釣りとキスとチョコレート


※太公望のバレンタインのお返しをとてもネタバレしてます


「今は、僕とあなただけのスペシャルプレイス。さあ、釣りをしましょう!」

 と言って、太公望がバレンタインチョコのお返しとして連れてきたのは、太公望の「絶好の釣り場」だった。
 以前にが頼んで作ってもらった釣りシミュレーターとはまた違う場所で、こちらのほうがよりにおいが濃密で、川のせせらぎが近くて、風が冷たかった。上機嫌に釣りの準備をしている太公望を横目に、は河原の岩の隙間に生えた雑草を触った。

(土遁とシミュレーターの合わせ技……って言ってたけど、シミュレーターってそんなに早く起動できる……?)

 地下図書館からいきなり移動してきてこれだ。触れた草の産毛もなにもかもリアルで、起動直後にしてはかなり遠くのほうの山々も見える。リアルというか、もうほぼ本物なのではないかと思うほどだ。
 まさかとは思うが、これはシミュレーターではなく、本当の――

「マスター? どうしました?」

 河原にしゃがんでぼうっとしていたに声がかかる。振り返ると、準備ができたのか竿を手にした太公望が手招きしていた。なんでもない、と返しつつ彼のそばへ寄る。
 釣り竿を受け取って、太公望が敷いた座布団の上に座る。

「釣りも久しぶりだなあ。色々忘れてるかも」

 と、隣に座った太公望に言うと、苦笑いが返ってきた。

「まあ、釣りシミュレーターを作ってもらってから色々ありましたしね。でも大丈夫、また僕が手取り足取り教えて差し上げますよ」
「近い近い!」

 の肩を抱いて、空いた右手ですりすりとの手をさすってくる太公望を押しのけて、針を川へ投げる。太公望の体温で途端に上がった体温は無視する。

「えー、恋人同士なのに」
「そ、そうだけど……そんなに近いと、あの、ドキドキしちゃって釣りどころじゃないし……」

 そう、なんやかんやあってと太公望は両想いの恋人。なんの遠慮もなくスキンシップもできるし、バレンタインのチョコだって堂々と想いを込めて渡せる。隣の男は知恵者を自称しておきながら、のバレンタインチョコをもらえると思っていなかったようだが。
 が頬を染めてうつむくと、太公望ははあ、と感嘆の息を漏らして、再びに抱き着いてきた。

「ああ〜可愛い〜本当にあなたは可愛いなァ……」
「だーかーら! こんなことしてたら釣りどころじゃないっての!」
「大丈夫ですよ、ここは僕のおすすめスポットなので! ガチで!」
「それって、生前によく釣りをしてた場所ってこと?」
「ん−……まあ、そうですね。生前……うん、そういうことです。よく、妻も連れて」
「へえ、奥さんと……あ、じゃああの釣った魚を焼いて調味もできるって術も、その時に?」
「ええ、まあ。僕は殺生はしませんが、妻は仙道でもなんでもなかったので。釣っては焼いて妻が食べる、その流れでした」
「ふうん……」

 太公望が以前の妻とのことを話すのは珍しい。聞いても当たり障りのないことを答えるか、なにも答えず笑みだけが返ってくるのが常だったが、どういう心境の変化だろうか。この場所がそうさせるのだろうか。
 封神演義では、仲介されて結婚した太公望は、商売に失敗したり書物ばかり読んでいることに愛想を尽かされて離縁されたという。ただ、この太公望がそうとは限らない。覆水盆に返らずのエピソードだって、実際のところどうなのだろう。聞いても、やはり曖昧に濁されるだけだろうとは思うが。

(でも、この様子だと太公望なりに奥さんのことを大切にしてたんだなあ……)

 もちろん妻に魚を食べさせるということも目的に入っていたのかもしれないが、妻をよく連れ立って出かけていたとは、彼なりに妻を気遣っていたことの証左に思える。やはり情が深いのだ、この男は。
 そんなことを考えて黙っていると、太公望がなにを思ったのか、いきなりの両肩をつかんだ。

殿」
「は、はい?」
「僕はもうあなた一筋ですから、安心してください」
「え……? 急になに?」
「いえ、あなたが以前の妻にやきもち焼いてるのかなと思って」
「うーん……? やきもちは焼いてない、かな。なんていうか、太公望らしいなと思ってただけ」

