わるい男と可愛い人


「今度こそ釣りに行こう?」

 食堂で食後のお茶を飲んでいたは、太公望の発言を鸚鵡返しにした。黒い道士服の裾をなびかせながら食堂を訪れた太公望は、に挨拶するなりそう言ったのである。

「はい。この間はなんだかんだと釣りらしいことはしてないですし」
「またあのシミュレーターを使うってこと?」
「ええ。あなたの都合さえよければ」
「今日はもう特に予定はないけど……でも、結構急だね?」
「そうでもないですよ。この間別れ際に言ったじゃないですか、今度はちゃんと釣り餌もつけてやりましょうって。あれから殿と話す機会がなくて一週間くらい経ちますけど、覚えてます?」
「う、うん、覚えてるよ」

 話す機会がなくて一週間経つ、と言われて、はどきりとした。これまで二、三日話さないことはあっても、一週間も顔すら合わせていないのは初めてである。
 もちろん、それはが故意にやったことだ。つまり、太公望を避けていた。太公望に好意を抱いていると自覚したあの日から、姿を視界に入れずに過ごせば気のせいにできると思ってのことだ。

(気のせいだと、思いたいのに……なんで、顔を見るだけでこんなにドキドキしてしまうんだろう)

 彼の顔を見ると、やはりあの時に自覚したような熱と戸惑いがを襲う。一週間避けていたのに、また振り出しに戻ったようだ。

「では、今日これからお誘いしても?」
「……う、ん。いいよ、行こう」

 がさりげなく太公望の顔から視線を反らしながら頷くと、彼はにっこりと笑った。
 太公望の嬉しそうな顔を見ると、恋を自覚する前のような「仕方ないなあ」という気持ちになる。今はそこに「そんなに嬉しそうな反応を返されると勘違いしそうで困る」が加わった。への感情は割とストレートに伝えてくる太公望のことだ、今も純粋に嬉しいのだろうが、それがにとっては嬉しくもあり苦しくもある。
 一通りの準備をして、例の釣りシミュレーターへとやってきたと太公望。今度はシミュレーターの内部のチェックがないので、時間には余裕がある。とはいえ、オペレーターを頼んだマシュには夕食前に予定があるらしく、利用できて二時間ほどといったところだ。
 はい、と太公望から渡された釣り竿には、今度は返しがある針がついていた。

「おお、ちゃんと釣り用の針」
「約束ですから。その代わり、今回も僕は見ているだけですけどね。マスター、虫は平気?」
「平気……というほどでもないけど、まあ大丈夫。触れるよ」

 本当はできれば触りたくないが、これまでの旅で触れるようになった。野宿することも多いので、虫でいちいち騒ぎ立てていたら体力が持たない。慣れるしかなかったというのが正しい。

「こういう渓流にいる魚は虫を釣り餌にすることが多いんです。今は練り餌なんていう、すり潰した餌を丸めて針につけるっていうものもあるみたいですけど」
「へえ……」

 以前にテストで訪れた時と同じような渓流に来ている。そうか、海と川では魚の種類も違うから餌も違うのか。

「ちなみに、虫ってどんな?」
「一番多いのはミミズですかねぇ」
「み、ミミズを針に刺す……」

 ミミズは野宿で遭遇する率が高いので、もちろん触ることはできる。が、あのうねうねを針に刺すとなるとどうだろうか。
 針に刺すところを想像して険しい顔になったを、太公望が苦笑いでなだめた。

「大丈夫、僕も精一杯応援しますから」
「くそう、殺生か……」

 他人事だと思って、と軽くにらんでやると、太公望は苦笑いのまま肩をすくめた。

(……大丈夫、ちゃんと話せてる。普通にできてる、よね)

 自分の気持ちに気づいてからふたりきりになることがなかったので、ちゃんと以前のような態度を取れるか不安だった。今のところ、大丈夫なのではないかと思う。あまり嘘が得意ではないが、こうして思いを隠して接することは案外できるものなんだなと思った。
 釣りは、最初のほうこそ小魚を何度か釣りあげたが、そのうちまったく引っかからなくなった。投げ込む位置を変えてみたりしたが、特にめぼしい釣果はなかった。川のせせらぎと草木がこすれる音だけが聞こえてくる中、次第にの瞼が重くなってきた。
 寝てはいけないと思えば思うほど、眠気が強くなっていくのは気のせいだろうか。最初は船を漕がないよう耐えていただが、徐々に眠気に抗えなくなっていき、ついには隣に座っている太公望に寄りかかって寝てしまった。

