会長からセクハラを受けています その7
いつものように仕事を終えたは、まっすぐ家に帰る途中、いつもは寄らないコンビニへと立ち寄った。たまにはアイスでも食べようと思ったのである。
秋ということで、コンビニには栗やさつま芋の期間限定スイーツが並んでいる。それらに手を伸ばしかけたが、余計なものまで買っている余裕はないと思い直す。アイスの陳列を見ると、カップアイスやモナカ、棒アイスが並んでいる。
(どれにしよう……やっぱり期間限定に惹かれる……)
と、安価な定番アイスの秋限定商品に手を伸ばす。だが、途中で手が止まる。
家にはギルガメッシュがいる。すでに彼が転がり込んでから数日経っている。庶民が口にするアイスなど興味ないとは思うが、冷蔵庫を勝手に開けて物色しているふしがある。アイスを自分の分しか買ってこなかったとなると、絶対に文句を言ってくる。
(うーん……じゃあ、こっちにするか……)
冷凍ケースの端に陳列されている、高級輸入アイスを手に取る。期間限定のものと、定番の味を数個。別に安いアイスでも食べるだろうが、なんとなくこっちのほうが喜びそうだなと思ったのだ。なんだかんだ高いもの好きだし。
コンビニを出て、今度こそ家へとまっすぐに帰る。すっかり日が落ちた空を見上げて、日が短くなったなあ、いつの間にかもう秋なんだなあとしみじみする。
マンションについた。鍵穴に鍵を刺して回すと、手ごたえがなかった。
(あれ、もう開いてる……っていうか、もしかして朝、鍵閉めてなかった……!?)
と、が不安になっていると、部屋の中から足音が聞こえてきた。
「遅いぞたわけ! どこをほっつき歩いていた! 仕事が終わったらまっすぐ帰ってこんか!」
重いドアを軽々と開けて中から出てきたのは、ギルガメッシュだった。ワイシャツとスラックス姿になぜかエプロンをして、帰りが少しだけ遅くなったに機嫌を損ねている。
「え、ギル……!? なんで!?」
「なんでとはなんだ。我は貴様の家に住んでいるのだぞ、我がいてもおかしくはあるまい。そんなことより、なぜ遅くなった。理由を言え」
「いや、アイス買いにコンビニ寄ってたから……って、いやいやおかしいでしょ、まだこんな時間なのに私より早く帰ってくるなんて……っていうかどうやって部屋の中に入ったの?」
ギルガメッシュがこんな早い時間に仕事を終えることは、今までに一度もなかった。大体早くて二十一時、遅いと徹夜である。そして、二つ目の謎は、合鍵を渡した覚えはないのになぜ部屋の中にいたのか。
疑問をぶつけると、ギルガメッシュは当然のことを聞くなとでも言うようにため息をついた。
「仕事は早く終わらせた。鍵は合鍵を作らせたに決まっているだろう。そんなことより早く入れ」
「そんなことで終わらせる問題なんですか……」
「渋る管理会社を札束で黙らせたことを詳しく聞きたいのか?」
「ごめんなさい私が愚かでした」
詳しく聞こうと思った自分を反省した。そんな汚い大人の世界はできれば知りたくない。
三和土に靴を脱いで部屋に入ると、食べ物のいい匂いがした。においと、ギルガメッシュのエプロン姿。これらの符合するものとは……
「ふん、やはりこの部屋は狭いな。キッチンも狭い上にコンロがひとつしかない。平行して作業ができず無駄に時間がかかってしまったぞ」
「え、まさか……」
「そのまさかだ。喜べ、貴様のために夕食を作ってやったぞ!」
「え、ええ……!?」
玄関と部屋の通り道にある狭いキッチンには、鍋とフライパンが所狭しと並んでいた。蓋がされてあるので中身はよくわからない。
(本当に、ギルが? これ全部?)
あんぐりと口を開けて鍋を見つめていると、ギルガメッシュがの肩を押した。
「中身が気になる気持ちはわかるが、まあ待て。貴様は手を洗って着替えろ。我がその間に用意してやる」
「え、あ、はい」
手にしていたコンビニの袋からアイスを取り出して冷凍庫に入れ、洗面台に行って手を洗い、部屋で着替える。キッチンを振り返ると、用意してやるという言葉のとおり、皿に料理を盛りつけているギルガメッシュの姿が見える。
(どういうつもりなんだろう……?)
