夢は終わり


 彼女を――かつて戦った最大の敵とよく似た英霊を見つめる表情は、泣きそうな顔をしていた。
 そのひとのことを話す表情は、行き場がない感情を今でも抱えているように見えた。
 最初は、倒すべき相手だとか敵だとか、そんな単純な言葉で言い尽くせない対象なんだろうと思っていた。余人に語るべきことではなく、自身の中でずっと思考と自問を重ねてきた相手なんだろうと。
 そう最初は思っていただけのはずなのに、どうして今、同じことを思っても、苦しいのだろうか。
 今なお少なからず想っていることなどわかっていたはずなのに、どうして、それを突きつけられただけで、こんなに胸が痛いのだろう。

 ***

 ツングースカの一件後、しばらくして彷徨海に突如現れた異星の神。
 ちょうど新年を迎えるかという時分のことだった。異星の神の攻撃を受け、ノウム・カルデアを追われたカルデア一行は、ストーム・ボーダーに拠点を移すこととなった。ノウム・カルデア自体が時限付きの仮拠点だったため、拠点が移ることに特に大きな問題はなかったが、通常ではまず見つけられない彷徨海を捕捉され、力で潰されたとなれば、「世界のどこにいてもあの異星の神からは逃れられない」という心理的な圧迫感は少なからず全員を襲った。
 だが、人理がかかっている以上、あの異性の神とはいずれ相対するのは必至だ。逃げるという選択肢はもう残されていない。
 それはそれとして、あとひとつの異聞帯が残っている。今はその異聞帯の調査やストーム・ボーダー内の調整などが、山のように技術顧問を始めとする後方スタッフに積まれている。つまり、マスターのは現在待機期間というわけだ。
 太公望との曖昧な関係は、相変わらず続いている。
 本当の恋人ではないのに、まるで恋人のように時間を共有する。先日、少しはのペースを考えると言った通り、太公望からのスキンシップの頻度は減っていた。というか、今までなんの許可もなく勝手にハグやら髪にキスやらしてきたのに、あれ以降は触れてもいいかを事前に聞いてくるようになった。その際の雰囲気が、なにやら神妙というかぎこちなくて、気圧されたはつい断ってしまう。だから、必然的に頻度は減っている。ほぼなくなった、と言っていい。
 代わりに、のほうから稀に、彼にスキンシップをすることがある。スキンシップといっても、手に触れたり、少し勇気を出して体を寄せたりといった程度のものだが。
 からのスキンシップに対して太公望は、戸惑ったように頬をうっすらと染める。彼からのスキンシップと比べると児戯のようなものなのに、ともすれば照れているようにも見える反応をする。そんな顔をされると、も自分の行動が恥ずかしくなってきて、変な空気になってしまう。だから、からスキンシップをすることも本当にごく稀だった。

「では、僕はここまでですね。殿、いってらっしゃい」
「うん、ありがとう」

 朝食後、ブリーフィングルームの前までを送った太公望は、が礼を言ってもすぐには立ち去らなかった。じっとを見下ろしてくる。

「ん?」
「いえ……今日は、なにもないのかなあと思って」
「!」

 太公望が言っていることは、昨日同じように送ってもらった太公望にからハグをしたことを指す。ハグといっても、正面切って胸に飛び込んでいく勇気はなかったので、左腕にしがみついた、といったほうが近い。
 ただ、その行動が意表をついたのか、太公望は口元を覆って驚いていた、ように見えた。も恥ずかしくてまともに視線を上げられなかったので、太公望の詳細な表情までは見てないし、その後どんなことを言って別れたのかまるで覚えていない。
 昨日の自分を思い出してかーっと顔が熱くなる。

「な、なにもない、よ……ていうか、ああいうのはもうしないから、安心して。ごめん、びっくりさせちゃって」
「確かに驚きはしましたけど、謝る必要なんて……もう、しない?」
「うん……」