 と言うと、太公望は肩を落とした。

「はあ……なんだ、てっきり嫉妬してくれているんだと思いました」
「そ、そんなふうに見えた?」
「ん−……ちょっとだけ沈んでいるように見えたので。前の妻にやきもち焼くなんて、僕は愛されてるんだなァと思ったのに」
「あい……もう、またそんなこと言って……」

 そりゃまあ太公望のことは好きだが、本人に自信満々にそう言われると気恥ずかしいものである。
 というか、さっきからしゃべっているせいか全然魚が寄ってこない。隣の男は方便が得意というだけあってよく話す。それはいいのだが、釣りの時ぐらいは静かにできないものか。と思ったその時、彼が脇に置いていたものが目に入った。があげたバレンタインチョコだ。

「太公望、チョコ食べないの?」
「え、もう食べてもいいんです?」
「うん、別に私の目の前だからって遠慮しなくていいよ」

 すると、太公望はチョコを手に取って困り顔になった。

「マスター、仙道というのは禁欲に徹して修行に勤しむことを是とする……という伝説をご存知ですか」
「霞を食べて生きてるとか、そういう?」
「まあ、そんな感じの。霞を食べて生きるというのは極端ですが、基本的に嗜好品の類はあまり……」
「食べちゃいけないってこと?」
「いけなくもないこともない……ような。というか、チョコをいただいたのは初めてなので、食べたらどうなるのか僕にもわからない、というのが正直なところです」
「なるほど」

 なら食べられなくても仕方ないな、とは軽く思っただけなのだが、当の太公望は諦めきれないようだった。

「でも! でも、殿がせっかく僕のために作ってくれたチョコは食べたいじゃないですか! 殿の愛がこもったチョコを!」
「う、うん……私としても食べてくれたら嬉しいけど、でもそれで太公望が道士じゃなくなったりしても嫌だし、無理しなくても」
「うーん……じゃあ、こうしましょう」

 なにかいい方法を思いついたのか、太公望がチョコの箱を開けた。中にはココアパウダーをまぶしたチョコレートトリュフが四つ。太公望はそれをひとつ摘むと、おもむろにの口に入れた。

「え、ちょ、」
「いいからいいから、はい食べて」

 押し込まれるままに口の中に入ったチョコは、あっという間に舌の上で溶けていく。私に食べさせてどういうつもりなんだ、と思いつつ、もう口の中に入ってしまったものはしょうがないと咀嚼する。うん、今回も美味しく出来ているはず。甘すぎず、ほろ苦さを少し残したビター風味。
 と、その時、太公望の手がを抱き寄せた。薄い紫の瞳にが見蕩れているうちに、の顎に手を添えて、優しく、しかし素早くくちびるにキスをした。

「、ん……!?」

 薄く開いた口から太公望の舌が滑り込んでくる。チョコの味がするの舌を味わうように撫でて、吸った。

「んっ、……!」

 自分のものとは違う温度の舌が、やけにはっきりと感じられる。やがて舌の温度も、チョコレートの味も、ふたつの舌で均等になる。それがどれくらい舌と舌をこすり合っていたらそうなったのか、にはわからなかった。
 チョコの味が薄くなった頃、太公望がくちびるを離した。チョコの甘さにクラクラしたのか、それとも太公望のキスのせいなのか、力が抜けた体を太公望に預ける。彼はしなだれかかってきたを支えると、唾液で濡れたくちびるをもう一度軽く吸った。

「うん、美味しい。甘さの中にほんの少し苦味があって、後を引いてもう一度食べたくなるような味ですね。香りもいい」
「た、太公望……」
「ごちそうさま」

 そう言って道士が浮かべた笑みがあまりにもあでやかで、口づけひとつでなにもできなくなってしまった体は、今は心臓の音だけがうるさい。
 本当に、この男はこういうところがいけない。普段は人畜無害な糸目優男を装っておきながら――装っているのではなく素なのかもしれないが――いきなりスイッチが切り替わったように色気をもって距離を詰めて、あっという間にを篭絡してしまう。油断していると、不思議な色香を放つ薄い紫の瞳に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。そうしていつもいつもこの男の思うつぼとなっている節がある。
 そう思いつつ、どうしようもなく惹かれて、離れがたくて、手を伸ばしてしまう。

