会長からセクハラを受けています 終わり


 日が出ている時間が短くなり、空気が冷たさを増していく。朝晩は冬物の寝間着を着込んでも寒く、こたつを出そうかと悩み始める時期になった。
 いつも通りの時間に鳴った目覚まし時計を止め、もそもそと布団から這い出る。乾燥して冷えた空気に、ぶるりと身震いする。十一月ともなると、雨が降るたびに気温がぐっと下がり、そのまま本格的な冬へと足を進める。エアコンのリモコンを手に取り暖房を入れると、朝食の準備をしに台所へと向かう。冷蔵庫を開けると、いつもと同じようにヨーグルトの四個ピースからひとつちぎり、昨日の夕食の残りと白米を茶碗によそい、お盆に載せる。時刻の確認と賑やかしのためにテレビを付けて、お盆の上の朝食に口をつける。
 いつもと同じ、変わらない朝。
 今日もいつもと変わらない。また一週間──会社と家との行き来だけの日々が始まる。
 ギルガメッシュと別れたのは、もう十日ほど前になる。あれからウルク商事のビルにギルガメッシュが現れることはなく、このの自宅にも来ていない。端末はもう捨ててしまったし、本当になんの接触もなく十日が経った。

(これでいいんだ。これで、元通りだ)

 ギルガメッシュに会う前の、味気ないけれど平穏な日々に戻れる。安堵感と、ほんの少しだけざわざわとする心を抱えて、は元の生活に戻ろうと淡々と日々を送っていた。
 元々、とギルガメッシュでは行動範囲も生活サイクルもまったく違う。ひとたび連絡手段を断ってしまえば、接触の機会などないのだ。
 平穏な日々を送っているのに、そんな日々の中でもギルガメッシュとの隔たりを実感して、悲しくなってしまう。
 沈みかけた思考を振り払うように、は首を大きく横に振った。

(もう、考えないようにしよう。忘れるしか、私にはできないんだ)

 頭を振ったことによって髪がぼさぼさになってしまったが、それは後で整えることにしよう。今は胃に朝食を流し込まなければ。
 イチゴ味のヨーグルトのふたを剥がすと、めりっと音が立った。テレビでは、ニュースキャスターが今日も不穏な出来事を声高にまくし立てている。
 いつもの朝だった。



 いつも通りの日々に戻るはずだった。出勤して、来客システムに入っている予定を見るまでは。

(うそ……木曜にギルの……会長の来客予定が入ってる……)

 木曜の午後にギルガメッシュの来客予定が入っていた。詳細欄のスケジュールを見る限り、会長室には入らず、応接室で対応するようだ。となれば、部屋のお茶出しは受付の仕事だ。

(どうしよう……今週のVIP対応担当は私じゃないけど、人数が多かったら私も手伝わなきゃいけないだろうし……)

 直接彼の顔を見ることになれば、なにも思わないはずがない。一生懸命ふたをしている胸の痛みも、彼への恋心も、あふれてしまいそうで。元の日常に戻ろうとしている努力が水の泡になりそうで、彼の存在を近くに感じることも怖くなっている。
 会ってしまえば、ギルガメッシュが好きで、触れたくて、それだけで泣き出してしまいそう。
 木曜日の予定を見ると、一日を通して来客予定が詰まっている。体調不良を装って休むのも気が引ける。

(まあ、人数が少なければ手伝わなくてもいいから、会わずに済む……)

 今のところ彼を避けるにはそれしかない。会長の客が大人数で会ったことは今までにほとんどないし、大人数ならばシドゥリがもっと前もって詳細スケジュールを事前に知らせてくる。今回はそんなメールも届いていない。ならば、会うことはないと思いたい。

(だめだな、会長のお客さんが来るたびにこんな取り乱してたら)

 彼の客自体ひと月に数えるほどだが、そのたびに動揺していたら身が持たない。なんとか彼に対する気持ちを、失くしてしまわなければ。
 そうやって、恋心がすぐになくなってしまうものなら、こんなに苦しい思いをしないのに。
 木曜、今すぐアパートの部屋に引き返したい気持ちを抑えて出勤する。午前中、憂鬱で腹の底からじりじりと焼かれるような感覚を味わいながら仕事をこなす。昼休みが終わって、ギルガメッシュの来客予定の時間が近づく。

(いつも通り地下の駐車場から来るんだよね……どうしよう、今日に限って正面口から来たら……)

 受付のある正面からギルガメッシュが入ってくることなどほとんどないが、もしそうなったらと、疑心暗鬼になってしまう。もし、不意に彼の顔を見てしまったら、自分の心はどうなってしまうんだろう。こんなに緊張して張りつめてしまった今の状態で、ギルガメッシュの姿を見てしまったら。
 緊張でやけに大きく聞こえる自分の鼓動の音を聞きながら、正面の自動ドアを見つめていると、長い髪を流した女性の姿が目に入った。シドゥリだ。

「あれ、シドゥリさん、正面からどうしたんだろう?」
「しかもやけに時間早いね」

 受付の先輩ふたりが不思議そうにつぶやくのが聞こえた。ギルガメッシュの来客予定時間前にシドゥリがやってくるのは毎度のことだが、まだ予定より二時間も早い。心なしか早足で受付カウンターに寄ってきたシドゥリは、の顔を見て少しだけ顔を曇らせた。

