君を愛するきみ
人理修復から数日経ったカルデアでは、相変わらず忙しい時間が流れていた。
まず、魔術協会からやってきた派遣団は、データを渡して追い払った。それから、人理修復を成し遂げたマスターの情報の修正やら、データの解析やらが行われていた。
その間、マスターといえば、身体の検査と怪我の治療を兼ねた休暇を取っていた。休暇といってもカルデアから出ることはできないので、カルデア内で時間を使うしかない。マシュとともに遅まきながらの部屋の大掃除やら、人理焼却に立ち向かっている間後回しにしていたことを片づけていた。
そうしているうちに発生した、一九九九年の東京新宿区の特異点。七つの特異点に匹敵するものである。レイシフトできるマスターはただひとりということで、少女は再び特異点の修正へと向かうことになった。
「じゃあ、一緒に連れていくサーヴァントを選んでくれたまえ」
「えっと、それじゃあ……エルキドゥと、ダビデと……」
ともにレイシフトするサーヴァントを選んでいく。今回、マシュはマスターのバックアップのため、カルデアに残る。これまで一緒に窮地を乗り越えてきた相棒がいないのは心細いが、マシュの今の状態を思うとそうも言っていられない。今回は、数少ない居残り組のサーヴァントが頼りだ。
「よし、これで」
「はい。あれ……先輩、キャスタークラスは誰も連れていかれないんですか?」
「え? だって、」
──王様がいるから、と喉元まで出かかって、口を閉じた。
「……あ、うん、まあ大丈夫かなって」
かすかに言い淀んだマスターを見て、マシュが一瞬目を伏せた。
「そう……ですか。先輩、霊基パターンは保管してあるとのことなので、いざとなったら、契約し直すということもできるのですから……」
「うん」
マシュの気遣うような声に、笑顔を作る。
少女の部屋にはもう誰もおらず、もとの、ひとりで使う白い部屋に戻った。それがどうしようもなく静かで、冷たくて、色のないもので。
首をもたげてきた感情と光景を振り払うように、まぶたを強く閉じた。今はそんなものに浸っている時ではない。
(また、契約を)
マシュの言葉を胸に、コフィンの固い感触に目を閉じた。
再度契約、とは言ったものの、新宿にレイシフトしてからはそんな暇はなく。敵敵敵アンド敵、といった状況で、悠長に霊脈を探す時間すらなかったのである。
これまでは、マシュの盾を召喚の魔法陣代わりにして召喚を行ってきたのだが、今回マシュは同行していない。自分で魔法陣を敷設しなければならないのだが、霊脈を探っている暇もなく、魔法陣の材料もない。
やっと体を横たえられる場所──アルトリア・オルタがねぐらにしているハンバーガーショップの地下にやってきたものの、新宿を覆っている問題解決のために無駄な時間を使っている余裕はなさそうだ。
「マスター、なにをしている」
それでも、万に一つでも可能性があるのなら、試しておきたいのだ。素人が見よう見まねで描いた、不格好でいびつな魔法陣だけれど。生贄の血も、水銀も、溶解した宝石もなかったけれど。
アルトリア・オルタの声に、苦笑いを浮かべて彼女を振り返る。
「あ、うん。ちょっと召喚の儀式をしようかなと」
「……ここに霊脈は通っていない、無意味だぞ。それより早く休むがいい」
「うん、まあ、無意味なのはわかってるんだけど」
それでも、無価値ではないと思いたい。こんなちっぽけなマスターでも、一年間彼をつき合わせて勉強してきたことは、無駄ではなかったと。
(なににも替えがたい時間だったんだ、私にとっては)
あの平凡で、あくびが出るような午後の時間。近くにいてくれた、金色を身にまとった王様。ため息と、厳しい視線と、呆れたような顔。
(会いたい)
勝手に自分の言い分ばかり押し付けて満足して帰りやがって、とか、色々言いたいことはあったけれど。もうなんでもいいから会いたいのだ、あの傲岸不遜で唯我独尊で愛しい王様に。
「──抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
