封神の世界よこんにちは


 はごく普通の一般市民である。ごく普通に育ち、大学を出て働いている。この不況の中、残業は多いが、まともに休みがあるだけで幸運だと思っている。今も、残業がやっと終わり、独居のアパートに帰宅しているところである。時刻はすでに十時を回っている。
 外階段をのぼり、二階の部屋へと向かう。今日も今日とて足がむくんで階段をあがるのがつらい。こういう時、彼氏の一人でもいれば愚痴を聞いてもらえるのだろうが、あいにくには彼氏はいなかった。
 二十代も半ば、もうそろそろ結婚の二文字がちらつき始める。しかし社会人になると、思ったより出会いがない。友人に誘われて合コンなどに参加したこともあったが、そう簡単に彼氏が見つかれば苦労はしない。
 過去に彼氏がいたことはあるが、学生時代が終わるとともに破局した。
 はぁ、とため息をつきながら部屋のドアを開ける。
 と、そこには、闇が一面に広がっていた。は目を瞬いた。そこにあるはずの、狭い玄関も散らかった部屋もない。

「は、え?」

 ドアノブを持ったまま、しばし呆然としていると、

「鈍くせぇな。さっさと入れ」

 という、若干イラついたような少年の声が聞こえた。それと同時に、闇から伸びてきた手に左腕をつかまれ、闇に引きずりこまれてしまった。の腕をつかんだ手には、シルバーの指輪やら腕輪やらがジャラジャラとたくさんついている。

「えっ!? ちょっ」

 四角に切り取られたような空間が狭まり、闇はとともに消えた。後に残されたのは、腕から落ちたの鞄とドアが閉まる音だけであった。



 空間が閉まったことで、つかまれた腕はあっけなく開放された。急に止まれないは、そのまま慣性の法則に従って前方へとつんのめった。手をついて地面との衝突は回避したが、手には結構な負担がかかった。

「いたた………………え?」

 手をひらひらと振りながら周囲を見渡すと、そこにあったのは闇でもなく、ましてや自分の部屋でもなかった。明るい陽光に照らされた部屋は、天井が少し低く、とにかく広い。朱塗りの柱は太く、御簾のようなものが巻かれた状態で吊るされている。およそ現代日本には似つかわしくない、歴史の教科書に載っているような部屋だ。
 廻廊から見える景色は空だ。ということは、ここは高い建造物だとぼんやりと思った。

「あはん、いらっしゃい」

 甘く絡みつくような女性の声がした。声のした方を見ると、の後方に大きなソファに座った女性がいた。
 は驚きで目を見開いた。
 女性はとんでもなく美しい上に、モデルのようにスタイルがよかった。レースクイーンもかくやという露出度の高い服がよく似合っている。というかこの人、見覚えがある。

(え? ……え!? こ、この人って……封神演義の妲己!?)

 以前読んだ漫画のキャラクターだ。学生時代に好きだった漫画だ。最近は久しく読んでないが、強烈なキャラクターゆえによく覚えている。
 の様子を見て、妲己は笑みを深くした。狩の獲物を見るような妲己の目に、は戦慄を覚えて肩をすくませる。

「そんなに警戒しなくてもいいわよん。あなたに危害は加えないから安心してねん」
「は、はぁ……」

 と言われたものの、怖い。妲己がその気になれば、を殺すことなど赤子の手をひねるより簡単だ。そして、人を殺すということを簡単にやってのける女性である。

「ふふ。質問があるから大人しく素直に答えてねん。その後で事情を説明してあげるわん」
「う……は、い」
「まずは、お名前」
、です」
ちゃん。わらわのことは、知ってるわねん?」
「!? …………はい、妲己……です」

 妲己はが別の世界から来たということを知っているのか。最初にいらっしゃい、と言ったことやこの様子からすると、妲己がを呼び寄せたと考えるのが妥当だが。とりあえず、今は怖いので黙っておく。後で事情を説明するという言葉を信じることにした。

「じゃあ、ここがどこだかわかるわねん?」
「はぁ……もしかして、朝歌、ですか」
「正解。賢い子は好きよん。最後の質問、わらわの目的は知っているわね?」
「あなたの、最終的な目的? まあ、はい、知ってます」

 妲己の最終的な目的といえば、地球と一つになり、母なる存在になることだ。肯定しただけでそれを口にしなかったのは完全な偶然だったが、後々この時のことを思い返すと、下手にしゃべらなくてよかったと思った。ジョカがどこで会話を聞いているかわからないからだ。