 だって、そういうの――
 喉元までせり上がってきた言葉を飲み込んで、代わりに首を振る。

「と、とにかく、もうあの事は忘れて! 恥ずかしいし」
「……じゃあ、僕からは、してもいいですか?」
「いや、あのねえ……そういうの、ブリーフィング前に……」

 またいつもの感じでからかってきた。こんなタイミングでなにを言い出すんだと、は顔を上げて、言葉を詰まらせた。太公望が、いつもの余裕の笑みとは違う顔でこちらを見ていたからだ。
 口元に笑みはない。なにも言わずにの頬に触れた彼は、薄紫の瞳でなにかを訴えるように見つめている。
 徐々に、顔が近づいてくる。

「た……太公望!」

 ただならぬ気配を感じて太公望の名を呼ぶと、彼ははっとしたようにから手を離した。その手で自分の口元を覆うと、気まずそうに視線を泳がせた。

「す、すみません……」
「う、うん……あの、もう行くね」

 気まずさに抗えず、返事も聞かないまま後ろの扉をくぐる。背後からなにか聞こえたような気がするが、新所長やダ・ヴィンチちゃんに挨拶することでそれを聞かなかったことにした。
 少しでも近づきたいと、そばにいきたいと思っていたはずなのに。遠慮なくそれをできるはずの今のこの関係は、彼と触れ合うたびになにかがずれていっているような気がした。その感覚は日を追うごとに少しずつ積み重なり、最近ははっきりと自覚できるまでに大きくなった。
 ――それもこれも、あの夢を見てからだ。少なからず後ろめたさ、罪悪感のようなものは元々あった。本当に好き合っていないのに、どうしてこんなことをしているんだろう、と。
 太公望は、本当はではなく、別の誰かにこんなふうに触れたいんじゃないか――

「サーヴァントの過去の夢? うん、確かに契約を交わしパスをつないだ以上、夢で過去を共有するということはあると聞くよ。本人同士が望まなくても、偶然なにかが一致して、ということは大いにあり得る話だ」

 ブリーフィングの後、ダ・ヴィンチちゃんをつかまえて夢について聞くと、前述の答えが返ってきた。

「それって、自分の過去を見られたっていうのは、サーヴァント側でわかるもの?」
「それは、まあわかる時はわかるだろうね。誰かに見られたとはっきりわかる者もいれば、懐かしい夢を見た、で終わることもあるだろうけど、夢を見たことを覚えているなら大抵はマスターと共有したとわかるんじゃないかな。サーヴァントは夢を見ないからね」
「あ、そうか」
「まあ、君の場合、夢の世界でなにが起こっているやら今も不明な点は多いから、一概には断言できないけどね。これまでも何回、君が目覚めなくて肝を冷やしたことか」
「う……」
「……なにか気になることがあるなら、データベースをさらってみようか? 今ちょっとシミュレーターの不正データの処理をしないといけないから、その後になるけど」
「シミュレーターの?」

 シミュレーターの不正データの処理は、普段はほかのスタッフがやっているはずだ。しかも、発生した不正データの量自体はそれほど多くないので、週に一回程度のチェックで済ませているはず。滞っているなんて今までに聞いたことがない。

「ああ、心配するほどのことじゃないよ。どうやら不正データに気づかずにバックアップ取ったらしくて、そのバックアップをチェックするだけのことだから。単に人手が足りないだけさ」
「そうなんだ。人手が足りないなら手伝おうか? データのチェックだけなら私でもできそうだし。この後は孔明先生の講義だけど、連絡すればたぶん遅れても大丈夫だと思うし」
「え、そう? じゃあお言葉に甘えようかな」

 その後、データのチェックを一時間ほどで何事もなく終えて、孔明の講義へ向かった。彼は急に別の用事を挟んだことについてはなにも言わなかったが、遅れた時間分をきっかり後ろに倒して講義を行った。そのため、昼食には一時間遅れで食堂へと向かうことになった。
 食堂の入り口に差し掛かったところで、普段聞くことのない、太公望の大声が聞こえてきた。

「――妲己!?」

 食堂の中に、太公望の姿と、青い和装の狐の耳としっぽを持った美しい英霊――玉藻の前。
 思わず入り口の扉の影に隠れる。なぜそうしたのかわからないが、その名を口にした太公望の前に出たくなかったのだ。
 常にない険しい表情で玉藻の前を睨む太公望に、玉藻の前も全身の毛を逆立てた。

