思いをひろうきみ


「そういえば、今日はキスの日らしいですよ」

 ある日の昼下がり。カルデアのマスターは、いつのもように空いた時間を魔術の勉強に使っていた。いつものように、マスターの傍らにはキャスターのギルガメッシュの姿がある。机で魔術の指南書を広げているマスターと、机からは少し離れたところに置かれたカウチに座っているギルガメッシュ。彼は長い足を組んでゆったりとくつろぎながら、分厚い本を読んでいる。
 その状態で一時間弱。勉強が一区切りついたことだし、少し休憩しようかと、腕を上げて伸びをする。それほど長い時間机に向かっていたわけではないが、肩がばきっという音を立てた。
 休憩ついでにギルガメッシュのほうを見ると、彼は相変わらず文字を目で追っていた。マスターの視線は感じ取っているだろうが、意に留めていない。勉強を始める前に見た彼の姿勢とまったく同じ姿勢だった。足の組み方ぐらいは変わっているかもしれないが、ずっと本を読んでいて疲れないのだろうかとぼんやり思う。
 休憩をひとりでしていてもつまらないので、なにか話をしたい。彼の興味を引く話題はないだろうかと頭をひねってみて、出たものが冒頭のそれだ。
 ギルガメッシュは、小さく息を吐いて、ちらりと視線をマスターに投げた。

「なにを言いだすかと思えば、我に貴様の世間話の相手をしろと?」
「えー、いいじゃないですかちょっとぐらい」
「ふん」

 まだ話半分の状態かもしれないが、それでも話をやめろとは言わない。少しほっとしつつ、マスターは話を続けた。

「なんでも、日本で初めてキスシーンのある映画が上映されたっていうのでキスの日になったとか」
「ほう。誰の入れ知恵だ」
「ダヴィンチちゃんです」

 誰かから聞いたことはしっかりとばれていた。朝のブリーフィングが終わった後、かの麗しき天才に呼び止められたのだ。

『今日は君の生まれた国でいうとキスの日だよ。恋しい相手がいるなら、キスで気持ちを伝えてみてもいいかもね?』

 なんでばれているんだろう。恋しい相手がいることは、ほかの誰にも言ってないのに。

(王様が好きって、気づかれないようにしてたつもりなんだけど……もしかして、この人がばらしたんじゃないだろうな……いや、それはないか)

 ばらして勝ち誇るよりも、あえて隠して、マスターの恋の相手はだれなのかと色々な憶測を飛ばされ、その憶測にマスターがはらはらしているところを見てほくそ笑むほうが似合っている。ギルガメッシュがばらす可能性は低いと見るべきだろう。
 ダヴィンチちゃんは、誰とは言わなかったが、マスターが恋をしていることには確信を持っているような口ぶりだった。そこまでわかっているなら、その気持ちの行き先も推して知るべし状態ではないだろうか。あの鋭い観察眼を持った頭の切れる御仁ならば。
 あとでそれとなく探りを入れてみようか。いや、彼(彼女?)相手にそんなことをすれば、自分の墓穴を掘っているのと同じだ。
 などと考えていると、ギルガメッシュが呆れたような目でマスターを見ていた。

「よもや貴様、我のキスが欲しいというのか?」
「はい?」
「つくづく欲深い女だ。まだ日も沈まんうちから我に欲情するとは」
「なんでそうなるの!?」

 はあ、と長い息を吐いたギルガメッシュ。ため息をつきたいのはこちらのほうだと叫びたかった。否定の意味を込めて、首を大きく横に振る。が、ギルガメッシュはマスターの様子など意に介さず、自分の膝の上に乗っていた本をぱたりと閉じた。ちょいちょい、と手招きされる。ものすごく嫌な予感がマスターの胸をよぎったが、言う通りにしなければ彼がぷりぷり怒り出すのは目に見えていた。怒った彼はとても面倒なことを言いだしかねないので、嫌な予感を押し殺しつつ椅子を引いて立ち上がった。
 おずおずとギルガメッシュに近寄ると、彼は手にしていた本を後方に向かって投げた。本は図書室の床に落下はせず、ぐにゃりと空間が揺れ、本がその奥へ吸い込まれていった。てっきり図書室の本を読んでいるのかと思っていたが、宝物庫のものだったらしい。それをぼんやりと眺めていると、ギルガメッシュは組んでいた足を解いた。

「興が乗った。我の体に触れることを許す」
「はい?」
「キスの日なのだろう。ならば我にキスを捧げることを許す。我の体のどこでもよい」
「え」
「我をその気にさせることができれば、褒美にくちびるをくれてやる」

 といって、目を閉じた。話の展開についていけずにぽかんと口を開ける少女を置いて、王は自分の思いつきに乗り気のようだ。
 わからない、一体なにがこの人の琴線に触れたのだろう。今の話の流れでどうしてこんな展開に……?
 疑問ばかりで首をかしげていると、

「早くしろ、あまり気を持たすな」

 催促された。このままさらに待たせると、機嫌を損ねかねない。

(いやまあ、最初からそのつもりは、ちょっとだけあったし……なにも口にちゅーしろってことじゃないし、か、体のどこでもいいって言ったし……)

 キスの日のことを話して、もしも、ギルガメッシュが興味を示したら。その時は、キスに思いを込めようと。

「じゃ、じゃあ、失礼します」

 目を閉じたギルガメッシュに顔を近づける。通った鼻梁と形のいい眉、彫りの深い目元、シャープな顔のライン。黙っていればまさしく神の作りたもうた造形の美しさに、思わず息をのむ。体を支えるために彼の肩に手をのせると、金の髪をかき分けて額にキスをした。
 体のどこでも、ということは、一ヶ所に限らないということだろうか。額から口を離しても目を閉じたままでいるギルガメッシュの様子からすると、そう考えるのが妥当だろう。試しに頬にキスをしてみる。特に気分を害した気配はない。
 頬にキスした後は、体へと。喉元を通って鎖骨と心臓の上に。肩から二の腕にかけて咲いている刺青の花の上に。そのまま手首と、手の甲、手のひらに。軽く口を押し付けるだけのキスを、少女は落としていった。

