終わり良ければすべて良し
最初の違和感は、影がやけに濃いことだった。このシミュレーターは、ほかのリフレッシュ用のシミュレーターを釣り用に加工しただけのもの。基礎となったシミュレーターは、確か春のハイキング用とかそんな感じのやつだ。太陽光は夏ほど苛烈ではない設定のはずなのに、木の影が濃い。気が付けば真っ黒と言ってもいいほどに濃くなっていた。
それから、風が止んだ。木々のざわめきもなにも聞こえなくなって、静寂が耳をつく。なのに、木の影が揺らめいている。ざわざわと揺れて、影どうしが重なり合って、やがてひとつの塊になる。地面から這い出ての身長ほどに成長したそれは、のほうへのろのろと寄ってきた。
(なに、これ……!?)
光さえも吸い込んでしまいそうな黒い影がなんなのか、正確なところはわからなかった。だが、触れてはいけないもののような気がしてとっさに影と距離を取る。動き自体は鈍いので、これを避けることは簡単そうだ。
(影から這い出てきたってことは、木陰にいるとまずい……?)
足元を見る。の足元の影はまだ真っ黒に染まってなかったが、あの這い出てきたやつを中心に、徐々に真っ黒の領域が広がっている。はすぐに木陰から日光の下へと出る。
日光の下でも関係なく黒は広がっていくのか、木陰から少し距離を取ったところで観察してみる。果たして、日が当たっているところと影の境界までたどり着いた黒いものは、日光の下でも関係なく領域を広げている。まるでオセロの白を黒にひっくり返されるように、いとも簡単に地面を黒く塗りつぶしていく。
(日の下でもお構いなし……なんだろう、影っていうよりも……?)
試しに、その辺に転がっていた手のひらほどの石を黒いところに投げてみる。普通であれば、地面にぶつかってちょっとだけ跳ね返る。だが、石は黒いところに接触した瞬間、吸い込まれるようにして黒に染まり、同化した――もしくは、取り込まれた。
はすぐにオペレーターとの通信を試みる。この黒がリフレッシュ用のシミュレーターに備わっているものとは思えない。というか、ほかの戦闘用のシミュレーターでも見たことがない。明らかに異常事態が起きている。
「もしもし、聞こえますか? 藤丸です、聞こえますか!?」
切っていた通信機能を回復させ、何度かこちらから通話してみるものの、一向に応答がない。呼び出す時のちょっとしたノイズすら入らないことから、通信自体が遮断されているのかもしれない。
(これは……割とまずいのでは?)
あれはどんどんと侵食し、黒の領地を広げている。最初は一体だけだった黒から這い出たものは、三体に増えていた。あたりを見渡すと、木々の奥にも何体か見える。いくら動きが遅いとはいえ、このまま黒に侵食され続ければ、やがての逃げ道がなくなるのは自明の理だった。
なんとかして通信しなければ。通信が回復するのを待つか、もしくは異変に気が付いた誰かの救助を待つ。であれば、が今できることはひとつだけ。できるだけ時間を稼ぐことだ。
そうと決まれば話は早い。体力勝負ならもう慣れたものだ。
しかし、いくら黒いモノの動きが遅いとはいえ、侵食は四方八方に及んでいる。逃げていたらいつの間にか袋小路に立たされていたなんてことがないように、周りの状況には注意しなければならない。
は、背後から迫る黒い影のようなものから適切に距離を取りつつ観察し、周囲に気を配って逃げ道を探す、ということを繰り返した。
だが、いくらシミュレーターの中とはいえ、内部の領地、つまりメモリには限界がある。の体力もしかり。
観察した限りでは、あの黒い影に知能はない。学習ということもしない。ただ事務的に、隣接する正常なメモリを塗りつぶしているだけに過ぎない。を襲ってくるのは、単にシミュレーター内にあるメモリの一部と認識しているからだ。事務的だからこそ、理路整然と詰められているという状況だ。
どれほど逃げ回っただろうか。あれは一体なんなのか、どこから逃げてきたのか、これからどこに逃げればいいのか、などを考える余裕はすでになくなった。息は上がり、肺は酸素を求めて激しく動いて、痛い。足元を気にしている余裕もなくて、平地だろうが川だろうが関係なく進み、足もだんだんと痛くなってきた。
