2、五月


 桜が散って、葉桜も時期を過ぎた頃、ゴールデンウィークというものがやってくる。学生たちは皆休みではあるが、それと同時に課題も多く出される。そして、ゴールデンウィークがあけると中間テストというものが控えている。遊んでばかりはいられないのだ。

「……うへぇ……」

 私は両親が仕事へ行った後、課題を鞄から取り出してため息をついた。古文やら英語やら物理やら数学やら。真面目にやれば一日で二教科は片付けられるだろうが、全体量で考えると気が遠くなってくる。特に数学と物理だ。数学の聞仲先生は課題が多くて厳しいので有名だ。意外なのは物理の普賢先生で、あんなに優しい顔をして穏やかな雰囲気なのに、課題の量と評価に関してはその逆らしい。なんだかやる気が起きないな、と二度目のため息をついたとき、家のインターホンがなった。

「はーい?」

 現時刻午前十時過ぎ。宅配便がくるには早すぎる。一体誰だろうと思いながら玄関を開けると、そこにはダンボールを抱えた望ちゃんが立っていた。一気に心拍数が跳ね上がった。なんで望ちゃんが朝から私の家に!?というか私望ちゃんの前に出る格好ではないのですが。

「ぼっ望ちゃん! なんで!?」
「いや、わしの実家から野菜やら米やら送ってきたのでな。おすそ分けだ」
「そっ、そうなんだ。とりあえずどうぞっ」
「うむ」

 望ちゃんを家に上げると、勝手知ったる家の中、望ちゃんはサクサクと慣れた様子で台所にダンボールを置いた。ダンボールの中からは、望ちゃんが言ったとおり、米の入った袋やら野菜やら、お菓子が出てきた。私はそれを横から眺めながら、こっそり髪を手櫛で梳いた。歯磨きも洗顔もしていてよかった。してなかったら今頃死にたくなっていたかもしれない。
 望ちゃんと私はいとこ同士だ。望ちゃんのアパートは近所にあるので、私の家に良く遊びにくる。そして望ちゃんは私の通う封神高校の教師だ。日本史の先生、かつ生徒会を聞仲先生と共に受け持っている。でもほとんど聞仲先生が仕切っていて、望ちゃんは聞仲先生のサポートのようなものだ。私と一緒に、よく怒られている。

「望ちゃん、今日は学校じゃないの?」
「今日は正真正銘の休みだ。部活……というか、生徒会もないし、聞仲の呼び出しもないしな」
「へー、よかったね」
「おぬしらがうらやましいわ。教師は意外と休みがないのだよ……部活があるし、もうすぐテストも作らねばならんし」
「うーん……でも、私らだって容赦なく課題出されてるんだよ? 望ちゃんは課題出さなかったけど、数学と物理がもうね……」
「聞仲と普賢か……あやつら手加減せんからのう」

 ちなみに、望ちゃんと普賢先生は友人で、封神高校に入学する前にも何度か勉強を教えてもらったことがある。あの時も結構スパルタだったけど、教師になった普賢さんはそれ以上だ。

「物理苦手なのになぁ……」
「おぬし、物理が苦手なのか?」
「うん……普賢先生の話はわかりやすくておもしろいんだけど、それが勉強に結びつかないんだよね」
「わしが教えてやろうか?」
「うん…………え?」
「ほれ、おぬしの部屋へ行くぞ」
「え、え? ちょ、ちょっと待って」

 私の言うことも聞かずに、望ちゃんは勝手に二階へ上がっていく。寝起きのまんまの部屋を見られてはまずい。少し片付けなくては。それにしても、望ちゃんが物理を教えてくれるなんて。
 あらかたものを片付けて、望ちゃんを部屋へと招き入れる。ああ、なんだか無駄に緊張する。ただ勉強を教えてもらうだけなのに。望ちゃんを部屋へ入れるのは、中三以来だ。

「本当に、いいの? 望ちゃん、忙しくない?」
「まぁ、ひとりでいてもすることといえば仕事なのでな」
「か、彼女とかは?」
「おぬしなぁ……いたら従兄妹に勉強を教えとる場合ではないわ」
「そうだよね」

 机に並んで座り、物理の教科書とノートを取り出して、課題の範囲を望ちゃんに伝える。その量の多さに、望ちゃんは呆れている。

「ていうか、望ちゃん物理できるの?」
「出来んかったら教えるなんぞ言わんよ。今は速度をやっているのだろう? 波や光になると教えるのは無理だが、速度くらいならわかるよ」
「へえー」