「すみません、会長の来客予定はキャンセルになりました」
「キャンセルですか?」
「はい。その、会長がダウンしまして」
「えっ……!?」

 思わず椅子から立ち上がる。先輩ふたりの視線がに向いたことがわかったが、それにも構わずシドゥリを見つめる。シドゥリがの顔を見て、また少し表情を暗くする。

「過労です。風邪などの病ではないのですが、あの会長がばたりと倒れてしまったので……すべての予定をキャンセルして、今は入院しています」
「えっ……あの、そんなに悪いんですか!?」
「いつも以上に、寝る間も食べる間も惜しむように仕事をされていましたから……」

 シドゥリの焦げ茶色の瞳が、の視線をとらえた。

「時折ぼうっと空中を見つめることが多くなって、それからです。まるで、なにかを考えまいとするかのように、予定をこれでもかと詰め込んで……」
「……!」
(まさか、私が原因で……)

 シドゥリは明言こそしないものの、を見据えながら言っている。暗にとの別れが過労の原因だと言っているのだ。
 あのギルガメッシュが。いくら睡眠時間を削っていようと、の前ではいつも元気有り余る様子だったのに。そんな彼が倒れるほどの過労とは、一体どれほどの無茶をしたのか。

「あの、ギル……会長はどこの病院に……!」

 ギルガメッシュの労働量を想像して、居ても立っても居られなくなったは、気が付けば口を開いていた。
 シドゥリは曇っていた表情を消し、を見つめ返してきた。

「それを知って、どうするのですか、さん」
「そ、れは」
「あなたと会長、どのような関係があるというのでしょうか。もはやなんの関係もないのでは?」

 そうだ。ギルガメッシュとは、すでに恋人関係ではない。シドゥリが言うことはもっともだ。なんの関係もない人間に、所在を教えるはずもない。

「なにもない……」
「そうですね。けれど、会長は……そのなにもない、あなたとの間を埋めたいと考えていた。その間を、あなたが飛び越えてきてくれるのを待っていた。会長が飛び越えてあなたに歩み寄ったように」
「……!!」
「私も、会長とあなたが並んでいる姿を見るのが好きでした。今でも。ずっと、あなたたちを見ていたかった」

 息が詰まった。胸が締め付けられるように痛んだ。
 ギルガメッシュがどれだけに心を尽くしてくれたのか、どれだけ求めてくれていたのか。十分すぎるほどに伝わっていたから、つらかった。嬉しいからこそつらかった。その気持ちに返してやれるものが、一体自分にはどれほどあるのかと、自分自身を振り返ってみて愕然とした。ギルガメッシュに与えてやれるものは、自分の気持ちと時間だけだったのだ。
 どうしようもなく自分が嫌になった。なにもしてこなかった自分が嫌で、ギルガメッシュとの差をどうやって埋めようかと、それすらも思い浮かばない自分が。ギルガメッシュとともにいると、その自分を嫌でも自覚させられて、苦しくなった。ギルガメッシュはそんなこと露ほども気にしてはいないだろうが、彼の気持ちを受け止めることすら苦しくなっていった。
 だから、離れた。だから別れを選んだ。
 シドゥリは、離れることを選んだに問うているのだ。自分が逃げ出したことに、再び向き合えるのかと。数多の苦しみを飛び越えて、ギルガメッシュのもとへ行く覚悟があるのかと。
 が口を引き結んで涙をこらえているのを見て、シドゥリは小さく息を吐いた。軽く会釈をすると、黙ってその場を去っていった。

「藤丸さん、大丈夫……?」

 立ち尽くしてしまったを気遣う先輩の声も、どこか遠くに感じる。ただ、こみあげてくるものがこぼれないように堪えるだけで、精一杯だった。



「──急に話があると言い出したかと思えば、これかね。まずは理由を聞こうか」

 ウルク商事の一階はすべて外部のお客様用の応接室や会議室、一階より上の階層は社員たちが業務に精を出す事務所になっている。
 総務部の一番奥にある席、そこに重々しく座っている偉丈夫が総務部長の言峰だ。光のない目とがっしりとした体躯、一片の隙もない挙動。ただものではない、むしろ堅気ではないのではと思わせる風貌だが、この会社ではあくまで総務部の部長である。
 デスクに座っている言峰の横にはの姿がある。彼のデスクには、の辞表が置かれている。普段は受付で預かったお届け物以外で事務所まで上がってくることはないからか、方々から好奇の目が向けられているが、それにも構わずには頷いた。

「理由は……その、なんというか……」
「仕事内容が気に食わなかったかね?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
(こんな気持ちのまま、ここにいていいはずがない)

 昨日、シドゥリとの一件では考えた。ギルガメッシュに関係することであんなふうに取り乱してしまうのならば、周りに迷惑をかけるだけだと。の胸の痛みは時間が解決してくれるかもしれないが、このままウルク商事で仕事を続けていては、解決までにいちいち傷をほじくられてしまう。だから、仕事を辞めるしかないという結論に至ったのだ。

「ふむ、では人間関係か?」
「う……いや、そうじゃないですけど、その、自分を見つめ直そうかなと……」
「なるほど、なかなか深い理由がありそうではあるが、それを聞くのは野暮というものか。君には色々と期待していたのだが」
「はあ、期待……?」
「いや、こちらの話だ。では、具体的な退職日は来月末ということで、それまでに人員を補充するとしよう」
「はい、急な話でご迷惑おかけします」

