あの恋を、続きからもう一度


……?」

 偶然立ち寄った駅構内のカフェ。隣から聞こえてきた声に古い記憶を呼び起こされ、俺は思わず声の主を振り返った。
 今は夜の八時前。仕事終わりのサラリーマンやら食事に行く人やらで駅はごった返している。カフェの中もそれなりに席が埋まっていて、俺はカフェラテを持ちながら店内を見渡し、駅の通路が見えるガラスに面した席にひとつ空きを見つけてそこへ滑り込んだ。右隣はイヤホンをつけてノートを広げている男子学生、左は仕事帰りらしき女性が控えめな声で電話していた。

「そう。じゃあ駅の中のカフェで適当に時間潰してるから。またあとでね」

 そう言って電話を切った女性の声に聞き覚えがあった。
 左にそっと視線を向けて女性の顔を確認する。記憶の中でその顔と声を照合し、声の主に思い至った俺は、冒頭の声を掛けていたというわけだ。
 突然声を掛けられて少々びっくりしながら俺を見た女性――は、どこかで会った顔かと記憶を探っているようだった。
 わからないのも無理はない。俺たちが最後に会ったのはもう十年も前だ。

「俺だよ、幸村精市。覚えてるかな、十年ぐらい前に神奈川で会った幸村だよ。、だよね?」

 と言いつつ、俺は目の前の女性がであると確信していた。髪型等の細かい部分以外は十年前とほぼ変わっていない。声も驚いたような表情も、本質的には変わってない。
 考え込んでいたは俺の補足を聞いて思い出したようで、息を呑んだ。

「あっ……え、うそ、幸村くん……? あの、中学生の……?」
「そう、その幸村だよ。まさかこんなところで会えるなんて」
「うん、すごい偶然……」

 ゆっくりと表情を和らげたは十年前の出会った時を思い起こさせて、胸の中心からじわじわと熱いものが広がっていった。

「これから誰かと待ち合わせ?」
「ああ、うん。友達と飲みに行くの」
「そうか、残念。予定が空いてたら俺が誘ったのにな。ねえ、今度改めて誘ってもいい?」
「もちろん、幸村くんがよければ」
「よかった! じゃあ連絡先を聞いてもいいかい」

 いそいそとスマートフォンを取り出しての電話番号とメッセージアプリのIDを登録すると、が笑い声を上げた。

「なんか、こういうの懐かしいね」
「――」

 朗らかに笑う彼女の顔を見て、俺は懐かしさと、それ以上の愛おしさを感じていた。

(ああ――本当にだ。なんてことだろう……)

 の笑顔を見るのも本当に久しぶりだ。一体何度この顔を夢に見ただろう。あの、最低な嫉妬をぶつけた別れ際から。
 一気に押し寄せてきた感慨を目を閉じてやり過ごすと、俺は少し冷めてしまったカフェラテをひと口飲んだ。
 なにか話そうと口を開きかけたところで、が窓の外に手を振った。視線を向けると、と同年代くらいの女性が同じく手を振ってカフェに歩み寄ってきていた。

「友達かい?」
「うん。ごめん、もう行くね」
「また後で連絡するよ。必ず」
「うん、じゃあまたね」

 俺の言葉にまた笑って、カップを持って出口へと向かった。その後姿を目で追って、見えなくなってからテーブルに肘をついて、両手で口元を覆った。長い息を吐いて、それからまた少し冷めたカフェラテを飲んだ。落ち着かせようとした心は、それでもまだざわざわしている。
 思いがけないとの再会で、心の奥底に蓋をしてしまいこんでいたものがあふれそうになっている。
 なにかしていないと叫んでしまいそうで、意味もなくスマートフォンを起動してみる。すると、の電話番号を登録した電話帳の画面が出てきて、俺はまた顔を覆った。
 本当に、なんてことだろう。こんな何気なく立ち寄った駅のカフェでまさか中学の時に好きだった人と再会するなんて。

(いや……だった、じゃないかな?)

 しまい込んでいた記憶を思い返していると、胸が苦しくなってくる。この痛みは間違いなくあの時に感じていたものと同じだ。

 ***

 十年前、の思い人の姿を駅で見かけて、嫉妬のあまりににひどい言い方をして喧嘩をした。凍り付いてなにも言えなくなったが、俺が最後に見ただった。
 あの喧嘩をした後、俺はU-17の合宿に参加して神奈川を離れていた。その間にはあのマンションからいなくなっていた。
 俺が神奈川に帰ってきた時にはもうマンションの前からあのバラの鉢植えがなくなっていて、バラの株はマンション前の花壇に植えられていた。が管理人に譲っただけかと思っていたが、ワールドカップに行く前の数日間、の部屋に明かりがつくことはなかった。ワールドカップから帰ってきた後も部屋はいつも真っ暗で、カーテンもなくなっていた。はあの部屋から引っ越したのだと気づいたのは、クリスマスも近くなった頃だった。
 そこでようやく、に恋をしていたんだと自覚した。
 自覚したところでどうしようもない状況だった。好きな人はどこへ行ったのかもわからない。ひどい言い方をして喧嘩別れした後だったから、俺からなんと言って連絡をすればいいのかもわからなかった。の連絡先を開いては眺めるだけで時間が過ぎた。
 好きで、会いたくて、けれどどうすればいいのかわからなくて苦しくて、あんなことを言った自分が嫌で苦しくて、あんな喧嘩をしたまま別れてしまうことが悲しかった。そのうちのことを思い出すのも苦しくなって、思い出さないように想いに蓋をして忘れようとした。高校、大学と進学して就職もして、のことを思い出すこともなくなっていた。
 ――十年経って、俺は二十四になった。
 目の前には、同じく十年の歳を取ったがいる。
 偶然の再会から一週間後、俺とは居酒屋に来ていた。