(どうしよう、どうしよう。周囲は、後ろは、一体どうなってるんだろう、今どこに向かえばいいんだ)
後ろを振り返って確認する余力はない。前方に見える範囲で、少しでも先に逃げられそうなほうに走るだけ。だが、前方の視界すらもだんだんと黒がちらつくようになってきて、方向の選択も難しくなってくる。
駆けた足の先の地面が、着地する寸前に黒に変わる。
(あ――まずい)
時すでに遅し、踵が黒に触れた。
その瞬間、奇妙な浮遊感に包まれる。
気が付けば真っ黒な空間の中にいた。立っているのか寝ているのか、どこが天地なのかもわからない。手足を動かそうとしても、空を切った感覚すらもないので、本当に動いているのか、体の感覚がないのか、それとも手足がなくなったのか。なにもわからない。
(ここは……私はどうなった? 生きてるのか、それとも……)
わからない。目の前は光すらも通さない暗闇が広がるばかりで、なにもわからない。目を開けても黒い海が広がっているだけなのか、自分の目が見えなくなったのかも――
「誰か……だれか!」
感覚がない中で精一杯声を出そうと口を開く。本当に口を開けられているのか、声になっているのかもわからないが、とにかく声を出す。だれか、気づいて。私はここにいる、まだここにいる。
この黒の中では酸素もないのか、息が苦しくなってくる。ああ、これは、本当にまずい――
が目を閉じる寸前、青い炎が暗闇を割くのを見た。
青い炎は、の周りにへばりついていた黒い影を焼き払う。体の近くにあっても不思議と熱く感じないそれを呆然と眺めていると、体に衝撃。
「ぅ、わっ――!」
視界に光が入ってくる。まぶしさに目を閉じていると、浮遊感ののちに、頬を撫でる風と、体に触れる心地よい微熱。
「ふう、間一髪!」
「え……? 太公望!?」
目をうっすらと開けて声の主を見る。を横抱きに抱えながらほっと安堵の息を漏らしているのは、太公望だった。本気モードになった四不相に騎乗し、空中高くに浮遊している。
「どうしてここに……っていうか、よくここに来れた、」
見上げた太公望の表情が切羽詰まっていて、思わず口を閉じる。彼は薄い紫の瞳をじっとに向けると、の頬を両手で包んだ。
「よく、顔を見せて。……ご無事ですか」
「う、ん……たぶん」
「けがはない? どこか痛むところは?」
「だ、大丈夫、だと思う……泥とかいっぱいついてるけど、たぶん」
の答えを聞いて安心したのか、長い息を吐いてを腕の中に収める太公望。
「あ、あの……!?」
「あなたが無事で、よかった。本当に――」
の肩に、太公望の息がかかる。肩を抱く指先は少し震えていて、やはり自分は危険な状況にいたのだと再認識する。本当に、間一髪のところを太公望に救われたのだ。
危うく命を落とすところだったのだと思うと、にも体の震えがやってくる。太公望の服をぎゅっと握ってしがみつくと、彼もまたを抱く腕の力を強めた。
そう長くはない抱擁の後、太公望は腕の力を緩めた。ただ、四不相に横向きに乗っているが落ちないように、の腰はしっかりと抱いている。も、ほかにつかまるところがないので太公望の背に片腕を回し、体を預けていた。その密着に思うところがないわけではないが、今はそれどころではない。
空から見下ろすと、シミュレーター内の陸地はほぼ黒に染まったといっていい状態だった。樹木も葉の先まで黒く染まりつつあり、やがてすべてが黒に食い尽くされることだろう。
「太公望、あれは……」
「不正データの海ですよ。正常なデータとメモリを食い尽くすまで増殖し続ける。あなたはあれに食われかけていました。この様子だと、僕たちの出入口も無事ではないでしょう」
「じゃあ、ここから出るにはカルデア側から開けてもらうしかない?」
「それと、中からも道をつなぐ必要があります。この黒い海の中から出入口を探し当てて、ね」
「……!」
この辺り一面に広がる黒い海の中から、出入り口のデータを探し当てる。それとわかる特徴が視認できるのならともかく、すでに黒に飲み込まれてしまった後だ。魔力を探るといった方法も使えない。探す方法は、探す時間はあるのだろうか。
太公望の顔を見上げる。彼もまた、の視線に応えるように視線を返してくる。
「太公望、なにか手があるんだね」
「無論です」