 は深く腰を折ると、居心地の悪い事務所を後にした。
 言峰に辞表を出すにあたって、受付の先輩ふたりにはもう相談してある。ふたりとも、昨日の今日でなにがあったのか察してくれたようで、そっか、残念、とだけ言って淋しそうな顔をした。なにも詮索されないことに安堵して、すみませんと謝った。
 来月末、ということは年末。年始の挨拶などで多忙を極める受付を去るのは心苦しかったが、先輩はふたりとも気にするなと言ってくれた。会長宛の挨拶も当然多くなる時期だ、を気遣ってのことだろう。やはり、すみませんという言葉しか出なかった。

(でも、これでいいんだ。こうしないと、いつまでも苦しいまま、ギルを忘れられない……)

 ウルク商事を辞めると決めて辞表を出したことにより、少しだけ心が軽くなったような気がする。辞めることによって特になにかが進んだわけでもないが、少なくともギルガメッシュに会うことはなくなる。まずはこの恋を終わらせないと、はどうすることもできない。だから、辞めることを決めたのだ。
 仕事を終えてアパートの部屋に帰ると、部屋の中は冷えていた。ここ数日ずっと曇っていて、時折雨が降っては気温を下げていく。今日もまた寒いなと思いつつ暖房のスイッチを入れた。今夜は一人鍋だ。
 スーパーで買ってきた野菜を切って、だしを入れた鍋に投下する。少し煮えるのを待って、鶏団子を入れようかとキッチンタイマーをセットしたその時だった。
 ぴんぽーん。
 部屋のインターホンが鳴った。通販は最近頼んだ覚えはない、家族や友人が訪ねてくるといった約束もない。なんだろうかと、お玉を手に持ったまま玄関のドアの覗き穴をのぞく。その小さい穴に映った人物を見て、お玉を取り落とした。

「ギル……!?」

 赤い瞳が、覗き穴のこちら側のを見据えていた。あちら側からはこちらは見えないとわかっているのに、瞳をまっすぐ見つめられたような、そんな気になる眼差しだった。

(ギル、なんでここに……! 入院してるんじゃなかったの!?)

 確か入院中ではと思い、再び小さい穴に目を凝らす。覗き穴の歪んだレンズではよく見えないが、ギルガメッシュが着ているトレンチコートの下は、スーツではないことは確かだ。となると、もしかして病院を抜け出して来たのではないだろうか。

「開けろ、

 どん、とドアを叩かれた。なにも答えないでいると、もう一度、どん、と衝撃がドアに走る。

「そこにいるのはわかっている、開けろ!」
「や、やだ! 絶対開けない!」
!」
「病人のくせに大きな声出さないで! 近所迷惑だし!」
「貴様がドアを開ければ声をひそめてやる! あと病人ではないわ!」
「開けません〜! ていうかなにしに来たの、もう話すことなんてないんだから……ここは絶対開けないから、帰って!」
「貴様になくとも我にはある! ──帰らんぞ、貴様がここを開けるまでは」

 彼は確か、と半同棲していた頃に勝手に作ったこの部屋の合鍵を持っているはずだ。それを使わないところを見ると、やはり病院から抜け出して、着の身着のままでのアパートまで来たのだ。
 そんな無茶をしてまで、に一体なんの話があるというのか。
一瞬、が受付を辞めることについてかと思ったが、シドゥリには伝えていないのでそれはギルガメッシュに伝わらないはずだ。と、思っていると、

「貴様、辞表を出したそうではないか! 許さんぞ、我の元から離れるのは許さん!」
「なっ……!? なんで知ってるの!? 言峰部長と先輩にしか言ってないのに」
「馬鹿め、コトミネの元上司は我だぞ! コトミネから聞いたに決まっている!」
(言峰部長のばかやろう!)

 情報漏洩は言峰部長からだった。確かに、会社の社長だったギルガメッシュと長年会社に勤めている言峰ならば、以上の付き合いの長さだろう。ふたりが話しているところを見たことがなく、ギルガメッシュの口から言峰について語られることもなかったため、特に関わりがないものだと思っていた。だから、言峰がの辞職についてギルガメッシュに漏らすという発想自体がなかったのだ。

「ギルになんと言われようと、もう決めたことだから! だからなにも話すことなんてないし、ドアも開けない! おとなしく帰って!」
「帰らん!」

 いつになく頑なである。シドゥリに連絡して連れ帰ってもらおうかと思ったが、シドゥリの番号が入った端末は別れ話をした日に捨ててしまっている。唯一の解決策は実行できないとなると、もう籠城戦しかない。

「おい! 聞いているのか、おい!」

 その声に耳をふさいで、は取り落としたお玉を拾い、玄関から離れる。胸が痛んだが、どうあっても要求には応えられない。会うことはできないのだ。
 病人ではないというが、過労で倒れたのであれば本調子ではないだろう。本格的な冬はまだとはいえ、夜になれば寒いものは寒い。トレンチコートは秋物のようだし、コートの下には病院の患者服しか着てないのであれば、十分な防寒とは言えないだろう。早々に音を上げて帰ってくれればいいのだが。
 キッチンには作りかけの鍋が放置されていた。なんとなく食べる気にならず、鍋にふたをして、鶏団子にはラップをして、まとめて冷蔵庫へと入れた。明日の朝にでも食べればいい。

! おい、! 返事をせんか!」

 ギルガメッシュの声と、どんどん、とドアをたたく音。そのふたつを聞いていられなくて、部屋へ戻ったは布団にもぐり込んで耳をふさいだ。
 ギルガメッシュの声とドアをたたく音は、がなんの反応もしなくなってからしばらくして止んだ。ただ、まだギルガメッシュがいるのか、それとも帰ったのかはわからなかった。時間の無駄を嫌うギルガメッシュのことだ、一時間もすれば諦めて帰るだろう。そう思って、布団の中で時が過ぎるのを待った。

