬう……仕方ないのう。天化、行くのは構わんが気をつけよ。敵になにかが起こっているようだ。を守るのはおぬしだぞ」
「考えすぎさスース。それと、のことは言われなくてもわかってるさ」

 太公望が頷くと、早速武成王と天化、天祥が歩き出した。
 は、天祥と並んで歩き、彼の話し相手になった。先を歩く武成王と天化が蘇護を差し向けた妲己の考えについて話し合っていて、天祥が退屈そうにしていたからだ。

お姉ちゃんは天化兄様のお嫁さんになるから、ぼくのお姉ちゃんになるんだよね!」
「ぶっ!」

 天祥の発言に、は思い切り噴出した。なんという爆弾を投下するのだろうか。子供とは恐ろしい。

「違うの? 天化兄様は、絶対お姉ちゃんと結婚する気だよ。ぼく、女の兄弟がいないから、お姉ちゃんがお嫁さんになってくれると嬉しいな」
「……そっか」

 の煮え切らない態度に、天祥は不安そうな顔をした。

「お姉ちゃん、天化兄様と結婚しないの? 兄様のこと嫌い?」
「そんなことないよ。天化のことは好きだよ」
「よかったぁ」

 あいまいにしか返事ができないのは、いずれ元の世界に帰らなければならないということだけが原因ではない。は天化の未来を知っているのだ。ここではっきりと結婚すると言い切ることができたなら、どれほどいいだろうか。
 とその時、天祥がなにかを発見した。ぐい、とも手を引っ張られていく。さすが天然道士だけあって、子供でも彼の力は強かった。

「なんだあれ!? 行ってみよ、お姉ちゃん!」
「あっ、天祥君!」

 天祥とともに、発見した物陰に行ってみると、そこにはナタク、雷震子、ナタクの兄の金タク・木タクが倒れていた。呂岳のウイルスに感染し、苦しそうにしている。

「うわあぁ!!」
「あっ、天祥君、近寄っちゃだめ!」
「ナタクお兄ちゃん、太公望のところへ運ばないと!」

 の制止を振り切り、天祥はナタクを抱えて走っていった。あっという間にその後姿が見えなくなる。天然道士のスピードに追いつけるはずもなく、は天祥の背中を見送った。
 ここでじっとしている間にもウイルスに感染してしまう。はとりあえず一番軽そうな木タクを担ぐと、自軍へ向かって歩き出した。

(お、重い……でも、ここで頑張らなくちゃ……!)

 呂岳のウイルスは宝貝製ゆえか、には効きが遅いらしい。だが、ウイルス自体は生き物なので、まったく影響がないということはないだろう。早くしないと倒れてしまう。は力を振り絞って歩いた。
 なんとか周軍の宿営地が見えるところまで来た。太公望たちが宿営地の外に出ていたのが幸いし、は思ったよりも早く発見された。先に到着していた天祥は、ナタクを運んだ後力尽きて倒れている。

!」
ちゃん、君まで……!」

 太公望と楊ゼンが駆け寄ってくるのを見て、は崩れ落ちた。体に力が入らない。太公望は、ウイルスに感染するのも構わず、を抱き上げた。

「無茶をするなと言ったであろう、ダアホめ!」
「大丈夫だよ……このウイルス、私には効きにくいみたいだから……」
「そういう問題ではない!」
「……ごめん」

 珍しく、太公望は本気で怒っている。は口を閉ざすと、素直に謝った。
 そこへ呂岳が現れた。太公望と楊ゼンの命と引き換えに、周軍を助けるかもしれない、という交渉を持ち出してきた。太公望は、土行孫に呂岳の血を入手させる作戦を立て、楊ゼンに土行孫を呼びに行かせた。
 そして、を天祥の隣へ寝かせると、自分は時間稼ぎのために、呂岳の前に立ちはだかった。
 土行孫は作戦に失敗したものの、土行孫の掘った穴から出てきた蝉玉により、呂岳の血は手に入った。楊ゼンは急いでワクチンを作り、ナタクと天祥に投与した。
 は他のものたちよりも病状の進行が遅いので、ワクチン投与は最後になった。それでいい。死なずに済む命を先に助けるのが道理だ。

(なんか、だるい……ワクチンもらったはずなのに……)