召喚の詠唱が終わる。マスターとアルトリア・オルタの視線の先、魔法陣の上には、誰の姿もなかった。
「……やっぱりダメかあ……」
自嘲するような笑みを浮かべて肩を落とした。本来の材料はそろわず、魔法陣が正しく描かれているのかもわからない。これであの王が召喚されるほうがおかしい。そう自分に言い聞かせた。
「……貴様が求めているサーヴァントがどこのどいつかは知らんが。今はその時ではない、ということだろう。そう考えておけ」
「アルトリア・オルタ……」
立ち上がったアルトリア・オルタを見上げる。彼女の幽鬼のような白い肌は、今は少しだけ温度があるように感じられた。見上げてくるマスターの顔を一瞥して、彼女は自分の寝床へと去っていく。
「早く休め」
細く小さな、けれど、大きなものを背負って余りある背中を見送る。彼女の言葉にうん、と小さく返事をすると、できの悪い魔法陣をぐしゃぐしゃにして消した。
コロラトゥーラ、コロラトゥーラ、コロラトゥーラ。
あたり一面、不気味なマネキンに囲まれていた。あまりの圧倒的な物量の前に、同行していたアルトリア・オルタやジャンヌ・オルタと引き離されてしまった。大声を出してふたりに居場所を知らせようにも、マネキンからは常に歌姫を賛美する歌が大音量で流れていて、少女ひとりの声はかき消されてしまう。
菓子にたかる蟻のようなコロラトゥーラから、なんとか人気のない路地裏に逃げ込んだものの、今の位置がわからなくなってしまった。ここは一体どこだ。幸い、周りにチンピラなどはいないが、マネキンの騒音は相変わらず聞こえる。だんだんと近づいてくる。
まいったな、と独り言をこぼしそうになって、口を覆った。あのマネキンは耳がとんでもなくいいのだと、新宿のアーチャーが言っていたではないか。もうこちらの位置を把握しているようだが、それでも少しの時間稼ぎだ。
マネキンを振りきる体力は残っていない。ガンドを打とうにも、今はカルデア戦闘服ではなく別の魔術礼装だ。仲間に位置を知らせようにも、手段がない。
ああでもない、こうでもないと考えている間に、マネキンが路地の入口をふさいでいた。マスターに向かって真っすぐ進んでくる。
(ああ……これは、絶対絶命ってやつかな)
膝から力が抜け、薄汚れたビルの壁を背にしてずるずると尻もちをついた。路地の入口から見える電灯の光を背負って、コロラトゥーラが何体も押し寄せてくる。
(特攻してもいいけど、路地を抜ける前に切り刻まれそう……)
耳をふさぎたくなるような騒音が、徐々に考える力を奪っていく。ただでさえ大音量の歌は、ビル壁に反響して耐えがたい騒音と化している。
(ここで終わり)
少女とマネキンの距離が三メートルもない、といったところで、少女は目を閉じた。
ああ、叶うなら、最後に一目だけでも会いたかった。
(王様、私の、おうさま)
「──ええい、敵を目の前にして目を閉じるとはなんたる無様! しっかり意識を保て! そして立て! それでも貴様──」
「──我のマスターか!」
頭の中を溶かすような狂った歌声の中でも、ひときわよく通る声。
叱りつけるような、諫めるような、厳しく奮い立たせるような──先を導くような。
会いたいと、ずっと願っていたそのひとの声がした。
目を開けると、少女に迫っていたコロラトゥーラが三体ほどバラバラになって、アスファルトに転がっていた。その手前、少女の目の前に立っているひとが出した魔杖の餌食になったようだ。
魔杖から放たれる、薄汚い路地裏を照らす金色の光。それを反射して、金の髪が一層きらめく。
「どんな敵であろうと目を閉じるな。状況把握から目を背けていては、どんな偉業を成し遂げたとて、マスターとして失格だ」
「おう、さま」
露出度の高い服装に身を包んだ金色の王。
まぎれもない、キャスターのギルガメッシュが、マスターの目の前にいた。
「久しぶりに我の光り輝く姿を見て、言葉も出んか。であろう、当然だ。と、言いたいところだが、まだまだこの不快な騒音をまき散らす人形が来るのでな。後にしろ」