「〜〜っばか! このエロ道士!」
「え? いたたたた、殿?」

 手玉に取られているような感覚が異様にムカついてきて、目の前の体を力が入らないこぶしで殴る。痛がっているが、普通の人間であるのこぶしが痛いはずはない。

「なにが仙道は禁欲に徹する、だ! はるか年下の私に手を出しておきながら今更禁欲面すんなー!」
「えー、それはそれ、これはこれ。結婚してる仙道だっていますし。房事だって別にしちゃいけないことじゃないし。あと、今のこの体は若いので、意識もかなり若いほうに引っ張られるんですよねー。つまり実質若いって言っても過言じゃない。殿だって、よぼよぼのおじいちゃんより、若くてモデル体型でイケメンの僕のほうがいいでしょう?」

 ああ言えばこう言う。口でも勝てない。ぐうの音も出なくなったを落ち着かせるために、どうどう、との背中をさすってくるのがさらにムカつく。

(前の奥さんを怒らせてばっかりだったっていうのも、わかる気がする……)

 あまり多くは語らない前妻の情報から察することしかできないが、今のでさえこんな調子なのだ。しかも怒ったところで柳のような男にはいまいち通じない。怒ってもばからしく、かといって感情のやり場がない。封神演義の記述では典型的な悪妻とされているが、おそらく前妻は前妻なりに苦労をしていたのだろう、と思う。
 ――太公望は太公望なりに妻を大切にして、妻はそんな彼を、本当はどう思っていたのだろう。
 夫婦というからには、それなりにやることはやっていたはずで。ここにもよく連れてきていたということは、ここで、こんなふうに触れ合うこともあったのかもしれない。
 そう思うと、胸に刺すような痛みが走った。
 今度は確実に嫉妬だ。太公望がほかの誰かを愛していたところを想像すると、すぐにこれだ。だから、先ほどは深く考えなかったのに。嫉妬で曇っているかもしれない顔を見られたくなくて、顔を隠すように太公望に抱き着いた。すぐに背中に腕が回る。

「ああ、本当に……あなたは可愛いですね」

 見透かしたような言葉に、抱き着く力を強くする。太公望は、そんなの頭を撫でて、髪に何度もキスを落とす。髪から額に、額からこめかみに、頬に、そしてくちびるに。今度のキスは、軽く合わさってすぐに離れていった。
 の顔を見ることに成功した太公望は、たくさんのキスを受けて赤く染まった頬を見て、にっこりと笑った。

「時間も時間ですし、今日はもう戻りましょうか」
「……え、もう戻るの?」
「今日はお忙しいでしょう? あまり僕だけがあなたを独占していると、ほかの皆さんに嫌われてしまいます」

 と言って、太公望は腕を離して立ち上がった。
 確かに、ほかの英霊にもチョコを渡さなくてはいけないし、受け取らなくてはいけない。あまりひとりひとりに時間を割けないのは事実だ。太公望は最近カルデアに来た英霊だが、そこのところはバレンタイン前の準備の時点で騒がしかったことから察しているようだ。

「う、うん……そっか、ごめん、気を遣わせて」

 恋人なのに、そんなことを言わせてしまって申し訳なくなる。

「いいんですよ、謝らなくても。あなたの仲間思いなところも好きですから。でも」
「ん?」

 差し出された太公望の手を取っても立ち上がると、そのまま引っ張られて再び腕の中におさまる。

「夜にまた、あなたのチョコを食べましょうね。ふたりで」

 物わかりのいいことを言っていた太公望が、そんなことを耳に吹き込んできた。
 夜にまた、ふたりでチョコを食べる。――また、あんな感じで?

「――!!」

 暗に誘われているのだと気づいた瞬間にゆでだこのようになったを、耐え切れずに力いっぱい抱きしめる太公望。

「あっはっはっは! あ〜〜もう本当に可愛いなァ!」
「だーーー離せこのエロ道士!」
「すみません、離したら土遁の術が上手く使えないんです」
「ここに来る前は普通に使ってたくせに!」
「もー殿ってば照れ屋さんなんだから。あんまり可愛いこと言ってると襲っちゃいますよ?」
「いや土遁使いなよ早く!」

 その後、カルデアのみんなにチョコを渡し渡され終わったが部屋に帰ると、待ちかねたように太公望がベッドに座っていたとかなんとか。


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