自信をもって言い切る軍師に、は一も二もなく頷いた。
「よし、やろう。援護する!」
「……いいんですか?」
なにも聞かないまま令呪を掲げたに、太公望が問うてきた。当たり前だと頷き返す。
以上の修羅場をかいくぐってきた名軍師が、自信満々に言い切ったのだ。にできることは、彼を信じてリソースを惜しみなく託すだけ。ツングースカの時だって、そうやって何度もたちを救ったのだ。今更詳しく聞くまでもない。
「大丈夫、信じてる!」
「――はい」
言い切ったを、太公望が泣き笑いのような表情で見つめる。細められた薄い紫の瞳がきれいで、こんな状況にもかかわらず、は一瞬見とれてしまった。
だが、空中にいるからといっていつまでも安全とは限らない。気を取り直して、太公望に令呪を使うため、右手を掲げようとする。その手を、太公望がそっと握った。
「太公望?」
「殿、これからすることはまあまあリソースが必要なことでして」
「うん……? だから、令呪三画持っていっていいよ?」
「はい、それはありがたく。それともうひとつ、心づけをもらってもいいですか」
「心づけ? なにかわからないけど、いいよ! 私にできることならなんでも持っていって!」
「さすが殿、なんとも男前……いえ、気前がいい。では、遠慮なく」
というと、の顎を持ち上げてごく自然にくちびるを奪った。
あまりにも自然で、かつ電光石火の出来事で。口にキスをされていると理解したのは、くちびるから太公望の微熱が伝わってきてからだった。
「……? ……!?」
目の前に太公望の顔面のアップがある。どうして私は太公望にキスをされているんだろう。なせ、一体なにがどうなってそういうことになったんだ?
文字通り固まってしまったを、太公望はくちびるをつけたまま薄く目を開けて見つめてくる。見られていると気づいて、慌てて太公望から離れようとするが、しっかりと腰を抱かれていてそれはかなわない。それどころか、角度を変えてより深く口を押し付けられる。
「ん……! ん〜!」
体の力ががくんと抜けていく感覚に、再び太公望の服をつかむ。最後にちゅ、と軽く吸い付いて、太公望のくちびるはようやくを解放した。からの非難めいた視線を受けて、にっこりといつもの糸目が笑った。
「さて、殿の期待に応えようじゃありませんか! 令呪と魔力もいただいたことですし!」
(ね、根こそぎ持っていった……!)
確かになんでも持っていけとは言ったが、本当に根こそぎ持っていくとは思っていなかった。体に力が入らない。というか、魔術師の名門でもないの魔力なんて、たかが知れている。それこそ令呪だけでもよさそうなものだが、一体どうしてキスなんて。
(キス……そうだ、私、太公望に……いやいやいや、今はそんなこと考えてる場合じゃない!)
キスというワードに一瞬頭が混乱しかけたが、頭を振って強引に思考から追い出す。今は文字通り生死がかかっているのだ。
「令呪をもって命ずる――!」
気を取り直して、だるい腕を持ち上げて令呪を掲げる。一画、二画、三画と、の右手の甲から令呪が消える。
「思想鍵紋励起、術式展開」
全身から魔力を迸らせた太公望は、東洋魔術――仙術の詠唱を行いながら、四不相をさらに上昇させる。もうこれ以上行けない、メモリの端っこの目も眩むような高さにまで上昇する。空は青く、貼り付けられた太陽のテクスチャはそのままに、地上だけが黒く染まっている異常な光景。
「――特権領域・強制接続!」
特権領域に接続した太公望は、打神鞭を天に向かって放り投げる。打神鞭の二十一節・八十四符印を一気に発動させ――令呪三画との魔力、そして特権領域への接続によって、神仙級の魔術を放った。
本来ならば神のみを打ちのめすための宝貝だが、膨大な魔力で増幅された威力をもってして、地上のデータを食い尽くそうとしている黒いモノを一掃したのである。
***
太公望の策とは、つまるところ「地上を覆っている不正データをすべて、行使した魔術の情報で上書きし、侵食を止めた後で強制的に出口を作って脱出する」という至ってシンプルなものだった。
「まあ、小難しく針穴を通すような策よりは成功率は高いだろうけどね。軍師なのに武闘派とは、ある意味伝説どおりだね」
力技で窮地をなんとかした太公望の策に、半ば呆れていたダ・ヴィンチの言葉である。
