傷を残すきみ


 少女は人理修復を成し遂げた。
 喪失を埋める隙も、成し遂げた達成感に浸る間も、あちこちに負った傷を癒す間もなく、にわかにカルデアは慌ただしくなっていく。
 魔術協会から第一次派遣団がもうすぐやってくる。ダヴィンチちゃんの話によれば、派遣団が到着次第、このカルデアの人事の再編が行われ、魔術協会名うての魔術師たちがどっと押し寄せてくる予定になっている。派遣団の主な仕事は、生き残ったカルデアスタッフの査問と内部調査だ。はたから見れば、カルデアはレフ・ライノールの爆破工作に協力した容疑者であり、その容疑の査問と沙汰を下される側なのだ。もちろん、人理修復のデータの解析やらカルデアの立て直しが残っているので、一概に処断されるとは限らない。ダヴィンチちゃんをはじめとするカルデアスタッフの査問への対応次第というところだ。
 もちろん人理修復を成し遂げたマスターも例外ではない。最悪の場合、少女の偉業を一切無視した封印指定もありうる。それに至らずとも、カルデア──アニムスフィアの利権を食い物にしようとする魔術師たちによって、いいように消費される可能性だってある。
 スタッフたちの不安の声を漏れ聞きながら、少女はまた別の不安を胸の奥で燻ぶらせている。
 正直、人理修復の偉業がどうのこうのはどうでもいい。できればダヴィンチちゃんやスタッフや、ずっと隣に立っていてくれたマシュの功績は認めてほしいと思うが、それだけだ。自分のことは、最後に残ったマスターだったというだけの話だ。道中でどんなことがあったかなどは、マシュや支えてくれた人たちが覚えてくれているだけでいい。
 人理修復の目的を果たしたカルデア。もうひとつ、変わったこと。
 座に戻る英霊たちだ。
 人理修復という名目を果たしたのだから、もうカルデアにいる必要はない。座に戻るのは当然のことで、マスターを放っておけないから、という理由で残るもののほうが少ないのだ。それでも、自らの処遇を決めた英霊の半数弱が残ってくれて、ほっとしたような。

(王様は、どうするんだろう)

 絶対に口にはしてくれないものの、マスターを憎からず思ってくれているのはわかっている。もともと四六時中そばにいるわけではないし、人理修復後は忙しくなって、さらに一緒にいる時間が減った。これからどうするのか訊くに訊けない、そんな状況である。

(一緒にいてくれる、とは、思ってるけど)

 絶対にここにいてくれるなんて、言いきれない。なんとなく、不安で。

「帰ったか、雑種」

 マイルームに入ると、もはや日常風景となりつつあるが、キャスターのギルガメッシュがベッドでくつろいでいた。大きいクッションにゆったりと体を預けているさまは、まるでこの部屋の主であるかのようだ。

「王様……もういつものことですけど、なんでこの部屋に……」
「決まっている、貴様のものは我のものだ」

 なんだそのジャイアニズムは。至極当然という顔で言い返され、マスターはがくりと脱力した。悩んでいたことも吹き飛ばすようなこの唯我独尊ぶりに、どことなく安堵しながら。

「こんな時間からこの部屋にいるなんて、珍しいですね」

 今はちょうど昼食の後だ。自分の部屋で一服しようと思って戻ってきたところである。いつもは、マスターが一日の活動を終えて帰ってくるころに部屋に居座っていることが多いのだが。

「なに、貴様に用があっただけのことだ」
「用……?」

 珍しいこともあるものだ。こんなふうにマスターの手が空くころを見計らって用を申し付けるなど。ギルガメッシュのほうからマスターに用があることはめったにない。用事があるときはマスターの都合など一切考慮せず、問答無用で拉致される。はて、と彼の口が開くのを待った。

