ほどかれた糸


 が太公望の過去の夢を見た日より、少し時をさかのぼる。
 が自分から太公望の頬にキスをした後日のこと。その日もは、午前は魔術の講義を受け、午後からは何名かのサーヴァントと共にシミュレーターで戦闘訓練にいそしんでいた。そんな彼女の帰りを、太公望はマイルームに勝手に侵入して待っていた。

「あ〜疲れたぁ……」

 はマイルームに帰ってくるなり、生気がない声で呟きながらベッドに倒れこんだ。太公望は霊体化を解いてベッドに近寄ると、の顔色を覗き込むように身をかがめた。

「おや、マスター。かなりお疲れのようですね」
「うん……午後からシミュレーターで戦闘訓練だったんだけど、結構手こずっちゃって……敵はそんなでもなかったんだけど、その後サーヴァントどうしで揉めちゃって、その仲裁が……っていうか、なんで部屋の中にいるの、太公望」

 太公望が尋ねるままに答えていたは、部屋の中に招く前にすでにいた太公望に違和感を持って、枕から顔を上げた。ベッドの傍らに立っていた太公望は、怪訝な視線を笑って流し、ベッドに腰かけた。

「それはまあ、裏技を使って。詳しく聞きたいですか?」
「……ううん、いい。たぶん詳しく聞いても理解できそうにないから。今、そんな気力ないし……」
「おやおや」

 よっぽど疲れているのか、は再び枕に顔を突っ伏してしまった。普段なら人と話す時はちゃんと向かい合う姿勢を崩さないのだが、こんなにだるそうにしている彼女は初めて見た。それだけ疲れているのか、それともそんな姿を太公望に見せられるほど、彼女に気を許してもらっているということなのだろうか。そう思うと、彼女の体調を案じる一方で、自然と顔が緩んでくる。

「僕が癒してあげましょうか、殿」
「…………はい?」

 彼女の力になってあげたくて言ったことなのだが、はよく理解できないといった様子で起き上がった。ああ、ようやく顔をまともに見せてくれた。

「いやす……って、どうやって?」
「あなたが望むならどんなことでも。体が疲れているなら回復の仙術でもマッサージでも。心が疲れているのなら……そうですね、思いっきり僕に甘えてみるとか!」
「堂々としたセクハラの打診じゃないよね……?」
「えー、やだなァ、そんなつもりじゃないのに」

 セクハラとは心外である。今の発言にそんなに下心はない。疲れているを純粋に案じているだけである。
 顔の前で手を振って否定する太公望に、しばらく疑いの目を向ける。しかし、やはり疲れているのかそれも長くは続かなかった。

「ん……じゃあ、あ、甘やかしてもらおう、かな……体の疲れは、たぶん寝たら回復するし……」

 と言って、太公望の右腕にとん、と頭をくっつけてきた。
 今のと太公望は、お試しで付き合っている関係だ。そこに妙な罪悪感やら気が引けるのか、この関係になる前よりも太公望に対して遠慮がちになっている。そんなところが彼女らしくもあり、いじらしくてなんとも言えず可愛く思えるのだ。
 こんなに疲れている時くらい、素直に胸に飛び込んできてもいいのに。

「ええ、お任せを」

 笑い声を噛み殺しながら、寄りかかってきたを抱きしめる。胸に閉じ込める前に見たの顔は、疲れで白くなっていたが、頬は少し紅潮していた。
 腕の力はそこまで込めず、がその気になればすぐにでも抜け出せるような抱擁。は最初こそ少し緊張していたようだったが、太公望が抱きしめて頭を撫でてくるだけだとわかると、だんだんと体から力を抜いていった。
 預けられた体から、彼女のぬくもりと鼓動が伝わってくる。
 それがどうにもくすぐったくて、安心して、愛おしくて。
 顎の下にあるの頭に自分の顎を乗せ、そっとくちびるを寄せた。

「ふふ……どうです、たまには甘えるのも悪くないでしょう?」
「うん……でも、あんまりやるとよくない気がする……」
「どうして?」
「クセになりそうだし……その、太公望にも悪いし」
「……僕は、こういう関係云々を抜きにしても、たまにはあなたを甘やかしたい派ですけどね」

 大小の特異点や異聞帯では過酷な状況で文字通り命を張り、待期期間中も課せられたルーティンをさぼることはない。どんな形であれ、彼女は常になんらかの努力をしている。心身ともに疲れることぐらい当たり前だ。そんな彼女がたまに甘えてくるぐらい、年長者としてはなんともないし、可愛いものである。むしろ、適度に頼ってほしいと思う。

「大人のお兄さんに甘えるくらい、してもいいんですよ、あなたは」
「……うん……ありがとう」

 小声で礼を言ったが、太公望の服を握った。面と向かって抱き着くのは恥ずかしいのか、それとも今はそんな気力もないのか。控えめな甘え方に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