ギルガメッシュの言葉に路地の入口を見ると、コロラトゥーラが押し寄せてくるのが見えた。ここで座り込んでいる場合ではないと、手をついて立ち上がった。
「王様、まずはこいつらをやっつけてください。近くに味方がいるはずなので、適度に派手に!」
「──ふん、言われずとも。魔力を寄越せ、マスター! この近所迷惑な騒音マネキンを一掃するぞ!」
「はいっ!」
金色の光に染まった赤い瞳を見返して、少女は体の芯に力を入れた。
(王様)
そのひとがいるというだけで、なぜこんなにも力が湧いてくるのか。どんなことも恐ろしくないと思えるのか。
なぜこんなにも苦しくて、愛おしいのか。
「で、あの金ぴかはどこで拾ったんだ、マスター」
コロラトゥーラを撤退できる程度まで片づけ、アルトリア・オルタたちと合流した一行は、ねぐらであるハンバーガーショップの地下まで戻ってきた。
その入り口、アルトリア・オルタに腕を取られたマスターは、彼女を振り返った。明らかにギルガメッシュを警戒している様子のアルトリア・オルタに、どう説明したものかと頭を掻いた。
「いや拾ったんじゃなくて、気が付いたらいたというか……」
「気が付いたら、だと?」
「……うん」
素直に頷くと、アルトリア・オルタの柳眉が寄った。渋面を作り、不快そうに舌打ちする。なにか機嫌を損ねるようなことをしただろうかとマスターが不安になっていると、彼女はマスターの手を離した。
「……ではそこの物置でも使うといい。ただしいちゃつくなよ。いちゃついたら聖剣の錆にするぞ」
「え……でも、ここってジャンヌ・オルタの使ってるとこじゃ」
「あの女には広間で我慢させよう。とにかく、胸につかえたものがあるなら吐き出してこい。これから強敵との連戦だからな」
「……あ、ありがとう」
アルトリア・オルタは、マスターの礼も聞かずに広間のほうへと去っていった。
後に残されたマスターは、後ろを振り返る。興味なさげにやりとりを見ていたギルガメッシュと目があった。
「話は終わったな。ならば疾く案内せよ。小汚く狭苦しい、まったく王にはふさわしくない場所だが、貴様の部屋で多少は慣れている」
「わ、私の部屋はこんなに散らかってませんよ! この間掃除しましたし」
後ろでやかましいギルガメッシュを伴って物置に入る。部屋の三分の一程度を段ボールが占め、空いたスペースに簡易的なパイプベッドが置かれていた。もうその時点で空きスペースはなきに等しい。物置に無理やりベッドを置いた部屋だった。
そのベッドにどかりと腰を下ろしたギルガメッシュは、不意にマスターを手招きした。おとなしく隣に座ると、突然右手を取られる。
「え、あ……いたっ」
「先ほどのマネキンどもにつけられたか」
右腕の汚れがひどい部分を指で押されると、鈍痛が走った。マネキンから逃げる際に体をかばって、殴打を右腕で受けた、ような気がする。ギルガメッシュの登場が印象深すぎてすっかり忘れていたが、そうやって押されるとひどく痛む。腕を動かす際には痛まないので骨には異常はないらしいが、服の下がどんなことになっているのか想像したくない。
ギルガメッシュは宝物庫から魔杖を一本取り出すと、右腕をとんとん、と優しく叩いた。はじめはズキズキと痛みを覚えていたが、だんだんとそれが薄まっていく。
「仮にも令呪の宿る手を盾に使う阿呆がいるか」
「ご、ごめんなさい……」
その顔は渋く、まだまだ未熟なマスターに呆れているような──もう見慣れた表情だった。
「あの、王様」
痛みが完全になくなり、ギルガメッシュが魔杖を再び宝物庫に投げ入れたころを見計らって、マスターが口を開く。もう一度会えたら、言おうと思っていたことを言うのだ。
「この新宿の定礎復元が終わったら」
「我はカルデアには戻らんぞ」
「早い! 拒否が早いよ!」
「貴様の言うことなぞ容易に予想がつくわ! チラチラと我のほうばかり見おって!」
「なんでですか、もう一度私と契約してくれたんじゃないんですか!?」
「カルデアに戻るとなれば、我は再度座に戻る。理由はさんざん話したはずだ」
「……っ! あんなの、全部王様の勝手じゃないですか!」