「おや」

 太公望が小さく声を出しても、は眠ったままだった。日頃の疲れが出たのか、それとも最近の恋煩いのせいか。だんだんと太公望にかかる重みも増していき、本格的に寝落ちしそうになっている。
 太公望は、そんなを嫌がるふうでもなく、釣り竿を取り上げて地面に置いた。の肩に手を回して体を抱き寄せると、自分の膝を枕にするようにして、そっと仰向けに寝かせた。

「ん……」

 体勢が変わったのでが目を開けそうになるが、太公望が眠りを促すように瞼の上に手を置いたので、またすぐに寝入ってしまった。
 が静かに寝息を立て始めると、太公望は目元から手を離して、無防備に晒されたの脚に自分の上着をかけた。シミュレーター内は適温適湿だが、ミニスカートの素足ではさすがに冷えるだろうと思ってのことだった。
 それから、の髪を弄り始めた。
 顔にかかる前髪を払ったり、自分の腿に散る毛先を指に絡ませたり。ハリのある感触を、の寝顔を眺めながら楽しんでいた。

「こうしていると……あなたは本当に、ごく普通の女の子だ」

 マスターである彼女と接していて、度々感じることだった。人類最後のマスターということ以外、本当に普通の女の子だ。おそらくカルデアと関わる前は、ごく普通の一般的な環境で平和な暮らしを送っていたのだろう。本当は触りたくない虫を針につけるのを嫌がったり、退屈に負けて眠ってしまったり。なんてことはない、どこにでもいる少女。
 あとは――そう、恋心を自覚して困惑のあまり相手を避けたり、とか。
 小さく息を吐く。
 膝の上の少女はまだ目覚めない。サラサラと少女の髪を指で遊びながら、太公望はしばし、少女の寝顔を眺めていた。

 ***

 が目を開けると、樹の枝葉が見えた。葉の隙間から漏れる光がきらきらとして、寝起きの頭でぼんやりとそれを眺める。

「起きましたか、マスター」

 なにかが自分の髪を梳く感触とともに声が降ってきた。誰の声だろうとまだ覚醒しきらない頭で考えていると、木漏れ日の間に割って入るように太公望が顔を覗かせた。

「……太公望?」
「はい」
「え? ……あっ、ごめん! 寝ちゃってた! ひ、膝、枕まで……」

 今の状況をやっと理解したが起き上がろうとする前に、太公望がの額の上に手を置いた。

「慌てなくても大丈夫ですよ。僕の硬い膝でよければ、気が済むまで使ってください」
「で、でも……足疲れてない? 私、どれくらい寝てた?」
「ほんの十分ほど。足は疲れてないので、まだ寝ていてもいいですよ」
「え、でも……」
「いいからいいから」

 と、太公望はまたの髪を指で梳いた。髪を結ってもらって以来、ことあるごとに太公望に髪をいじられている気がする。たぶん、太公望はなんの気なしにやっているのだろうが、こちらとしては、そんななんの気なしの行動にもいちいち意識してしまう。
 普段より早く脈打っている心臓を落ち着かせようと、こっそりと深呼吸をする。風が肌を撫でる感触も、木々のざわめきも、草木のにおいも本物のように心地よい。なのに、頭の下に好きな男の足があり、なおかつその男に髪をいじられているという事実が、なにひとつ落ち着かせてくれなかった。

「……本当に、あなたは」

 おもむろに太公望の声が降ってきた。いつもよりも声が低い気がして、反らしていた目を太公望に戻す。

「どうして、僕なんかがいいんでしょうね」

 閉じていた目を開いて、太公望が膝の上のを見つめる。

「僕は、きっとあなたを悲しませるのに」
「――!」

 その瞳に若干苦い色が混じっているのを見つけて、は飛び起きた。
 もう知っているのだ、が太公望を好いていることを。その意味も。

(うそ、知られてる、なんて……いつから?)
「目を見ればわかりますよ。それこそ術なんて使わなくてもね。あなたは素直な目をしているから」
「う……」

 心を読んだように答えを返してくる。は恥ずかしさのあまり、また逃げ出したくなった。だが、もう知られてしまっている以上、逃げて先延ばしにしても意味がない。

「じゃ、じゃあ、私が太公望のことを避けてたのも気づいて」
「まあ……なんとなく?」
「うう……」
「――どうして、僕なんです。ほかに美しい人も、あなたのためにどんなことでもしてくれる人もたくさんいるのに」
「そ、んなの……わからない。自分でも、どうしてこうなったのか……」