シミュレーターから脱出した後、一瞬でも不正データに飲み込まれたを待っていたのは各種の検査であった。太公望には色々と……いや、主にキスのことを聞きたいは、あれこれと検査と診察を受けている間、あの時のくちびるの感触やぬくもりを思い出しては頭を悩ませた。
検査が終わったのは夕食の時間を過ぎて、食堂にも人の気配が少なくなったころだった。一連の事態を知らされていた赤い弓兵は、また事件に巻き込まれたの身を心配しつつ、デザートのプリンに生クリームを添えてくれた。なんだかんだとマスターには甘い男である。
そして、マシュの見送りを受けて、マイルームへと帰ってきた。そこには、当然のように太公望が待っていた。
「おかえりなさい、マスター。検査はどうでした?」
勝手に部屋に侵入していることについて、今は言及しない。誰かが魔力をガバっと取っていったせいで疲れているし、も太公望と話がしたかった。
「なんともなかったよ。太公望が助けてくれたおかげだよ、ありがとう」
ベッドに腰かけながら太公望に礼を言うと、彼は照れくさそうに眉尻を下げる。の隣に腰かけると、少々気まずそうに頬をかいた。
「いえ、元はと言えば、僕のせいでもありますから」
「太公望のせい? どうして?」
「あのシミュレーターはあなたが僕のために作ってくれたようなものですし……それに、あの時あそこにいたのは、僕のせいでしょう」
そうだった。不正データの増殖に巻き込まれてからすっかり頭から抜け落ちていたが、そういえば失恋したのだった。
事件になる前に考えていたことを思い出した。太公望が想う妲己のこと。――だったら、太公望はなぜ自分にキスをしたのだ?
「あなたが共有した僕の過去のことも含めてお話しする前に……まずは、謝らせてください。すみませんでした」
「え……」
「僕がしたことは、あなたを悩ませて、傷つけるだけでした。本当に、ごめんなさい」
といって、太公望はに頭を下げた。がなにかを言う前に、太公望は続ける。
の善性が好きで、サーヴァントとしての心を曇らせたくなかった。だからむやみにの気持ちを断って傷つけてしまうことを恐れたということ。のような現在を生きる少女には、自分のような存在はふさわしくないと思い、付き合う中でそれをわかってもらおうとしたこと。――その中で、どんどんに惹かれていったこと。
「……え?」
思わず戸惑いの声を上げてしまったに、太公望も苦笑いを浮かべた。に惹かれていたこと自体、本人も今日ようやく自覚したのだ。にはなおさら理解しがたいことだろう。
「いつから惹かれていたのかは、僕にもよくわからなくて……ただ、いつの間にか、あなたの近くにいることが心地よくて、そばにいたくて、声が聴きたくて、触れたくて……どうしようもなくあなたが可愛くて仕方なくなった。あなたから想われているという事実が嬉しくて、たまらなくて……でも、あなたに手を伸ばすほど、あなたは戸惑った。僕には想っているひとがいることを知っていたから。皮肉にも、距離が近づいたせいであなたは僕の過去を見てしまった」
そうだ。妲己のことを夢で共有する以前も、太公望から恋人のようなスキンシップを受けるたび、罪悪感のようなものが襲った。それはおそらく、ツングースカの一件で垣間見た、太公望の妲己に対する複雑な感情を心の底で覚えていたからだ。
再び顔が曇るを、太公望はまっすぐに見つめる。
「妲己は……僕の仇敵、絶対に倒すべき悪であるとともに、僕の価値観を丸ごとひっくり返したひとでした。僕の目の前で、罪もない人々を言葉にするのも憚られるような残酷なやり方で大勢殺して……それでもなお、彼女は美しかった。悪の中であんなにもあでやかに咲く華があるのだと、僕に強烈に刻み付けたひとでした。それは、今も変わりません。多少色褪せようと、変わらず僕の中で生き続けています」
「……うん」
倒さなくてはならない敵なのに、それほどまでに強烈に惹かれてしまった。妲己はどうあっても首を落とさなくてはならなかった。でも、転生した妲己の魂ならば。いつかどこかでまた巡り合ったら、その時は今度こそ生かす道があるのではないか。生かす方法があるのではないか。そう思って、神仙に至る何千年の修業の最中、卵として別の宇宙へと打ち上げる策と手段を用意していたのだ。