これも、との時間を増やす試みの一環なのだろうか。あの狭いキッチンで何品も作るとなると、本人の言う通り同時作業ができないから時間がかかっただろう。忙しい身であるのに、のために時間を作って料理をしていたのだと思うと、嬉しさでどうにかなってしまいそうだ。
にやけそうになる顔をこらえながら着替え終わると、小さい食卓の上にふたり分の料理が並んでいた。茄子とひき肉のミートソースパスタ、サラダとオニオンスープ。
「全部ギルが作ったの?」
「ふん、ソースからドレッシングまで我の手作りだ」
「……料理したことあったっけ」
「我にする必要があったと思うか? だがまあ、レシピがあるならこのぐらい造作もない」
つまり、初めて料理を作ったのだ。見た目にもおいしそうな品々を、ギルガメッシュがレシピを調べて、材料を買って、あの狭いキッチンで、ひとりで。
レシピ自体はそう手間のかからないもので、初めて作るにしても簡単なものかもしれない。それでも、料理をしたことがないギルガメッシュが作ってくれたことが、嬉しかった。
「〜っ……どうしよう、惚れ直しそう……」
「ははは当然だ! だがまだ早いぞ、食べてからだ。我の手料理を味わってから存分に惚れ直すがいい!」
「い、いただきます……!」
どきどきと高鳴る胸を押さえつつ、スープに口をつける。コンソメの味の中に、櫛型に刻まれた玉ねぎの甘みがある。ほんの少しピリッとしているのは粒胡椒が入っているためだ。だんだんと寒さが下りてきた季節にちょうどいい。
「おいしい……」
が呆然とつぶやくと、向かいに座ったギルガメッシュが当然だと言うように胸を張った。
スモークサーモンが乗ったサラダには、自作したというフレンチドレッシングがかかっている。オリーブオイルと酢、砂糖と塩が絶妙な割合で混ぜられ、スモークサーモンにもレタスやスライスオニオンにもよく合っていた。
そして肝心の茄子とひき肉のミートソースのパスタ。ミートソースの中のトマトは丁寧に皮が剥かれていて、ひき肉にはにんにくがよくきいている。パスタは普段がスーパーで買っている市販のものではない。もちもちとした食感で、アルデンテである。
「お、おいしい……」
「であろう、もっとよく味わえ」
ギルガメッシュが満足そうにうなずいたのをきっかけに、夢中で食べ始める。もともと食事中にあまりしゃべるほうではないギルガメッシュと、言葉も発さずに食べ続ける。食卓は食器の触れる音のみの静かなものだったが、もギルガメッシュも表情は幸せそのものであった。
「おいしかった……ギル、ごちそうさまでした」
「うむ。よいぞ、存分に惚れ直すがいい。許す」
「う、は、はい……」
実際惚れ直してしまったのだが、改めて胸を張ってそう言われると、つい照れてしまう。すでに苦しいほどに好きなのに、これ以上好きになってしまったらどうなってしまうんだろう。怖いくらいだった。離れることが怖くて、不安に押しつぶされそうになるくらいには、はギルガメッシュのことが好きなのだ。
照れて赤く染まったの頬を眺めていたギルガメッシュが、テーブルを回りこんでのほうへと近寄ってきた。の顎を取ると、そのままくちびるを、の口元へと寄せて、口の端を舐めた。
「ひゃっ」
「口元にソースが付いていたぞ。急いで食べるからだ」
「え、う、ありがとう……でも、普通に言ってくれればいいのに……」
こんな恥ずかしい方法で取るなと言いたかった。ただでさえ、今はどきどきして普通ではいられないのに、そんなことを予告もなしにされては心臓が持たない。そう言うと、ギルガメッシュは赤い瞳を楽しそうに細めた。
「サービスだ。満足したか?」
「うう……は、恥ずかしいから……」
赤い頬をさらに赤くして、リンゴのようになってしまったを、腕の中に閉じ込めてぎゅうぎゅうと抱きしめるギルガメッシュ。可愛くて仕方がないといった様子で口元を緩めている。
「我にここまでさせるのは貴様だけだ、」
「あ、ありがとう……でも、どうしてここまでしてくれるの」
「なに? そこまで言わせる気か。強欲な女よな」
もう一度の顎をつかんで顔を上げさせると、くちびるに軽くキスをしてから、ギルガメッシュはの目をまっすぐ見つめて言った。
「貴様に惚れているからに決まっている。言わせるな、馬鹿者め」