「我はそろそろ座に戻る。これまでの小間使いとしての働き、大儀であったな」



「おや、マスター。こんなところでどうしました?」

 少女とも少年ともとれる涼やかな声に、少女は膝に埋めていた顔を上げた。声のしたほうには、長い緑の髪と澄んだ緑の目を持った少年がいた。膝を抱えた体勢で座り込んでいるマスターの顔を覗き込むように、身をかがめている。

「エルキドゥ……どうしてこんなところに」
「僕は、珍しいところに君の気配を感じたから。君は?」

 マスターとエルキドゥがいる場所というのは、カルデア内にある公園である。公園といっても遊具があるわけではなく、ベンチや芝が敷いてある簡易的なものだ。適度に緑があり、適度に光が差し、適度に風が吹く。職員のリフレッシュを目的に設置された場所だが、人理焼却が始まってからは利用者はいない。
 マスターも、このカルデアに入局してからは一度も足を踏み入れたことがなかった。カルデアでマスターのいる場所といえば、管制室や医務室、訓練所と食堂と図書室ぐらいだ。そのどれでもない場所からマスターの魔力が感じられたので立ち寄ってみた、ということだろう。
 エルキドゥは、第七特異点から帰還して終局特異点に挑む前に召喚したサーヴァントである。ゆえにまだマスターとのつながりは薄いが、彼の性能はピカイチ。マスターの気配を探ることも、複雑なカルデアの内部構造を把握することもたやすいことなのだ。

「マスター、なぜ泣いているんだい」
「……っ、ごめん、ちょっと……」

 泣いているところを見られたくなくてこんなところに来たのに、思ってもみない人物に見つかってしまった。なんでもない、と言おうとして、彼と縁の深い──ここに逃げ込んだ原因になった男を思い出し、くしゃりと顔を歪ませた。

「っ……! う、」

 しゃくりをあげて涙を流すマスターを困ったように見つめて、結局エルキドゥはマスターの隣に腰を下ろした。同じように膝を立てて座り、マスターが落ち着くのを黙って待っていた。
 やがて、少女は呼吸が落ち着いたころに、ポケットからティッシュを取り出して鼻をかんだ。真っ赤に充血した目と、腫れあがったまぶたを恥ずかしがるように手で隠しながら、隣に座っていた少年に声をかけた。

「……ごめん、みっともないとこ見せちゃって」
「みっともないとかそういうことはよくわからないけど……なにがあったんだい? その様子だと、原因はキャスターのギルだよね」
「う……なんでわかったの?」
「そんなふうに君を泣かすことができるなんて、あのギルかマシュぐらいだって、僕にもわかりますよ。でも、マシュは君と喧嘩するぐらいならもっと別の道を選ぶ。残るのはギルだけ」
「……そうだね」
「なにがあったか、聞かせてくれますか?」

 場合によってはギルに報復しないと。
 なんだか物騒な台詞が聞こえてきた。隣の少年を見ると、穏やかに微笑んだままだったので、きっと気のせいだろう。マスターはそう思い、こうなった原因について話し始めた。

「王様が、座に戻るって」

 ギルガメッシュも、憎からず自分のことを思ってくれている。思いを通わせて、満たされていると、そう思っていた。だから、このカルデアに残ってくれるのではないかと。
 ギルガメッシュに座に戻ると言われたとき、自分でも想像以上にショックだった。元からそう言われる不安はあったのに、ここ最近の彼との円満な関係から、残ってくれると信じていた。それを裏切られたような気がして、どうして、と叫んでいた。

『貴様との契約は人理修復までだ。それが成された以上、我がここに残る理由はない』

 ここに残る理由はない。その一言が、ひどく胸をえぐった。
 一年近くもそばにいてくれたのに、ようやく思いを通わせたと思ったのに、こんなに好きなのに。

(私がいるからとは、言ってくれない!)