ツングースカの一件で見た、あまりの規模の大きさと行使する負担の大きさから、術者の霊格までをも砕くような大術式。そして今回の一旦となった、夢で共有した妲己への強烈な印象。その両方を知ってしまったから、は失恋したと思った。
胸が痛い。やはり本人の口から改めて聞くと、失恋したことを思い知らされる。
「妲己への想いを、どう表現したらいいんでしょうね。忘れられない、僕の世界を、運命を変えたひと。別の世界でもどこでも生きていてほしい。もちろん悪を為すのであれば、その時は僕が何度でも退治しますけど。ただ、妲己とどうなろうとか、共に生きたいと思ったことはありません」
「……え?」
「それって、なんて表現すればいいんでしょうね。僕も大概長生きしてますけど、なかなかうまく当てはまる言葉が見つからなくて……惹かれてはいましたけど、愛とはまた違うんでしょうね。僕は妲己のことが憎いわけではないですから」
『仮に貴様がサーヴァントの記憶を夢で垣間見たとして、それはただ貴様の主観で見ているに過ぎない。サーヴァントの真実とは程遠いということを弁えよ』
いつか、の悩みを聞いた英雄王が言っていたことを思い出す。確かに、こうやって太公望の口から聞くまでは、その感情がどういったものであるかまでは、にはわからなかった。運命の人という響きだけで失恋したものだとばかり思っていた。
少しはまともに太公望の顔を見られるようになったを、太公望もほっとしたような様子で見返してくる。妲己への感情は時間が経ちすぎていて、なんと形容すればよいか、太公望もつかみかねているようだ。
だが、それでも言い切った。共に生きたいと思ったことはない、と。
それは、まだにも望みがあると思っていいのだろうか。
惹かれていると言われたことを、そのままの意味と受け取ってもいいのだろうか。
かすかに震えるの手を、太公望が両手で包む。手の甲の令呪の痕を、愛おしげに指でなぞる。
「僕は――今ここにいる、あなたのサーヴァントとして現界した僕は、あなたを失いたくない。大切なあなたを、僕の手で守りたい。それは、マスターとしてだけじゃない。ずっと、あなたのそばにいたい」
「そ、れって」
「あなたが好きです、殿」
その言葉が耳に入って、意味を頭で理解したときの感情を、どういったらよいのだろうか。
今日は彼と仮の恋人関係を終わらせて、これでもう彼と自分をつなぐものはなくなったと、失恋したと泣いたばかりなのに。それはの思い込みで、太公望はちゃんと自分のことを見てくれていた。心を割いてくれていた。好きだと、飾らない言葉で言ってくれた。
そのことが、本当に、本当に嬉しくて。
言葉を返すよりなにより、涙があふれていた。
「あれ、ご、めん、なんで泣いて」
慌てて目をこすろうとするの手を、太公望はぐっと握って引き留める。代わりに、優しくの頬を包み込んで、顔を近づけてくる。泣いている顔をよく見せてと言うように。涙に濡れた瞳を覗き込むように。
「悲しくて、嫌だから泣いているんじゃないんですよね?」
「う、うん、違うよ! 嫌じゃない」
「じゃあ、嬉しい?」
「……嬉しい。嬉しい……」
ずっと片想いだと思っていた。失恋したと思っていた。だから、太公望も自分を想ってくれて嬉しい。
再び流れるの涙を、太公望は指で優しくぬぐった。大切に、ぬぐう指でも傷つけたりしないように。想いが実って嬉しくて泣いている少女を、愛おしさを隠そうともしない瞳で見つめる。
「僕も、嬉しい。あなたを失うかもしれないという時になって、ようやく自分の心に気づいた僕だけど……あなたの恋人にしてくれますか? あなたの、本当の恋人に」
始まりは、の恋心をそれとなく諦めさせるためのかりそめの恋人関係。
それを、今度こそ本当の意味で――
胸が詰まって、のども苦しくて、言葉にならない。ただ深く頷いたを、同じく嬉しそうに、そしてどこかほっとしたような色をにじませながら太公望が破顔する。
「殿……。僕の可愛い人、――愛しい人」
万感の想いを込めた言葉と共にの口に触れたくちびるは、シミュレーターの中で触れた時よりも熱くて、優しくて、胸がぎゅうっと締め付けられて。けれど、涙があふれてくるような苦しさではなくて、じわじわと体を熱くして、ふわふわと飛んでいきそうなほど――夢みたいで。
