運命はひとつではない


 この関係は終わりにしようと告げると、太公望は細めていた目を開いた。
 それからなにかを言いかけては声にならず、口だけがわずかに開いては止まり、また言葉を探るように開くということを繰り返していた。
 彼は結局、最後までなにも言わなかった。はい、とも、理由を尋ねることもない。ただ、しばらくしてゆっくりと目を閉じた。
 それをきっかけにして、は太公望の前から立ち去った。
 言ってしまった。これでもう、彼とを繋いでいたものはなにもない。ただのマスターとそのサーヴァントという関係に戻る。
 元の関係に戻るなら、あなたはなにも悪くないだとか、太公望が嫌になったとかではなく、自分がそのほうがいいと思っただけだとか言っておけばよかった。太公望がのことで気に病むのかどうか知らないが、単純にこちらが気まずい。
 自分から別れを切り出したのに、思いのほか胸が痛い。痛みと先ほどの太公望の顔が交互にを襲ってきて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
 どこへ行こうとか、次の予定はなんだったかを考える余裕はなかった。とにかく彼と距離を取りたかった。

「――わっ!?」
「なっ……!?」

 曲がり角に差し掛かった時だった。向こうからやってきた人物にぶつかりそうになった。すんでのところで相手が一歩下がり、つんのめりそうになったを受け止めた。思わず抱きついた体は柔らかい。

「おお、マスターか。危うくぶつかるところだったぞ」
「ニキチッチ! ご、ごめん……!」

 よりも少し低いところから伸ばされた腕の持ち主は、ニキチッチだった。大きな氷色の瞳をさらに大きくしている。

「ん。どこも痛くないか? ぶつかってはいないが、とっさに避けようとして筋を痛めたりすることもあるからな。気をつけるんだぞ」
「う、ん……体はなんともないと思う……」

 つんのめったが、足に特に痛みはない。体はなんともない。今痛いのは体じゃない。

「悲しい顔……なにか、あったのか?」

 指摘されて、なおさら胸の痛みが大きくなった。気遣うようなニキチッチの視線を、正面から受け止めることができない。
 胸の痛みがだんだんとせり上がり、やがて喉元を通り過ぎて、涙となってあふれ出した。

 ***

 ほら、とニキチッチに差し出された濡れたハンカチを受け取り、腫れているであろう瞼に押し付ける。清流に浸されたハンカチは冷たかった。
 とニキチッチは、シミュレーターの中に来ている。カルデアのどこにいても気が休まらないだろうと、ニキチッチが気を回してシミュレータールームに連れてきたのだ。非戦闘用のシミュレーターが不正データのメンテナンス中で、ちょうど今使えるのが、太公望のために作った釣りシミュレーターだけだったというのがなんとも皮肉だった。
 水の冷たさに少しは落ち着きを取り戻したようで、気を抜けば流れてしまう涙は止まった。ただ、胸も喉元もまだ痛い。

「なにがあったんだ。言いづらいなら言わなくてもいいが……」

 というニキチッチに、はこれまでの太公望とのことを話した。の主観と、言葉で言い表せない部分もあり、とりとめもない話になってしまったが、ニキチッチは辛抱強く聞いてくれた。

「そうか……太公望がまだ誰かを想っていることが分かったから、あいまいな関係を終わらせたのだな」
「うん……元々、コヤンスカヤとの一件で、妲己に対する感情は複雑なんだろうなとか、本当は生きていてほしかったんじゃないかとか、色々わかってたはずなんだけど……好きになってから忘れてた、っていうか、無意識に考えないようにしてたのかも。だからなにを今更、ずっとひとりで空回ってバカじゃん私、って……自分でもわかってるんだ。わかってるんだけど、やっぱり苦しい……」

 太公望を好きだと自覚する前は冷静でいられたはずなのに。妲己のことは倒すべき相手だった、けれどおそらくそれだけじゃない、もっと個人的な感情があったんだろう。妲己のことを思い出している時の泣きそうな顔を見て、そう冷静に捉えていたはずなのに。いつの間に、考えないようにしていたのだろう。
 おそらく、試しに付き合い出してからだ。この関係になってから、太公望はの前ではのことを見てくれた。のことを考えてくれた。のことを知ろうと、たくさん話をしてくれた。それだけ時間を割いて、そばにいてくれた。
 だから、いつの間にか勘違いしていた。この関係の先に、太公望は自分だけを想ってくれる未来があるのではないか、と。

