天化とデート


 聞仲との攻防の三日後、太公望がやっと目を覚ました。四不象と武吉の荒っぽい喜びの表現を受けつつ、太公望は西岐城に残してきたのことを尋ねた。

「スープーよ、はどうしている?」
ちゃんは大丈夫っス! ボクらが戻ってきた時には目覚めてたっスよ!」
「そうか……今、どこにいる?」
「お師匠様の隣にいますよ!」
「隣?」

 武吉に言われて隣を見ると、が椅子に座ったまま、太公望の寝台にうずくまるように寝ていた。太公望に付き添って、そのまま眠ってしまったようだ。

ちゃん、ずっと御主人のそばについてたっスよ」

 それを聞いて、太公望は少しくすぐったいような気持ちになった。心配をかけてすまないと思うと同時に、ここまでしてくれたことに嬉しく思った。の顔にかかった髪をそっと払うと、彼女は少し身じろぎして、髪の間から寝顔を覗かせた。それを見て、なぜだかひどく安心した。が眠りっぱなしだったころの不安感とは大違いだった。
 が目覚めるのを待ってから、連れてきた黄一族や姫昌たちと話し合い、太公望は西岐軍の軍師に就任した。の紹介もここで済ませた。他言無用と念を押してから、が異世界から来たということも明かした。

***

 それから数ヶ月後、太公望は武成王や姫昌の次男・姫発、武吉とともに、百人の兵を率いて北伯のもとへと向かった。朝歌進軍の際に背後を取られぬよう、味方に引き込んでおく必要があるのだ。
 はというと、今回も留守番だ。今回戦闘をするつもりはないが、必ずしも戦闘に及ぶ可能性がないとは言い切れないためだ。兵士の中に紅一点という状況もよろしくない。男装はある程度近寄ってしまえば女だと気づかれてしまう程度のものだ。女だとばれてしまったら兵士が浮き足立ってしまう。

「大人しくしているのだぞ。一人で街などに出かけてはならんからな」
「もう、わかってるってば、子供じゃないんだから。そんなに心配しないでよ」

 出掛けに、太公望とこんなやり取りがあった。彼は元々の保護者ではあるが、ここにきて娘というより孫に接するような物言いである。
 この数ヶ月、は軍師となった太公望の補佐をして過ごしていた。主にすることといえば、太公望の決裁や返答が必要な竹簡や書類と報告のみのものを区別したり、決裁期限ごとに仕分けして期限の管理、報告書や調査書のファイリング、姫昌や周公旦とのおつかい役、お茶くみなどだ。文字も書けるので、決裁が大量に必要な時は太公望の代筆もした。太公望の手が空くと周公旦や武成王の手伝いに回った。そういった手伝いを始めてからは休みなく働いた。
 今回の太公望の遠征中は、周公旦の手伝いをして過ごした。もちろん彼には有能な部下もたくさんいたが、太公望と武成王が抜けた穴は大きく、雑務は山のようにあった。
 周公旦のところで手伝いを始めてから一週間。はなんとなく、彼のもとへ行くことが少し憂鬱になっていた。周公旦が嫌なのではない。彼の部下たちが、が手伝いに来ることを快く思っていないのだ。
 この時代は基本的に男尊女卑というか、女性が政治的な部分に関わるのを良しとしない。女性は家事をするなり農耕をするなり、粛々と男性に尽くすのが美徳とされた。こうやってがしゃしゃり出てくるのを、事情を知らない彼らが快く受け入れるはずがないのだ。表立ってなにかを言われたことはないが、女になにがわかるという態度がそこここで感じられた。特に重要な仕事をしているわけではないが、それでも居心地は悪かった。
 もちろん、周公旦はの事情を知っているので、あからさまにそんな態度を取ったりしない。しかしそれでも、に詳しい政情を聞かせたりはしない。が太公望の娘という立場なので、守らなければならないという意識のほうが強いのかもしれない。
 これでもは社会経験がある。反りの合わない相手とだって仕事をしたし、嫌味を言ってくる相手とも仕事をした。今更こんなことで投げ出したりしないけれど、憂鬱になるのはどうしようもない。
 太公望のそばがいかに居心地が良いか思い知った。仙道は能力に男も女も関係ないので、性差に関する意識は薄い。
 食堂でひとりため息をついていると、いつの間にか天化が隣に座っていた。ぼうっとしているの顔を覗き込んできた。その口元には相変わらずタバコがある。

「おはようさん。朝からなにため息ついてるんさ」
「おはよう、天化君。いや、社会人はつらいなぁと思って」
「ため息ついてたら余計に幸せが逃げるかんね」
「わかってても出るもんは出るんだよ……」