照れ隠しのように、くちびるをまたふさがれる。軽いリップ音を立てて、吸い付いては離れて、ふたりで視線を交わし合って、またくちびるどうしがくっつく。の頬の赤らみも、胸の高鳴りも、収まる様子を見せない。くちびるが触れるたびに心臓がきゅうっと締め付けられて、苦しくなって、離れるとさらに苦しくなる。そうして、また、くちびるを重ね合うのだ。
何度繰り返したかわからないほどに触れあって、見つめ合って、指を絡めあったか。はあ、とため息のように息を吐いて、ギルガメッシュが言った。
「ここまでする男は我以外におらん。我以外の男になびくでないぞ」
「……なびかないよ、こんなにギルが好きで、くるしいのに」
ギルガメッシュの胸に額をくっつける。どくどくと、心臓が動いている音がする。この胸の下で、ギルガメッシュもどきどきしたりするんだなあと、当たり前のことに感動する。
「」
名を呼ばれて、顔を上げる。情欲に濡れた赤い瞳が、の視線を絡めとる。
「そろそろデザートの時間だ」
「……アイス、食べる?」
「とぼけおって」
そうしてまた、くちびるを重ね合う。今度は先ほどよりも深く、熱を持って、舌を入れて。
キスの傍ら、ギルガメッシュの手が服をくつろげていくのを感じながら、はまぶたを持ち上げる。ギルガメッシュの濃いまつげが間近に見える。
その下の、うっすらと青い隈。
ギルガメッシュがの家に転がり込んでから、さらに数日経った。
最初こそ、朝昼晩と一緒に過ごしていたふたりだったが、ギルガメッシュの仕事量が増え、の家にろくに帰れない日が続くようになった。帰ってきたとしても、深夜。がギルガメッシュを待ち切れずに眠ってしまった後だった。が眠る狭いシングルベッドの隙間に入り込んで、の寝顔にキスをして、抱きしめて眠る。朝は早く、が目覚めるころには家を出ていく。昼食も一緒に食べられない日が多い。
すれ違っているな、と淋しくなっても、心のどこかで、それもそうだと冷静に納得する自分がいた。
元々の生活スタイルがまったく違うのだ。それを擦り合わせようとしても、どこかで無理が生じるものだ。
「会長は元々、移動中の車内でも休まず仕事をする方でしたけど、このところは、ほんの少しの移動の間でもずっと眠っています」
偶然ウルク商事のビル内で見かけたシドゥリに、ギルガメッシュの様子を尋ねると、ぽつりと言いにくそうに漏らした。最近は忙しくなってきたこともあるが、以前より休息に時間を割かなくなったと。わずかな間を惜しんで仕事をして、帰れそうな日はなにがなんでもの家に帰っているのだと。
ギルガメッシュがそんな状態になったのは、の家に来てからなのは、火を見るよりも明らかだった。との時間を確保するために、仕事量を増やし、先々の予定までこなさなくてはいけない。そうして時間を空けても、仕事はリアルタイムで発生していくから、と過ごしている最中にもどんどんしわ寄せが生じていく。
心のどこかで薄々とわかっていたことをはっきりと目の当たりにして、の心はいっそう苦しくなった。
(私、ギルの足枷になってる)
ギルガメッシュが以前言っていた、「今の貴様に惚れたのだ」という言葉。いくら本人がそう言っても、ギルガメッシュと今の自分では釣り合いが取れない。なにかの才能があるわけでもなく、なにかに秀でているわけでもない。容姿も平凡の域を出ない。なにも特別なものを持たないのだ。
そんな自分と、ギルガメッシュでは、歩む速度が違う。
黄金比の美しさを持つ容姿、非凡な思考、あらゆることを吸収し自分のものにして裁量を発揮する頭脳。他人が放っておかない存在とはギルガメッシュのことをいうのだと、そばを離れるたびに思う。
そんな存在に、自分がなにをしてあげられるのだろう。
シドゥリのように、彼の仕事を手伝えるわけでもない。ただ彼のそばにいることしかできない。
(でも、それすらも、ギルの仕事の邪魔になってる)
いくらギルガメッシュがを好きで、もギルガメッシュを好きでも、絶対的な差がふたりの間に横たわっている。深く溝を作って、の心に暗い澱みをつくるもの。今はギルガメッシュが橋をかけてのもとに歩み寄っているが、澱みは徐々に溜まっていっている。そのうち、その澱みは溝を埋め尽くしてあふれて、橋を流してしまうのではないか。
こんな状態が、いつまでも続くわけがない。いつかギルガメッシュが倒れてしまう。
(だめだ、そんなことは、絶対に)
ならば、その前にできることはないのか。がギルガメッシュに、できることは。