「本当の、恋人になりたかったなあ……愛されてみたかったなあ……って、そんなこと考えてももうしょうがないのに、ほんとバカだ……ニキチッチの言うこと、聞いておけばよかったね」
「マスター……」

 太公望がに対して優しかったのは、それが彼という人間だからだ。善性が強くて、同じく善性が強い人間を好んで、年長者としての責任感も優しさもある。はっきりと言葉での想いを断るのではなく、自分という人間を見せて心の中に誰が住まっているのかを気づかせた。
 ただ、にとってはその優しさは毒だ。こんなに太公望と密に接して、太公望への想いを強くして、太公望も自分を好きになってくれたらいいのにと欲張ってしまうのなら、想いを暴かれてしまった時に切り捨てられたほうが良かった。
 おそらく、どちらが良いとか悪いとかではない。どちらもつらくて苦しいだろう。ただ、彼の優しさやぬくもりを知らないままがよかった。そんなものを知ってしまっては、忘れるのに時間がかかる。
 木の根元に座して、膝を抱えてまた涙を流すを、ニキチッチは耐え切れずに抱きしめた。の頭を豊かな胸で包み込む。

「お前は悪くない。お前はそんなふうに恋に惑ってもいいんだ。いいんだ……」
「っ……!」

 ダメだ、今優しくされたら、涙が止まらなくなる。
 堰を切ったようにしゃくりあげて泣き出したを、ニキチッチは抱きしめる。なにも言わずに、幼い子供のように泣いているを抱いて、髪を撫でる。
 再びが落ち着くまでどれくらいの時間が経っただろうか。この釣りシミュレーターは時間の設定などがまだ不完全で、天気が変わることもなければ太陽の位置が時間帯で変わることもない。オペレーターに聞けば正確な時間を教えてもらえるだろうが、今はそこまでする必要もない。あまり誰かと話す気分ではなかった。

「……ごめん、もう大丈夫、ニキチッチ」

 というと、ニキチッチは体を離した。膝に突っ伏して泣いていたから、光が若干まぶしい。瞼はここに来た時よりも重く、熱い。おそらくひどいことになっているだろう。ニキチッチは、目元を隠そうとするにまたハンカチを差し出した。

「ありがとう……ごめん、これ、もう少し借りてもいい? 明日洗って返すから」
「気にするな、使え。返すのはいつでもいい」
「うん……あとね、少し、ひとりになりたい。頭の中整理したい……ダメかな」
「……わかった。無理はするな、つらかったら、オレでもマシュでも呼べ」

 ニキチッチは心配そうな目をしながらも、の気持ちを尊重してシミュレーターを出ていった。こんなにも気遣ってくれる人がいるのはありがたいことだ。でも、今はひとりになって頭を冷やしたい。
 ひとりになると、まずはこの瞼をなんとかしようと、立ち上がって近くにある小川に向かう。透き通った川の水は、見た目通りひんやりとしていて気持ちいい。ニキチッチから借りたハンカチを浸して水気を切り、瞼に当てる。
 川の水はゆっくりとだが流れているので、今の自分がどんな顔をしているのかまではわからなかった。だが瞼の重さからして、今までで一番腫れているのではないか。こんな顔を誰かに見られるわけにはいかないので、もう今日はここに引きこもっていようかと思うくらいだ。

(夕食の時間まで、通信切っておこうかな……)

 誰かと話すのも、気を遣われるのも億劫で、はオペレーターとの通信を切る。ここは戦闘用のシミュレーターではない。ひとりとはいえ、通信を切ったところで問題はないだろう。緊急用の通信はちゃんと入るように設定されてある。オペレーターをしてくれているスタッフだって、ここに入る時のの顔や、ニキチッチがひとりで出てきたことで、なにごとか察してくれるだろう。
 思いっきり泣いたせいか、シミュレーターに入ってくる前よりも落ち着いていた。自分から別れを切り出したことには間違いないが、ようするに失恋したのだ。そう自分で思っても涙が湧き上がってこない程度には、冷静になっていた。

(運命の人って呼んでるからには今も忘れられないってことで、でも、妲己がビーストである限りは、太公望は戦って、倒す)