「なんだと?」
ギルガメッシュの眉間にしわが刻まれた。不愉快そうにマスターをにらんでくる。ともすれば殺気を感じるような鋭い目線に恐怖を覚えるが、ここで引き下がれはしない。せっかく会えたのだ、言いたいことは言わせてもらうし、なんとしてでもその手をつかんでカルデアに連れ帰るのだ。
「そりゃ、わかるよ、王様の言ってることは私でもわかる。私は生きてる、王様はサーヴァントで、一緒に生きていけないことはわかるよ! でも」
「でももへちまもないわ! それがわかるならなぜ聞き分けぬ。一時の感情だけで我を引き留めたとて、後悔するのは貴様だ!」
「そんなのわからない! なんで王様が私のことを決めつけるの!?」
ずっと考えていた。あの別れ際にギルガメッシュが言ったことを。一緒に生きて、だんだんと老いて、変わらぬギルガメッシュを追い抜かし、最後には置き去りにする。
それがどんなに、お互いにとって残酷なことなのか。
「でも、私は、私は……それでも、王様じゃなきゃ、ダメなんです……」
ぱたりと、シーツを濡らす音がふたりの間に響く。心の内で言いたいこと、高ぶった感情が渦を巻いて、まとめて涙になって流れていく。
「だって、好きなんだもん……もう、好きになっちゃったから、ダメなんです、ほかの人じゃ。私は王様にずっとそばにいてほしいし、ずっと私のことを見ていてほしいし、触れてほしい」
「──黙れ、」
「いやだ、黙りません! 私は、ギル様と一緒に生きていたいんです! なんの価値もないだなんて、私は思わない!」
「貴様っ……!」
ギルガメッシュが、先ほど自分が治したばかりの少女の右腕を強くつかむ。骨が軋みそうなほどの力を込められ、苦痛に顔が歪んだ。しかしそれは一瞬で、赤い瞳をにらみ返すと、ずっと言いたくて言えなかった渾身の一言を放った。
「──私は、あなたが欲しい!」
つかまれた腕をぐっと引き寄せられる。直後に口を覆うように柔らかいものでふさがれ、口を閉じざるを得なかった。
「黙れ、この不敬者が」
その柔らかいものは、もう体に慣れた感触で。間近にある赤い瞳も、金色の髪も、くちびるから伝わってくる体温も、なにもかもが。
「こうなることがわかっていたから──そんな世迷言を言わせぬように突き放したというのに。言わねばわからんのか、貴様は」
「おう、さま……」
顔がゆっくりと離れる。右腕をつかんでいる手とは逆の手が、少女の涙のあとをなぞり、最後に頬を包みこんだ。口調とは裏腹に、どこまでも優しい手の感触。
「この我を欲しがるなど、不敬ここに極まったな。厚顔にもほどがあろう。だが、なんという──これこそ、我が愛でるべき人間の顔」
「王様……」
「いずれ、貴様は我のもとを永遠に去る。なにも残りはしない。だがそれでも──貴様の言う通り、価値はある」
ギルガメッシュの、いつになく穏やかな声が耳を打つ。両手で少女の白い頬を撫でながら、自分の中のなにかを確認するように、何度も目を伏せた。
「そうか、そうであったな。我の手になにも残らずとも、価値はあるのだ。我としたことが──貴様に、気づかされるとは」
ふっとギルガメッシュが自嘲気味に口の端をつり上げた。頬の手の感触とその表情を見て、少女が期待に胸を高鳴らせた。
「我がマスターにそこまで乞われては、仕方あるまい」
「え、じゃあ……王様、カルデアに」
「いいだろう、せいぜい最後の時まで足掻け! その様を存分に見せてもらおうではないか!」
「……っ王様!」
まったくわかりにくい返答ではあったが、確かに最後の時まで、と言った。最後まで、少女とともにいてくれると。そう言ったのだ。
目の前の胸に飛び込み、ぎゅうぎゅうと力を入れて抱きついた。こみ上げてくる涙を止めようともせずに。震える背中をあやすように撫でるギルガメッシュの手が、余計に涙を誘った。
「王様、ギル様っ……!」
「貴様は本当によく泣く女よな」
「っ、だって、うれしくて……!」
「まあ、この我を口説き落としたのだ、当然だ」
尊大な態度で鼻を鳴らすさまも、触れてくる手が優しいことも全部、愛おしい。