(ああ、可愛いなァ……)

 思わずそうこぼしそうになるのをこらえて、代わりにの頭を撫でてやり過ごす。
 いつからだろうか、こうやって彼女のいじらしいところを見るたびにたまらなくなるのは。――触れたくなるのは。
 いつからかははっきりしない。だが、からスキンシップを迫ってきてもいいのに、と言った太公望に、が顔を真っ赤にして頬にキスしてきた時から顕著になった。
 それ以前にも、年相応の少女らしさを見た時や初心な反応を目にした時なんかに、可愛いとか触れたいとか思うことはあった。そのたびに頭を撫でたり髪に触れたり、たまには抱きしめたりしてきた。
 けれど、のペースを守ると言った一件から、触れる際に断りを入れるようにしてしまった。それがいけなかった。「抱きしめてもいいですか」なんて聞かれて、はうんと素直に受け入れるような性格ではなかった。恥ずかしがって首を横に振るのが常だった。そして、一度拒否してしまうとだんだんとハードルが上がっていくらしく、以降は全然受け入れてもらえてない。だから、今日のこれは久しぶりの抱擁だったりする。
 それも相まって、が殊勝な態度を取るたびに、どうしようもなくたまらなくなって、触れたくなる。
 果たして自分はこんな男だっただろうかと、最近顧みることが多くなってきた太公望である。
 はあ、と思わずため息が漏れてしまい、慌てての様子をうかがう。ため息の原因がだと思われては不本意だ。いや、が原因であることは間違いないのだが、今の彼女にこれ以上気苦労の種を作りたくない。

「おや」

 腕の中のは、目を閉じて安らかな寝息を立てていた。この様子だと、先ほどのため息は聞かれていないようだ。その点は安堵しつつ、腕の中で寝入ってしまったことについて、心安らげる時間を提供できたと喜べばいいのか、それとも男として意識されていないと消沈するべきなのか、複雑な心中だった。
 をベッドに寝かせ、タオルケットをかける。カルデアのどこでもそうだが、適温が保たれていて便利なものだなと感心する。一応、疲労回復の仙術をかけてやると、の顔色に少し血色が戻った。

「良い夢を、マスター。……、殿」

 少女の額にかかる前髪をかき分けて、額にそっとくちびるをつける。安らかな寝顔を見ていると微笑ましい気分になったのか、胸の中心がほのかに熱い。指先に心地よい髪の感触に、つい彼女の髪をいじってしまいそうになるが、ぐっとこらえて手放した。


 彼女のそばにいると、心地いい。元気そうな顔を見ると、ほっとする。活発で竹を割ったような性格の彼女が、少女らしく照れて赤くなった頬を見ると、可愛らしいと思う。
 それが、と一緒にいるようになって気づいたことだ。元々、善性の強い人は好きだし、彼女の人の好さはツングースカの一件で出会った時から知っていた。だから、カルデアに召喚された時も、また好いマスターに会えてよかったと思ったことを覚えている。
 そう、彼女のことが好ましい。あの時盛大に失敗した自分を最後まで信頼してくれて、自分のエゴに付き合って魔力まで惜しみなくくれた、お人好しの彼女の力になってやりたい。
 だから、彼女の自分を見つめる目が好意を含んでいると気づいた時には、どうしようかと困惑した。
 サーヴァントに好意を持ってもあなたが傷つくだけ。そう突き放したほうがいいことなど、とっくにわかっている。けれど、あの熱を持った金茶の瞳を見ていると、一方的にそんなことを言って突き放すことはできなかった。できるなら傷つけたくなかった。だから、まずお互いのことを知ることを提案した。
 いつからだろうか、もっとあの瞳が見たい、もっと色んな表情が見たい、もっと彼女のことが知りたいと思うようになったのは。
 触れる前に触れてもいいか聞くようになってからは、なかなか思うようにいかなくなった。触れたいと思った時にそれができなくなって、もどかしくて。どうすればもっと心を許してくれるんだろう、どうすればもっと近くに――
 そんな中のことだった。ある日を境にの様子が少し変わった。
 普段は変わりないのに、太公望と接している時だけ、不意に暗い目をするようになった。なにかを堪えるような、あきらめたような、にはおよそ似合わない色の目。
 なにか気に障るようなことをしただろうか。心当たりを探ってみても、なにも思い浮かばなかった。
 最近あった変わったことといえば、懐かしい夢を見たくらいだ。遠い昔、妲己に初めて見えた時のこと。悪の中で咲く大輪の花を見て、強烈に惹かれてしまった時の記憶。
 だが、それがの様子がおかしいこととどう関係するのか。妲己の夢を見たことなど、は知りようもないだろう。
 ああ、いや、でも、マスターとサーヴァントは、確か――
 そう考えを巡らせていた時のこと。昼食の時間、いつものように食堂でを待っていると、見慣れた――嫌というほど思い焦がれた、桃色の髪の絶世の美女が目の前を通りかかった。

