やわらかく潰して

※名前変換ありません


 ふと、くちびるに柔らかい感触が降りた。
 それは私の眠りを破るまでにはいたらなかった。くちびるの次は頬、次はまぶた、次は額。次々と温かいものが触れていった。
 私は夢と現を行ったり来たりしつつ、その感触を享受していた。額に触れたのを最後に感触は途切れた。またもとの平穏が訪れ、私の体は再び眠りに沈もうとしている。
 が、顔に重たいなにかがのしかかってきて、私は急激に覚醒した。

(なに……?)

 重たいなにかは顔の上だけではない。体にも乗っていて、私を押し潰そうとしてくる。
 目を開けてみると、目の前をその重たいなにかに視界を遮られていて、真っ暗だった。徐々に意識が覚醒していくにつれて、私の上に乗っているものがなにかわかってきた。
 人の体だ。一緒に寝ていた男――八神庵の体が上に乗っているのだ。私の頭の上に庵さんの顔があって、私の口はちょうど庵さんの鎖骨の下あたりに位置している。庵さんが私の頭を抱えるような体勢に近い。
 一体どうしてこんな体勢になっているんだろう。口が塞がれている上に、私の上半身に庵さんの体重が乗っているせいか、息苦しい。庵さんのなにも着ていない肌から伝わってくる体温が、だんだんと私の体温も上げていく。暑い。
 昨夜、庵さんと久しぶりに会って、体を重ねてからの記憶がない。抱き潰されたといったほうが正しいかもしれない。気を失うように寝入ってから、なにがどうなってこの状態なのか。時計すらも見れない、というか身動きひとつ取れない今の状況ではなにもわからなかった。

(どうしよう、起こしていいのかな……でも……)

 頭の上から聞こえてくる寝息は、聞いたことがないような安らかなものだった。元々眠りが浅いのか、格闘家らしく気配に敏感なのか、それとも夢見が悪いのか――そのどれもがあてはまるのか。庵さんの眠っている姿は、いつもどこか苦しそうだった。眠っているというより、ただ目をつぶっているだけなんじゃないかと思う時もある。この寝息を乱すことは躊躇われた。
 庵さんは冷たいことも言うし、態度も柔らかいとは言い難い。実際に向き合ってみると、他人が抱く庵さんの印象よりも、静かで、触れてくる手もくちびるも優しい。今までこんなふうに完全に体重をかけて乗ってくるようなことはなかった。それだけに、今は本当に眠っているのだ。
 庵さんの背中を追いかけて、追いかけ続けて、ようやく受け入れてもらえた。恋人になってからは意外なほどに大切にしてもらっていると思う。内には激しさもある人だが、私に見せるのは夜闇に静かに佇む月のような姿だった。私を受け入れて、それでも完全には寄せ付けない。眠っていてもどこか緊張していて、常に張り詰めているような、そんな人だ。
 だから、恋人同士といってもほとんど私の片想いに近いと思っている。私が庵さんを追いかけるという図に変わりはない。たまに私を見てくれるだけで、私に触れてくれるだけでも、天にも昇るような気持ちになる。庵さんは好きだとかそういう言葉は一切口にしないけど、たまにそばに置いてくれるだけでいいのだ。
 こんなに力を抜いている彼は初めてだ。だから、多少苦しくても、起こしたりできない。
 でもそろそろ鼻が限界かもしれない。いくら庵さんの豊かな胸筋がクッションになってくれているとはいえ、鼻骨にずっと体重がのしかかっているのはきつすぎた。でも起こしたくない。でも痛い。
 どうしようかと散々に迷っていると、庵さんの体が動いた。

「…………?」

 戸惑うような間を置いて、息を飲んだ音が聞こえてきた。起きたらしい。
 庵さんが私の上からどくと、一気に体が楽になった。カーテンの隙間から入ってくる月の光が、ぼんやりと部屋の中を照らしているのが目に入った。

「俺は……眠っていたのか」

 私がこっそりと息を整えていると、庵さんが少し呆然としたような声を出した。

「ん? うん、そうみたいだね」
「……いつから起きていた」
「え……ついさっき?」

 いつから押し潰されていたのかとの問いには曖昧に濁した。たぶん気にするだろうから。口には出さないだろうけど。
 庵さんは私の表情を読もうと、じっと顔を見つめてくる。鋭さを持った視線が刺さり、一瞬白状しようかと思ったが、堪えた。寝起きの顔を装って目を細めると、やがて庵さんは力を抜いて私の隣に横たわった。誤魔化せたか。いや、きっと全部見抜いている。私のことを意外なほどに見ていて、把握してくれている庵さんのことだ。わずかな表情の違いから察しているかもしれない。
 ふん、と息が抜ける音と一緒に、彼のくちびるが私の口に触れた。情事の最中のような深いものではなく、重ねるだけのキス。押し潰していた詫び、ということだろうか。
 でも、それよりも私は、そのキスの感触で思い出した。
 押し潰されて目が覚める前、これと同じ感触が私のくちびると顔に降りてきていたことを。

(庵さん、私が寝てる間に――)

 ――そして、そのまま彼自身も寝入ってしまって、私は押し潰された。そういうことなのだ。
 なんてことだ。私が寝ている間に、なんということをしてくれたのだろう。
 片想いでもなんでもない。庵さんは私を確かに、自分の懐に入れてくれているのだ。
 そう思うと、鼻の頭が熱くなってきた。泣きそうになって、慌てて目を強く閉じた。庵さんの背に手を回して、抱きつくようにしてくちびるを押し付けた。庵さんは突然積極的になった私にまた戸惑って、一瞬の間の後に私の体を抱き寄せた。
 くちびるが離れて、どうしたと問うような視線を向けられる。私は涙が滲んだ目を見られたくなくて、またすぐに彼に抱きつく。
 庵さんの鎖骨の下のあたり。さっきまで私を押し潰していたところに、また鼻先を埋める。肌から伝わる愛しい温もりが、私をどうしようもなく満たしていく。

「庵さん、好き。大好き」

 それきりなにも言わず、庵さんの体にしがみつく。
 庵さんは、ただしがみつくばかりで答えない私に、静かに息を吐いた。それから私の後ろ頭に手を回して、私の額にくちびるをくっつけた。

「おかしなやつだ」

 庵さんは好きだとか愛してるなんて絶対言わない。この先もおそらく言わないし、この関係もいつ終わるかわからない。ある日突然私の前からいなくなる、そんな予感もする。
 けれど、私はもう、その声の響きだけで、伝わる微熱だけで、死んでもいいと思えるくらいに満たされるのだ。
 願わくば、庵さんと過ごせる夜が、少しでも多くあってほしい。
 叶うとも知れない願いを心の奥に押し込んで、私を抱く腕に体を預けた。

キスの日。


庵視点→


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