喜びも苦しみも、一緒にやってくる


 太公望との話がきっかけで思いついた「釣りができるシミュレーター」。がマシュや担当のスタッフに相談した結果、既存のリフレッシュ用のシミュレーターシステムを流用した即席のものでよければ、という答えが返ってきた。異聞帯へ乗り込む前の準備期間中とはいえ、スタッフの業務に余裕があるわけではない。マシュもしかり。そんな中でも対応してくれるという返答に、一も二もなく頷いたのは言うまでもない。
 というわけで、と太公望、彼の霊獣である四不相とともにシミュレータールームにやってきた。マシュが色々と準備してくれたおかげで、釣りシミュレーターは思いのほか早い稼働となった。

「いやあこんなに早く釣りの機会を作ってもらえるなんて! ありがとうございます、マスター」

 と、太公望は上機嫌のにっこにこである。

「お礼ならマシュと、手伝ってくれたスタッフさんに言わないと。ありがとう、マシュ」
「いいえ、そんな……ほかのスタッフの方も快く手伝ってくれましたから。でも、今回テストも兼ねているので、敵性個体が出現する……ということも万が一ですが有り得ます。その点だけは注意してください」

 戦闘シミュレーターのデータは使っていないので、まず危険はないと思うが、いざという時に備えていつもの極地用の制服を着ている。ここ最近は、シミュレーターの異常があったという話は聞かないので、そんな事態にならないとは思うが。

「太公望さん、先輩のことをよろしくお願いします」

 マシュが頭を下げると、太公望は緩んだ表情を引き締めて頷いた。

「ええ、任せてください。マスターは僕が守りますよ。それと、四不相くんも」
「モ。モモ」
「やる気十分みたいです」

 太公望の横にどっしりと構えている四不相からはなんの表情も読み取れなかったが、おそらく主人の言う通りなのだろう。

「あ、ありがとう。でも、今回はテストだしそんなに時間はかけないから」
「はい。今日はざっくりと釣りの基本だけ。大丈夫、手取り足取り教えてあげますからすぐに上達しますよ、マスター」

 太公望にが言葉を返すよりも早く、マシュに抱っこされていたフォウが威嚇の声を発した。

「フォウ、フォーウ!」
「あっ、ダメですフォウさん。太公望さんはマーリンさんではありません、飛びかかってはいけません」
「フォウ……」
「うーん……随分嫌われたものですねえ」

 フォウが太公望に対して当たりが強いのは、今に始まったことではない。フォウからするとマーリンに似ている、らしい。確かに、回りくどい言い回しや胡散臭さはどことなく共通する点がある気もするが、それは最初の印象だけだとは思う。人ではないマーリンと太公望では根本的に違うものがあると、ツングースカの一件でも感じたところだ。

「ほらほら、フォウにタックル食らう前に行こう」
「はい、それではあちら中へ」

 太公望を伴って室内へ入る。マシュの音声案内に従って接続を済ませると、次に目を開けた時には草原が広がっていた。
 草原の先には小高い丘、その奥には木々が生い茂る森、そこからなだらかな山へ。草原から伸びる街道の先には、街のようなものもある。

「さて、まずはシミュレーター内を見て回りましょう。マスター、僕の後ろに」
「あ、うん」

 太公望が四不相に触れると、四不相はマレーバクの姿から麒麟の頭をした霊獣の姿になった。いわゆる本気の姿というやつだ。
 太公望の後ろに跨ると、四不相は宙に浮いた。浮力に少しびっくりして目の前の太公望の体に抱きつく。

(細い、ていうか普通……かな? でも、見た目の割に意外と筋肉があるような)

 ほかの男性サーヴァントが筋骨隆々であることが多いせいか、太公望が軽装の時は線の細さが目立つように見える。だが、こうして実際に触れてみると、意外なほどにしっかりした体躯のように感じる。肩幅だって、とは全然違う。
 などと考えていると、太公望の困ったような声が前方から聞こえてきた。