(なんで……私はあんなこと言って傷つけて、ギルだってもういいって言ったのに、どうして)

 我の元から離れるのは許さないと、先ほど言っていた。もしかすると、ギルガメッシュはまだのことを。

(──だめだ、なにも考えるな)

 それを嬉しいと思ってしまう自分が、あさましくて嫌になる。一瞬期待しそうになった心を戒めて、目を閉じて考えないようにする。
 一時間後、玄関に足音を忍ばせて近づいてみる。外は静かだが、もう帰っただろうか。
 と思ったその時、かすかに鼻をすする音が聞こえた。

(うそ……まだいる)

 足音もなにも聞こえなかったから、アパートのほかの住人が通りすがりに鼻をすすったのではない。ドアの外にいるギルガメッシュが──

(もう、そんなに寒いなら帰ってよ……!)

 そう言ってやりたい気持ちをぐっとこらえて、再び忍び足で部屋へと戻った。もう一時間、いや、二時間ぐらい経てばさすがに帰ってくれるのではないか。だって、外はもう冬かと思うくらいに寒い。あんなコンクリートの通路、寒いに決まっている。さすがに帰ってくれると思いたい。
 それから、は布団の中でただひたすらに時が過ぎるのを待った。なにかをする気にもなれず、ただスマートホンの時刻が過ぎるのを見つめながら、じっと。

(お願いだから、もう帰って……!)

 日付が変わろうかという時間になって、は布団から這い出た。さすがにもう帰っているだろう。もしかしたらシドゥリがの部屋の住所を調べて、ギルガメッシュを連れ戻しているかもしれないし、通りすがった女性に拾われているかもしれない。とにかく、ここから離れていてほしい。それだけを願って、は玄関へと近づいた。

 でも、もしも、まだギルガメッシュがいたら。

(私は、わたしは)

 震える手で鍵を開けて、チェーンを外して。重いドアを開けると、そこには。

「……なんで、なんでまだいるのぉ……」

 ドアのすぐそばの壁に寄りかかって、体育座りのような体勢で座っていた。立てた膝に顔を埋めて、寒さに縮こまりながら、それでも、ギルガメッシュはがドアを開くのを待っていた。
 思わずしゃがみ込んでその体を揺さぶる。

「なんで、どうして……! 帰ってって言ったのに、こんなに寒いのに、なんでまだいるの……!」

 ぼろぼろと落ちる涙で、ギルガメッシュの姿がよく見えなかった。服の袖で目からあふれ出る水を拭うと、寒さで若干ぎこちない動作で顔を上げるギルガメッシュが映った。

「……遅いわ、たわけ。しかも我の顔を見て泣くな、不敬であろう」

 鼻も耳元も赤くして、声だって寒さで震えている。それなのに、文句は遅い、の一言だけで。の泣き顔を見て、涙をぬぐおうと手を伸ばしてきたのだ。
 冷たい手が、の頬に触れた。
 その冷たさに、胸が詰まった。ギルガメッシュの手に、涙がぱたりと落ちる。

「ばか、ばか、ばか……!」
「ばかばかと、我に向かってそんなことを言う女は貴様くらいだ」
「……ごめん、ごめんなさい、こんなに体冷やして、っ……」
「泣くな。謝るくらいなら早く中へ入れろ」
「う、ん……!」

 ギルガメッシュの言う通りだと、涙を拭う手を止めて中へと招き入れた。あんなにドアを開けまいとしていた意地は、ギルガメッシュの姿を見てどこかへと飛んでいった。
 とにかく、ギルガメッシュの体を温めなければ。は浴室へと向かうと、湯船に栓をして風呂焚きのスイッチを押した。

「待ってて、今お風呂入れるから……」

 ギルガメッシュを振り返ると、そのまま抱きしめられた。お風呂に入ってあったまって、話はそれから、と言おうとしたことも、呼吸すらも止まった。
 冷たいコートの感触。それを飛び越えてきたのは、懐かしいギルガメッシュのにおい。それを感じるだけで、たったそれだけで、の思考は止まってしまった。

「温めるなら、貴様が温めろ」

 そう言って、の首筋に顔を埋めた。冷たいくちびるの感触が肌を滑る。

「あ、ギル、だ、」

 だめだ、早く熱いシャワーでも浴びないと、風邪を引くから。
 そう言おうとした口が、また止まった。ただ、ギルガメッシュの赤い瞳に見つめられただけなのに。その奥の、渇望するような色を見てしまって、の心臓が大きく跳ねる。



 求める声を聞いてしまったら、もう拒否することはできなくなった。
 予告のようにささやかれた名前。その直後に、くちびるに冷たい口が覆いかぶさってきた。の体温を求めるように、くちびるどうしが深く重なり合う。くちびるに体温を分けると、今度は口の中へと舌が入り込んできた。舌だけは、相変わらずの熱さだった。

「ん、んふ、んっ……ギル、ギル……!」
……!」

 ぎゅうっとギルガメッシュの背にしがみつくと、苦しいくらいの力で抱きしめ返された。息が苦しくなった。けれど、それ以上に、胸が苦しくなった。
 ああ、やっぱりギルガメッシュのことが好きなんだと、また触れあってしまったからには諦めきれないと。
 締め付けられるような苦しさに、涙があふれてきてしまう。ギルガメッシュの顔を見ていたいのに、涙が止まらない。
 その涙に吸い付きながら、ギルガメッシュの手がの服を脱がしにかかる。も、ギルガメッシュの服を脱がそうと手を伸ばす。性急にお互いの服を脱がすと、もつれ合うようにしてベッドへと倒れこんだ。
 ギルガメッシュの冷えた体を温めるようにして、彼の体に自分の手足を絡ませる。くっついた場所から体温が奪われていったが、興奮からか、すぐに体が熱くなる。興奮しているのはギルガメッシュも同じで、の肌に吸い付いては鬱血を残していった。