「まさか本当に誘ってくれるなんて思わなかった」
「社交辞令だと思ってたのかい?」
「だって、いくら懐かしいとはいえ十も年上の女なんて幸村くんが誘うメリットないでしょ」
「ひどいな。俺はそんな損得勘定をする男だと思われてるんだ?」
「ごめん、ちょっとだけ思ってた」

 ひどいな、ともう一度言うと、が軽やかに笑った。笑う時に控えめに口元を押さえる仕草も十年前と変わっていない。
 カフェで再会したその日のうちに連絡を入れ、改めて食事の約束を取り付けていた。ここまで待ち遠しかった予定はないと思うほど、俺はとの約束を楽しみにしていた。
 一杯目のビールが来て、グラスをそっとぶつけ合う。ひと口含んでからグラスを置くと、同じくグラスを置いたが俺を見つめていて、少しどきりとした。

「俺の顔になにかついてる?」
「ううん。幸村くんもお酒飲めるような歳になったんだなあと思って」
「俺のことまだ中学生だと思ってた?」
「うーん……そういうわけじゃないんだけど。見た目も声もすっかり大人になってるしもう子供だなんて思ってないけど、なんていうかね、目の前でお酒煽ってるところを見ると改めてもう十年も経ったんだって実感するというか……」

 しみじみと言う。でも、俺はそれどころじゃなかった。

「……俺、あの時から変わってる?」
「え? うん、そりゃあ……すっかり成長しちゃって、もう年上ぶった態度はできないな」
「そう……よかった」

 の目から見て、俺はもう子供じゃない。そう言われたことが、どうしてこんなに嬉しいんだろうか。
 あの時、もう少し早く生まれていたらとあんなにも願ったことを、もう思わなくていいのかもしれないというだけで嬉しいなんて。

「こんなこと言ってると私も老けたって言われそうだから、もう下手なこと言わないでおこうかな」
「言わないよ、そんなこと」
「うーん……その気遣いもありがたく思えばいいのか複雑だなあ……」
「本心だよ。老けたなんてこれっぽっちも思ってない。むしろきれいになったと思うよ」

 あまりにも意外な言葉だったのか、が口を閉じた。俺はそんな彼女を見て、頬杖をつくふりして身を乗り出した。

「もちろん十年前のも可愛かったけど。あの時よりも、もっときれいで素敵になった」

 俺は結構、というか本気で口説いていた。お酒がほとんど入ってないうちからこんなことを言うつもりじゃなかったけれど、話の流れ的に今言うのが一番自然だった。
 本当に、はきれいになった。あの時も俺が憧れるほどに可愛くて魅力的な女性だったけど、今はますます大人の女性に磨きがかかっている。仕草も佇まいも自然な色気を含んでいて、シラフのうちから口説いてしまうほどには素敵だった。
 俺と喧嘩別れしてからの日々が今のを作り上げたのだと思うと、知りもしない、聞けるはずもないの過去の男たちに嫉妬してしまいそうだった。
 店員がサラダと鳥の軟骨からあげを持ってきた。固まっていたはその声で我に返ったようで、ビールをひと口飲んで、うーんと唸った。

「なるほど……幸村くんがすごくモテてそうなのはわかった」
「お世辞じゃないんだけどな」
「はいはい」

 は俺の言葉を受け流すと俺の分のサラダを取り分けてくれた。優しいなと思っていると、「今回だけだから」と釘を刺された。

「そういえば、と最後に喧嘩して別れたよね」

 俺はずっと心に引っかかっていたことを切り出した。

「喧嘩? ……ああ、そんなこともあったね。喧嘩っていうか、私が幸村くんに正論を言われただけだったような……」
「あの時は本当にごめん。ずっと謝りたかったんだ」
「そんなの気にしなくていいのに……でも、私もごめんね。幸村くんが優しいことに甘えてずっとみっともない姿を見せてたね」
「……俺が合宿に行ってる間に急にマンションからいなくなっていたから、どうしたのかと思ってた」
「うん。あの後急に東京に転勤になってね。神奈川から通うこともできたけど、忙しくなりそうだから東京に引っ越すことにしたの。私も幸村くんに謝れないままで心残りだった」