「んー……うら若い女性と相乗りというのも、なかなかに落ち着かないものですね」
「え?」
「特にそんなふうにしがみつかれると、なんと言うかなァ……春を過ぎた僕でも、さすがにくすぐったく感じるというか」
「……太公望、それ、セクハラ」

 指摘されて一気に恥ずかしくなって、腕の力を緩めた。太公望との間にできた隙間に風が流れ、火照った頬に心地よかった。

「えー、そんなつもりじゃないのに。でもまあ、しっかり掴まってくれてるほうが僕も安心ですけどね。空を駆ける霊獣に乗るのは初めて?」
「霊獣以外も含めるならあるけど、必死な状況が多かった、かな……? こうやってただ乗ってるって状況はあんまりなかったかも」
「ふむふむ。では、しばしゆっくりと空からの景色を楽しみましょう。四不相くんもこの通り安全運転ですので、ご安心を」
「……うん」

 太公望の体に回した腕に再び力を入れると、くっついた体から体温が伝わってくる。あったかくてほっとするような、一方で、どこか落ち着かないような。
 シミュレーター内に不正なデータはないか等を、ざっと見て回るだけの短い空の旅。のどかな景色とは裏腹に、の心は浮き足立ったままだった。

 ***

 シミュレーター内に特に異常はなく、マシュのほうでも異常な数値は見られなかったとの通信が入ったので、目についた渓流のほとりで太公望は四不相を降下させた。が背から降りると、四不相はすぐにマレーバクの姿に戻った。

「はい、どうぞ」

 と、太公望から簡素な釣り竿を渡される。糸の先の針を手に取ってみると、針は返しが付いたものではなく、裁縫で使う縫い針だった。思わず太公望を見上げると、にっこりと笑みを返された。

「じゃあ、さっそくやってみましょう」
「……うん? 餌とかは? あとこの針って裁縫の針じゃ」
「マスター、僕は道士ですよ。殺生はできません」
「う、うん、それはわかるけど。まさか、釣りの道具ってコレだけ……?」
「はい」
「……釣れるの、これ……?」
「まあまあ、とりあえず垂らしてみましょう。ね、ね!」
「ええ……」

 促されるままに針を川へと投げる。透き通った水面からは小さい魚の姿を確認できるが、当然ながら餌のない針にはなんの食いつきもない。これからどうするんだ、と太公望に視線を送るが、表情が見えない糸目が返ってくるだけである。

「まあまあ、マスターも今日は小手調べと言ったじゃないですか」
「確かに、テストとは言ったけど……」
「難しいことはいいんですよ。このぐらいあっさり始められるほうが」
「そういうもんかなあ……」
「釣りって、釣れない時間のほうが長いですからね。――僕の場合、魚を釣るというより、考え事をまとめるほうが主というか――だから、難しく道具や技法に凝らなくてもいいんですよ」

 じゃあ出発前に手取り足取り教えると言っていたのはなんだったんだ。そうつっこみたくなったが、どうせ煙に巻かれるだけだろうと思ってやめた。草の上に腰を下ろすと、流れる川の水に目をやった。の右に太公望が胡坐をかいて座り、左に四不相が足を折りたたむようにして座った。
 針に変化はない。水の音と、時折風が草木を揺らす音だけが聞こえる。
 確かに、これはぼーっとするにはいいかもしれない。ひとりで部屋にいても、つい考え事をしてしまうにとっては、水面を見て座っているだけの時間が新鮮だった。

(ツングースカじゃ太公望たちと情報のすり合わせに集中してて、なんだかんだじっくり釣りをするのは初めてなんだよね。もしかしてそのあたりを気遣ってくれた……とか?)