「ちょっと! あんな贅沢狐と一緒にしないでくださいます!? 私は玉藻の前ですっ! 今はカルデアのマスターにお仕えする良妻狐とはこの私のこと、あんな贅沢狐とは違います! ぜんざいとおしるこぐらい違いますぅ!」
「……――! あ……ああ、あなたでしたか。これは失礼を、玉藻の前殿」

 玉藻の前に頭を下げた時の太公望の声は、もういつもの彼と変わりなく思えた。
 けれど、見てしまった。
 妲己――共有した彼の過去の中で、『運命の人』と呼んでいた存在。
 目の前の妲己と瓜二つの容姿のひとが、妲己とは違うのだと気づいた彼の、一瞬表に出した、泣きそうな顔。

 ***

(運命の人、か)

 つい数日前、太公望の過去を夢に見た。玉藻の前とそっくりの絶世の美女が、太公望に追い詰められ、呪詛を吐きながら彼と彼の仲間に首を切られる夢。
 太公望はその人を、誰よりもなによりも美しい人と――運命の人として、想っていた。
 そして、妲己とよく似た玉藻の前を妲己と間違ってしまうところを、ついさっき見てしまった。
 ただそれだけのことだ。
 それだけで、彼の前で平静でいられる自信がなくなって、食堂から足を背けてしまった。今は、地下図書館の奥、誰も来ないような閉架書庫に向かってふらふらしているところだ。

『僕は、きっとあなたを悲しませるのに』

 仮に付き合うことになる前に、太公望の言っていたことを思い出す。
 たぶん、太公望はこうなることをわかっていた。自分の心が誰に向いているかを、いずれが知ることになる。だから、当初はの想いを受け入れられないという態度を取っていた。もちろん、それ以外にも断ったほうがいいと考えていた理由はあるだろうが、一番は、「自分の恋慕の情はには向いていない」ということだろう。
 仮に付き合おうと言った太公望に対して、責める気持ちにはなれなかった。
 まだ自分の感情に混乱していたに対し、妲己が心に住んでいることを言葉で説明しても、あの時点で理解できたか、それで平静を保っていられたかどうかはにもわからない。人間は思っているほど言葉に対する理解力はない。それに、は汎人類史の奪還を背負っているマスターである。残る異聞帯と異星の神との対峙を残した状況でそのマスターの精神を傷つけることは、軍師である彼としてはできなかったのだろう。だから、太公望は折衷案としてお互いを知ったほうがいいと提案してきたように思える。そんな彼がなぜに触れてきたのかまではわからないが。
 実際に彼の心の行く先を目撃した今は、「そうなんだ」というのが正直なところだった。

(ショック……ではある。けど……なんというか、ああやっぱり、ってどこかで納得してる……)

 ツングースカでの一件からも、妲己に対してなにか思うところがあることはわかっていた。まだ彼に対する気持ちを自覚する前、玉藻の前やコヤンスカヤに対して向けていた眼差しを見かけた時も、因縁もあれど、個人的にもなにか抱えているものがあるんだろうと思っていた。
 だから、妲己が彼の中で運命の人と呼ばれていると知って、納得してしまったのだ。
 圧迫感でいっぱいの胸をどうにかしようと、深呼吸する。周りに誰もいないと思って遠慮なく吐き出した息は、盛大なため息となって想像以上に大きく響いた。

「貴様にしては珍しく陰気な面ではないか、雑種」
「!!」

 すっかりひとりだと思っていたは、声をかけられて胸の痛みも忘れて飛び上がった。けだるげで尊大な低い声と、雑種という呼称、思い当るひとはひとりだ。

「ぎ、ギルガメッシュ王……!」

 振り返った先には、奥まった図書館の薄暗さの中でもひときわ輝いて見える金色の王様がいた。深い赤のベルベットのカウチの腕かけに体をもたれかけ、ものすごく偉そうに足を組んで座っていた。手には書物、カウチの上と周りの床にもいくつか本が散らばっている。