「あっ、あ、ああっ……! ギル、はあっ……!」

 胸元に吸い付かれ、乳房を揉まれるだけで、あられもない声が出てしまう。こんな体をしていただろうかと、自分でも不思議になるくらいに、ギルガメッシュのすべてで感じてしまっている。乳房の頂上を吸われ、ギルガメッシュにしがみつく腕に力がこもった。
 胸元から腹へ、くちびるが吸い付きながら降りていく。下腹部へ到達するころには、くちびるの温度はすっかり温かく、熱くなっていた。
 くちびるが触れるたびに、の胸が苦しくなって、けれど、同時に安堵のような感覚も全身に広がっていく。ギルガメッシュが欲しいという欲望と、いとしいという気持ちが、肌が触れあうたびに大きくなっていく。大きくなったそれは、からあふれて、壊れてしまいそうなほどで、居てもたっても居られなくて、自分からもギルガメッシュに手を伸ばす。

(もう、壊れていもいい)

 今はただ、ギルガメッシュに触れていたい。繋がっていたい。
 ギルガメッシュの両腕がの両脚を持ち、ぐっと大きく開く。ギルガメッシュの眼前にあらわになったの秘部は、触れられるたびに体に走った快感の証が光っていた。直接触れてもいないのに、割れ目から滴っている。それを見たギルガメッシュは、言葉を発する間もなくそこに顔を埋めた。

「あっ! あ、あっ、ん、」

 じゅる、ずずっ、と滴るものを吸い上げた後は、舌を使って敏感な突起や入口を舐めしゃぶってくる。舌がの恥ずかしいところを行き来するたびに、くちゅくちゅ、といやらしい音が立つ。ざらりとしたものが敏感な粘膜を撫で、は高い声を上げてしまう。

「んっ、あ、だ、め、そんなに、しちゃ、あぁんっ」

 これまで以上にギルガメッシュから与えられる刺激に感じてしまっているは、秘芽を口に含まれ、きつく吸い上げられた瞬間にあっけなく達した。はねる下肢を抱えながら、あふれ出た愛液をまた音を立てて吸うギルガメッシュ。はそのくちびるにも感じてしまい、さらに腰を浮かせてしまう。
 内部から垂れた愛液をすべて舐めとったギルガメッシュは、口元を拭いながら上体を起こした。の上に覆いかぶさると、いきり立ったモノを入り口に擦りつけ、ゆっくりとの中に侵入した。

「あ、ああっ……! ギル、入って、くる……!」


 中を慣らすように、ゆっくりと腰を動かした後、辛抱たまらんといった様子で激しく律動を開始するギルガメッシュ。これまでの行為の最中では、を言葉で辱めたり、恥ずかしいことをに言わせようとしたりと、なにかと言葉巧みにの羞恥心を煽ってきたのだが、今はほとんど口を開いていない。の、ギル、と呼ぶ声に応えるように、、と呼ぶだけで、ほかにはなにも。表情も、これまでの余裕たっぷりの表情ではなく、苦しげに眉間にしわを寄せている。

(もしかして、ギルも、苦しいの)

 ギルガメッシュが好きで、いとしくて、その思いに比例するように苦しくて、さびしくて。その苦しさは、ギルガメッシュのそばにいて、彼に触れると、その一瞬だけ忘れることができた。
 の心と同じように、ギルガメッシュもまた、その苦しさを感じているのだろうか。だから、こんなに必死に、貪るように体を重ねて。

「ギル、ギ、ル、あっ、好き、好きなの、大好きなのっ……!」
「っ、……!」

 手を貝殻のように重ねて、くちびるを重ねて、舌を絡めあって、体の奥で繋がって。
 ギルガメッシュの体を温めるという目的はとうに達成されていたけれど、そんなことも忘れて、ふたりで無我夢中で熱を交わし合った。
 ただ触れ合っている時だけは、お互いになんのしがらみもない、ただの男と女。寸暇も惜しむように、まだ足りないと渇望する心の赴くままに、手を伸ばした。

「は、あっ……や、もう、だ、め……あっ、またっ……!」
……!」
「あ、ぁ、〜っ……! ぎ、る、あつ、い、ああっ!」

 果てても果てても、まだその向こうへと。



 夜明け前。やっと落ち着いたふたりは、体を洗い流すために風呂に入った。狭い湯船の中で、はギルガメッシュに後ろから抱き締められるような形で座っている。せっかく張った湯は、ふたりで入ったせいでだいぶ溢れてしまった。お湯はもったいないし、狭いし恥ずかしい。けれど、離れたいとも思わなかった。