 それだけはおそらく間違いない。何千年も忘れられない相手だろうと、相手が自分の敵であれば倒す。
 そこが、彼の最たる特徴だ。「それはそれとして、やるべきことはちゃんとやりますね」ができる。大きな失敗をしても、それはそれとして挽回する。強烈に恋をした相手でも、それはそれとして首を落とす。自分を信じて共に戦ってくれた仲間を決して裏切ることはない。どこまでも善側の人間なのだ。
 だからこそ、いつか彼女を生かすことが許される時に備えていたのだ。別の宇宙でも世界でもいいから生きていてほしい。コヤンスカヤの言う通り、あの時行使した術は、本当は妲己のために用意していたもののはずだ。
 ――ダメだ。自分が付け入る隙はない。
 いくら考えても、それだけ大きな存在である妲己を、たかだか一介のマスターであるに上回れるとも、並べるとも思えなかった。
 ただ、この気持ちは簡単にはなくせそうにない。
 髪を梳く時のなまめかしい指も、優しい腕も、不思議な色気がある薄紫の瞳も、包み込んでくれる体温も。

「もう少し、好きなままでもいいかな……こっそり勝手に想ってるだけでも、許されるなら……」

 今すぐに元の関係には戻れないかもしれないけれど、ぎこちなくとも元のように接していれば、いつかはそれが普通になるかもしれない。今は胸が痛くて苦しくて、不意に泣き出してしまうかもしれないけれど、少しでも平気な時を増やしていけば、いつかは好きだったなと過去形で言えるようになるかもしれない。
 それまでどれだけ時間がかかるかわからない。もしかしたら、そんなことを考えている暇もなく次の異聞帯に向かうことになるかもしれない。特異点が、ビーストが現れるかもしれない。
 今日だけだ。今日だけ、この苦しみを純粋に苦しいと思っていい日だ。だから、もう少しだけ、ここでぼうっとしていてもいいだろうか。
 胸に溜まった淀みごと吐き出すように、長い息を吐く。熱を吸ってぬるくなったハンカチをもう一度川の水につける。
 ハンカチがぬるくなってはまた水につけ、瞼を冷やす。冷やしている間はぼんやりと川の流れや草木の揺らめきを眺める。またハンカチを冷やす。
 瞼の腫れはそう簡単には引いてくれなかったが、はほぼ事務的に一連の作業を繰り返した。

 ***

 一方の太公望は、に別れを告げられた後、特になにもすることがなかったので地下図書館を訪れていた。書架から書物を手に取り、手慰みにパラパラとページをめくって、たいして読みもせずに元の位置に戻す。また別の本を手に取り、文字に目を走らせるも、内容が頭に入ってこず、うわの空でまたパラパラとめくって、元に戻す。
 なにも手につかないとは、こういうことを言うのだろうか。普段なら紫式部が許す限り本を読みふけっても、時間が足りないと思うことはあれど、こんなに空虚に感じることはないのに。
 文字を読んでいるはずなのに、いつの間にかの悲しそうな顔が浮かんで、そのたびに胸が痛んで文字を追うことをやめる。もう、関係は終わって、彼女のことを考えてもしょうがないのに。の顔を頭から振り払うように新しい本を開いても、いつの間にか視線は文字ではないどこかを見つめている。
 そんなことを繰り返していると、不意に図書館の入り口のほうが騒がしくなった。どすどす、と大きな足音が太公望が突っ立っている書架まで響いてくる。
 何事かと耳を澄ませると、聞き覚えのある声がふたり分聞こえてきた。

「すみませんすみません、私にはかの人がどこにいらっしゃるかまでは……」
「わかった、自分で探す! 少々騒がしくするかもしれんから今のうちに謝っておくぞ!」
「ひいぃ……!」

 すみませんと謝っている声は紫式部のものだ。もうひとりは――
 などと考えているうちに、どすどすどすと足音が迫ってくる。まさかと思い、通路を見ると、鬼の角のように耳を立てたニキチッチが太公望を睨んでいた。

「ニキ……」
「こんの、大馬鹿者!!」

 ニキチッチは太公望の姿を見るや否や殴りかかってきた。直撃を受ける寸前でなんとか身をかわした太公望は、振り下ろされたこぶしが起こした風の勢いに慄いた。ほぼ全力で殴りにきている。

