月夜の告白
ある夜、
はひとり、食堂で酒を飲んでいた。長机に頬杖をついて、窓から見える月を眺めていた。夜も更けており、食堂にはほかに誰もいない。明かりもすでに消されている。月明りだけで十分なほど、空は晴れていた。
以前は太公望と飲むこともあったが、最近その機会は少ない。今日は彼を誘って飲もうかと思ったが、太公望は最近の真面目な仕事ぶりがたたり、早々に寝付いてしまった。さすがに起こすのは忍びない。
酒の強さで言えば、
は強くもなく弱くもなく普通だった。自分のペースをわきまえて飲むたちなので、酔いつぶれることはほとんどなかった。
今飲んでいるのは紹興酒のような黄酒だ。詳しい名前まではわからないが、元の世界で以前飲んだことがある紹興酒に似た味だ。
もうひとつ、白酒という酒もある。だが、蒸留酒である白酒は高価で、西岐城であっても、めでたい席や公の場でしか出されない酒だ。
はどちらかというと白酒のほうが好きだった。酒の感じが、少し焼酎に似ていて飲みやすいのだ。しかし高価ゆえに滅多にお目にかかれないので、飲むとなったらもっぱら黄酒のほうだった。
黄酒もコクがあっておいしいことはおいしいのだが、においが少々強い。今はお湯で割って飲んでいる。つまみはない。あたりめとかササミジャーキー的なものがあれば言うことはないのだが、そんなものがあるはずもなかった。というか、厨房を勝手に漁ったらいくらなんでも怒られる。
頬杖をついているのも腕が疲れたので、卓に突っ伏す。こんな振る舞い、みんながいる前でははしたないのでしない。今は誰の目も気にせずに行儀悪いことができる。ふう、と息を吐くと、酒臭かった。
心地よい酩酊感のままにぼんやりしていると、食堂の扉が開かれた。身を起こして扉を開けた人物を見ると、天化だった。きょろきょろと食堂を見回していた彼は、
と目が合うとそのまま
のほうへとやってきた。
「
、こんなところにいたさ」
「どうしたの?」
「
が部屋にいなかったから、少し探してた。まさかひとりで飲んでるとは思わなかったけど」
「天化も飲む?」
「おう」
天化は自分の分の杯を持ってくると、
の隣に座った。長椅子が、天化の重みで少し軋んだ。天化の杯に酒を注ぎながら、
は天化に訊いた。
「探してたって、私に用だった?」
「んー……いや、月が綺麗だから、夜の散策でもと思っただけさ」
「そっか」
は再び月を見上げた。窓の範囲で切り取られた夜空の中、丸い月が光を放っている。この世界は星の光も強く、月が出ていない夜でも晴れていれば星の光で明るい。今日は月が輝いている分、星の光は弱く感じられた。
「ほんと、綺麗だね」
「……ああ」
その時の天化の目線は月ではなく
の方へと注がれていたが、月を見ていた
はそのことに気付かなかった。
は髪を解いていて、寝間着に上衣を羽織っただけのしどけない姿だった。酔いのせいか、目尻が少し垂れ下がっていてほんのりと紅潮している。
「……
は、恋人とか、好きな人はいないさ?」
天化がおもむろに発した問いに、
は驚いて天化を振り返った。天化は少しだけ、
のほうへ距離をつめていた。
「急にどうしたの?」
「いや……ただ、元の世界にそういうのはいたんかなーって思って」
「んー、まぁ、こっちだととっくに結婚してる歳だもんね……」
はぐい、と杯をあおいで中を空にすると、息を吐いた。酒臭い。
「恋人なんて全然いないよ。前にいたこともあったけど、ほんとにずーっと前。どんな男だったか、もう覚えてないくらい」
「へぇ……」
「恋人なんていたら、この世界に来た時もっと混乱してただろうし、今もこんなに冷静でいられなかったかも。だから、いなくて正解だったかな」
「じゃあ、好きな人は?」
酔った様子もなく聞いてくる天化に、
はちらりと視線を投げた。今日は随分と食いついてくる。
「好きな人って、恋してたかってこと?」
「まぁ、そうさね」
「恋ねぇ……」
は頬杖をついて、元の世界にいた頃を思い出す。あの頃は、恋をする余裕なんてなかった気がする。毎日会社へ行って帰ってきたら、それで一日経つのが早かった。
「恋する気力なんて、なかったかな。恋っていいものだけど、すごく体力がいるから」
「体力?」
「だって、一日中相手のこと考えて、相手のことを少しでも知って、相手の挙動に一喜一憂して、好きになってもらいたいから頑張って可愛くして……そういうの、もう疲れちゃった」
天化は押し黙ってしまった。
はそのことに気がついていたが、話し続けた。今日は酔っていて饒舌になっているのだ。
「元の世界に戻ると、親に心配かけたくないからいずれ結婚しなくちゃいけなくなるんだろうけど、でも恋愛は疲れるし、お見合い結婚も嫌だしなあ……いっそのこと、この世界にいたほうが楽なのかもね」
「……この世界では、恋愛しない?」
「……そりゃ、」
(だって、いずれは元の世界に帰るんだよ)
そう思うと、恋人など作る気になれない。作ったら作ったで、元の世界を捨ててこの世界で生きるという選択肢も発生するが、そんな選択が出来るほど情熱を持てるだろうか。もちろん、一度恋に落ちてしまえば、疲れるなどと言わずに熱を傾けるのだろうが。
「
……俺っちの気持ち、気付いててそんなこと言ってる?」
天化が、隣で小さくつぶやいた。切なげに、苦しげな声で。
が天化に向き直る間もなく、抱き寄せられた。
