可愛い人と大人の男


 ノウム・カルデアからストームボーダーに拠点を移すことになった際、シオン・エルトナム・ソカリスから新しい魔術礼装をもらった。
 決戦用と名付けられた礼装は、カルデアのマスターとなってから支給された白い魔術礼装と、少し似ているような気がした。しかし、そこに込められた意味はまったく違う。初めて魔術礼装・カルデアに袖を通した時と比べ、自分自身もまったく違うものになっている気がする。決戦用カルデア制服の試着の際に鏡の前で覚えた違和感のもと、今まで必ず結い上げていたサイドテールを解いてみると、こちらのほうがしっくりきた。
 以降、髪を結うことは格段に減った。朝の時間の節約にもなるし、自身は特になにも不便はなかった、のだが。
 それを不満に思う男がいた。

「本当に、本当に僕が髪を整えなくていいんですか? ほら、櫛を通すだけでも僕が……」
「それくらい自分でやれるし、わざわざそのために朝付き合ってもらうのも悪いよ」
「ええー……」

 仮の恋人関係の時からの髪を結っていた太公望だった。髪を下すことにしてからこちら、ずっとこんな様子である。元々の髪をいじるのが好きだった彼は、毎朝の至福の時間を奪われたのがショックだったらしい。にやっぱり髪を結わないかと、毎朝未練がましく迫ってきては、その度に同じような言葉でに断られている。
 今朝も懲りずに打診してきたが、櫛を通すだけでもいいからなどと随分ハードルを下げてきた。そこまでして守らねばならない習慣だろうか。

「そんなに私の髪をいじりたいの?」
「んー……まあ、それもありますけど。というより、あなたとふたりきりで過ごせる数少ない時間をなくしたくないことのほうが大きいですね。この部屋を出ると、あなたはみんなのマスターでしょう?」
「え」
「あなたの髪が好きだから触りたいし、僕の手で可愛くなるあなたも見たいし、少しでもあなたを独占できる時間を死守したいなァ……って。だから、軽く考えられては困るんです」
「……う、うん、あの、わかった。わかりました……」

 朝っぱらから恥ずかしいことをすらすらと並べ立てる太公望に、降参するように手を挙げる。この男は、自分からの好意はなんでもないことのように平気な顔で、かつ惜しみなく表に出してくる。油断していると思わぬところで汗をかくことになる。
 頬を赤くして照れているに対し、ここが好機とみて太公望は攻め込んでくる。

「僕、本当にこの時間を楽しみにしているんですよ? 朝一番に可愛い人の元気な姿を見て、一日を始めるのが今の僕の楽しみなんです。がその日初めて顔を見るのが僕っていう、ちょっとした優越感もあるし。だから櫛を通すだけでも僕が、ね? 本当の恋人になったのに前よりふたりの時間が減るなんて、そんな悲しいことがあっていいんでしょうか。いえ、いいわけがない。……というか、もう少しいちゃいちゃしてもいいと思っているくらいなのに……」
「うう……わ、わかったよ……じゃあ、今まで通り、髪を整えるのは太公望にお願いす」
「ああ、ありがとうございます! さすが、絶対わかってくれると思ってました! フフッ」

 が渋々首を縦に振った瞬間、今までの悲しそうな顔が嘘のように満面の笑みになった。をぎゅうっと力強く抱きしめてご満悦である。
 言わされた感が強いが、としても太公望との時間をなくしたいわけではない。なんだかんだとやることがあったり不測の事態が起こったりして、日中ふたりで過ごすことはほとんどない。朝のこの時間か、夜の寝る前に太公望が部屋を訪ねてくる時くらいだ。しかも、太公望がボソッとつぶやいた通り、恋人になってからそこまで仲が進展したわけでもない。というか、全然進展していない。
 両想いになったからといって、その後なにもかもうまくいくわけではない。悩んだりヤキモキしたりする時間は相変わらずあるのだ。
 いつまでたってもを離そうとしない太公望を剥がし、櫛を渡して背を向ける。

「んもう、そうと決まったら、はい。お願いします」
「ええ、お任せを」

 後ろでの髪に櫛を通している太公望を、鏡越しに見やる。の髪を時折白い指でいじりながら、上機嫌に笑っている。

「ふふ……思い返してみると、初めてあなたの髪を結ってあげたのが始まりだったのかも」
「え?」
「だって、あの時のがもう可愛くて可愛くて……僕はあの時からあなたに夢中だったのかも」
「……全然そんな感じじゃなさそうだったのに」
「それは……耳が痛い。なにせ自覚がなかったので……」