「――妲己!?」

 思わずその名を口にしてしまって、妲己に瓜二つの玉藻の前はたちまち怒り出してしまった。間違えたことを平身低頭で謝りながら、心の内を支配する感情を必死に押さえつけた。
 ああ、やはり。別の存在とわかっていても、そっくりな姿を見るだけで、恋焦がれてしまう。彼女を一目見た時に焼き付いた感情が、胸の内を支配する。

(妲己――僕の、運命の人)

 そこで、唐突に思い至った。
 は――マスターは、自分と過去の夢を共有したのだ。
 妲己に思い焦がれる自分の過去を。


 おそらく、太公望の中に妲己を想う気持ちがあることを知ったから、は太公望の前で暗い目をしていたのだ。そうだとすれば、ブリーフィングに行く彼女を送っていった際の、奥歯に物が挟まったような様子も頷ける。
 そして、昼食の時間を過ぎても食堂にはついに姿を見せなかった。を見送ってからなにか非常事態があっただけかもしれないが、それならほかのスタッフやサーヴァントにもなにか伝わっているはず。だが、カルデアの中には、そんな気配はない。
 だとすれば、やはり自分を避けていると考えるのが妥当か。

(僕は、彼女をどうしたいんだろう)

 妲己を想う気持ちは確かにある。それは、これまで生きてきた中でずっと抱えてきた想いだ。忘れられるわけがない。
 ならば、のことは。彼女のことはどうなんだろう。
 汎人類史奪還の希望を一身に背負った、最後のマスター。大切な、マスター。
 ――それだけ? だから、彼女のことを好ましいと思っているのか?
 だからこの手で守ってやりたいと思っているのか?
 昼食をとっていないであろうのことが気になって探す途中、色々と考えてはみるものの、明確な答えにはたどり着かなかった。
 を探すといっても、パスをたどっていけば簡単なことだった。が今太公望に会いたいか会いたくないかは別として、どんな様子なのかは確認しておきたかった。
 の行き先は、地下図書館の奥の閉架図書だった。そんなところになんの用事だろうか。
 などと思いつつ彼女がいる一角を覗くと、そこにはと、の頬に触れる金髪の古代の王が目に飛び込んできた。
 ぎくりと足を止めて、とっさに隠形の術を使う。目くらましのようなものなので魔力を探れば一発でバレる術だが、そういった技術に明るくないの目を欺くには十分だ。
 太公望から見ると、と金色の王の姿は重なっている。は王に言われた通りに顔を近づけて――なにかが触れたのか、は驚いて後退りした。
 頬に触れられて、なにかを言われただけかもしれない。あるいは、本当にくちびるが触れ合っていたのかも。
 本当はどちらなのかわからない。どちらにせよ、顔と顔を近づけて触れ合っていたことは確かだ。
 王に挨拶をして出口へと去っていくの表情は、特に普段と変わりないように見える。それを見て、くちびるに触れたわけではないのだろうか、などと安心しかける。一方で、あの親密な様子は長くと共にあることの表れのような、自分がカルデアに来る前の積み重なった絆は覆しようがないことを見せつけられたような気分になり、腹の底がチリチリとあぶられたような感覚になる。
 不意に、金色の王と目が合う。すべてを見透かしたような目。あれは、千里眼だ。

「――人間とはつくづくままならぬものよな」

 太公望を見つめる深紅の瞳。嘲っているようにも、憐れんでいるようにも見えた。
 そう、ままならない。神仙に至るまで、何百、何千年と修業を重ねてきたこの身でも、人の感情は、自分の心は、ままならない。
 彼女をどう思っているのか、どうしたいのかもわからないのに、そのくせほかの男と親密そうにしているところを見ると、心が騒ぐ。
 一体なにに対して気が立っているのか。ほかの男にあんなことを許したか、それとも見せつけるためだけににたやすく触れたあの王にか。それも、わからない。はっきりと区別できない。
 とにかく、こんな状態ではとてもの前には立てない。彼女もちょうど太公望を避けたがっているようだし、今日は会わないでおくのがいいか。
 そう思い、その日は一日を終えた。
 ――この時に、もう少しとあの金色の王がなにを話していたかを考えていれば、今こんなに混乱することもなかったのだろうか。

「もう、この関係は終わりにしよう、太公望」

 そう太公望に告げてきたは、気まずいのか太公望の顔をまっすぐ見てこなかった。普段、人の目を見て話す彼女らしからぬことだった。けれど、その瞳には迷いがなかった。
 すでに決めたことなのだ。もう、この関係を終わらせると決めてしまった後なのだ。
 決めてしまった後の彼女を引き留められるような言葉が、今の自分の中にはない。
 呆然と立ち尽くして、ただの言葉を受け止めるしかできなかった。


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