「い、いきなりどうしたんです!?」
「どうしたもこうしたもない! あの子を悲しませたな、お前!」

 あの子――のことだ。わざわざ聞き返すまでもなく理解した太公望は、口を閉じた。のことに関してはなにも言い訳できないからだ。
 一転して押し黙ってしまった太公望に、ニキチッチは振り上げたこぶしを下げた。ニキチッチから少し離れた後方にいた紫式部が、とりあえず暴力沙汰にならずに済みそうでほっと一息ついている。

「……僕は、どうしたらいいんでしょうね、ニキチッチ」
「……わからないのか?」
「僕は……結局、僕のしたことは、彼女をただいだすらに傷つけることだったんでしょうか」
「そうだな。あの子は泣いていたぞ、太公望。かわいそうに……普段あんなに元気な子が、瞼を腫らすまで泣いていたんだ」
「っ……」

 ニキチッチの言うの様子を思い浮かべるだけで、胸が痛い。

「今、どこに」
「お前に教えると思うか?」

 ニキチッチは今までになく冷たく、取り付く島もない。
 傷つけたくなかったはずなのに、結局泣かせてしまった。一体どうすればよかったんだろうか。彼女の想いを、自分はどうしたかったのか。
 また押し黙ってしまった太公望を見て、ニキチッチはいらだちと共に息を吐きだした。

「そもそもお前、どうして試しに付き合ってみるなどと言い出したんだ」
「……え?」
「マスターのことをどう思っていて、そんなことを提案したんだ」
「どうって……」
「オレから言わせればな、少しでも愛しく思う気持ちがなければそんなことは絶対に言い出さないし、あんなにベタベタいちゃついたりするものか。お前、自覚がないだけでに惚れてるんじゃないのか?」
「え? まさか……」

 そんなことがあるのか? 本当はのことをとっくに好きで、それに今まで全然気づかなかった、なんて。
 マスターの気持ちに気づいた時のことを思い出してみる。あれは確か、自分が「どんなことでもいいからあなたの役に立ちたい」と言った時のことだ。

「僕は……マスターのことが、というより、マスターの善性が好きで、力になりたくて……普段、一見すると普通の女の子なのに、あまりにも重い役目を背負っている彼女の役に立ちたくて、彼女を悲しませたくなかった。彼女の憂いになることをしたくなかった」

 なかなか思うようにいかない髪型に不機嫌になったり、普段と違う髪型に照れくさそうに頬を染めるところなんて、本当に普通の女の子なんだなと思った。少女らしい顔を見るたびに、こういう表情を失わせたくないと思った。
 だから、自分のような男は、の想いにはふさわしくないと思ったのだ。
 人間と英霊という絶対的な違いを抜きにしても、初々しい想いを向けられるにはふさわしくない。姿が若いだけで中身は別に若くないし、バツイチだし、妲己のことも忘れられない。そんな自分が――あの子と恋なんて。
 お互いのことを知っていって、そんな自分に幻滅してくれればよかったのに。彼女は戸惑いをあらわにする一方でどんどん可愛くなっていって、気が付けば目が離せなくなっていった。いつの間にか、触れたくてしょうがなくて。笑ってほしくて、自分のことで頬を染めて欲しくて、自分以外の男と親密そうにしているところなんて見たくなくて――

「…………え? …………――え?」

 じゃあ、あの、ちょっかいをかけたくてしょうがない気持ちとか、不意に迫ってみたくなった時とか、つまりは、そういうことなのか?
 あまりのことに血の気が引いて、それから頬が紅潮していくという太公望の顔色の変化を見ていたニキチッチが、しびれを切らせて言った。

「なにがマスターの善性が好き、だ。善性とはつまりマスターの人間性。あの子のことが好きで、守りたくて、可愛くてしょうがないってことは、それはもう好きってことだろう!」
「――――」

 はっきりと説明されてしまった太公望が、今度は真っ白になっている。顔を覆ってうなだれたかと思うと、不意に低い声を出した。

「ニキチッチ、僕を殴ってください」
「?」
「いいから。元々、僕を殴りに来たんでしょう」

 それはそうだと、ニキチッチは遠慮なく太公望の腹にこぶしを打ち込んだ。顔面を殴られるものだと思っていた太公望は、予想外の一撃に情けない声を上げてうずくまった。

「ぐうっ! げほっ、う、ま、まさかボディに、来るとは……」
「ふん、顔を殴るとあの子が心配するだろう」
「……ニキチッチ、ありがとう。僕は……バカだったんですね」
「ようやく気付いたのか……にぶいにもほどがあるぞ。もう、だからこの男はやめておけって言ったのに、まったくもう……」

