彼はまるで



 金曜の夜。花の金曜日と世間では言われているが、私は友人たちと飲みに行くこともなく、家で持ち帰った仕事を片付けていた。パソコンに向かって、むむう、と唸っていると、予期せぬインターホンの音が部屋の中に響いた。時計を見ると、十一時四十分すぎ。もうすぐ日付が変わろうとしているというのに、誰だろうか。私は眉をひそめた後に、客人の正体に見当がついた。一応恋人、ということになるのだろうか。ベーシストでバンドをやっていて、今日はライブだと言っていた。ライブが終わって、会場からここへ向かってくればちょうど今の時間になるだろう。
 予想をつけてドアを開くと、その通りの人が立っていた。やはりベースを引っさげている。着ているものも派手な服で、アクセサリー類も多い。
「……いらっしゃい、どうぞ」
 というと、八神庵はかすかに頷いた。急な来訪については何も言及しない。私も特に困るようなことはない。むしろ嬉しかった。彼のほうから私の元へ訪れることは珍しいので、そのまま彼を招き入れた。
 庵とは出会って以来、私からも彼からも付き合おうとはっきり言ったことがない。肉体関係を持って、そのまま今日まで来たといったところだ。私は彼のことが好きだし、彼も口には出さないが他の女とは区別してくれていると思う。口では表現しないのでわかりにくいが、不器用な優しさを感じることがある。
「今日のライブ、どうだった? 行けなくてごめんね」
「別にかまわん。いつもどおりだ」
 庵はベースを壁に立てかけて、私が座っていたクッションの隣に座った。ライブはいつもどおり、熱狂的なファンでいっぱいだったということだ。それはなによりだが、自由に庵を追いかけられるファンの女たちが、たまにうらやましく感じられる。仕事さえ長引かなければ、時間ギリギリでもライブに間に合いそうだったのに。こういうとき、社会人というのは不便だと思う。
「そっか。ご飯食べる? お風呂入る?」
 と訊いてから、これでは新妻みたいだな、と思った。今更ながら恥ずかしくなってきて、照れ隠しに頬をかいた。庵はそんな私に気付いているのかいないのか、じっと私のほうを見つめてきた。それから、首を小さく横に振った。どちらもいらない、ということだろうか。庵を見つめ返したが、それ以降は目を閉じてしまったので、そういうことなのだろうと思うことにした。
 そっか、ともう一度返事をして、私は仕事を再開した。あと少しで終わりそうだが、少しわからないことがあって手が止まっていた。仕事用の鞄を引き寄せて書類を確認する。どの書類に書いてあっただろうか、もっと古い書類を捜さなければいけないだろうか。などと思いながら紙をめくる音を出していると、ふとおかしなことに気がついた。庵がタバコを吸っていない。
 彼は私の部屋に来たときは、まず一服するのだ。以前に、あまり部屋の中で吸わないで欲しいと言うと、渋々といった様子でベランダで吸うようになった。だが、今日はまだ隣から動かない。タバコの箱を取り出してもいない。先ほどから目を閉じたまま動かない。ライブの最中か、前後で不愉快なことでもあったのだろうか。また他のバンドメンバーと喧嘩でもしたのか、と思ったが、喧嘩したならこの時間になっていないだろう。もっと早く来るはずだ。いつもどおり、と彼自身も言っていたので、ライブでは何もなかったのだろう。
 ならばライブ以外で、何かあったのか。とは言うものの、私は実を言うと、彼の素性にあまり詳しくない。知っているのはバンドをしていて人気があること、有名な格闘大会に出ていることと、それと因縁の相手がいることくらいで、そのほかのことはよく知らないのだ。庵は自分のことをしゃべるたちではないし、私も彼から話さないことを訊こうとは思わなかった。彼にとっては余計な詮索をしない私は気楽なのかもしれないが、それが今、あだになっている。