 ワクチン投与後に、頭痛と関節の痛みを覚えた。頭の中が燃えるように熱く、内部から殴られているような痛みが絶えない。どうやら、熱があるようだ。

ちゃん、体の調子はどうだいっ……って、顔真っ赤だよ!」
「楊ゼンさん……」
「すごい熱だ……とにかく、君のテントへ!」

 のテントといっても、太公望と同じテントだ。万が一に備えて、太公望が守るためだ。もちろん、陣中を布でそれぞれのスペースを区切って使っている。
 楊ゼンはをテントへ運んだ後、崑崙からワクチン精製のために降りてきていた雲中子に薬をもらいに行った。
 は、誰かがテントへ入ってくる気配を感じつつ、疲労で眠りについた。
 その後、熱のせいでうまく眠れず、夢と現実を行き来した。体内は熱を持っている割に寒気があるので、なかなか体温調節が上手くいかないのだ。浅く眠ってはすぐに目を覚まして、うなされながらまた眠ることを繰り返した。

……薬だ。飲めるか?」

 という誰かの声が聞こえた。この時は眠りのほうが強く、返事もできなかった。
 が起きられずにいると、柔らかい感触がくちびるに触れた。湿ったもので口を開かされ、水とともに丸薬を押し込まれた。湿ったものが奥へ丸薬を追いやり、が思わずそれを嚥下すると、口の中のものが出ていった。少しの間を置いて、再び柔らかいなにかがくちびるに触れ、三回に分けて少しずつ水を流し込まれた。



 が眠ったのを見届けてからテントから出る。出てすぐ傍らに楊ゼンが立っていた。楊ゼンは意味深な微笑を浮かべてこちらを見てきた。おそらく真っ赤になっている顔を見られたのが癪で、楊ゼンを睨みつけた。

「……今のは、天化君には黙っておいてあげます」
「…………」
「貸しですよ」
「…………」
ちゃんのくちびる、柔らかかったですか?」
「うるさい!」

***

 が目を覚ますと、天化が顔を覗き込んでいた。その顔は、心配そうな表情をしていた。

、起きたさ?」
「てんか……?」
「そうさ」

 天化はの額に手を当てて熱を測った。あれから何時間経ったのかわからないが、体は大分楽になっている。さすが仙人の薬、効き目は抜群だ。

「うん、もう熱は下がったみたいさね。起きれるか?」
「うん……」
「蘇護のとっつぁんを助けたと思ったら、が熱出してるって聞いてびっくりしたさ。生きた心地がしなかった」

 体を起こしたの顔をそっと撫でた天化は、心底安心したような表情だ。

「ごめん、心配かけて。ねえ、あれからどれぐらい経った? 今、夜なの?」
「ん。もう兵士たちは眠ってる」
「望ちゃんは無事? 他のみんなは?」
「スースはぴんぴんしてるさ。俺っちと入れ替わりで、さっきここを出て行った。他のみんなも、薬もらって元気になったって」
「そう……」

 がほっとして頷くと、天化は「他のみんなに知らせてくる」と言ってテントを出て行った。
 その後、楊ゼンや蝉玉、天祥など仲間たちが続々と見舞いにやってきた。太公望はというと、仲間たちの訪問の最後に来た。倒れる前の様子から絶対怒られると思っていたが、テントに入ってきた太公望は無表情だった。無表情が一番怖い。なにを考えているかわからない。
 とりあえず、謝るしかない。あの状況ではああする以外選択肢がなかったのだが、確かに無茶だった。

「望ちゃん……その、心配かけて、ごめんなさい」

 の言葉を聞いて、太公望は無言でを抱きしめた。突然の行動に、はびっくりして固まった。一体どうしたというんだろう。怒っているんじゃないのか。それとも、本当に自分はヤバいことになっていたのか。
 太公望の胸に額をくっつけながらあれこれと考えていたが、彼はを抱きしめたまま動かない。も恐る恐る太公望の背に腕を回すと、腕の力が強まった。こうして抱き合っていると、なぜだかひどく安心した。

「……おぬしが、無事で良かった……」

 太公望が、にだけ聞こえるような声でつぶやいた。心配がにじんだ声を聞いて、胸が詰まった。この優しい人に、こんなに心配をかけてしまったなんて。は返事もできずに、ただ太公望を抱きしめる手に力をこめた。

(ごめん……望ちゃん、ごめんなさい……)

  ちょうど、のテントに戻ってきた天化が、それを面白くなさそうに見ていた。


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