真夜中の邂逅


 九竜島の四聖と戦った翌日、黄天化は夜明け前に目が覚めた。一日中寝ていたので、変な時間に起きてしまった。
 休んでいた分体調はだいぶ回復した。明日にでも修行を再開できそうなほどだ。
 彼以外にも、今日は楊ゼンやナタクも起き上がり、体を動かしていた。天化の父親、武成王はもう鍛錬に出ていた。我が父親ながら、なんという頑健さだと感心する。

「……のど、渇いたさ」

 誰ともなくつぶやいて、寝台から体を起こした。他にこの部屋にいる者は皆寝静まっている。物音を立てないよう、そっと部屋を出た。
 明日にでも自分の部屋が与えられるようだ。黄一族はなるべく固められて部屋を与えられているようなので、もしかしたら自分もその一帯に入るのかもしれない。それもいい。つかの間、父親や兄弟、黄一族のみんなと過ごすのも、まだ崑崙へのぼる前を思い出して安らげるものだ。小さい末弟の世話を見るのも悪くない。
 歩きながら、タバコに火をつける。くわえてから、なにもこんなときに吸わなくても、と自分で思った。習慣とは怖いものだ。

(……思い付きで出てきたはいいけど、ここどこ)

 迷ってしまった。というか、迷って当然だ。この城に来てからまだ二日、それもほとんど寝台の上で過ごしていたのだ。広い城の内部がわかるはずもない。昨夜と同じで月が明るいのがまだ幸いだった。真っ暗な中だと、元いた部屋に戻れるかどうかも怪しい。とりあえず明るいところを目指して外の廻廊へ出ると、月の美しい姿が空に浮かんでいた。
 明るいところに出たはいいものの、外の廻廊も全然見覚えがなかった。こんなことなら、大人しく武吉が部屋に戻ってくるのを待っていればよかった。彼に頼んで水を持ってきてもらったほうが早かったはずだ。大人しく、部屋まで引き返そうかと思った時だった。廻廊に誰かいる。
 服装や体つきから察するに、若い女性だ。女性はぼんやりと月を眺めていた。女性がこんな時間に部屋の外をうろつくなど危険ではないか。天化は注意でもしようかと、女性に近づいた。
 近づくにつれ、月光に照らされた横顔が見知ったものであることがわかった。

(確か……、っていったか)

 最初に見たときに着ていた男装ではなく髪も解いていたので、近づかなければわからなかった。

「あんた、こんな時間に危ないさ」

 言いながら、さらに歩み寄った。彼女の月に照らされた顔がよくわかる距離まで。
 は天化に気付いていなかったらしく、声をかけられてびくりと肩を震わせた。振り向いて声の主が天化と認めると、ほっとしたように肩の力を抜いた。

「び、びっくりした……えっと、」
「俺っちは黄天化。あんたは、でいい?」
「うん、そうだよ。もう怪我はいいの?」
「ああ。もうどうってことないさ」
「そっか。まあ、タバコ吸ってるし、もう元気そうだね」
「あ、タバコ嫌いだった?」
「いや、嫌いってわけじゃないよ」

 はそう言って、また月を眺めた。瞳は月の丸い姿を映している。青白い光に照らされた彼女の頬は白く、女性特有の曲線を描いている。怪我人の看病で奔走していたらしく、少し下まぶたに隈が出来ている。

「もしかして、今まで看病してた?」
「ん? うん、まぁそんなとこ」
「スースのとこ?」
「うん。ちょっと前に少し寝たほうがいいってスープーが代わってくれたけど、全然眠れなくて」
「スースが心配で?」
「うーん……そりゃあ心配もあるけど」

 は少しまぶしそうに目を細める。天化もそれにつられて月を見上げた。満月に近い月は、さえぎるものがない天で、まばゆい光を放っている。

「月が、明るくて」

 昨日の楊ゼンの話では、は異世界の人間らしい。もしかすると、月を見て元の世界のことでも思っていたのだろうか。この光の中で、一人。

「こうやって、一人で月に照らされた景色を見てると、変な感じなんだ。非現実的で、箱庭みたいで……作り物のの世界のような気がして」
「……でも、今はもう一人じゃなくなっただろ?」
「……そうだね」

 天化がそう言っても、は視線を天化には合わせなかった。の瞳に映っているのは、光り輝く月。その光景が綺麗で、天化はしばしそれを見つめていた。
 作り物の世界。彼女はやはり、元の世界のことを思っていたのだろう。西岐城の中庭は人の手入れが行き届いている。月の光を浴びて、中庭が暗闇から青白く浮かび上がっている光景は、確かに少し現実感がない。箱庭という例えは言い得て妙かもしれない。

「もう、戻るね」

 いつの間にか、は月から視線を外して天化のほうを見ていた。天化は虚をつかれて、言葉がすぐに出てこなかった。

「あ、ああ」
「天化君も、もう休んだほうがいいよ。おやすみなさい」

 は服の裾をなびかせて部屋へと戻っていった。とっさのことで、天化はらしくもなく呆然としていた。いまひとつ現実感がない出来事だった。強すぎる月の光と、この光景のせいだろうか。

「……君付けかい」

 後に残された天化がつぶやいた。しばらくくわえたままだったタバコの灰が、天化の足元に舞った。
 月が明るいと言った彼女の顔が、頭から離れない。

***

 翌日、天化は回復した楊ゼンにのことを尋ねた。「負けた」と一定の間隔でつぶやいていた楊ゼンは、のことを話すと言っていたことを思い出したのか、天化に向き直った。

「前にも言ったけど、彼女は太公望師叔が七年前に保護した子だよ。妲己に異世界から連れてこられて、帰る方法を探すために師叔と一緒にいるんだ」
「そんなに前からスースと旅してるんさ?」
「うん。七年前に彼女に会ったことがあるんだけど、あの時からまるで変わらないな。西岐城ではなぜか師叔の養女ってことになっているみたいだけど……。ああ、それと、彼女には宝貝が効かないんだ」
「はあ?」
「この世界に来た時に、妲己に正体不明の宝貝を飲まされたんだって。その宝貝の影響で、他の宝貝を無効化するみたいだ。雲中子様や太乙真人様が調べているけど、詳しいことはわかってない……って、天化君。こういうのは本人から直接聞けばいいじゃないか」

 のことをかなりしゃべった後で、楊ゼンは天化をたしなめるように言った。天化は、後ろ頭をがしがしと掻くと、ため息をついた。

「そうしようと思ったんだけど、今はできないさ。はスースにつきっきりだし」
「ああ、そうだった」
「他に知ってることは?」
「うーん……僕も、会ったのは数回だからね。あとは本人に聞くか、師叔に聞いたほうがいいよ」
「スースねぇ……」

 ちら、と太公望の部屋のほうを見やる。は今も、眠ったままの太公望のそばにいるはずだ。命に別状はないとわかっていても、ずっと一緒に旅してきた家族同然の人を心配せずにはいられないのだろう。家族同然か、またはそれ以上か。
 楊ゼンはそんな天化の様子を見ていたが、やがて静かに笑い出した。

「なに笑ってるさ」
「いや、別になにも。そうそう、今度街にでも誘ってみたら? ちゃんは甘いものが大好物なんだよ」
「なっ……なに言ってるさ。そんなんじゃないっての」

 天化は楊ゼンに短く礼を言うと、その場を離れた。どうもからかわれている気がして、居心地が悪かったのだ。
 別に、そんなんじゃない。の事が知りたかっただけなのだ。


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