 そこから先はよく覚えていない。しれっと言ってのけた男に無性に腹が立って、

『王様のバカ! 大嫌い!』

 という捨て台詞を残して、部屋から飛び出してきたのだ。

「ひどくない……? 仮にも惚れた女がいるのに、ここにいる理由がないから契約終了はいさようならって」
「うーんまあ、確かに、ちょっと急だなあとは思うけど」
「……急って?」
「君とギルは好き合ってる。お互いの思いはわかってる。座に戻るかどうかは、今日初めて話したんだよね」
「うん」
「ギルは戻るって言った。君は?」
「私?」
「マスターは、ギルに自分の思いを伝えたの? 残ってほしいって」
「あ……」

 そういえば、彼に座に戻ると言われたショックで、肝心なことを伝えていない。
 どうしてこう、肝心な時に視野が狭くなるのか。傷ついたり怖くなってしまった時に、自分のことしか考えられなくなるのは、幼い証拠だ。先刻のやりとりは、話し合いにすらなっていない。ちゃんと向き合って話し合わなければ。ここが瀬戸際かもしれないのだ。

「答えは見つかったようですね」

 やらなければいけないことが見えてくると、自然と心は落ち着いていく。けれど、まだ怖いのも事実だった。

「うん……あの、もうちょっとここにいてもいいかな? もうちょっとだけ、頭の中整理したら、王様のところに行くから」

 隣できれいに微笑む緑の人は、少女の行く末を見守っている。

「いいもなにも、ここはカルデアスタッフのための場所だろう? マスターの好きにするといい」
「うん……」

 さらさらと、微風に木の葉が揺れる音がする。腰を下ろしている芝生は青く、土と光の匂いがする。再び自分の膝へ顔を埋めると、瞼が重くなってきた。泣きつかれたのか、それとも純粋にお昼の後で眠くなってきたのか。さすがに、隣に人がいる状態で眠りこけるわけにもいかず、無理やり瞼を持ち上げる。

「そういえば、エルキドゥはこれからどうするの?」
「僕は、人と歩むと決めましたから」

 ということは、エルキドゥはここに残るということか。にっこりと顔をほころばせたエルキドゥを見て、少しだけ安心する。安心ついでに、睡魔が再び襲ってきた。
 こくりこくりと船をこいだ少女を見て、隣の少年は緑の瞳を瞬かせた。

「マスター、眠いのかい」
「う、ん……」
「眠ってもいいよ。君には今、それが必要なんだろう」

 でも、エルキドゥを放って眠るなんて、そんな。
 思考が口から出る前に、まぶたが完全に降りていた。眠ってもいいよ、とまるで呪文のような言葉に従うように。

「でも、そうか……ギルがそんなことを……ギルは、君のことが、よっぽど──」

 意識が途切れる前に聞こえたつぶやきが、妙にこびりついてしまって。
 だからか、夢を見た。
 どこまでも続く乾いた大地と、突き抜けるような青い空。茶色の煉瓦を積んで作られた建物たち、貫頭衣を身にまとった人々。第七特異点で見た景色と同じものが、眼前には広がっていた。その夢の主観はひとりの人物で、見るもの、感じるもの、考えるもの、すべてがそのひとの視点によるものだった。
 そのひとが一番に見て感じて考えるものは、ひとりの孤独な王だった。
 すべてを見定めるために孤独を選び、人を諫める嵐として結果だけを楽しみに生きる王様。
 その王と友になったそのひとは、共に歩み、そして王を残して死んでいった。

「──」

 目を開ける。眠っている間に、隣にいる少年に体重を預けてしまっていたようだ。美しい緑の髪が目に入ってきたことと、人と同じ温かさが触れた部分から伝わってきたことで、それを自覚する。

「エルキドゥ、ごめん、いつの間にか寄りかかってた。どれくらい眠ってた?」
「構わないよ。ほんの二十分くらいだけど……もっと眠っていてもよかったのに」
「ううん……夢を、見て……」

 なんの夢かまでは言わなかった。あれは明らかにエルキドゥの過去だ。エルキドゥが死んだところで途切れたということは、彼の過去だろう。 ギルガメッシュにかかわることが大部分だったせいで、ギルガメッシュの過去かとも思ったが。