 が身構えないように気を遣ったとも取れるし、シミュレーターのテスト運用だから本当になにも考えてなかったとも取れる。一体どちらなのか、それともほかになにか考えがあったのか。おそらく、今本人に尋ねたところで明確な答えは返ってこないだろう。ここ最近、太公望と接してきてわかったことのひとつだ。

(あ……ツングースカといえば……)

 そうだ、あの時の礼を言いたいと思っていたのだった。

「あの、さ」

 静かな中で久しぶりに発した声は、少しかすれていた。自分の声とは、こういうものだったか。
 隣から視線を向けられた気配がした。次の言葉を待っているのだろう。

「ツングースカでコヤンスカヤのこと、ありがとう、太公望」

 太公望のほうを見ると、きょとんと目を開いていた。薄い紫の瞳にまじまじと見つめられる。少し気恥ずかしくなって、再び川面に顔を向ける。

「戦って、どちらかが滅びるっていう終わりじゃなくて、対話で解決するっていう方法を取ってくれたことも、そのためにあんなすごい術を行使してくれたことも、ずっとお礼を言いたくて」

 自分たちが生き残るために、異聞帯を、そこに住む生命を滅ぼしてきた。そうするほか生き延びる方法はない、それしかなかったと言い聞かせても、常に心のどこかで「本当に滅ぼす以外になかったのか」「無意味に死なせているのではないか」との思いは絶えなかった。もちろん、互いに譲れないものがあったからぶつかった結果だ。後悔は、おそらくない。けれど、考えは尽きない。
 だからあの時、死なばもろともと自爆されてしまうなら、もうコヤンスカヤの首を落とすしかないのかという瞬間に、やめませんかと言ってくれたのは、衝撃だったのだ。
 そして、それをやってのけた。コヤンスカヤもたちカルデアも生きている。滅びてはいない、続いている。
 滅ぼすだけが解決方法ではないんだ。本当に、ものすごく小さな針の穴を通すような手段ではあるけれど、それを目指すこともできるんだ。最初から諦めなくてもいいんだ。
 そう思えたことが、うれしかった。

「僕は、単に――」
「ずっと願っていたことを、エゴを実現させただけ? でも、それでも果たしてくれたよね」

 卵の状態となって眠る直前のコヤンスカヤが言っていたように、太公望はおそらくずっとこの手段を用意していた。恋焦がれたという妲己のために。殷を倒す時は首を落として殺すしかなかったけれど、本当は生きていてほしかったから。
 封神計画を遂行していた太公望は、生きていてほしいという願望を押し通すことは許されなかった。兵を率いる者、王を導くものとしての責任があるから。それを裏切れるほど、太公望は悪ではなかった。どこまでも善性のひとだったから。
 巡り巡って、今回。積年のエゴと、ビーストの無力化、カルデアの生存。そのどれもを果たして見せた。

「だから、たくさんありがとうって思ってるって伝えたかったんだ、ずっと」

 誰も殺したくなかったんだ。だから、道を切り開いてくれてありがとう、救ってくれてありがとう。守ってくれてありがとう。本当に、すごい英霊だ。あの時力になってくれたのがあなたでよかった。
 本当に感謝しているのだと、伝わっただろうか。恐る恐る右隣を見る。
 太公望はなにも言わず、ただじっとを見つめて微笑んでいた。

(あ、まただ――泣きそうな顔)

 玉藻の前やコヤンスカヤを見つめる彼が、時折見せる顔。今もなお残る妲己への感情が垣間見えるその表情。には、泣きそうな顔に見えるのだ。
 泣きそうな、けれど口元は微笑んでいて、視線は優しくに向いていた。
 いつまで見つめあっていたのか。たった数秒のことなのか、それとももっと長く視線を交わしていたのか。
 ふと、の頭に太公望の左手が乗せられた。優しく撫でて、少しのぬくもりを残して、離れていった。

「やっぱり、気が合いますね、僕たち」

 気が付けば、太公望はいつものような笑顔を浮かべていた。にっこりと、しかし、今はほんの少し照れくさそうな色を含んでいた。

「僕からも、ありがとう、殿。あなたがカルデアのマスターでよかったと、心からそう思っています。あなたが望む限り――僕は、力を尽くします」

 太公望の言葉は普段と変わらない調子に聞こえた。だが、その瞳が物語っていた。
 が人理を取り戻す最後まで付き合うと。の歩む道を、最後まで守り抜くと。

 ***

 話が終わったところで、釣りを切り上げてシミュレーターを出ることにした。魚が釣れる気配が、まったくと言っていいほどなかったからである。餌もなければ返しが付いていない針で、当然といえば当然なのだが、は少し残念だった。せっかくシミュレーターを作ったからには一度くらい釣ってみたいものである。今日は太公望に礼を言えたので、それはそれでよかったのだが。
 シミュレーターを終了した後の白い部屋の中で、少しだけ肩を落としていると、太公望が慰めるように声をかけてきた。

