太公望と野宿
結局、太乙は
の血液を少し抜き取って崑崙山へと帰っていった。おそらく、生態科学に詳しい雲中子に調べてもらうのだろう。
(なにかわかればいいけど……でもあの宝貝、老子も知らなかったぐらいだし……新しく妲己が作ったのかな)
あれから一週間経つが、なんの音沙汰もない。そういった科学分野に詳しくないからよくわからないが、解析にどれくらい時間がかかるのだろう。一週間という時間が解析にかかる時間として長いのか短いのかもわからない。はぁ、と思わずため息をつくと、近くを通りすがった代書屋の奥さんが
に話しかけてきた。
「
ちゃん、ため息なんてつくと、幸せが逃げるよ」
「あ、ははは、そうですね」
笑ってごまかして
は仕事に戻った。
ここは臨潼関付近の村。
が今いるのは代書屋である。
は旅費を稼ぐためにここで臨時のアルバイトをしていた。太公望も占いをしているが、占いはいかんせん客足が一定ではない。しかも当たると評判が立たないと稼げないものである。つまり、収入が安定していないのだ。
そこで、
がなにか手伝えることがあればと思い、飯店などでバイトをしようと太公望に相談した。しかし、太公望はすぐに反対した。
「客を取らされるかもしれぬ」
飯店とは、食堂つきの宿屋のようなものだ。もちろん普通は女郎などいないものだが、こぎれいな若い女は珍しいので、だまされてそのような扱いを受けるかもしれない、だそうだ。
「うーん……でも、ほかに出来ることといったら読み書きくらいなんだけど」
「なに!? おぬし、文字が書けるのか!」
ということで、代書屋だ。もちろん旅費が貯まるまでの期間限定だ。なかなか時給がいい。一転して
は稼ぎ頭に出世したのだった。
筆など持ったのはいつ以来だったか、字の汚さに不安はあったが、そこは異世界補正があるらしく、それなりの字に見えるようだ。
代書屋の仕事は忙しい。役人からの下請けや、手紙の代筆、履歴書のようなものの代筆など、依頼は様々である。
「よう、代書屋! 今日も、
ちゃんはいるのかい?」
「来たのか。いるよ」
代書屋馴染みの商人がやってきた。墨や竹簡など、代書屋に必要な資材を売りにくるのだ。軽いノリの商人の声に代書屋の主人が奥から顔を出し、呆れながら資材を確認している。
「こんにちは、商人さん」
「こんにちは、
ちゃん。今日も可愛いねぇ」
は苦笑いであいまいに返事をした。自分では十人並みの顔だという自覚がある。ただ、元の世界とこの世界との美容事情の差が、この商人のような反応を生み出しているのだと思っている。ほとんど日焼けのない白い肌、手入れされ艶のある髪、野良仕事を知らず荒れのない指先などがそうだ。
「うちの息子の嫁にでも来てくれればいいのになぁ」
「はっはっは、
ちゃんがあんたのとこのボンクラ息子にかい。つり合わないからやめときな!」
「そうさねぇ。
ちゃんなら、西伯候の側室も目じゃない」
は思わず動きを止めた。西伯候とは姫昌のことで、これから太公望と深く関わることになる人物だ。
(でも、確か私と同じくらいの歳の子供がいるんじゃなかったっけ)
高貴な人に召抱えられるのは光栄だが、さすがにそこまで歳が離れていると、色々思うところがある。
「お、そうだそうだ。その西伯候なんだが、皇后にとっつかまったらしいぞ」
商人の発言に、その場にいた全員が声を上げた。
「ええっ!?」
「なんでも、朝歌での宴に四大諸侯が招待されたらしく、そこで捕まったみたいなんだよ。さらに、南伯、東伯候は殺されちまったとよ……」
「なんてこったい……姫昌様が……」
「どうなるんだ、この国は……」
(それって、酒池肉林の……)
商人はあらかた噂話をし終わると帰ったが、それっきり代書屋は暗くなってしまった。
日が傾き始めると業務は終わりだ。明かりとなる灯明は高価だし、ろうそくは高級品である。そういったものを使わないように、日が落ちるとともに仕事も終わりだ。
「
ちゃん、また来てね。あんたならいつでも歓迎だよ」
は、この日が最後のバイトだった。なんとか二人分の旅費が貯まったのだ。できれば野宿しないで済むまで旅費を貯めたかったが、贅沢は言えない。
(望ちゃん、私が女でもあんまりそういうの気にしてないもんなぁ)
太公望は異性に興味がないにも程がある、と
は思う。基本的には優しいのだが、性差を気にしたようなそぶりがまるでないのである。しかし、そのおかげで二人旅でも気を遣いすぎることがないのだから、助かっていると言えばそうなのだが。
「望ちゃん、スープー、ただいま」
「おお、
」
「お帰りなさいっス!」
太公望との野宿先に戻ってきた。太公望は焚き火を小枝でつついている。四不象は草を食んでいた。
「今日までご苦労だったのう」
「ううん。今日は最後だから、いっぱいもらっちゃったよ」
給料以外にも、桃や杏などの果物、手巾のような日用品ももらってしまった。短い期間だが真面目に働いてよかったと