「もう、気付いてるっしょ」
「……まぁ、そりゃあね。みんなあんな感じだったし」
太公望をはじめとする周りの仲間たちは、あからさまに
と天化をくっつけようとしていた。天化自身、はっきりと言葉にはしないものの、わかりやすい態度であった。言葉も態度もストレートすぎるのだ、気づかないほうがおかしい。
「俺っち、
とこういうこと、したいさ」
と言って、天化は
のうなじにくちびるを落とした。軽い感触だったが、くちびるは熱かった。
は予想していなかった天化の行動に動揺した。体に回された腕が、より一層強く
を抱き寄せる。
急にこんな雰囲気になるなんて。少しくらいは予想していたが、展開が早すぎないか。恋愛から遠ざかっていた女には心臓に悪すぎた。バクバクと忙しなく動く心臓をごまかすように口を開く。
「……私とえっちしたいってこと?」
「なんでそうなるんだよ」
ひどすぎる発言をしてしまった。もう全然動揺を隠しきれてない。案の定、天化は至極心外という顔をした。
「あんたが好き、って言ってるの、わかんない?」
「……!」
「そりゃ、確かにそれもしたいのは否定しねえけど。でも、そうじゃなくてさ。俺っちは、あんたの心が一番欲しい」
「て、天化……」
ストレートな物言いに、
は酔いのせいではなく赤面した。身をよじって天化から逃げようとするが、力が強く、逃げられない。逆に、ますます力を込められてしまった。
天化は切なげに
を見つめてくる。視線だけで焦げ付いてしまいそうだ。目を逸らそうとしても、天化は
の頬に手を当てて、それを許さなかった。
「……ダメ? 俺っちに想われるの、嫌?」
「……嫌、じゃない、けど」
「こういうことされるのは、嫌? 迷惑? 俺っちのこと、男として見れない?」
「……そういうわけじゃ、ない」
「じゃあ、俺っちの恋人になってくれよ」
天化の息が
の頬にかかるほど、距離が近くなった。天化の腕や胸が、触れているところが熱い。その熱に溶かされてしまいそうで、
の胸も熱くなってくる。
「今すぐ好きにならなくてもいいから。付き合っているうちに、俺っちのこと好きになって。絶対、後悔させねえから、だから、
……」
どきどきと、胸が早鐘を打っている。それが天化のものなのか、
のものなのか、もうわからない。こちらまで溶けてしまいそうな天化の熱い瞳から逃れることもできない。もうすでに、天化を男として意識している。
混乱しかかっている頭でわかることは、告白をされて嫌な気持ちにはならなかったことだけだった。
天化の告白は予想できたことだ。迷惑に思ったなら、彼の気持ちを摘むことだって出来た。向けられる恋情を摘み取らなかったのは、なぜなんだろう。
が自分でも気づかないまま、無意識に天化の気持ちを受け入れていたということなのだろうか。天化への気持ちがよくわからなかった。ただ、天化のことは嫌いではないし、彼と一緒にいるのは楽しいし好きだということだけがはっきりとしていた。
「…………いいよ」
長い沈黙の後、
は天化を受け入れた。この選択が正しいのかそうでないのかはわからない。ただ、彼の気持ちに応えたいと思ったのだ。ほかに好きな男もいない身で、ここまで言ってくれる男を袖にできようか。
「本当に? 本当に、俺っちの恋人になってくれるんさ?」
「あの、まずは友達以上恋人未満からでお願いします」
「やっぱナシ、っていうのはダメだかんな」
「言わないよ、そんなこと」
そのやり取りの後、天化は嬉しそうに破顔した。すぐに力いっぱい
を抱きしめてきた。さすがに少し苦しかったが、なにも言わなかった。
「すげぇ嬉しい……
、
!」
「て、天化……」
「嬉しくて、どうにかなりそうさ」
は心地よい圧迫感の中、天化の背に手を回した。広くて、たくましい背中だ。しばらく天化は
の肩に顔を埋めて、嬉しさをかみ締めていた。やがて力を緩め、天化は
に顔を近づけた。
「キス、していい?」
先ほど
が友達以上恋人未満からと言ったのを聞いていたのだろうか。でもまぁいいか、と頷くと、直後に天化のくちびるが
のそれと合わさった。
一瞬そっと触れ合った後に離れて、また合わさった。今度は長く、天化は
のくちびるを吸った。
「ん……」
久しぶりにするキスだった。
が思わず吐息交じりの声を漏らすと、天化がぐっと体重を乗せてきた。押し倒されそうになり、
はあわてて天化の体を押し返した。
「んん! これ以上はだめ!」
「ご、ごめん。正気を失ってたさ……」
天化が離れた口を手で覆った。さすがに若い。気分が乗りやすいというかなんというか。
は少し乱れた髪を直すと、そろそろと立ち上がった。
「もう部屋に戻るね」
「ん、ああ。送っていくさ」
酒盛りの片づけをした後、
の部屋へとふたり並んで歩き出した。手をつなごうかと、
が天化の手に触れると、その腕は
の肩へと回された。
(これは……天化、手が早そう……)
部屋について、別れ際にまたキスをされた。今度は、くちびるはすぐに離れていった。
「おやすみ、天化」
「ん、おやすみ。でも俺っち、嬉しくて眠れねぇかも」
「もう、なに言ってるんだか」
「本当さ」
笑い合って別れると、
は扉を閉めた。寝台へ飛び込んで布団へもぐりこむ。どきどきと動悸をうつ胸は、まだ収まりそうにない。
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