旅の始まり


 闇に目が慣れると、は自分がソファに寝そべっていることに気がつく。向かいにあるソファには見覚えのある人物が座っている。

「やっとお目覚めか、眠り姫よぉ」
「……眠り姫?」

 王天君は口角をゆがませると、さして面白くもなさそうに笑った。

「あんた、三ヶ月も眠りっぱなしだったんだぜ。キスでもしなきゃ起きねぇのかと思っちまった」
「さ、三ヶ月!?」

 王天君のボケをスルーしては経過時間に驚く。そういえば、太公望が老子の元で夢を見ていたときも、目覚めると九ヶ月経っていた。老子に会うと、ほんの数時間のことが現実ではその何倍もの時間が経っているらしい。老子に会うというよりは、ジョカの夢を見るとそうなるのかもしれない。
 王天君は小さく息を吐くと、肘掛にもたれかかっていた上体を起こした。

「まぁ、それはそれでよかったのかもしれねぇな。太公望がちょうど、妲己にコテンパンに負けて朝歌を離れたところだ。合流するには悪くない時期だ」

 朝歌を離れて西岐に向かうところというと、タイ盆事件があった直後である。ナタクに会う前だ。

「で、どうだ? 宝貝は」
「……まだわからないよ。まだ死にたくないし元の世界にも無事に帰りたいから、とりあえずこの世界で頑張ってみるよ」
「そうかい。せいぜい、頑張って宝貝を手なずけるんだな」

 彼は鼻を鳴らして立ち上がり、空間を裂いた。唐突にの手を掴んだかと思うと、をその空間に放り込んだ。

「ちょっ! えっ!? まだ心の準備が……!」
「安心しろ。上手く太公望の近くに落としてやるよ」
「お、落ち、るぅぅぅ!」
「じゃあな、お嬢ちゃん」

 視界の端で四角に切り取られた空間が閉まり、王天君の顔が見えなくなった。それと同時に、自由落下が始まった。



 はバンジージャンプやスカイダイビングというものをしたことがない。遊園地にあるフリーフォールのような垂直に落下するものも避けてきた。なぜかというと、不安定な自由落下、重力に身を任せるということが怖かったからである。
 王天君に放り出されたは、少しの間風を切って落ちていた。風圧で口の中の水分が一気に乾いてしまった。それから、体に衝撃が走った。バキ、パチ、などという音が間近で聞こえる。地表の木々にぶつかったのだと理解してからは、とっさに頭を抱え込むようにして手でかばった。

(痛い痛い!お願いだから枝とか刺さらないで……!)

 所々したたかに打ちつけながら、は背の低い茂みらしきところに落ち着いた。痛みですぐに動けず、しばらくうずくまって悶絶する。

(いったぁ……なにも落とすことないじゃんか……地面にそっと置いとくとかさぁ……)

 痛みに耐えて、体を両手で擦ってみる。幸い、枝が体に刺さっているようなことはなかった。体のあちこちを枝がかすり、血がにじむぐらいはしているだろうが、程度は浅い。だが、腹部や足、腕などを打っているので、もしかしたら痛めているかもしれない。骨が折れていたらどうしよう。
 今は出血がないことにほっとする。安堵ついでに意識を失いかけていると、人の声が聞こえてきた。

「……ご主人、早く! こっちっスよ!」
「本当なのか? 人が落ちてきたなど……」
「本当っス! この目で見たっス! …………あっ、人っスよご主人!」
「!! おいっ、おぬし、大丈夫か!」

 の記憶が確かなら、この二人の声は太公望と四不象のものだ。王天君は確かに太公望の居場所の近くに落としてくれたらしい。そのことにも安堵しつつ、は今度こそ意識を失った。



 ぱちぱち、と枝が爆ぜる音に、は目を覚ました。目線の先に明るい光があった。その光を見つめているとだんだん意識がはっきりしてきた。光は小さな焚き火だった。焚火の周囲は薄暗く、もう日が傾いているのだなとぼんやり思った。

「おう、気がついたようだの」

 声のしたほうを見ると、太公望が小枝で焚き火をつつきながらを見つめていた。が起き上がろうとすると、「まだ体が痛むだろう。寝ておれ」と押しとどめた。その通りで、体はまだ痛む。だが起き上がれないほどではないので、「大丈夫です」と言って体を起こした。これから長話をするのに、寝ていては失礼だろう。