は思いながら、太公望に桃を渡した。だが、太公望は
の手を押しとどめると、自分の隣に座らせた。
「
、働き者のおぬしにこれをやろう」
そう言って、太公望は「丼村屋」と書いてある紙袋を
に手渡した。中身を見て
は顔を輝かせた。
「あんまんだぁ」
「これはわしからのご褒美だ。おぬし、甘いものが好きであろう」
「え、いいの?」
「だあほ。わしだってそれくらい稼いでおるわ」
「そっか。ありがとう、望ちゃん」
太公望は満足そうに頷いた。早速ひとつ頬張る。餡のあっさりとした甘みが口の中に広がる。
「おいしい……」
至福のときとはまさにこのことだ。甘いものは万人に幸せをもたらすと
は信じている。野宿生活では滅多にお目にかかれない嗜好品を、噛みしめるようにして味わった。
「あれ、私が甘いもの好きだって言ったことあったっけ」
が素朴な疑問を口にすると、太公望は半目を返してきた。
「おぬし、この間これで、楊ゼンに餌付けされておったではないか。わしはちゃんと見ておったぞ」
げっ、と思わず声を出してしまった。
ナタクの騒動の後、楊ゼンが太公望をテストしに来たときの話だ。楊ゼンは太公望の後をずっとつけていたので、
の事も当然知っていた。
餌付けというのは、太公望が朝歌からの難民の件で臨潼関へ行っていたときの出来事だ。
は楊ゼンとともに難民のところに残っていた。
「
ちゃん、おなか減ってない?」
「え? と、突然なんです?」
「隠さなくてもいいよ。君がいつもおなかを減らしているの、僕は知っているから。甘いものは好き?」
「う、うん、好き」
「はい、これあげる」
「わっ、あんまんだー! 楊ゼンさん大好き!」
――ということがあった。まさか、あんなに離れた臨潼関から見ていたとは。意外と目聡い……というか、周りをよく見ているのか。
「よいか。あまり初対面の男に大好きなどと言うものではないぞ」
「う……で、でも楊ゼンさんは仙道だから」
「相手が仙道でもだ。おぬしは無防備すぎる」
「十分気をつけてるつもりなんだけど……」
(というか、今は貞操に気を付ける必要があんまりないような……)
と思わないでもなかったが、説教中に口答えをすると話が長くなりそうなので黙っていた。
「そうかの? あの時、もし楊ゼンが、もっとあんまんをやるからついて来いと言っておったら、ついていったであろう」
「う……」
それは否定できなかった。それは楊ゼンが太公望の右腕になるということを知っているゆえの信用があるからだ。しかし、太公望にはそんな先のことは秘密なので、ここでは
が折れておくのが得策だろう。
が口を尖らせていると、太公望は長い息を吐いた。
「とにかく、よく知らぬ男にホイホイついていくものではない。ものを受け取るのもだ。わかったか?」
「はーい……」
社会に出て幾年になろうかという歳なのに、こんなことで注意を受けるのは心外である。確かに太公望からみれば、
は平和ボケしていると見えるのかもしれない。先述の通り、彼相手に警戒する必要がないからそう映るのだろう。
太公望の言に大人しく返事をすると、太公望はうむ、と頷いて桃を手に取った。
それから
は代書屋で仕入れた情報を太公望に話し、太公望も街中の様子を語った。そうして食事を済ませると、早々に就寝の準備をして、二人は横になった。
その一時間後。
「…………こういうことを無防備と言うのだ」
太公望の苦渋に満ちた呟きが空中に散る。太公望の隣で、
が太公望の上着に包まりながら、寝息を立てている。
「仮にも男の隣で早々に寝入るとは……わしが男として見られていないのか、それとも
の警戒心が薄いのか……」
太公望は頬杖をついて
の寝顔を睨む。そうしたところで太公望の心配が伝わるものではないが、そうせざるを得なかった。そんな太公望の胸中など知らぬ
は、安らかな顔をして眠っている。その顔を見てもとっくの昔に異性への興味など失せているのでムラムラしたりはしないが、こうも意識されていないとなるとそれはそれで悲しいものである。
ここ何日か一緒に過ごして、
についてわかったことのひとつがこの警戒心の薄さだ。誰に対してもというわけではない。街中を歩く時など、きちんと周りに目を配ってよく観察している。いくら太公望が
の保護者とはいえ、太公望に対して少しも怪しむ気配がないのである。楊ゼンに対してもだ。
まるで、太公望や楊ゼンがどういう人物か、知っているような。
「一体何者なのだ、おぬしは……」
つん、と
の白い頬をつつくと、
は一瞬顔をしかめたものの、すぐに安らかな寝顔に戻る。太公望は、知らず笑みを浮かべると、自身もまた眠りについた。
この寝顔の前には、心配や疑問などどうでもよくなってしまうのだ。
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