くちびるが離れ、太公望に抱きしめられた時には不思議と涙は止まっていて、あとには心も体も溶けるような幸福感がを満たしていた。
***
その後、晴れて恋人同士になったふたりはというと、お試しの恋人だった時となにかが劇的に変化した――というわけではなく。ただ、想いを交わし合って、幸せを日々堪能していた。幸せそうに緩みっぱなしの太公望の顔を見たニキチッチは、の見てないところで太公望をどついていた。
変わったことといえば、戦闘シミュレーターでの模擬戦でも微小特異点でも、戦闘が発生するような時には必ず太公望がついてくるようになった。
今日も今日とて太公望以外のサーヴァントと模擬戦をしているのだが、の隣には常に太公望が寄り添っている。それを、ほかのサーヴァントがどう思っているか、向けられた視線の生暖かさで推して知るべしといったところか。
「あの……特異点ならまだしも、別にシミュレーターの模擬戦なら心配するようなことなんて滅多にないし、無理してついてこなくてもいいよ?」
生暖かい視線に耐え切れずにが言うが、太公望も簡単には譲らない。
「単なるシミュレーターの模擬戦で、サーヴァントも伴っている状態だから危険は少ないことは、もちろん僕もわかってますよ。でも、それはそれとして、あなたは僕が守りたいんです」
「う……あ、ありがとう……」
「それに、この前のようなことがないとも限らないですしね」
確かにそうだが、あの事件は異例と言っていい。いくら人手不足とはいえ、使用率の高いシミュレータールームはちゃんと人員が割かれ、管理されている。シミュレーターごとに自己修復機能もあるし、定期的にデータのチェックと処理さえしていればあのようなことはまず起こらない。今回のあれは、釣りシミュレーターの細かい設定やセキュリティ面を、専門スタッフがチェックする前に起こった事態だった。非戦闘用のものだから後回しでいいと、もほかの誰もが油断していた。そして、たまたまがひとりでシミュレーター内に残っていた時に事件が発生したことが、事態をさらに深刻にしてしまった。あの後、ゴルドルフ所長からは反省文の提出を命じられ、マシュと一緒に頭を悩ませながら書き上げ、今朝がた提出してきたところである。
なんにしろ、あの一件以来、太公望は自分の目の届かないところでの身に危険が及ぶことを看過できないらしい。模擬戦であっても戦闘と聞けば、こうやってついてくるのである。なんだか気恥ずかしいと思う反面、大切に想ってくれていることが伝わってきて、実は少し嬉しいである。
(でも、カルデアの中で、ほかのサーヴァントがいるんだったら、少しは信用してくれてもいいんじゃないかなあ……)
南極にあったカルデアが襲撃されたこともあるし、この間も彷徨海のノウム・カルデアが襲われたばかりである。カルデアの中が安全とは言い切れないが、せめてほかのサーヴァントがのそばにいる時くらいは、と思わなくもない。
そんなの考えを見透かしたように、太公望が言った。
「まあ、ほかの英霊を信用してないわけではないんですが。敵があの異星の神となると、ひとりくらいほぼなんでもできる術師がいてもいいんじゃないですか。それこそ、仙境なりアヴァロンなり、どこへでもあなたを逃がせるような、ね」
「太公望……」
「今を生きるあなたには翼がある。白紙化された今はちょっと無理ですけど、行こうと思えばどこへだって行けるし、未来あるあなたには、道はどこまでも続いている。選べる道、選択肢は多くはないかもしれないけど、途切れることなく道は続く。僕は、そんなあなたを守る存在でありたい。いつも一緒……は、さすがに難しいでしょうけど、できうる限り。あなたの翼を守る風でありたいんです」
と、太公望が不意に術式を発動した。その直後、少し離れたところで戦っていたサーヴァントの振り下ろしの攻撃で地面がえぐれ、細かい石の破片や土埃がこちらまで飛んでくる。とっさに目をつぶるが、太公望が起こした風がを包み込むように守ったことで、は事なきを得た。
「お守りしますよ、僕が。ずっとね」
「……ありがとう、太公望」
の顔を覗き込んで、涼しい顔でにっこりと笑う太公望に、は自分から抱きついた。