 そうだったのか。それは仕方ない。本当に連絡を取ろうと思ったら取れたけど、お互いに喧嘩の後で気まずくてメッセージを送れなかったんだ。今ならもっとやりようがあるからああすればよかった、こうすればよかったと思えるけど、あの時は本当にどうしようもないと思っていた。若気の至りというやつだろうか。
 適度に箸を進めつつグラスを空にして二杯目を注文する。

「幸村くん、今は東京にひとり暮らし?」
「そうだよ。こっちで就職したからね」

 と言って俺の名刺を差し出すと、それを見たがいいところに勤めてるんだね、とこぼした。

「テニスは続けてるの?」
「たまに打ってるよ。――俺の知り合いでプロになった奴は何人もいるけど、プロじゃなくてもテニスは続けられるからね」

 何人もいると言ったけれど、裏を返せばほとんどはプロという道を選ばなかった。俺たちにはいろんな道があって、プロはその中の選択肢のひとつにすぎなかった。中学も高校もほとんどテニスに時間を費やしたけれど、プロにならなかったからといってそれが無駄になるわけじゃない。

「今もテニスは好きだよ」

 あの時はテニスを楽しむということがわからなくて苦しんだけれど、はっきりしていることは今も昔もテニスが好きだということ。
 はなにも言わず、ただ微笑んで俺の言葉を聞いていた。
 その顔を見て、俺は今度こそ確信した。
 やっぱり好きだ。だった、という過去形にはなっていない。ずっと心の奥底にへの恋がくすぶっていて、再会して再び火が付いた。今はますます大きな炎になりつつある。
 それから、お互いの近況などを話していたらあっという間に時間が経った。居酒屋を後にして駅まで歩いている途中で、俺は聞きたかったことを口にした。

「ねえ、今付き合ってる人とかいるのかい」
「え?」
「また誘いたいから。恋人がいたらそんなことできないだろう?」
「――いないよ」

 といっただったけれど、俺は見逃さなかった。答える前に一瞬視線が左に逸れた。
 この質問で思い出すような存在がいる。今のところ恋人じゃない、というだけの男が。
 これはうかうかしていられない。せっかくまた会えたのに目の前でほかの男に持っていかれてはたまらない。
 駅の入り口まで来て、が歩くペースを緩めたところでその手を取った。

「じゃあ、また誘ってもいい? 今度はデートしよう」

 歩みを止めて、目を見開いて俺を見上げる。中学の時から少し背が伸びたから、あの時よりもの目線が下だ。

の行きたいところなら俺はどこでもいいよ」
「え、幸村くん、デートって……」
「デート。俺、の恋人候補に立候補するから」
「う、ええ? からかってる?」
「本気だよ。俺はずっと本気で口説いてる」

 くどく、という言葉を反芻してはまた固まった。
 会ってそんなに経ってないうちにこんなこと言うから信じてもらえてないのかな。まあ確かに、会っていきなり口説くなんてちょっと軽々しい奴と思われても仕方ないかな。
 でも、本心だから仕方ない。俺は本気でと付き合いたい。
 ずっと前から好きなんだ。忘れようとして、忘れたつもりになっていたけれど、やっぱり好きなんだ。今日会って話して、その気持ちを簡単には消せないということを再確認した。簡単には諦められないんだ。
 は俺に握られた手と俺の顔を見比べて困ったように視線を泳がせていた。俺が本気なのか、どう答えれば上手く収まるのか探っているようだった。

「俺が誘ったら困る?」
「え……いや、そんなことはないけど……」
「よかった。安心して、今すぐとどうこうなりたいわけじゃないよ。俺が本気かどうか、の気が済むまで見定めてくれていい」
「そ、そんなの……」
「俺に悪いって思う必要はないよ。好きな人に会えるだけで嬉しいから。――好きだよ、。ずっと前から……中学の頃から」
「……!」

 今度こその頬にさっと赤みが走った。それを見て、俺は今日はここまでにしようと思った。今日のところは俺がどういう目でを見ているのかを伝えられるだけでいい。

「じゃあまた連絡するよ。今日はありがとう、楽しかった」

 手を離すと、気が抜けたようにの肩が少し下がった。

「う、うん……またね、幸村くん。私も今日は楽しかった」
「うん」

 ホームへの階段に向かうの後姿を見送って、俺も自分の乗る線のホームへと向かった。
 あの反応だと、俺に言い寄られるのは少なくとも迷惑ではないと見ていいだろう。俺に告白されて戸惑っているけど嫌ではない。逆に言うともろ手を上げて嬉しいとも思ってないようだけど、それはまだこれからだ。

(食事とかデートとかに行く男がほかにいるみたいだし)

 まあ、それもこれから。もっと今のを知って、それからだ。
 ホームに流れ込んできた車両に乗り込んで、適当に吊革につかまる。スマートホンを取り出してスケジュールを確認しながら、に送る誘い文句を考え始めた。


第二話→


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