もう一度この手を取ってもらえたことが嬉しくて、心が壊れてしまうのではないかと思うほど幸福だった。
直後に、泥のような睡魔が少女を襲った。新宿に来てから休まる間もなく奔走していたことでたまった疲労か、一番の問題を解決した安堵によってどっと押し寄せてきたのだ。
「王様、大好き……」
独り言のようにつぶやいて、少女は目を閉じた。
意識が完全に落ちる前に、男の声を聞いた。少女の名前を、愛おしむようにくちびるに乗せたその声を。
再び目を開けると、物置の天井が目に入った。
時計を見ると、一晩明けている。どうやら、泣き疲れてそのまま眠ってしまったようだ。物置には誰もいない。
軽く身支度を整えてから広間のほうへ向かうと、
「起きたか。我より先に眠り、遅く起きるとは、不敬であるぞ」
ギルガメッシュの声が、起き抜けの頭を刺激した。
見ると、広間のソファにふんぞり返っている。昨日と違うのは、その身にまとっている服装だった。
ダークグレーの細身のスーツに黒いシャツ。シャツは胸元のあたりまでボタンを外しており、首には金のチェーンが光っている。ネクタイの類はしていない。左腕の袖口から、ごつい金の腕輪がのぞいている。この男にしては地味な格好に相当するのだが、その悪趣味なアクセサリーといい目つきの凶悪さといい、どう見てもその筋の人である。
「どうした、なにを着ても芸術的な我の美しさに見惚れて言葉も出んか」
「……あ、はい、そっすね……」
その金ぴかは付ける必要があるのか、とか言いたいことはあったが、口では勝てないことは重々承知しているのでやめた。ものすごく面倒なことになりそうだし。これから新宿のバーサーカー討伐に向かうのだ、体力は少しでも温存しておきたい。
新宿のアーチャーらと作戦を確認し、ねぐらを後にする。外に出ると、相変わらず明けない黒い空と、常夜灯のように消えないネオンが目に入った。
当たり前のように隣に立った金髪の男の姿も、視界に入った。
(あ……となりに……)
これまでは、マシュがずっと少女の隣に立っていた。そのマシュは、今はカルデアからのサポートに徹している。それを見て取ったのか、それとも、共に生きてくれるとの意の表れか。
どちらにしろ、隣に立ってくれたということが、こんなにも嬉しいとは。
「……なにを見ている」
「え、いや……その、こんな時になんですけど……ちゅうしたいなーって」
半目が返ってきた。
「わかってますよ! 時と場合を考えろって自分でも思います。だから思ってただけなんですってば!」
「ふん、どこまでも強欲な女よ。よいぞ」
「え?」
「したければするがいい。せいぜい背伸びしてみせよ」
喜んだのもつかの間だった。背伸びしてみせろ、ということは、この男からはかがむとかそういうことをしてくれないということだ。マスターの身長が女性の平均身長よりも高いとはいえ、ギルガメッシュとの身長差は背伸びだけでは埋められない。ギルガメッシュの肩に手を回し、精一杯背伸びをしてみても、届かないものは届かないのだ。
「どうした? 早くせんとセイバーやら竜の魔女に気づかれるぞ?」
「っ……! と、届かないんです……! 王様、もうちょっと……」
「なんだ? はっきりと言わねばわからんのでな」
「このっ……!」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべて少女を見下ろす男に、思わずこぶしを握る。こんな時になにをやっているんだろうかと自分でも思う。けれど、羞恥心を上回って自分からキスをしたいと思うことは初めてなのだ。これを逃すと、一生自分からギルガメッシュにキスを仕掛けられないような、謎の意識が少女を襲っていた。
「王様、お願いします、もうちょっとだけかがんでください……キス、したい……」
足を伸ばすことに疲れて、男の肩に縋りつきながら乞う。ギルガメッシュは、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「まったく──貴様は本当に、仕方のない女だ」