この道士はさらっと言うが、今までの実績から考えると絶対に言ったことは実行するのだ。だから、本当にのことを最後まで守り抜くと――彼がそう決めたのならそうするのだと、にも伝わってくる。その気持ちがとても嬉しくて、自分もそれに甘えることがないように頑張らないといけないなと身が引き締まる。
抱き着いた後の反応がないので顔を上げると、太公望は口元を覆って顔を赤くしていた。どうやらからの不意打ちのアタックに照れて、なにもできなかったようだ。
「……あのさあ、なんで私から抱き着いたりするとそんなに照れるの? 自分からはもっとすごいこと平然としてくるくせに。私まで照れるじゃん」
「だって……すっごい可愛い……」
赤い顔のまま小声で低くつぶやいた太公望は、諸々の感情をこめたため息をついた。そして、抱き着いたまま呆れているをぎゅうっと抱きしめ返し、すりすりと頬ずりする。
「はあ、可愛いなァ……今日もあなたはすごく可愛い。ほらこっち向いて、キスしましょう、キス」
「〜〜そういうところなんですけど! こんな公衆の面前でできるかあ!」
「んもー照れ屋さんなんだから。そんなところもすごく可愛い」
さっきまでかっこよかったはずなのに、今はへにゃっと顔を緩ませてに迫っている姿は、とても伝説の名軍師とは思えない。今ここにニキチッチや旧知のナタがいれば、容赦なく太公望をどついていることだろう。ふたりともここにいないので、模擬戦に参加しているサーヴァントから「なにいちゃついてんだ……」という生暖かい視線を向けられているだけである。
太公望の熱烈な抱擁をなんとか抜け出すと、再び模擬戦のほうに集中する。太公望も、マスターの様子に口を閉ざして後ろに控える。
――翼とは、たぶん言いすぎだ。選択肢があるといっても実際に選べるものはいつだって少ない。はカルデアに来るまで、ごく一般的な家庭でごく平凡な人生を送ってきた。今も、多くの仲間が支えてくれるからなにかを成し遂げられる。なんでもは出来ないから、なんでもは選べない。
(未来あるあなた、か)
その言葉が、と太公望の間にある絶対的な違いを示していて、は少しだけ胸が痛くなった。太公望が意図して言ったのではないとわかっているが、いつまでもそばにいたいと思っている程度には太公望のことが好きなので、なんでもない言葉でも悲しくなってしまうのだ。
でも、受け取りようによっては、いつかが人理の奪還を成し遂げた後も、ずっと守っていきたいと言っているような――
(やりかねない……裏技だとかなんとか言って……)
そもそも彼が普通の英霊なのかもまだよくわかっていない。今は英霊の座から来ているっぽいが、神仙――高位の存在となった彼が、座を通さずに分霊を飛ばしてきている、なんて噂も立ったぐらいだ。やりそう感は否定できない。
後ろを振り返る。邪魔にならない程度に距離を取っていた太公望が、不意に振り返ったに首を傾げつつ微笑みを向けてくる。
このやり取りが、がマスターである間はずっと続いていく気がして。マスターでなくなっても、ずっと続いていくような、そんな予感さえする。
そう思うと、なんだかくすぐったくて、嬉しくて、思わず吹き出してしまった。
「……? ?」
「ううん、なんでもない! 好きだなあって思っただけ!」
「――!」
また不意打ちを食らって白い顔を赤く染めた太公望を見て、今度こそ声に出して笑ってしまう。
ああ、本当に、こういう時間が続けばいいのに。
いつまでも、ずっと、一緒にいられたらいいのに。
人間と英霊。大前提からして違いすぎる存在で、本来なら人生を共に歩むような存在ではない。けれど、はそう悲観してはいない。今が楽しければそれでいいとか、そういう刹那的な主義でもない。
ただ、この糸目の大軍師を心の底から信じているだけだ。
「! やっぱりキ」
「しません! …………………あ、あとでなら……いいよ」
「!!」
「こらー! 今はこっちに集中しろマスター!」
結局いちゃついてしまうマスターに、模擬戦中のサーヴァントからついに注意が飛んでくるまで、そう時間はかからなかった。
終わり良ければ、すべて良し
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