「……王様」

 もうキスしたい場所には一通りした、という意味を込めて呼びかける。ギルガメッシュは静かに目を開いた。

「終わりか」
「はい」
「嘘をつくな、雑種」

 ぴしゃりと放たれた言葉に体が強張った。知らないうちに粗相をしていたのでは、と恐る恐る彼の顔を見ると、しかしその表情には悪感情はない。右腕をつかまれ、王のほうへと引っ張られる。顔がぶつからないように、また彼の肩に手をついた。

「やり残した場所があるだろうが」
「え……? いえ、大体したいところにはしましたよ?」
「たわけ。貴様が最もくちびるを捧げたい場所にはしておらんぞ」

 ギルガメッシュは、にやりといつもの不敵な笑みを浮かべると、とんとん、と自分のくちびるを指し示した。

「ここに」
「…………っ!?」

 かっと顔に血が上った。なにを言っているんだこの王様は。なにも言っていないのに、くちびるが一番キスしたい場所だなんて、なぜそんなにも自信たっぷりに言えるのだろう。

「キスの日とは、要するにキスで思いを伝える日であろう」
「しっかり知ってるんじゃないですか!」
「知らぬとは一言も言ってないが?」
「は、恥ずかしくて死にそう……!」
「そら、早くせんか。褒美が欲しいだろう? まあ、貴様にしては頑張ったほうだ。努力賞をやろう」
「ううう……!」

 本音を言えば、今すぐこの場から逃げ出したい。恥ずかしくて死にそうになるのは、ギルガメッシュと関わるようになって割とよくあることだったが、今日のは一段とひどい。顔から火が出るというより、顔が爆発しそうだった。
 しかし、どんなに恥ずかしくとも顔は爆発しない。腕の拘束を解かれた代わりに、腰をつかまれてしまったのでこの場から逃げ出すことも不可能だ。
 ええい、こうなったら。今が死にそうなくらいに恥ずかしいのなら、これ以上なにが起こっても大したことないはず。
 半ばやけくそで覚悟を決めて、少女はギルガメッシュのくちびるにキスをした。
 くちびるが触れる瞬間に、少しだけ震えてしまった。触れるだけのキスを数秒間。

「……ん、王様、これで…………んうっ!?」

 くちびるを離して、これで満足かと問おうとした直後、背中に回った腕が少女を強く抱き寄せた。開いた口から舌が入り込んでくる。

「んん、は、ん……!」

 彼の舌に上顎を撫でられただけで、抵抗する力を奪われる。伝わってくる魔力は相変わらずかすかな痺れをもたらす。ゆっくりと口内を蹂躙していく舌の動きは、確実に夜の行為を連想させるもので。なんとか腰を立たせていたのだが、不意に首の後ろを指先でなぞられて、一気に脱力してしまう。

「ひゃっ……!」

 ギルガメッシュの膝に腰を下ろす形になり、そのまま体を抱きしめられてしまった。本格的に逃げだせない状況である。

「言え、雑種」
「……え?」
「貴様の言いたかったことをはっきりと口にしろ、今だけ許してやる」

 思いを伝えたいと──口に出せなくても、せめて口づけだけでも、今日だけでも、この思いを乗せて──そう思っていた。
 それを、見透かされていると、ギルガメッシュが思いを汲んでくれたと、そう思ってもいいのだろうか。
 しばらく彼の顔を見て呼吸を止めていると。男は痺れを切らしたように眉を吊り上げた。

「ええい、我が好きだと、早く言わぬか!」
「む、むちゃくちゃだーーーー!」

 色々と台無しである。さっきまでの甘く切ない雰囲気はどこに行ったのだろうか。王の短気の前ではラブい空気は無効になるのかもしれない。新しいスキルか。

「貴様、いくら寛大な我でも我慢の限界があるぞ! 早く言わんか!」
「む、無茶ぶり……! こんな状況で言えますか!? さっきの雰囲気返してください!」
「ではいつ言うのだ、早く言え! 今すぐ言え!」
「……っ!」

 いつなら言える。その言葉は、思いのほか深く胸をえぐった。こんな、理由をつけなければ自分の思いも掬ってやれない意気地なしが。今を逃せば、一体いつ気持ちを言葉にできるのだろう。
 逃げるなと言っているのだ、ギルガメッシュは。

「───あなたが、好きです」

 たった一言。これだけを音にすることが、なぜこんなにも苦しいのだろう。たっぷりと息を吸い込んで、ただ、思っていることを言っただけなのに、なぜこんなにも──

「遠回りしすぎだ、馬鹿者」




「雑種、褒美にいいことを教えてやる。キスをする場所によって、それぞれ意味がある」
「意味……?」
「先ほど貴様が我に口づけた場所の意味、我自らが教えてやろう。寝所で、ゆっくりとな」
「ん……? 非常に嫌な予感がするんですけど……?」
「ははは、意味を知った上でやっていたのならどう躾けてやろうかと思っていたが、その様子では無意識か。よいぞ、遠慮するな。努力賞分の褒美をやろう」
「んんん? おかしい……褒美の二文字にちっともありがたみを感じない……!?」
 今が死にそうなくらいに恥ずかしいのなら、これ以上なにが起こっても大したことないはず──そう思っていた時期が少女にもあった。寝所に引きずり込まれ、体を溶かされながら自分が王にしたキスの意味を、ひとつひとつ教えられるまでは。


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