「騒ぐな。図書館とは静かに過ごすものだ」
「あ、はい、すみません」

 図書館でギルガメッシュを見かけるのも珍しい。今はいつもの金ぴかの鎧でもなければサークレットをした姿でもなく、白と赤の布と金の装飾を裸身にまとっただけの姿だった。アーチャーの英雄王なのかキャスターの賢王なのか、どちらなのかわからなかった。

「ギルガメッシュ王、どうしてここに……普段はめったに図書館に来ないのに」
「なに、退屈しのぎだ。どれもこれも読んだことがあるものばかりで、特に面白くはないがな。ますます暇を持て余していたところに貴様が通りかかったというわけだ。許す、貴様の辛気臭い顔の理由でも話すがよい。どれだけ下らん話でも今よりは多少の退屈しのぎにはなろう」
(よっぽど暇なんだな……)
「まあ、大方例の道士のことであろう。太公望、といったか」

 ずばり言い当てられて、再び胸が窮屈になってくる。

「……王も知ってたんですね」
「あれだけ騒ぎになっているのだ、情報通の我が知らぬはずもなかろう。その顔、さては失恋したか」
「う……まあ、似たようなものですね」

 また言い当てられて、観念したはギルガメッシュに今日のことを語った。
 夢で太公望の記憶を見たこと、その記憶の中で妲己を「運命の人」と呼んで焦がれていたこと、彼女と瓜二つの英霊を見ていまだに苦しそうな表情をするところから察するに、今もなお想っているであろうということ。
 それらを黙って聞いていたギルガメッシュは、話し終えたに向かって失望の色を隠そうともせずに言った。

「おい、まさか話はそれで終わりではあるまいな、雑種」
「え?」
「貴様の話にはなにひとつ貴様の欲望が入っておらん。貴様のあの道士に対する感情とやらは、悲しみだけというわけではあるまい。もしそれだけだというのであれば、貴様はつまらぬ無欲な人間か、その心を恋愛として語るにはまだ足りぬものがあるということだ」
「悲しみだけじゃない……?」

 と言われても、太公望の想いを知ったショックと悲しみが大きく、それどころではなかった……というのが正直なところだ。
 我を見下ろすなと言われ、その辺から椅子を持ってきて座っていたは、ギルガメッシュの言葉を受けて考え込んだ。しかし、欲望と言われても、太公望に対する気持ちを今すぐ整理することは難しかった。

「今はなにも思いつかない……です。というか、こうなる前も、どうしたいとか、どうなりたいとか、考えたこともなかった……」

 というと、ギルガメッシュは目に見えて落胆した。

「貴様、まさかその有様で恋人ごっこに興じていたなどと言うつもりか?」
「そ、そうですけど……」
「無欲、ではないな。貴様はまだ愛のなんたるかを知らぬと見える。よい、退屈ついでに語ってやる。――愛とは、利権の奪い合いだ」

 なんか唐突に始まった。この酷薄な王から愛について講義を受けるというのもおかしな話だが、今は誰かと話していたい気分だった。少しでもこのぐちゃぐちゃな心中を整理したい。なにかしていなければ、泣き叫んでしまいそうになる。

「自らの人生を掛け金にして競い、奪い、時に増やし、はぐくむもの。苦しみを伴わぬ恋愛などない。今の貴様はようやく苦しみを覚えた段階といったところか」

 そうだ、苦しい。太公望のことが好きで、彼も、に触れてくるからには、少なからず好意を持ってくれているものと期待していた。だがそれは勘違いで、彼はのことを心に住まわせてはいなかった。報われることはないと知ってしまったから、この想いをどうしてらよいかわからなくて、苦しくて不安で、悲しい。

「愛とはつまり、己の欲望のぶつけ合いだ。どのように愛し、どのように愛されたいのか。まずはそれを自覚してから出直すがよい。我が貴様に足りぬと言っているのはそれだ」
「どのように、愛されたいのか……」

 考えたこともなかった。今までは、彼に触れ、また触れられても、それ以上を考えたことはなかった。
 太公望を自分のエゴに付き合わせているのではないかと、そればかり気になって遠慮して、彼の本心も、自分の心もろくに見ようとしていなかった。それでは自分が太公望とどうなりたいのかわかるはずもない。
 太公望が誰を想っていたとして、その上で自分は彼とどうなりたいんだろうか。