 考えをめぐらせていると、突然左肩が重くなった。隣に座っていた庵が、頭を私の左肩に乗せたのだ。私はびっくりして庵のほうを見た。こんな、甘えるようなスキンシップは初めてだ。
「庵?」
 仕事と考え事をしていて、彼を放置しすぎただろうか。あまり構いすぎても、放置しすぎても、彼は機嫌を損ねる。まるで猫みたいだ。庵は私の肩に体を預けたまま動かない。どうしたんだ、こういうときは何か言ってくれないとわからないぞ……と思っていると、彼に触れている肩が熱いことに気がついた。はっ、として庵の額に手を当てると、やはり熱い。そんなに高熱ではなさそうだが、体がだるいのだろう。様子がいつもと違ったのは熱のせいだったのだ。
「庵、熱ある」
「……そんなものなどない」
「いや、微熱だけどあるから。ほら、ベッド行こう」
 庵は口だけの抵抗をした後、私に大人しくベッドに連れて行かれた。やはりだるいのだ。力なくベッドに沈んだ彼を見下ろして、私は薬と冷却シートの居場所を頭に思い浮かべた。まずは冷却シートだ。
 物が雑多に詰まった収納箱から冷却シートと薬を取り出して、庵の元へと戻る。彼は目を閉じていたが、前髪を掻き分けて額にシートを貼ると、冷たさで目を開けた。いつもの鋭さがない目つきに少し戸惑う。
「食欲はある?」
「……あまりない」
「うん。そしたら、ちょっとだけでも食べて。待ってて、用意するから」
 といって、私は立ち上がった。今の冷蔵庫の中身ですぐに作れるものといったら、うどんぐらいだ。それでも食べないよりはマシだろうと、調理に取り掛かる。
 ものの数分で出来上がったうどんと水を持ってベッドに戻る。庵は食べ物のにおいに気がついたのか、すぐに目を開けた。鼻は詰まってはないようだ。渋々、といった様子で箸を手に取る。普段より熱く感じられるのか、いつも以上に麺に息を吹きかけている。ふうふうしてあげようか、と提案しかけたが、彼の気力を割いてはいけないと思いとどまった。結局、庵はうどんを半分ほど残して箸をおいた。
「薬は?」
「……いらん」
 予想通りの答えだった。確かに、鼻も詰まってないしのどもなんともないようだし、このままあったかくして寝ればすぐによくなるかもしれない。無理にすすめることはせず、彼の言うとおりにした。彼は目を閉じてすぐに寝息を立て始めた。疲れているのかもしれない。
 私はうどんを下げ、食器の後片付けをして、ベッドの近くで仕事を再開した。彼の様子をチラチラと見つつ、控えめにパソコンのキーボードを叩いた。
 次に彼が目を覚ましたのは、大体二時間後のことだった。カチャカチャとキーを叩き終わって、仕事もようやく終わり、というところで庵のほうを振り返ると、目を開けて私のほうを見ていた。寝入った時よりもはっきりとした目つきになっている。私は手を伸ばして庵の頬に触れる。まだ少し熱っぽい気がするが、この調子なら翌朝には平熱に戻っていることだろう。安心して息を吐くと、庵が私の手に擦り寄るように顔を寄せた。そのしぐさが、本当に猫みたいだった。
「……冷たい手だ」
「庵のほうが熱いんだよ。まだ少し熱があるみたい。今日はこのまま寝て……」
 このまま寝てたら熱は下がると思う、と言おうとしたが失敗した。庵に手をつかまれ、引き寄せられたのだ。どこにこんな力が残っているのか。それとも、一眠りして回復したのか。
「貴様も寝ろ」
「私もベッドで? 狭くない?」
「いつものことだろう。俺にまだ熱があるというなら、貴様にうつしてやる」
 というと、またぐいぐいと手を引っ張られる。彼の普段の強引さから比べれば大した力ではなかったが、どうしよもなく抗い難い何かを持っていた。それはきっと、傲慢な言葉尻で隠した、ほんの少しのさびしさを孕んだ声音と瞳のせいに違いない。私はその攻勢になす術もなく降参して、狭いベッドの中にもぐりこんだのだった。



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