「ああ、もしかして、さっき少しだけ機能を制限したときに、共有してしまったかな」
「機能を、制限?」
「ここにはそうそう兵器としての出番はないから、五分だけ戦闘機能を制限してたんだ。人間ふうに言うと、睡眠ですね」
「へえ……」
「僕の過去といえば、大半は彼との記憶だから、そう面白いものでもないんだけど」

 これにはなにも言えなかった。英霊と過去を夢で共有することはままあることだが、そのどれもが凄絶なものだった。英霊とは、過酷な状況を戦い抜いた英雄たち。その過去は得てして裏切りや絶体絶命の状況が多く、共有する少女としては、あまりの重さに押しつぶされそうになるものだ。現在の英霊たちは、その筆舌に尽くしがたい過去を「そういうものだった」と、あっけらかんとしていることがほとんどなので、マスターがつぶされることはないのだが。

「ギルのこと、少しはわかったかい」
「……わかったような気がするってだけなんだけど、前よりは」
「そう……ギルのところに行くかい?」

 こくりと首肯して、マスターは立ち上がった。

「ありがとう、エルキドゥ」

 服についた芝を払いながらエルキドゥを振り返ると、彼は穏やかに微笑んで手を振った。このままマスターを見送るらしい。キャスターのギルガメッシュが、エルキドゥに会いたがらないことを察してのことだろうか。



 最後にギルガメッシュと顔を合わせたマイルームに行くと、いつにも増して不機嫌そうなギルガメッシュがベッドに腰掛けていた。あっさりとギルガメッシュを捕まえられたことに安堵する。

(もしかして……私が帰ってくるの、待っててくれた?)

 エルキドゥと共有した夢が見せてくれたもの。そこから感じ取った、ギルガメッシュという男。
 尊大で傲慢な態度からわかりにくいが、彼は人間を愛している。人間の醜さも美徳も愚かしさもすべてを見据えて、愛するに値すると思っている。
 それ故に、彼は人間とは交わらない。

「王様……あの、さっきは、ごめんなさい」
「反省するのが遅いわ、馬鹿者」
「うっ……ご、ごめんなさい」
「我を愚弄した罪は重いぞ、雑種。自らの罪を自覚し、滝よりも深く反省せよ。そして疾く取り消すがいい」
「取り消す……?」
「貴様、覚えてないとは言わせんぞ! この我に向かって言ってはならん言葉を言っただろうが!」
「えっと……馬鹿って言ってごめんなさい!」
「そっちではないわ、このたわけぇ!」

 途端に眉を釣り上げたギルガメッシュがつかつかと少女に歩み寄ったかと思うと、白い両頬を強くつねり上げた。

「いだだだだだ! いひゃい!」
「何故いつもいつも阿呆な返答ばかりするのだ貴様は! 海よりも寛大な心を持つ我とて限界があるぞ!」
「いひゃいです、まじでいひゃい!」
「痛くしておるのだ!」

 両頬が千切れるのではないかと思うほどにつねられ、痛みに涙を浮かべるマスター。限界を感じて王の両手をぺちぺちと叩くと、ぺっ、と投げ出すように手を離された。まだ痛みでじんじんとする両頬をさする。痛い、本当に痛くて泣いている。

「ううう……!」
「思い出したか、この馬鹿者が!」
「うううう……ごめんなさい、大嫌いっていうのは嘘です、ごめんなさい……本当は大好きです……」
「当たり前だ」

 まだ怒りが収まらない様子ではあったが、マスターの言葉に満足そうに頷いて、再びベッドに腰かけたギルガメッシュ。いつも通りのやり取りに、知らず、体の力が抜けていく。

「あの、王様……やっぱり、座に戻るんですか」
「またその話か。同じことを何度も言わせるな」
「それって、王様が裁定者だからですか」

 ギルガメッシュの片眉がぴくりと動いた。マスターの口から自らが明らかにしていないことが出てきたので、なぜ知っているのかと思ったのだろう。

「誰が吹き込んだのかは知らぬ、興味もないが。ここに留まる理由がないと言ったはずだ。人理修復を成し遂げた、それが此度の現界への報酬だ。見るべきものはすでにない」

 確かに、ギルガメッシュの言う通りだ。サーヴァントは、人理の修復と安定を目的として呼ばれている。そのうちの大きな任務が達成されたのだから、座に戻るのは当たり前のことだ。
 それはサーヴァントとしての当然のことであり、いちマスターとしても頷けるもの。
 では、ひとりのひととしてはどうなのか。