「それと、もうひとつ教えてやる。仮に貴様がサーヴァントの記憶を夢で垣間見たとして、それはただ貴様の主観で見ているに過ぎない。サーヴァントの真実とは程遠いということを弁えよ」
「……!」

 記憶を共有する夢が、自分の主観で見ているもの?
 確かに、記憶の夢のすべてにおいて、サーヴァントの考えていること、思ったことを共有するわけではない。だが、太公望が妲己を運命の人と呼んでいたことは事実である。
 なんとも想ってない相手に、彼がそんな単語を使うとも思えない。
 ただ、ギルガメッシュと話していて、少し落ち着いてきた。太公望の本心ついては置いておくとして、自分がこれからなにを考えればよいかの指針は大体決まった。考えたくはないが、決めなければいけないだろう。今後の彼との関係を。

「ありがとうございました、ギルガメッシュ王。これからのこと、もっとよく考えてみます」

 は立ち上がってギルガメッシュに向かって頭を下げた。すると、ギルガメッシュが視線を一瞬の後ろの書架へ向け、片眉を上げた。

「雑種、来い」
「はい?」
「近くへ寄れと言っている」

 また唐突になにを言い出したのかわからなかったが、とりあえず言う通りに近寄った。

「顔を近くへ」

 膝を屈めて目線を合わせるように顔を近づける。すると、ギルガメッシュはの頬に右手をあて、そして、そのまま頬をむにゅっとつねった。

「……! ちょっ、ギルガメッシュ王?」

 普段のギルガメッシュの扱いからすれば、力はかなり手加減されていたので別に痛くはなかった。なかったが、突然意味深に近くへ寄れと言われて言う通りにした結果がこれだ。
 一体なんなんだ……と不満げな視線を向けてみるが、ギルガメッシュはなにが面白いのか、くつくつと笑いを堪えていた。

「退屈がそこそこ紛れたのでな、その褒美を貴様に与えてやっただけのことだ。喜べ、雑種。この我が触れてやったのだ、歓喜の涙に震えるがいい」
「ええぇ……」

 痛くなかったとはいえ、これが褒美と言われても特に嬉しくなかった。まあ、この気まぐれでわがままで自己中の王様の気分が良くなったのならそれでいいか、と思うことにした。

「じゃあ、私はもう行きます。ありがとうございました」

 もう一度礼を言って、今度こそ本当に出口へと足を向ける。持ってきた椅子を元に戻して、紫式部にも挨拶してから地下図書館を出る。
 とりあえず、部屋に戻ろう。昼食を食いっぱぐれたので空腹だったが、食堂には太公望がいるかもしれない。今はまだ、彼の前で普段通り振る舞う自信がない。午後のスケジュールが始まるまでもう少しだが、その短い時間を安全なところで過ごしたかった。

(こんな気持ちのまま、太公望と仮にも恋人のままでいられるはずない……早く、決めたほうがいいよね……)

 こんな状態で太公望に触れられても、素直に嬉しいと思えないだろう。お互いを知るという目的をどれほど達成できたかわからないが、これ以上はそばにいても苦しいだけだ。
 だとすれば、取るべき選択肢は、もう決まっているようなものだった。


 が去った後、ギルガメッシュは先ほど一瞬視線を向けた、がいたあたりの後方の書架を一瞥して鼻を鳴らした。

「仙道……方術といったか。長き修行の末に不老不死を得たとて、小娘ひとりに乱されるようでは底が知れるというものだ。人間とはつくづくままならぬものよな」

 と、誰もいないはずの虚空に向かって言葉を放つ。
 静かな言葉は、図書館の薄暗い空間に伝播して、溶ける。
 ギルガメッシュの視線の先は、なんの変化もない。
 気配が完全に消えた空間を見つめ、ギルガメッシュは再度、冷笑を浮かべた。

「愛と憎しみはともにまわる織物。醜く、不条理に満ちている。――だからこそ、その中で生まれるものは美しいのだ」


←第五話                        第七話→



inserted by FC2 system