怒気で人をこんなにも圧倒できるということを、は初めて知った。できれば、人をすくみ上らせるような怒気を向けられているのが自分ではないところで知りたかったことだ。
目の前の男は、つい先ほどまでは、数日ぶりにの顔を見て上機嫌だった。仕事がやっとひと段落ついて、終業後にまっすぐ帰るはずだったを、ギルガメッシュ専用の端末で会長室に呼び出した。もう帰るところで、制服から着替えたところだったは、会長室へ入って、くたびれた様子のギルガメッシュを見て、苦しくなった。今日もの家には戻らず、このまま仕事を続けると聞いてからは、曇る表情を隠せないほどに。
ここで言わなければと思ったのだ。だから、言った。「もう、そんなことはしなくていい」と。
「そうやってギルが私との時間を作ろうとして、無理をするたびに、私は苦しくなる。仕事を手伝うこともできない、なにかしようにも、なにをすればいいのかもわからない、ただ、ギルの気持ちに応えるだけの自分が浮き彫りになって、すごく苦しくてみじめになる。だから、お願い、もうそんなことを私にしなくていい」
言葉を発するにも、足が震えた。
こんなこと、本当は言いたくない。離れたくない、ずっとそばにいたい、一分一秒だって長く一緒にいたい。指を絡め合って、くちびるを重ねて、肌を触れあって、体を繋げて、ギルガメッシュのぬくもりを感じていたい。
けれど、もう限界なのだ。
こんな関係は、どちらかが壊れてしまう。ギルガメッシュにとって、自分はよくないと、ギルガメッシュがのために行動するたびに見せつけられた。
言葉を重ねるたびに、ギルガメッシュの表情が険しく、眦が吊り上がっていった。が言い終わるころには、隠しもしない怒気をに向けていた。革張りの上等な椅子をぎしりと鳴らし、ひじ掛けに頬杖をついて、をにらみ上げる。
「我が我の時間をどう使おうと我の自由だ。もとより貴様に我の仕事を手伝うことなど期待しておらん。そのようなことを、我が一体いつ求めた。くだらん妄想をするな」
「くだらない妄想、これが?」
「妄想だろうが。我がいつ無理をした。貴様はただ我に応え、心と体をゆだねていればよい。余計なことを考えるな」
「余計なこと? ギルのことを考えるのは、余計なことなの? こんなの、いつまでも続くはずがない、だってギルは絶対無理してる……! こんな生活を続けてたら、いつか絶対倒れちゃう。こんなの対等な関係なんていわない、一方が無理をしている関係なんて、おかしいよ!」
「この程度のことなど、今までいくらでもあったが? 貴様の尺度で我を量るな」
「今まであったかもしれないけど、それを続けていいわけにはならない。ギルのことは好き、大好きだよ。ずっと一緒にいたい」
「ならば」
「でも、苦しい。一緒にいればいるほど、苦しくなる。一緒にいようとしてくれるギルの心が嬉しくて、苦しくて、不安で、押しつぶされそう」
ギルガメッシュの鋭い視線がを貫いている。なにが言いたいと促す眼光は、これまで向けられたことがないもので、正直に言えば怖い。この先を言えば、一体どうなってしまうのか。
けれど、今ここで言わなくてはならない。この機会を逃しては、あとはギルガメッシュが倒れてしまった後でしか、言えなくなりそうだった。
「別れよう」
怒りが頂点を超えると、ひとは表情を失くすものなのだと、初めて知った。できれば、その怒りを向けられているのが自分ではないところで知りたかった。
すうっと表情を消したギルガメッシュの目がを射抜く。美しい造形をしているからか、一切の表情が抜け落ちた顔は冷たくて作り物のような不気味さを出していた。美人が怒ると怖いというのは本当だ。
「ここ最近、我とともにいても表情が暗かったのはそれが原因か」
静かな語り口だった。思ったよりも冷静なのかと思わせる口ぶりに安堵仕掛けた瞬間、ギルガメッシュは椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「今すぐその言葉を撤回しろ! それだけは許さん、我から離れることだけは絶対に許さんぞ!」
びりびりとの鼓膜を打つ。もともと声が大きいほうだと思っていたが、これほどまでに大声を出せるのか。びくりとすくませた肩から力が抜けないまま、ギルガメッシュが言い募る。
「二度とそのような愚かなことを口にするな! 誰がなんと言おうと貴様は我のものだ! 離れる選択肢すら貴様自身にはない!」