 わからない。どうして太公望を好きになったのか、なにがきっかけなのかなんて。そんなこと、だって何度も考えた。でも、考えても全然わからないのだ。
 ほかに見目の麗しいサーヴァントはたくさんいるし、のことを気にかけてくれるサーヴァントもたくさんいる。それこそ男女の区別なく、を慕ってついてきてくれる。にとっては誰もが大事な仲間。
 でも、こんな気持ちは初めてだ。最初は、とんでもなく有能でほぼなんでもできる人なのにどこか抜けていて、なんだか放っておけない人だなあと思っていただけのはずなのに。
 それがいつの間にか、そばにいるだけでドキドキして、どうすればいいのかわからなくなるくらいに、ただひとりのことしか考えられなくなって。
 そう、どうすればいいのかわからない。こんな気持ちになっても、太公望にどうしてほしいのか、太公望とどうなりたいのかもわからない。なにもわからないままなのだ。
 戸惑いに満ちてあちこちに視線が泳いでいるの目を、太公望の薄い紫の瞳が見つめる。じっと、心の底を覗き込むように。

「その、だからといって、太公望になにかしてほしいとか、そういうことでもなくて……自分の中でもまだ整理が全然ついてないというか……」
「うーん……困ったなァ……」

 太公望が、参ったと言わんばかりに自分の白い頬をかいた。

「サーヴァントとして、というか年長者としては、マスターのためを思うなら止めるべきなんでしょうが……」
「私のため?」
「だって、あなたとは生きる世界が違いますから。――そういうことでも、あなたを悲しませる、きっとね」

 それも、だって考えた。こうして目の前で話していても、すでに肉体は滅んでいる影のような存在が英霊だ。太公望がそれに当てはまるのかはわからないが、ノアと「グラ友」とかいうくらいだし、座には行っている……のだと思う。なんにしろ、現在進行形で人間として生きているとは住む世界が違う。

「そんなこと……わかってる。私だってもう何回も考えたよ。でも、それでもこの気持ちは止まってくれない……どうにもできなくて、どうしたらいいのか」
「――わからない、か。うーん……そうですねぇ……」

 太公望も再び考え込んでしまった。当のがこの気持ちをどう扱えばいいのかわからないのだ。太公望だって、いきなりマスターから恋愛感情を向けられても困るだろう。

(たぶん、なにもなかったようにして、この気持ちをだんだんと忘れていくのが一番いいんだろうな……)

 それが無難なところだろう。そもそも恋仲になろうなどと思ってはいけないのだ、マスターとサーヴァントは。魔力供給云々で性行為を行うことはあるらしいが、魔術師がサーヴァントにそんな感情を抱くことなどない、と聞く。サーヴァントは一時絶大な力を貸してくれるけれど、人生を共に歩む存在ではないから。
 ならば、やはりこの気持ちはフタをして封じるしかないのかもしれない。

「じゃあ、こういうのはどうですか。僕たち、試しに付き合ってみます?」
「……………………は?」
「だから、お試しで付き合ってみますか」

 一体なにを言い出したんだろう、この男は。試しに付き合う?
 が思い切り怪訝そうな表情を返すが、太公望は微笑むだけだった。

「どうすればいいかわからないということは、おそらく判断材料が不足していると思うんですよね。だから、お互いのことをもっと知る。どうです?」

 どうです、と言われても。

「で、でも、それ……もし私が、やっぱ気の迷いだったごめーん、ってなったらどうするの? あまりにも失礼じゃない?」
「うーん……それはそれで、僕は気にしませんよ。マスターが迷いを振り払ってくれるなら」
「ええ……そうかなあ……」
「たぶん、まだあなたは僕のことをよく知らないんです。僕がどういう男なのか、あなたの好意に値する男なのかどうか」