 さすが望ちゃんだ。ますます好きになってしまいそう。
 私は望ちゃんが好きだ。年上のお兄さんに対する憧れとかそういうものではなく、恋をしている。昔から大好きないとこではあったけど、恋をしたのは二年ほど前になる。
 


  当時私は中三、受験生の冬休みだった。封神高校はそこそこ偏差値が高い高校で、私の学力ではぎりぎり合格できるかどうかのラインだった。偏差値のランクは落としたくなかった。封神高校と他の高校では、偏差値に少し差があったのだ。天化はスポーツ推薦でもう決まっていて、本気で天化が恨めしくなっていた。このまま勉強を続けていて、学力は上がるのだろうかと、やる気を失いかけていたときに、望ちゃんに勉強を見てもらったのだ。
 望ちゃんは、そのとき封神高校の非常勤講師だった。望ちゃん自身、教員採用の勉強で忙しいはずなのに、私の勉強を見てくれた。

「わしも教員採用を頑張るから、おぬしもめげるなよ」

 そのたった一言だけど、なんてことはない一言だけど。私は気持ちが折れそうになっても、めげずに頑張れたんだ。望ちゃんも、私以上に頑張っているんだから、私も頑張らないと。望ちゃんは何気なく言ったのかもしれないけど、あの言葉は私の中で大事なものになったんだ。
 高校に受かって、望ちゃんも試験に受かって、そしてなんと望ちゃんも同じ高校に赴任と聞いて、私は一気に嬉しくなった。それと同時に、望ちゃんを見るたびにドキドキするようになった。今まで意識することがなかった距離にドキドキして、頭を撫でてくれる手にドキドキして、笑った顔にドキドキした。なるべく望ちゃんの前では今までどおりのように振舞ってきて、今では気持ちを隠すのにも慣れた。従兄妹だけど、同じ学校にいる以上は隠さないといけない。
 課題が一区切りする頃、ちょうどお昼を回っていた。望ちゃんは「飯にするかのう」と言って立ち上がった。私も望ちゃんの後を追って、一階へと降りる。

「望ちゃん、まさか作ってくれるの?」
「仕方なかろう、おぬしは作れんだろう」
「う……」
「ほかの事は割と器用にこなすのに、料理だけは昔からだめだからのう」
「むぅ……苦手なの」

 望ちゃんは冷蔵庫から焼きそばを取り出して、それから自分の持ってきたダンボールの中からキャベツとにんじんを取って、水道水で洗ったあとに刻み始めた。

「手伝いたいんだけど、邪魔になりそうだからやめとく」
「うむ。危なっかしくて気が気でないわ」
「それ、この間天化にも言われたよ。手際とか時間とか考えなくていいなら、ある程度できると思うんだけどなぁ」
「まぁ味は悪くないからのう。慣れの問題かもしれんな」

 刻んだ野菜をいためて、麺をフライパンに投入する。望ちゃんの手が手際よく動いて焼きそばを完成させていくのを、私はただ感心しながら見ていた。そして、その手がソースをフライパンに入れたのを見て、私は皿と箸を取り出すために立ち上がった。


「ん?」

 不意に望ちゃんに呼ばれて、皿を持ったまま振り返ると、望ちゃんは焼きそばを菜箸に少し取って、私のほうへと差し出していた。なんだろう。いや、味見をしろという意図は簡単にわかったけれど、私は急なことで思考がついていかなかった。皿を取り落とさなかったのは偶然だ。

「ほれ、口を開けんか」
「え、え?」
「あーん」

 望ちゃんがそんなことを言いながら自分の口を開けた。それにつられる形で私が口を開けると、望ちゃんはさっさと私の口へ焼きそばを入れた。菜箸が口を抜けると、呆然と焼きそばを咀嚼する。うん、おいしい。

「おいしい……」

 まだ少し呆然としながらつぶやくと、望ちゃんは満足そうに微笑んで、私の両手から皿を取り上げた。焼きそばを、二枚の皿に均等に入れていく。

(…………なんで! こういうことするかなぁ……)

 私は、赤くなった頬を見られたくなくて、焼きそばの入った皿と箸を持って食卓へと運んだ。ため息をつきたかったけど、さすがに望ちゃんに気付かれる。それに、嬉しさのほうが勝っていた。切ない気持ちよりも。
 私はこの気持ちをあきらめなくちゃいけない。この恋の結末はわかっているから。望ちゃんに気付かれる前に、思いが深まる前に。もう手遅れかもしれないけど。


←戻     次→



inserted by FC2 system