 一度憂鬱な気持ちを吐き出してしまったら、途端に心が重くなってきた。こんなこと、天化に言ってもしょうがないのに。無意識のうちにまたひとつため息が出た。
 天化は煙を吐くと、なにかを思いついたように顔を上げた。

、俺っちと街へ出かけねぇ?」
「え?」
「あんたにはちょっと気晴らしが必要さ。西岐の街、行ったことないだろ?」
「うん、ないけど……」
「なら、決まりさね。早速周公旦に休みをもらうさ!」
「えっ、ええっ、ちょっと!」

 天化はの手を取って立ち上がると、周公旦の部屋に向かって歩き出した。周公旦がの上司というわけではなく、休みも特に決まっていない。が来なくても周公旦は困らないだろうが、彼に休みをもらいに行くのも少し変な話だ。
 突然のことで戸惑っているに、天化は振り返って屈託ない笑みを向けた。

「俺っち、あんたのこともっと知りたいさ」

***

 周公旦にを一日休ませる許可を取り、天化とは街へ出た。周公旦は、最初こそその申し出に戸惑っていたが、休みを取らせること自体には快く応じてくれた。これから週に一日は休みをくれるらしい。
 は例によっていつもの男装している。天化がついているので危険なことなどなにもないと思うが、万が一のためである。

「どっか行きたいとこある?」
「天化君は街に詳しいの?」
「何回か来たことあるさ。ていうか」

 天化は振り返って不満げにを半目で見つめた。

「その、天化君ていうのやめてくんねぇか? 年下扱いされてるみたいでなんとなく嫌なんだよ」
「年下扱い……ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど」
と俺っち、そんなに歳離れてねぇだろ?」
「……いやいや、ひと回り以上離れてるんですよこれが。君ってまだ十代でしょ?」

 歳に関しては明かしたくなかったが、ここで隠しておいてもあまり意味はない。明確な年齢までは言及しないものの、案の定、天化はびっくりして目を真ん丸にしていた。タバコを取り落としそうになって、彼は慌ててそれをつかんでいた。

「ひ、ひと回り以上!?」
「だって、私がこの世界に来たの、二十代後半のときだもん。あれからもう七年以上経ってるから……」
(もう三十路過ぎなんだよねぇ……)

 声にする寸前で口を閉じ、心の中でつぶやいて自分で悲しくなった。この世界で肉体的な歳は取らないとはいえ、時の流れの早さにしみじみする。
 天化は、ばつが悪そうに後ろ頭を掻いた。女性に年齢を聞くことの無謀さを、身をもって知ったようだ。

「てっきり二十歳ぐらいかと思ってたさ」
「いや、うん、お世辞でも嬉しいよ。まぁ、来た時から歳を取ってないんだけどね」
「ふうん?」
「現に、髪も爪も伸びないからね」

 天化は、の顔をじっと見つめた。
 肌は白く、髪も艶があって綺麗だ。二十代後半に見えないのはお世辞でもなんでもない。ただ、言葉遣いや所作が落ち着いていて大人という感じがする。ふとした仕草は女性らしくあったり、どこか品がある。年齢的にこう言っては失礼にあたるかもしれないが、可愛らしいとさえ天化は思う。こうして男装していても、立ち振る舞いに女性らしさが出ている。

「俺っち、お世辞は言ってねぇよ」
「……ありがとう」

 天化の言葉に、にしては珍しく赤面した。言葉がストレートな上に、天化は嘘をつくタイプではないから本当のことを言っているとわかるのだ。

「えっと、話が逸れたね。君つけなくてもいいってことは、呼び捨てで呼んでいいの?」
「ああ。呼び捨てのほうが慣れてるさ」
「じゃあ、天化」
「……おう」

 改めて名で呼ばれ、天化はどきりとした。家族や他の仲間たちに呼ばれるのとは、なにかが違った。

「じゃあ、改めて」

 天化が手を差し出すと、は恐る恐るといった様子でその手を取った。天化はまたどきりとした。小さい手が触れた瞬間、自分の左手の感覚だけがやけに鋭くなったような気がした。まるで、左手の感覚だけ切り離されてしまったかのような。の体温に、左手の神経が集中する。
 一方は、さすがに年の功なのか、これくらいで動揺したりしなかった。

「ど、どこ行く?」
「そうだなぁ……とりあえず、案内してもらっていい? 途中で行きたいお店があったら言うね」
「了解」

 天化はの手を引いて歩き出した。知らず、自分が笑顔になっていたことを彼は知らない。


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