彼はまるで2



 私がベッドにもぐりこんでから、庵は私を抱き枕のように抱いて離さなかった。その様子と普段より少し高い体温が、いつもと違うということを感じさせた。その体温のせいで少し暑いとも思ったが、それは早々に脳の片隅に追いやった。
 八神庵という男は、意外にも抱擁が好きだった。それまで遠くから眺めていたイメージでは、女を抱いたあとはタバコでも吸って女に構いもしない、という男だった。今思えばすごく失礼な印象を持っていたと思う。私の中のバンドマンとはそういう印象があったのかもしれない。そのイメージとは違って、情事の後も抱きしめてくれるし、気が向いたときには腕枕もしてくれる。その度合いは、世間一般の男と比べると多いのか少ないのかはわからないが、私にとっては意外だと思わせるほどだった。いまだにそういうスキンシップは心臓に悪くて慣れず、少女のように顔を赤くしてしまう。それを見て静かに笑っているような男だった。
 私の髪に顔を埋めるようにしている庵に、私の紅潮した顔が見えないように首を曲げた。首の下に回された腕。その手が髪を梳いたり背中に触れたりするたびに、やはり今日の庵は熱のせいでおかしいんだなと思う。ドキドキしているのはもうとっくにばれているだろうに、心だけでやせ我慢だ。
 庵はくちびるで私の前髪を掻き分けて、むき出しになった額に口付けた。音もなくそっとくちびるを押し当てられる。それから、まぶたや目尻、頬、顎など顔中に同じようにしてキスをしてきた。
「ん……庵……?」
 呼びかけても返ってくるのはくちびるの感触だけだった。くちびるの感触かなくなったまぶたを開けると、私を見つめる庵と目が合った。鋭さはあまり感じられない。下向きのまつげが縁取る静かな瞳に思わず見入ってしまう。しばらく見つめ合っていたが、不意に庵の視線が下に向いた。私のくちびるを見つめている。あ、キスされる、と漠然と思うと同時に、庵のくちびるが近づいてきた。
 くちびるどうしがくっつく手前で、彼の動きが止まった。再びじっと私の口を見つめている。どうしたんだろう、と眺めていたが、庵はそのまま動かなくなった。キス未遂とは一体どうしたことか。じれったくなった私は、それをいつの間にか口に出していた。
「口には、キス、してくれないの……?」
 布ずれの音とお互いの吐息の音しかしない空間を壊したくなくて、内緒話をするような声量でしゃべる。すると、思いのほか声が掠れてしまった。寂しげに聞こえてしまったかもしれない。実際、物欲しげな表情もしていたかもしれない。自分の声に動揺してしまった私は、それを自覚する余裕がなかった。
 私の声を聞いて、庵が視線を私の目に合わせた。少し困ったように眉を寄せて、私の目と口を交互に見つめる。
「……本当にうつしてほしいのか」
 庵が言っているのは、私をベッドに引きずり込む際の発言についてだった。風邪をうつしてやるとは言ったものの、実際には本当にうつっていいとは思っていないからこんなことを言ったんだろう。私が思わず目を瞠ると、庵はムッとしたように私を睨んできた。
(そういう、不覚、みたいな反応すると、その通りだって言ってるようなものだってば……)
 そういうところが不器用で、愛しいのだ。口で傲岸不遜に振舞っているけれど、ちゃんと私のことを気にかけてくれている。そのひねくれたところが。
 私が目を細めると、庵は私の頬に手を当てて、親指でくちびるをなぞった。キスしてくれるのだろうか。ゆっくりとくちびるの上で滑る指の感触に、うっとりと目を閉じる。すると、その隙を狙って、彼の頭が動いた。目を開けると、目の前に彼の顔があった。しかし、くちびるには親指の感触しかない。
 庵は、親指越しにくちびるどうしを合わせたのだ。
 ゆっくりと離れていく彼の顔を見つめながら、私は胸が詰まった。なんでこういうことをするんだろう。どうして私を、こんな風に。
(好きだって、言いたいのに)
 いつも思っていることだけど、今無性にそれを伝えたくなった。態度に出ているかもしれないけど、言葉にしなくても彼はわかっているかもしれないけど。
(だけど、こわい)
 今の私たちの関係が、言葉で始まっていないから。好き、とお互いに言葉にしたことがないから。今、それを言ってしまって、この関係が壊れてしまったらと思うと、好きという言葉が喉の奥でとどまって渦巻いてしまう。庵が好きな気持ちでいっぱいなのに、あふれさせることができなくてどうしようもなく苦しい。
 顔がゆがんでしまう前に、私は庵の首元に顔を埋めた。庵がしたように、甘えているかのように擦り寄った。庵の汗のにおいがして、そのにおいが私を少しだけ冷静にしてくれた。涙はこぼれる前に引っ込んでくれた。熱くなった頬を庵の肌にくっつけると、彼もまだ残っている熱で熱かった。今の状態でも彼の肌のほうが熱く感じられるのなら、ベッドにもぐりこむ前に手で庵の頬に触れたとき、私の手を冷たいと言ったのは頷ける。先ほどは平静だったから、今よりも冷たいだろう。
 取りとめもないことを考えて冷静を取り戻しても、まわされた庵の手が背中を撫でるたびに、愛しく思う気持ちが湧いてくる。私も、庵の背に手を回して、シャツをぎゅっとつかんだ。
「キスじゃなくても……」
「……?」
「……キスじゃなくても、こんなにくっついてたら、うつりそう」
 と、気分を紛らわそうとすると、庵は私の発言をふん、と鼻で笑った。
「ならば、離れるか?」
 庵は珍しくおかしそうにそう言った。その内容とは裏腹に私に回った腕が離れることはなく、相変わらず私の髪をいたずらにいじっている。その様子がおかしくて、私も笑ってしまった。離れるなんてできないと自信たっぷりのくせに、あるときは壊れ物を扱うかのように触れてくる。そんな彼が、おかしくて、愛しくて。
 やはり、好きだと伝えたくなったけど、まだ完全に踏み出せない私は、彼の首筋に触れたくちびるだけを動かした。口の動きだけで伝わるものではないと思っていたけれど、その後にぎゅっと強く抱きしめられた。偶然かそうでないか、庵しかわからないことだけど。
 息苦しいのは彼の抱きしめる力が強いせいか、私の胸が苦しいのか、両方なのか。普段より熱い体温を感じながら、私は彼のシャツをぎゅっと握り締めた。この分だと、翌朝には彼のシャツはしわくちゃになっているかもしれない。


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