 確かに、が知っている太公望は、ほんの一部だろうが、それにしたって試しに付き合ってみるとは。リスクが高いような気がするのは、考えすぎだろうか。

「でも、試しにって、どれくらい……?」
「あなたが満足するまででいいですよ。どうです、悪い話じゃないでしょう?」
「う〜〜〜ん……いいとか悪いとか、そういう問題かな……?」
「それに……僕も、あなたのことをもっと知りたい」
「……!」

 気が付けば、また太公望がのことを見つめていた。

「あなたが僕のことを知って、どういう決断をすることになっても、僕は構いません。あなたの意思を尊重すると、約束します」

 おそらく、本当にそうなのだろう。太公望は口が上手いし方便も使うが、人を不幸にする嘘は言わない、と思う。
 ただ、それでも試しに付き合ってみるというのは、としては怖い手段だった。しかし、太公望のことをもっと知りたい、もっと近くで、別の顔も見てみたいという欲があるのも本当だった。

「…………わ、わかった。じゃあ、そうしよう。でも、私だけじゃなくて、太公望ももう十分だとか、少しでも嫌だとか面倒だとか思ったら言って。すぐにでもやめるから」
「はい。では、今からあなたと僕は、恋人、ですね」
「……う、うん」

 改めて恋人と言われると、後ろめたさというか、本当にこれでいいのかという気持ちが押し寄せてくる。自分はともかく、太公望はのことをそんなふうには思っていないだろうに。
 早くも後悔しかけるに向かって、太公望がおもむろに腕を広げてみせた。

「ほら、殿」
「……? なに?」
「さあ、この胸に飛び込んでおいで」
「は……はあ!?」

 太公望のいきなりの言動に、思わず大声を出してしまった。そんなに構わず、太公望はにっこりと笑って、さあさあ、と腕を広げている。

「ちょ、いきなりなに……!?」
「なにって、恋人といえばスキンシップじゃないですか。遠慮せずに、さあ」
「い、いきなりすぎる! む、無理無理……!」
「えー、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」

 笑顔のままじりじりとハグを迫ってくる太公望に背を向ける。好きな男とよくわからないうちに付き合うことになって、ただでさえ頭も心も追いついていないのに、いきなり胸に飛び込むとか、そんなことできるわけがない。心臓が持たない。

「うーん……仕方ないなァ……」

 後ろからつぶやく声が聞こえてきた。これで諦めてくれるのかと胸を撫で下ろす。その直後だった。
 の背中に、温かい感触が触れた。それから、お腹に自分以外の腕が回されて、そっと抱きしめられた。

「!?」
「じゃあ、僕から」
「たっ、太公望……!」
殿は照れ屋さんだなァ。そんなところも可愛いけど」
「かっ……!?」

 耳のすぐ後ろから聞こえてくる低い声と、背中の温かさに、はもう声が出なかった。声を出すことも体を動かすことも、どうやってやればいいかわからなくなったように、パクパクと口を開閉することしかできなかった。
 そんなの状態を、真っ赤な耳元で察したのか、太公望が小さく笑った。右腕が腹部から離れていき、拘束がひとつ減ったとほんの少しだけ緊張が解ける、はずだった。
 太公望は、自由になった右手での髪をひと房取って、くちびるを落とした。
 後ろを向いたままなので最初はなにをされているかわからなかったが、次第にちゅ、とリップ音が聞こえてくるようになり、はそこで髪にキスされているのだと理解した。

「〜〜〜〜……っ!」

 理解して、感情が爆発しそうになった。
 こわばる体を太公望の左腕が優しく抱いている。時折、髪を梳く指の感触がして、それから、小さくくちびるが鳴らす音。
 もうの心のキャパシティは限界だった。

「た、太公望、待って、ほんとに、」

 太公望の左手をタップすると、さすがにやりすぎたと思ったのか、あっさりと離してくれた。背中からも体温が離れて、はどっと疲れて地面に両手をついた。ようやくまともに息を吸えた気がする。

「すみません、やりすぎましたか?」
「う、ううん、あの、ちょっと突然階段飛ばしすぎというか、怒涛の展開になにもかも追いついてなくてというか」

 息を整えて太公望に向き直ると、心配そうにを見ていた。
 こうして見ると、人畜無害そうな兄ちゃんという感じがするのに、時々――今のように、スイッチが入ったように色気のある瞳で迫ってくるのはなんなんだろうか。急にそういう顔をするのはやめてほしい。何回も言うが、心臓が持たない。