「まあまあ、また次に釣り餌をつけてやりましょう。もちろんお付き合いしますよ」
「え、いいの?」
「ええ、あなたさえよければ。作っていただいたからには、僕も個人的に利用させてもらいますし」
「そっか、じゃあまた今度教えてもらおうかな。今日は結局なにも教わってないし」
「んふふ、ではまた次に。今度こそ釣りの師匠として、手取り足取り」
「う、うん……でも、なんでそんなに私に釣りを教えたいの?」
「おや、ご迷惑でしたか?」
「いや、迷惑ではないけど。なんかやけに教えたがってる気がして」

 と言うと、太公望はため息をついた。

「んー……まあ、隠すようなことでもないか。いやね、正直に言うと、殿に教えるのはなんでもいいんですよ。ただ……」
「ただ?」
「あなたの周りにはもうすでに師匠だらけじゃないですか。料理はエミヤ殿、護身術や体術はレオニダス殿だったりほかにもたくさん、魔術は孔明殿やメディア殿――そもそも魔術は、僕が使っているのは方術なので、それ以前の問題ですけど。そのほかにも、いろんな方面であなたには教え導く存在がいる」
「うん」
「なんていうかなァ……ほら、僕って主人に道を説く役割というか……つまり、なにかの先生としてお役に立ちたいんですよ。もちろん戦闘でも頑張りますけど、それ以外でも教えられることはなんでも教えたいし、力になりたいんです」
「…………でも、その席が埋まってるから、せめて釣りの師匠になるってこと?」
「はい。というか、ぶっちゃけ師匠以外でもなんでもいいんです。フリーというのはどうも落ち着かない。でも、あなたの人生の先輩も後輩も母親も父親も友人も師匠も、大体埋まっているので困っているんです」

 と、見た目の若々しさよりもずっと年上の大の男がしゅん、と眉を下げている。
 釣りの話からそんな話につながると思っていなかった。太公望がそこまで考えていてくれたとは。

(なんていうか、思ったより情が深い人、だよね。見た目はこんなに胡散臭いのに)

 まあ、もう人となりを知ってしまったので胡散臭いとは思っていないのだが。軽いノリに見せかけて誠実に努力してくれることも知っているし。

(師匠は確かにいろんな方面でいるけど……ていうか別に、そこは友人でもいいんじゃ……)

 と思ったのだが、マシュやマンドリカルドのような、同世代の友達のように気の置けない感じに太公望となれるかと言われると、ちょっと違う気がする。

(うーん……となると、なんだろう。そのほかに、空いてるポジション……)

 父親ではない、友達でもない、相棒とも、単なる先生とも違う、それ以外の――

「――……あ」

 ひとつ、空いている席に思い当った。
 けれど、それは、考えるだけであまりにも――

殿?」

 声を上げたきり黙り込んでしまったを心配して、太公望が顔を覗き込んでくる。薄い紫の瞳が、まっすぐにの目を射抜いてくる。
 最近、こうやってに対して瞳を見せることが多くなった。ツングースカで出会った当初はそうではなかった。信頼に足ると思われているようで、瞳を見るたびに嬉しく思う。
 それは、今も。優しく包み込むように見つめてくる瞳が、嬉しくて。

「……っ!」
「――え?」

 太公望が戸惑ったように顔を引いた。の顔が、いきなり赤く染まったからだ。
 それはも自覚していて、太公望が次になにかを言う前に、彼に背を向けて走り出した。後ろで太公望が呼び止める声が聞こえてきたが、今だけは無視した。
 シミュレータールームを出ると、マシュが突然出てきたを驚いた様子で出迎えた。