「私は……それでもギル様に、ここにいてほしい」

 人の作る歴史を見定める。その過程に人以上のものである自分がいてはいけないのだと、結果だけを手にして去ろうとする。それは裁定者としての結論だ。それらを抜きにした本音はどうなのか。

「私は、ギル様が好きだよ。ずっとずっと、一緒にいたい。そばにいてほしいよ! ギル様にとって、私はそういう存在じゃないの、同じじゃないの……?」

 答えてくれないかもしれない。そうではない、と否定されるかもしれない。けれど、ここで追い縋らなければ、絶対に後悔する。
 高ぶる感情とともにこみ上げてきたもので、視界がにじんでくる。ここで泣いてはいけないと、歯を食いしばって耐える。
 ギルガメッシュは少女の悲痛な声を聞き、静かに立ち上がった。鼻の頭を赤くして、泣きそうになっているのを堪えている少女に歩み寄り、その顔を見下ろしたかと思うと。少女の体を抱きしめた。

「っ……! 王様、」

 ギルガメッシュの体温に包まれると、堪えていたものがすぐに決壊した。ギルガメッシュの胸に顔を押し付けて、溢れてくる涙を我慢せずに流す。

(好き、ギル様が好きだよ)

 だから、ずっとそばにいてほしい。懇願するかのように腕に力を込めた。
 どれくらい抱きしめられたままだったのか。男が息を吸う音で、涙に濡れたまぶたを持ち上げた。

「よく聞け、雑種。我にとって貴様は、消え去る者だ」

 体が凍りついた。ゆっくりと彼の胸から顔を上げ、その表情を見上げる。

「貴様は生者だ。生者はいずれ死に、我の手にはなにも残らん。いかな人間でも死からは逃れられん。わかるな」

 声は平坦で、喋っている内容も少女を冷たく突き放すもの。けれど、その表情の、なんと冷たくて、厳しくて、慈愛に満ちたことか。

「貴様は人理修復という結果を残し、我はそれを報酬として見届けた」

「貴様のような凡百で、厚顔無恥で生き汚い女は、生きてその身の丈に合った幸せを手に入れるがいい」

(──嫌だ。そんなのは、)

 心でははっきりとギルガメッシュの言葉を否定しているのに、声にならない。喉から先に出る音が、言葉にならなかった。

(そんなのギル様の勝手だって、言ってやりたいのに)

 彼の言葉が、なによりも少女の行く末を楽しみにしているものとわかってしまうから、言葉が出ない。
 サーヴァントはもう死したもの。生きているように見えて、その生命はすでに終わっているもの。生きているものは生きているものと歩んでこそ。
 共に生きても、いずれ残酷な現実が突きつけられる。少女はどんどんと成長し、老い、やがて置き去りにする。老いずとも、なにかのきっかけで命を散らすこともある。
 ギルガメッシュの言わんとしていることがわかるから、なにも言えない。

「ではな、カルデアの魔術師。此度の人理修復、見事であった」

 するりと腕の拘束が解かれる。腕が離れきってしまう前に掴もうとして、それは失敗に終わった。その腕は実体を失っていたのだ。無機質な白い床が、腕の向こうに見える。
 はっとして、顔を上げる。
 そこには、もう別れは済ませたとばかりに口角をつり上げている男の顔があった。

「王様。ギルさま」

 やっと喉を通った言葉は、少女以外の耳に入ることなく、静寂に消えた。
 男が去ったあとの部屋は、暖かさも失ってしまったかのように、白く冷たい。


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