と言って、少女の目線まで膝を曲げる。少女はその首の後ろに腕を回すと、ギルガメッシュのくちびるに自分のそれを重ねた。
ちゅ、ちゅっ、とお互いのくちびるを吸い合う。舌は、軽く先端を撫でる程度で控えめに。舌を合わせてしまうと、本気になってしまうから。
何度リップ音を立てたか数えるのもバカバカしくなった頃に、ようやくくちびるを離した。ギルガメッシュの手が、いたずらにうなじをなぞり、背中をつたって腰へと落ち着く。一瞬だけ軽く抱きしめられ、すぐに体が離れた。
「ここでは満足に睦み合うこともできん。さっさと特異点を修正してカルデアに帰還するぞ、マスター!」
「──はい!」
数十メートル先で、ふたりを待っている新宿のアーチャーらに向かって歩き出す。
自然と手を取り合って、つないだ手を離さないように握りしめて。
「そういえば、あの時どうやって助けてくれたんですか?」
歌舞伎町に向かう途中、ふとわいて出た疑問を口にする。コロラトゥーラから助け出してくれたときのことだ。あの時、ギルガメッシュは召喚サークルもなにもないところから突然出てきた。そのからくりがよくわからなかったのだ。召喚サークルなしでも、カルデアで霊基パターンを保管している英霊ならば、そんな芸当ができるのだろうか。ならば、ぜひその方法を教えてほしいものだが。
そう思い、ギルガメッシュを見ると、
「そんなことか。なに、霊体から実体化しただけのことだ」
なんてことはない、といった口ぶりで言ってのけたのである。
「は、え? ちょっと待ってください、それじゃあ、あの時よりも前に召喚されてたってことですか? いつ?」
「貴様があの小汚いねぐらでこそこそとやっていた召喚の儀式の時に決まっているだろう! それ以外に機会があるか」
「えっ……!? あの時、召喚されてたんですか!? 嘘じゃなく!? だってアルトリア・オルタは一言も…………あ」
あの、不格好な魔法陣で挑んだ召喚の儀式を思い出す。確か、アルトリア・オルタは「今はその時ではない」とだけ、言っていた。召喚されてないとは、一言も言っていない。
「……え、じゃあなんでそれまで霊体化してたんですか?」
「貴様、察しが悪いにもほどがあるぞ。そのほうが劇的にキマるだろうが! 我が!」
「は、はああああーーーー!?」
少女は激怒した。必ず、この自分のことしか考えない自己中極まる金髪クソ野郎を一度殴らねばならぬと決意した。少女はごく普通の少女である。少女にはとんと分からぬ。どうして普通に生きてきてごく一般的な小市民でしかない自分が、こんな唯我独尊の金ぴかに振り回されなければならないのか。そういう不公平に関しては人一倍に敏感であった。
「ちょっとジャンヌ・オルタ、宝具貸してくれない? 燃やしたいものがあるんだけど」
「は? なに言ってんのよ、できるわけないでしょ。ていうか話しかけないで、色ボケが移るじゃない」
ひどい。あっさりと断られてしまった。しかし、割と真剣にこの男をぶちのめしたい気持ちは収まらない。ついさっきまでジャンヌ・オルタが呆れるくらいのラブシーンを繰り広げていたというのに、あれはなんだったのか。幻か。ネオンが見せた幻だったのか。
ただ、逆に考えると。あの材料も足りない、不格好な魔法陣で、真っ先に召喚されてくれたということである。
まさか、この男に限って。あんなご高説を垂れて別れたのに、早々に召喚の声に応じてしまったのが恥ずかしい、だなんて思っていないだろうが。
(まあ、それで、チャラにしようか……)
「なにを百面相している。いくぞ」
きっと、そのことが癪に触って霊体化していたのではないだろうか。少しは、ギルガメッシュも少女に会いたいと思っていてくれたのだと、そう思ってもいいのではないだろうか。
再びつないだ手を握り返して、少女は歩き出す。
この、ともにいられる一瞬の積み重ねが、なにより替えがたいものだと。
そう心をときめかせて。
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