「先輩? ど、どうされました、そんなに慌てた様子で……」
「フォ……!?」

 マシュにもまだ赤いままであろう顔を見られたくなくて、マシュのそばにいたフォウを抱きかかえる。そのまま顔を白い毛並みにうずめ、何度か深呼吸する。心と心臓を落ち着けて、怪訝そうに見つめてくるマシュに笑いかけた。

「ううん、なんでもない。マシュも付き合ってくれてありがとね」
「は、はい。その、なにもないのでしたらいいのですが……あ、太公望さんも、お疲れさまでした」

 後ろからドアが開く音がした。太公望が四不相を伴って出てきたのだと、マシュの言葉でわかった。だが、今のには振り向く余裕はない。せっかく落ち着けた心がまた乱れそうになる。

「はい、マシュ殿、ありがとうございました。マスター、大丈夫ですか? 急に走り出したので驚きました」
「……う、うん。ごめんね、さっき、お腹が鳴っちゃって。聞こえてた?」
「……いいえ。もし聞こえていたとしても、笑ったりしないのに」
「う、ん……そうかもしれないけど、やっぱり恥ずかしくて。あはは、ごめんね、突然」
「先輩、お腹が空いているのでしたら、食堂の冷蔵庫におやつがまだ残っていると思います。今日はエミヤさんのはちみつシフォンケーキだそうです」

 正直、今のマシュのパスは助かった。今すぐこの場から立ち去りたい。この場というか、この男の前から。
 この視線から、早く逃げなくては。

「そうなんだ、じゃあつまんでこようかな、またお腹が鳴ったら恥ずかしいし! マシュ、後は頼める?」
「はい、後の処理はやっておきます。このシミュレーターも問題なく稼働できそうなので、後で報告書をダ・ヴィンチちゃんに上げておきますね」
「うん、ありがとう。太公望も、今日はありがとう。ごめんね、話の途中だったのに」
「――いえいえ。また次の機会に、殿」

 今、太公望がどんな表情をしているのか、見れなかった。おそらくいつものように目を細めて微笑んでいるのだろうが、その顔すら、見られなかった。
 マシュと太公望に軽く会釈をして、そそくさと部屋を出る。言われた通り食堂へと向かう、その前に、一度自分の部屋に戻った。自分の部屋だけは、霊体化したサーヴァントも無断で入り込めない。とにかく、誰にも知られずにこの状態を治めたかった。
 見慣れた白い部屋に戻ってくると、さすがに安心できた。一気に精神的な疲れが押し寄せてきて、ふらふらとベッドに倒れこむ。クッションに顔をうずめて、息を吸った。

(私、私……どうしよう、あの時、あんなこと考えたせいで)

 あの時、太公望がおさまるにはどういう役割がいいのかを考えた時に、ひとつだけ空いている肩書に思い至った。
 父親でも友人でも先生でもない。
 「恋人」なら、まだ空いているな、と。
 太公望がそばにいてくれる時の、を見つめる包み込むような優しい目。あの瞳を、恋人として常に向けてくれたら、どうなるんだろう。
 恋人として、あの優しい手に触れられたら。
 きっと、嬉しいだろうな――そう、考えてしまったのだ。

(だ、ダメだ……そんな、英霊をそんなふうに見るなんて、ダメだよ……そんなの、絶対に、つらい……)

 けれど、一度思ってしまったものは、そう簡単に止められるものではなく。たちまちにの心を染めていく。かの道士を、そういう対象として好きなのだと。
 とにかく、この考えをもうやめるんだ。この先を考えてはいけない。彼とどうこうなりたいなどと、思ってはいけない。
 クッションを力いっぱい抱きしめて、クッションに口を付けて思いっきり叫ぶ。息が続くまで声を出した後は、クッションを放して両手で頬を叩いた。
 それで少しでもすっきりしたと思い込むしかない。今は、なにか別のことを考えなくては。
 はもう一度深呼吸すると、部屋を出て食堂に向かった。そこなら、誰かがいる。誰でもいい、話をして気を紛らわせなければ。
 気のせいなんだ、この気持ちは。きっと、美味しいものを食べて世間話でもすれば、一時の気の迷いだったと思えるはずだ。そうであってくれないと、困るんだ。


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