 ニキチッチがため息交じりに言った。ひどい言われようだが、返す言葉もない。幻滅してくれればいいなんて自分から仕掛けておきながら、どんどん本気になって抜け出せなくなっていったのだから。
 立ち上がって衣服を整えてから、の元へ向かうため魔力を探ろうとする。それを見透かしたように、ニキチッチがつぶやいた。

「マスターはシミュレータールームだ」

 腕を組んで書架にもたれかかっている。ちょうど太公望に道を開けるような形になる。彼なりに太公望を送り出しているのだと気づいて、眉を下げた。

「ニキチッチ」
「ああもう、早く行け! まだひとりで泣いているかもしれないからな!」
「――ええ。このお礼は後で必ず」

 ひとりで泣いているかも、という言葉に、太公望は背筋を伸ばすと、あっという間に術式を起動して消えた。土遁の術を行使したのだとニキチッチが理解した頃には、地下図書館にはすっかり静寂が戻っていた。

 ***

 シミュレータールームの中に土遁の術で移動してきた太公望だが、スタッフに驚かれることを想定していたものの、スタッフは誰も太公望に反応しなかった。というのも、中はそれどころではなく、騒然としていた。

「こっちのはもうダメだ! 破棄する!」
「ダメ、どんどん広がって、止められない……!」
「これは……一体、何事です」

 スタッフは、オペレーター用の機材につきっきりで常に両手を動かして対応している。普段はここに来ることは少ないダ・ヴィンチとマシュがいることから、ただ事ではないことが窺える。
 声で気がついたマシュが、太公望を振り返る。その顔は今にも泣き出しそうなほど不安に染まっている。
 まさか――嫌な予感がよぎる。

「太公望さん……! 先輩が、先輩が……! 不正データに侵食されたシミュレーターの中に、ひとり取り残されて……!」

 やはりそうか。このデミ・サーヴァントの少女がこんなに取り乱すことなんて、マスターの危険が差し迫っている時が大半だ。

「通信もモニターもできなくて、中でなにが起こっているのかがわからないんだ。エラーコードは出ていて対応もしているが、エラーは止まらないし不正データも増え続けている。敵性個体がいつ出現してもおかしくないし、彼女が不正データに取り込まれてしまう可能性もある」

 ダ・ヴィンチの状況説明に、背中を冷たいものがつたう。ぐっとこぶしを握ってその不快感を誤魔化す。

「非常に危険、ということですね。解決方法は?」
「不正データをすべて除去すること。今のデータの侵食具合だと、もしかしたらシミュレーターのファイルごと消してしまったほうが早いかもしれない。けど、それは……」
「マスターが中にいる限り、そんなことはできない……ならば、救出するしかありません」
「なにか方法でも?」
「ええ。僕が直接、殿を救い出します」

 宝具である四不相を呼び出すと、主人の張りつめた空気を感じ取ったのか、すぐに本気モード――麒麟の頭を持つ霊獣の姿になる。

「僕が入る時は、特にサポートはいりません。僕たちが出ようとする瞬間に、そちらからも出入口を開けてもらいたい。いいですか……」

 太公望がマシュとダ・ヴィンチに策を打ち明けると、即座に無茶だ、危険だ、と言いたげな視線が返ってきた。しかし、ふたりとも口には出さない。ここで太公望がを助け出さなければ、人類最後のマスターを失ってしまうからだ。こちらから取れる手段が少ないことが伝わってくる。

『なんとかしなきゃだ、名軍師!』

 いつかの彼女の言葉が蘇る。
 そうだ、あの一件では随分と彼女の言葉に励まされたし、気づかされたことが多かった。仮契約でもマスターの言葉というのは、こんなにも響くものなのだろうかと思った。今考えると……いや、今は過去を振り返っている場合ではない。

「もちろん、なんとかしますとも!」

 口を引き結んで四不相に跨る。
 四不相は青い炎をまとい、主人の土遁の術に合わせてシミュレーター内の個室の中――光さえも吸い込んでしまいそうな真っ黒な闇の中に飛び込んだ。


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