「っ……! そんなの、いつまで続くかわからない! 今はそうかもしれない、でも十年後は、二十年後は。ギルとずっと一緒にいられるだけのものが、私にはない! なにもないの! 容姿も、才能も、頭も、なにひとつ……!」
ギルガメッシュの言葉を、頭を横に振って否定する。
人の心は変わる。今はこんなに好きで愛し合っていても、変わっていくものなのだ。だから愛は美しいものとして語られるし、おとぎ話にもなる。
おとぎ話だ。とギルガメッシュが一緒になるなんて。
ずっと一緒にいたくても、先のことを考えるたび、悲しくて、苦しくて、不安で息が詰まりそうになった。ギルガメッシュは貪欲に新しいものを吸収して、新しいものを求めて、どんどんの手の届かないところにまで行ってしまう。そういうひとだ。だからこそ、この若さで世界を飛び回り経済を回す存在になっているのだ。
──おとぎ話だ。
の頬を、涙が伝った。泣くつもりなどなかったのに。感情が高ぶって、一度決壊したものは元に戻らず、後からとめどなく流れている。
「我が信じられないと」
ギルガメッシュの、感情が抜け落ちた声が響いた。
涙でにじむ視界に、呆然と立ちすくむギルガメッシュの姿が映る。表情は涙でよく見えない。ただ、声が、聞いたこともないような。
「つまりは我が信じられないと、そう言うのだな、」
途方に暮れたような、心に穴が開いたような、そんな淋しそうな声を出すものだから、思わず涙が止まった。
ギルガメッシュの気持ちは信じている。疑っていたこともあったが、の疑心を砕くように寄り添ってくれたのはギルガメッシュだ。それは今でも続いていて、の不安をぬぐうようにそばにいてくれる。
変わっていく彼に、ついていけなくなる自分がみっともなくて、今でさえ釣り合っていない彼との差が、これ以上広がって失望されたくないと、恐れている。そして、その失望から、ギルガメッシュがから離れてしまうのではないかと、恐れている。
それは、つまりはギルガメッシュの心を信じ切れていないことにほかならない。
自分に愛され続ける自信がないから、ギルガメッシュを追い続ける自信がないから、彼の心も信じることができない──
(どうしようもないのは、私)
ギルガメッシュは己のできる限りでを愛してくれているのに、自分は。
「もうよい」
静かな、平坦な声が耳を打った。顔を上げた時には、ギルガメッシュはに背を向けていた。それが、を拒絶しているかのように見えて、心を締め付けられた。
ふたりの間には、深い溝が横たわっている。その間に橋をかけてくれたギルガメッシュは、もうに背を向けてしまった。
あとには、深い溝を満たす不安と恐怖だけが残った。
その背中を見ておれず、は会長室を出た。扉のそばに、シドゥリの姿があったが、その顔を見る余裕もなかった。
(私が、傷つけた)
ビルを出て、まっすぐに家路につく。止まらない涙をぬぐいもせず、時折鼻をすすって電車を乗り継ぐ。マンションの最寄り駅を降りた頃、着信があった。
ぴりりりり、と簡素な電子音。ギルガメッシュからもらった端末の着信音だった。
鞄を探り、サイドのポケットに入っていた端末を取り出す。画面には、先ほどまで会っていた男からの着信だった。
この電話を取らなければ、本当に終わる。
この電話こそがふたりの生命線なのだと、わかっている。けれど、にはもう、あの背中を見た瞬間から、そこに縋る資格がない。
(戻れない)
道路脇を流れる側溝に近づく。ここ数日雨は降っていないが、そこそこ水が流れている。
そこへ、端末を滑り落とした。
ぴりりりり、という音が、水の中で反響する。やがて、端末の内部まで水が流れ込んだのか、液晶画面が暗転し、簡素な電子音も止んだ。
ふたりを繋ぐ、唯一の線。出会った時から、ギルガメッシュが繋いでくれた──
それを自分の手で断ち切って、沈めた。日が沈んで暗くなった視界の中、狭い側溝の中の淀んだ水は、電灯の光を通さない。もう端末が流れてしまったのか沈んだのか、どこにあるのかもわからない。
はらはらと流れる涙が量を増して、のぐずぐずになった頬を伝う。駅の周辺を歩く人々が、側溝のそばで泣くを見ては目を反らし、自分の世界に戻っていく。
そのみじめさが、今の自分にはお似合いなのだと、は濡れた頬を乱雑に拭って、マンションまでの暗い道のりを歩き出した。
←前の話 次の話→