「……ねえ、ギル」
「なんだ」
「なんでここに? 入院してたんじゃなかったの?」

 後ろからの髪や首筋に絶え間なくキスをしていたギルガメッシュに、本題を切り出す。

「なんでもなにも、言ったであろう。貴様が辞表なんぞ出すからだ」
「え……ほんとに?」
「たとえ我から離れようとどこぞへ行っても、貴様ひとりを探し出すことなど朝飯前ではあるが、勝手に辞められては困る事情がある。貴様があの忌々しい話をしてきた翌日に、コトミネに言いつけておいたのだ。藤丸が辞表を持ってきたら、我に連絡しろと。ちょうど退屈極まりない病院にも飽きていたところだったのでな、抜け出してやった」
「え、じゃあ財布とか携帯も持ってきてないの?」
「カード一枚あれば十分であろう。携帯は貴様と会うのに邪魔だ」
「……それ、大騒ぎになってるんじゃないの」
「なに、心配はいらん。シドゥリが上手く誤魔化すであろう。仕事も我がいなくなっても後を継ぐ者がいる」

 ギルガメッシュの腕の力が強くなった。顎を掴まれたかと思うと、くちびるに軽くキスをされた。まるで、だから心配はいらん、思う存分いちゃつけるぞとでも言うかのようなくちびるに、は顔を赤くした。

「ん、ギル……で、でも、勝手に辞められたら困るっていうのは……?」

 背中に当たるモノが硬度を増す前に、話を戻す。先ほどまでの行為で疲れ果てているので、今のうちに話をしておきたかったのだ。今度またセックスが始まれば、次は疲れて寝てしまうかもしれない。
 いちゃつく気満々だったギルガメッシュは、その気を削がれて小さくため息をついた。それから、ゆっくりと口を開いた。

「まあ待て、話をするならば上がるぞ。だらだらと喋る気はないが、貴様がのぼせては手を出せんからな」
「……手を出す前提なんですね……」
「当然だ。我は貴様に手を出す気しか持ち合わせておらんぞ」
「……もう、えっち」
「褒めるな」

 憎まれ口を叩いたつもりが、ギルガメッシュはなぜか嬉しそうにしている。
 風呂から上がり、体を拭いて、服を着て、お互いの髪をドライヤーで乾かして。話をする準備は万端というところで、ギルガメッシュはまたを後ろから抱きしめるように座った。その体勢のまま離れない。どうやらこのまま話をするらしい。

「貴様が言いたいことはわかった。我と対等でなくてはそばにいる意味がないと、そういうことであろう」
「う、うん……」
「まったく、厚顔にも程があるではないか。この我と対等を望むとは、無欲なようで、今まで会った女の中で最も欲深い女だ」
「そうかなあ……」
「この我を愛したいと、愛を与えられるだけでは嫌だという女は貴様が初めてだ」

 そうだ。だからギルガメッシュに与えられるだけの今がとてつもなく嫌で、苦しいのだ。ギルガメッシュはただ愛されていればいいと言うかもしれないが、それではともにいる意味がない。だってギルガメッシュが好きで、愛したいのだ。

「我は貴様を手放す気はない。だが貴様は今のままでは我の愛を受け止められないという。ならばどうすればよいか」

 ギルガメッシュが喉を鳴らした。

「簡単なことだ。貴様が我の元に這い上がって来ればいいだけのこと」
「……え?」
「愛される自信をつけよ、。己を磨き、価値を高めて、我と並び立てるまでに成長するのだ。凡俗であるならなおさらのこと、自信をつけるために努力せよ」

 振り返ると、ギルガメッシュがいつもの自信たっぷりの表情をしていた。いつもの、先を見据えて最善の手を打つ、ひとの上に立つ者の顔だ。

「我に並び立てるまで努力をし続ける覚悟があるのなら、我はその覚悟に対して投資は惜しまん。貴様が望む教育を与え、環境を与え、時間を与えよう。我の秘書となれ、
「秘書……?」
「我の正式な秘書となった時に、貴様を娶る」

 自分に愛される自信がない、与えられる愛に返せるものがないと苦しむに対して、ギルガメッシュは目線を合わせるのではなく、手を差し伸べてきた。我の元まで来いと。我の愛を正面から受け止められるように、努力して自分を高めて自信をつけろと。
 とともに歩む先を考えて、の心の奥にある不安を取り除こうとしている。この先とずっと一緒にいるために、が堂々とギルガメッシュの隣に立てるように。

「貴様であろうと我は手を抜かんぞ。我の要求するレベルは高い。そこに這い上がってくるまでに時間はかかるだろう。だが、決して不可能なことではない」

 ギルガメッシュは脱ぎ散らかしたままのトレンチコートを引き寄せると、ポケットを探り出した。手のひらに乗る正方形の小箱を取り出すと、蓋を開けて、に箱の中身を見せた。
 そこにあったのは、蛍光灯の光を受けてきらめく石を乗せた、金の輪。

「今ここで、我のために努力をし続ける覚悟を決めよ、。我が欲しいなら、我のものになると誓え。──我と婚約しろ、藤丸

 婚約指輪を見つめて呆然としているをよそに、ギルガメッシュは指輪を台座から外し、の左手の薬指にそれを嵌めた。ぴったりと指に馴染む指輪は、ギルガメッシュが前々からのために作らせていたものなのだろう。
 が自分の元へと這い上がってくる未来を信じて、の心を信じて、ギルガメッシュはこの指輪を作ったのだ。の、ギルガメッシュを思う気持ちを信じて、差し伸べた自分の手を取ると、疑うことなく。
 の頬を、涙が伝っていく。ぱたりとパジャマの上に落ちて、布地に染み込んでいく。

「……まだ、なにも言ってない」
「馬鹿め、我がイエス以外許すと思うのか」
「……私、あんなにひどいこと言ったのに、どうして」
「なに? そこまで言わせる気か。つくづく、呆れるほどに強欲な女よ」