「こういうのは嫌でした?」
「え、嫌っていうか、私、こういうのほんとに慣れてなくて……むしろ初めてというか……だから、もうちょっと手加減してもらえると嬉しいというか……でも、あの、嫌なわけじゃない、から」

 まだ動悸が早い中でそう言うと、太公望は目を丸くした後、不意に笑い出した。困ったように眉を下げて、こらえ切れない、といった様子でくつくつと笑っている。
 怪訝な顔をするを、太公望がいきなり腕を伸ばして抱き寄せた。急に呼吸が当たるような距離に太公望の顔が近づいて、とっさになにもできずに固まっていると、笑いを収めた太公望が、目を細めて言った。

「可愛い人」

 長い指がの頬をゆっくりとなぞり、くちびるに触れた。薄い紫の瞳も、くちびるへと視線を注いでいる。
 キスをされる、と思った。
 太公望が息を吸った。その一瞬で意識を取り戻して、はぎゅっと目をつぶった。
 くちびるに触れた指が、そっと離れて。
 額に、熱が降りてきた。
 その熱もあっという間に離れて、が目を開ける頃には、太公望の体も離れていた。

「あ……」

 額を押さえて呆然としていると、太公望はの膝にかけていた上着を回収して、それに腕を通していた。そして、いつものように笑って手を差し出してきた。

「では、そろそろ帰りましょうか」
「あ、うん……そうだね」

 気づけば、もうタイムリミットの二時間になろうとしている。マシュの予定が押してしまうので、ここはさっさと出なければならない。
 太公望の手を取って立ち上がると、太公望が手を握ったまま、また顔を近づけてきた。

「次は、くちびるにしますね」
「……!? ……!!」

 そう耳打ちされた瞬間、また顔を真っ赤にしたをよそに、マシュに通信を入れてシミュレーターを終了する太公望。心地のいい風も草木が揺れる地面も消えて、元の白い部屋に戻る。立ち尽くすより一足先に、部屋を出ていく後姿を精一杯にらむことしかできなかった。

(こ、この……! 絶対、わかっててやってる……!)

 想像以上にたちの悪い男に引っかかったかもしれない。そう思い始めるを誰が責められようか。恋愛経験がほとんどない身からすれば、次はくちびるにキスをする、なんて一言でさえ毒になる。
 こんな顔、マシュにどう説明すればいいのか。太公望と一緒の時にまたおかしな様子で出てきたとなると、さすがにマシュでも訝しむのではないだろうか。
 言い訳に頭を悩ませながら部屋を出ると、マシュの驚いたような声が聞こえてきた。

「え……ええーー!! そ、そんな……先輩と、太公望さんが、ですか!?」
「はい。そういうことなので、これからよろしくお願いしますね」
「お、お付き合いとは……だ、男女交際ということですか!? 先輩と、太公望さんが!?」
「ちょ、ちょっと待ったーー! なに、なんの話してんの!?」

 マシュの動揺しきった大声で繰り返される内容に、は言い訳を考えていたことも忘れてふたりに駆け寄った。マシュは顔を赤くして、太公望はまったく顔色を変えずにを出迎える。

「なにって、お付き合いすることになったって報告を。マシュ殿には言っておかないといけないと思って」
「ちょっ、え? なんで!?」
「だって、基本的に殿とマシュ殿は一緒にいることが多いじゃないですか。だったら隠すのも大変だし、僕、こういうのはオープンにするほうなので」
「せ、先輩、本当なんですか! 一体いつの間に!? どこで愛をはぐくんだんですか!? はっ、もしかしてシミュレーターを使っている時の異常なバイタルは、まさか……!?」
「マシュ、ちょっと落ち着いて、声が大きい……!」

 興奮して早口モードの後輩をなだめつつ太公望のほうを見ると、彼はすでにその場にはいなかった。霊体化したか、もうシミュレータールームから出ていったか。なんにしろ、場を荒らすだけ荒らしてとんずらしたのは間違いない。なんという逃げ足の早さだ。
 その後、マシュをなんとかなだめて事情を説明し、ほかのみんなには伏せておいてほしいと口止めをした。マシュは心得たように頷いてくれたのだが、直前にマシュが思いっきり大声で叫んでしまったせいか、翌日にはカルデア中に広まることとなったのである。


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