「あはん、合格よん。ちゃんが知っている通り、ここは殷の朝歌。ちゃんは、わらわが王天ちゃんにお願いして連れてきてもらったのん」

 やはり、あの空間は王天君の仕業だったのだ。妲己が関わっているとしたら、王天君もおのずと関わってくるだろう。

「わらわがちゃんを呼んだ理由は、わらわの目的の保険になってもらうためよん」
「保険?」
「そう。もしも、上手くいかなかったとき……」

 もしも、地球との融合が何らかの理由で果たされなかった時。

ちゃんには、ある宝貝で自然を思いのままに扱えるようになってもらって、そのちゃんをわらわが乗っ取るのよん」
「……はぁ、それで保険と」

 相変わらず、人を物のように見ているような発言だ。
 妲己の言った保険計画が必要になった時に、この身を問答無用で乗っ取ると言っているのだ。本人の意思など関係なく、いきなり別の世界から引っ張ってきて。理不尽にもほどがある。つっこみたいところは山ほどあったが、怖いので諸々の文句は飲み込んだ。

「そうよん。そのためには、この世界の流れを知っている人間が必要だったってことよん」
「うーん……私が呼ばれた理由はわかりました。けれど、私は普通の人間ですよ。貴方の言っている宝貝は、仙道にしか使えないのでは?」

 宝貝は仙人骨から発する力を消費する。普通の人間では使うことはおろか、持つことも危険なはずだ。

「大丈夫よん。その宝貝の使用条件は、過去の人間であることなのよん。普通の仙道では使えないのん」

 妲己の言う過去とは、おそらくこの世界が栄える以前の、ジョカに滅ぼされる前にあった文明の事を指す。文明はジョカによって何度も滅ぼされ、やり直されているのである。封神の世界は、実は未来の話なのだ。は、封神の世界が発生する前の、過去の人間ということだ。
 今の答えで、妲己の中にを元の世界に帰す、という選択肢がないということがわかった。なにがなんでも利用するつもりだ。帰りたいんですけど、などと言い出したら、一体なにをされることやら。最悪の場合、首が胴体からサヨウナラだ。
 逆に考えると、この世界での安全を保障されたようなものだが、妲己らがを必ず守ってくれるとは思えないのが不安の種だ。

「というわけで、王天ちゃん」

 妲己の掛け声とともに、のすぐ後ろから、ブン、という空気が震動するような音がした。そして、の後ろから伸びてきた手が、の鼻をつまんだ。

「んあ!?」

 思わず開いた口にすばやくなにかが放り込まれる。そして、顎を掴まれての口が強引に閉じられる。

「ん!? んんー!!」
「大人しくそれを飲み込め。そしたら手を放してやる」

 息ができない。口に放り込まれた物体は球体状の硬いものだった。大きさとしては大きめの飴玉ぐらいである。
 息苦しさのあまり、はその球体がなんなのかわからないまま飲み込んだ。ごくっ、と喉が鳴ると、宣言通り手は離れた。

「ぶはっ、うえ、今のは……」

 荒くなった息を整えながら問うと、妲己はにっこりと笑った。

「今のが、ちゃんに使いこなしてもらう宝貝よん」
「え、今のが!? の、飲んじゃったけど……」
「それは持ち歩いてたら使えねえもんだ。術者一体となって、初めて使うことができる」

 後ろを振り返る。そこには予想通り、蒼白の顔色と、目の下に濃い隈がある少年――王天君がいた。

「王天君……」
「ヨロシクな、お嬢ちゃん。とにかく、その宝貝は体になじませることからだ。もうすぐ封神計画が発動する。せいぜい、頑張って使いこなしてくれよ」

 そう言って王天君はニヒルな笑みを浮かべた。
 妲己はふふふ、と笑い声を上げると、に向かってひらひらと手を振った。

「そういうことだから、後は王天ちゃんに任せるわん」
「えっ、ええ?」
「体になじませる、っていっただろ。それが何日、果ては何ヶ月かかるかわからねぇ。その間にあちこちうろちょろしてうっかり死なれちゃぁかなわねぇから、オレの空間で大人しくしててもらうぜ」
「な、なるほど……」

 が納得すると、王天君は空間を裂いた。ブン、という音がする。

「じゃあねんちゃん。頑張ってねん」
「頑張るって……」

 そんな無責任なという言葉が喉から出かかったが、怖いので言わないでおいた。殺されはしないだろうが、痛い目に遭う可能性が無きにしもあらずだからだ。
 王天君に首根っこをつかまれ、空間に放り込まれる。その先には闇が広がっている。そこで、の意識は途切れた。


 →2話


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