 と言いつつも、ギルガメッシュの顔に不満げな色はない。の頬を愛おしむように撫でて、低く囁いた。

「貴様に惚れているからに決まっているだろう。業腹だが」

 苦々しい、けれど、それが満更でもないような声が返ってきた。の左手を持ち上げて、薬指の指輪にキスを落とす。
 その王子様のような、キザで慈愛に満ちた仕草が、どうしようもなくかっこよくて。なんだか腹が立った。腹が立ったけれど、怒る気にもなれない。そんなギルガメッシュに、もうどうしようもなく恋をしてしまっているのだ。

「あのね、ギル。私、頑張るから。ギルのお嫁さんになれるように、絶対絶対、頑張るから。だから、だから……また、ギルに恋をしてもいい……?」

 顔を涙でくしゃくしゃにして言うことではないかもしれない。本当はもっと、お化粧もしておしゃれもして、綺麗な姿でこの指輪を受け取りたかった。けれどもうしょうがない。サマにならないのはいつものことだし、ギルガメッシュにはもうすでに無様なところなど見られまくっている。それこそ、出会った時から。
 涙を流しながら精一杯笑うと、ギルガメッシュが満足そうに目を細めた。

「ふん、あとでやっぱり止めるなどと言い出しても返品は受け付けんぞ! もっと我に恋をしろ、そして精々励め、
「うん、うん……!」

 自信満々に胸を張るギルガメッシュに、なぜだかほっとしてしまって、余計に涙が溢れてきた。それを袖で拭うと、はギルガメッシュの胸に顔を埋めた。直後に、苦しいくらいに抱き締められる。
 その息苦しさが、どうしようもなく愛おしい。

「もっと我を好きだと言え、もっと我に惚れるがいい」
「うん……ギル、好き」
「会うたびに好きと、いや、一分ごとに好きと言え」
「い……!? いやさすがにそれは」
「我は会うたびに貴様に恋をしているのだぞ、貴様も我と会うたびに惚れ直して当然だろう」
「……もう、ばか」
「よし、憎まれ口一回ごとにキスさせろ」
「なっ……!? それじゃあ喋れなくなっちゃう……」
「なんだと? どういう意味だ貴様」

 他愛もないことを言ってじゃれ合っているうちに、カーテンの隙間から白い光が差し込んできた。夜が明けたらしい。さすがに眠たくなってきて、ギルガメッシュの腕の中でうとうととしてしまう。

「さて、寝るか」
「うん……起きたら、今日はどうするの……?」
「そうだな、我は一旦物置になっている部屋に荷物を取りに行く。この有り様では貴様とデートにも行けん。我が戻るまでに支度を済ませておけよ」
「デート……でっ、デート!?」
「カップルの週末といえばデートだろう」
「ほ、ほんとにいいの? 仕事は?」
「たかだか土日ぐらい構わんだろう。そのために携帯も置いてきたのだからな。どこへでも行きたい場所へ連れていってやる」

 ベッドにもぐり込んで、デートの行き先を考える。シングルベッドにふたりで横になると本当に狭い。寝返りも満足に打てないほどに狭い。一番狭い思いをしているギルガメッシュは、とくっついて眠れるのが満更でもないらしく。気に入らないものは勝手に買い替えるギルガメッシュが、ベッドをそのままにしているというのは、そういうことなのだろう。
 ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、長い足で両足を挟まれて、まさに抱き枕のような状態になっている。さすがに寝づらいので抗議の声を上げる。

「あの、苦しくて眠れないんですけど」
「そうか。ならばセックスするか?」
「なんでそうなるの!? 寝るから! ここでえっちしたら今日一日起きられなくなっちゃうから!」
「チッ……仕方あるまい、さっさと寝ろ。デートの時間に遅刻したら許さんぞ」
「えっ……うん、うん……?」

 結局、ギルガメッシュの拘束は緩むことはなかったが、彼の高い体温でぽかぽかと温まったことで、は直に寝入った。それをギルガメッシュが面白くなさそうに見ていたが、やがて彼もを抱きしめて眠った。



 季節は廻る。桜の季節が終わったかと思うと、もう衣替えの時期がやってくる。だんだんと温かさを通り越して暑さへと変わっていく今日この頃、は相も変わらずウルク商事で働いていた。ただ、以前のように受付としてではない。

「言峰部長、そろそろお客様と面談のお時間です」

 総務部の奥、部長席の隣にあるデスクから言峰に向かって声をかける。うむ、と低い声で返事が返ってくる。

「さて、行ってくるとしよう。君は引き継ぎとデスクの整理でもしていなさい」
「え、でも……」
「明日から会長秘書だろう。君の仕事をここに残しておけば、あの会長がまたうるさいのでな」
「う……はい。あと会長秘書じゃなくて、会長秘書補助です」
「そうだったか」

 言峰は薄笑いを残して一階へと向かっていった。その広い背中を見送って、はため息をついた。

(最後まで、言峰部長に対して緊張が抜けなかったな……)

 あれから、は受付を離れて言峰の秘書として半年近く過ごしていた。秘書の仕事もわからぬまま、いきなり会長秘書補助はさすがに大変なので、まずは秘書の仕事に慣れてもらうのはどうかとのシドゥリの助言があったのだ。ギルガメッシュは最後まで渋っていたが、最後にはシドゥリに根負けして、が言峰の秘書として働くことを許可したのだ。
 そして、六月からはシドゥリの補助という位置に異動になる。シドゥリはこの会社の所属ではなく、ギルガメッシュの私設秘書なので、表向き、この会社の会長秘書はということになる。色々と不安が残るが、とにかくやるしかない。シドゥリにしがみついてでも日々学んでいかなければなるまい。