「おぬし、どこから落ちてきたかは知らんがラッキーだのう。骨も折れとらんし、ひどい打撲もしとらんぞ。あざはばっちりとできておるが」
「そうですか……あの、助けてくださって、ありがとうございます」
「助けるようなことはなにもしとらんぞ」
「ここまで運んで、診てくれたんですよね。だから」
「変なやつだのう。わしは太公望だ。おぬしは?」
、です」
。体が大丈夫なら、事情を話してくれぬか? 人が落ちていったと聞いた時には霊獣から足を滑らせた仙道でも落ちたんだろうと思っていたが、おぬしは普通の人間だ。一体どこから、なぜ落ちてきたのだ」
「……はい」

 は深呼吸して心を落ち着かせた。これからのことを考えると、彼は関わり合いが特に深くなるだろう。ならば、ここで詳しく事情を話しておく必要がある。ただし、妲己の目的やこの世界の流れを知っている、ということは伏せておかなければならない。話に矛盾が生じないように、は冷静であることに努めた。

「なんと、別の世界から妲己に連れてこられたか……」
 一通り説明を終え、は頷いた。太公望はをじっと見つめている。

(なんか説明に変なところでもあったのかなぁ……疑われてたらどうしよう)

 というか、こんな話を不審に思わないはずがない。いくら仙道が闊歩していた時代とはいえ、別世界から連れてこられたなど失笑されてもおかしくない。不安に眉尻を下げながら太公望を見つめ返した。
 その目の奥を静かに見つめてから、太公望は同情するような表情をした。

「右も左もわからぬ世界にいきなり攫われてくるとは、かわいそうに。わしでよければおぬしの力になろう」
「え……本当ですか!? 私の話を信じてくれるんですか!?」
「うむ。嘘をついている風ではないし、おぬしが落ちてきた状況の説明はつく。頼るものもおらぬだろう。連れてきたおぬしを、わざわざわしのもとに送り込む妲己の目的も気になるしのう」
「あ、ありがとうございます!」

 太公望が納得してくれたことに、思わず破顔する。まったく疑われてないということはさすがにないだろうが、それでも力になると言ってくれたことが嬉しい。ここで捨て置かれては文字通り路頭に迷うところであった。
 太公望もを安心させるように微笑んだ。そこへ、四不象が桃を両手に抱えて現れた。

「ご主人、桃っスよー! あっ、目を覚ましたんスね!」

 が目を覚ましていると気づくなり、四不象はに近づいてきた。はというと、実際に四不象が飛んでいるのを見て驚きを隠せないでいた。

「うむ、ご苦労。、こやつはわしの霊獣で四不象だ」
ちゃんっていうんスね! よろしくっスー!」
「よ、よろしく」

 求められるまま握手する。が戸惑った様子を察して四不象が顔を曇らせる。

「もしかして、ボクのことが怖いっスか?」
「あ……ち、違うんだ。えっと、四不象のような霊獣は私の世界にはいないから……ちょっとびっくりしただけ」
「スープーよ、は妲己に別の世界から無理やり連れてこられたのだ」
「べっ、別の世界から!?」

 四不象にも事情を説明すると、彼は眉を吊り上げて怒り始めた。

「妲己はひどすぎるっス! こんないたいけな女の子まで巻き込むなんて!」
「うむ。だからスープーよ、わしはを助けることに決めたぞ」
「賛成っス! 放っとけないっス!」
「あ、ありがとう……」

 いたいけな女の子という言葉に罪悪感を覚えてしまった。一体いくつに見えているのだろうか。

よ。おぬしさえよければ、わしらと一緒に来んか?」
「え?」
「わしは、妲己をはじめとする悪い仙道を退治する旅――封神計画というのだが――の途中なのだ。わしと一緒におれば、そのうち妲己と再び見えるだろうし、元の世界に帰る方法も見つかるかもしれぬ。だが、当然戦いばかりで危険は多い。それでも構わんというなら来るか?」
「そんな……私のほうこそ、足手まといでしょうが連れて行ってください。お願いします」

 が頭を下げると、すぐに太公望が頭を上げるように言ってきた。顔を上げた視線の先で、太公望はを安心させるように笑っていた。

、おぬしはわしが守るから安心せい。本当は、崑崙山へ連れて行って保護したいところだが、は普通の人間だしのう」
「ボクも、ちゃんを守るっスよ!」

 四不象も、主に負けずと力強く宣言する。は嬉しくなって、四不象の頭を撫でた。

「これから、よろしくお願いします」
「うむ」
「よろしくっス!」

 が太公望へ右手を差し出すと、太公望はそれを力強く握り返した。
 ここから、太公望との旅が始まった。


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