(とりあえず、引き継ぎの書類仕上げて、ここを片付けよう)

 言峰がお客様との面談を終えて戻るまでに書類を仕上げようと、パソコンに向き合う。書類を仕上げてプリントアウトし、ファイリングすると、そろそろ言峰が戻ってくる時間になっていた。
 一時間を過ぎた頃に、言峰が事務所へと戻ってきた。

「藤丸くん。会長がお呼びだ」
「え? ギ……会長、このビルにいるんですか?」
「つい先ほど戻ってきたそうだ。とにかく今すぐ来いということだ。行ってきなさい」
「はあ……でも、まだデスクの片付けが残ってて」
「それは、会長に直接お願いしてみてはどうだ。長くなりそうなら手短に済ませるようにと」
「手短に……言えるわけありませんよ」

 明日から上司になるギルガメッシュに向かって、そんな口が利けるわけがない。プライベートならいざ知らず、公私混同は嫌だ。

「なに、まだやることがあると伝えるだけだ。君は上司に対して必要以上に遠慮するところがあるが、あの会長にそんな遠慮を持ち合わせていると身が持たんぞ」
「う……はい、頑張ります……」

 が変に遠慮をしてしまうのは言峰相手だからだが、確かにその癖はここでなくしてしまったほうがいいかもしれない。これからギルガメッシュの周りの色んな人間と関わることになるのだ。いちいち腰が引けていては、できる仕事もできなくなるだろう。言峰よりアクの強い人間がいるかどうかは定かではないが。

「今日中にはまた戻ってくる気ですが、一応。言峰部長、大変お世話になりました」

 が椅子を引いて立ち上がり、言峰に向かって腰を折ると、言峰は喉の奥で笑い声を漏らした。

「会長の元でも、励みたまえ」

 と言うと、さっさと自分の席へ戻ってしまった。会長のところへ早く行け、ということだろう。もう一度礼をして、は事務所を後にした。
 会長室をノックして扉を開ける。久しぶりの会長室は、夏に向けて絨毯が毛の短いものになっていた。おお、と眺めていると、奥から苛立った声が飛んできた。

「いつまでそうしている、早く来んか」
「あ、はい」

 いけない、仕事中だった。ここへ来るのはいつもギルガメッシュとの私的な用事であったので、つい仕事中だということを失念していた。中へ入り、会長のデスクの前へ行くと、ちょいちょいと手招きされる。近くへ来い、ということだが。

「……仕事中じゃないの?」
「我が来いと言ったら来い」

 ひと睨みされた。仕方ないな、とため息を殺してギルガメッシュの元へと近寄り、ギルガメッシュの膝の上に乗った。するりと腰に腕が回される。

「言峰に体を触らせてはいまいな?」
「なっ……こんなコンプライアンスが厳しいご時世に、部長がそんなことするわけないでしょ」
「我に対する嫌がらせで貴様に性接待を要求しかねんからな」
(ギル、言峰部長になにしたんだろう……)

 ギルガメッシュと言峰の因縁は深そうだが、そんなえげつない嫌がらせをされそうなほどなのか。あとやはり成人向け同人誌の読みすぎではないだろうか。

「まあいい、明日からは貴様は公私ともに我のものだからな」
「ん、気が早いってば……」
「そうだな。まだまだ先は長いが、貴様は愛されるだけの女ではないのだろう? 精々励んでそれを証明してみせろ」
「うん、頑張ります」

 が大きく頷くと、ギルガメッシュの手が頭の後ろに回り、くちびるがの口に重ねられた。ちゅっ、と軽く吸い付いてすぐに離れたが、体は離れないまま。すぐにでもキスできそうな距離で見つめ合う。

「また茶を浴びせぬようにな」
「っ……一体いつの話を……! もうそんな失敗はしません!」
「そうか。まあ、仮に茶をぶちまけても、その時は我が貴様に再教育するだけだが」
「んもう……セクハラですよ、会長」
「抜かせ」

 低く喉を鳴らして笑うギルガメッシュに、もつられて笑ってしまう。
 ギルガメッシュとの出会いは、がお茶をぶちまけたことがきっかけだが、それがずいぶん昔のことのように思えてしまう。それだけ、出会いから今まで色んなことがあったということだろう。
 真っ白なスーツにお茶をかけてしまって、それからセクハラをされて、あれよあれよという間にギルガメッシュと関係を持って。恋をして、苦しんで、傷つけて傷ついて。また恋をした。
 これからも、一緒にいる限りは苦しんだり衝突することもあるだろう。お互いが違う人間である以上、それは避けられないことだ。

(でも、それでも一緒にいたい)

 ギルガメッシュとずっと一緒にいるために、努力をしている今がある。ギルガメッシュもまた、を待っている。その心がに向いている限り、はどこまでも頑張れる。

「ギル」
「ん?」
「好きだよ」

 が気持ちを口に乗せると、ギルガメッシュは赤い瞳を色気たっぷりに細めて、口の端を吊り上げた。

「当然だな」
「んっ……ギル、私、まだデスクの片づけがあるから、戻らないと」
「そうか。では我を満足させられるよう精々腰を使え」
「えっちなことしないでって言ってるんだけど……ん、だめだってば、あんっ……」

 タイトスカートの中から忍び込んだ手が、の敏感な箇所をまさぐる。ギルガメッシュが本格的に情欲の色を瞳に浮かべて、ネクタイを雑に緩めるのを見て、ああ、今日は残業だなと思うであった。


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