 先述した通り、太公望は自分の好意を恥ずかしがることなくストレートにぶつけてくる。「好き」「可愛い」「僕の」などは日に必ず言うセリフである。恋人になる前からそうだったが、スキンシップもそれなりに多いし距離も基本的に近い。そのくせ向けられる好意には鈍感で、から彼に触れたり好きと言うと、途端に照れて焦る。そういうところが本当に厄介だとは思う。

(私だって、もう少し恋人らしいことしたいなあって思うけど、どうすればいいかわからないし……)

 なにせこれが初めてのお付き合い。いまだにふたりきりの時には緊張してしまうし、キスひとつでドキドキして死にそうになるくらいである。からアクションを起こすにしても、なにをどうしたらよいかわからない。
 後ろの太公望はの毛先にオイルを馴染ませている。鏡に映る太公望の指は、触れてくる感触どおり丁寧で優しく、そしてなまめかしい。時折首筋をかすめる指先に、つい体を動かしてしまいそうになる。しかし体が反応するのに耐えていると、自然と体に力が入り、肩がだんだんと上がっていったようで。それをすぐ後ろにいる太公望が見逃すはずもなかった。

? どうしました?」
「う、ううん、なんでもない」
「くすぐったかったですか?」
「……く、くすぐったいというか……指が、なんか、えっちだった」
「え」

 ピタリと固まってしまった太公望を鏡越しに見て、自分がとんでもないことを言ってしまった気がして、は慌てて顔の前で手を振った。

「あ、ち、違う、太公望が別にそんなつもりじゃないのはわかってるよ! けど、なんていうか、やっぱり意識しちゃって……」

 どちらの発言にしても、太公望を意識していると思い切り告白することになってしまった。太公望は道士だから、恋人といっても世間一般の性愛とは違うだろうに。キスはするけれど、くちびるを重ねるだけのものしかしていないし、スキンシップも手に触れたりハグだけで、性的な意味はほぼない、とは思う。

(あれ……こうやって考えてみると、私だけ妙に意識しすぎでは……!?)

 なんだかそっちの方面に興味津々みたいになってないか。これで太公望が本当にまったくそんなつもりじゃなかったら恥ずかしすぎる。顔を真っ赤にして俯いているを、太公望は後ろから腕を回して包み込んだ。

「……そんなつもりだったら、どうします?」
「太公望……?」
「僕が、あなたをその気にさせたくて、そういう手つきで触れていたとしたら……道士のくせにって、怒る?」

 肩越しに薄紫色の瞳が覗き込んでくる。普段はにっこりと細められた切れ長の目が、をまっすぐ見つめている。その不思議な色合いに吸い込まれそうになっていると、それは再びにんまりと細められた。

「……なんて、いくら崑崙から遠く離れているとはいえ、こんなことを言ってると元始天尊さまに怒られかねませんね。今のは忘れて――」
「…………わ、私は、嬉しい、かも……」
「――――」

 の消え入るような声を聞いた太公望が息を呑んだ。また変なことを言ってしまったかとが思うよりも先に、の顎を持ち上げてくちびるを寄せてきた。

「ん、」
、好き。……」

 はじめは優しく、軽く音を立てながら触れては離れてを繰り返す。やがて角度を変えて深く合わさり、は息が出来なくなった。
 鼻で息をするのだとわかっている。けれど、胸がいっぱいで苦しくて、息をするのを忘れてしまうのだ。
 太公望のくちびるが離れ、力が抜けたは太公望の腕にしなだれかかった。頬を染めて息を整えているを抱いて、太公望は目尻を下げた。

「フフ、可愛い……まだキスひとつでこんなふうになってしまうなんて」
「う……だって、全然慣れない……」
「ええ、わかってますよ。だから、急ぐつもりはありません。僕はあなたのことちゃんとそういう目で見てますし、もう少し先に進んでもいいかなと思わないでもないですけど。でも、今のままでも十分です」
「そ、そうなの……?」
「はい。前にも言ったでしょう、あなたのペースを考えるって」
「それは、言ってたけど……」
「僕は、こうやってたまに僕だけのあなたになってくれる時間があれば、いくらでも待ちます。こう見えて、あなたよりずっと大人なので!」
「そ、そっか……」

 よりかなりの歳上と言われればその通りである。しかし、それだとかなり歳下のに手を出していることになるが、それはいいのだろうか。
 ともかく、太公望もと同じようにを異性として触れたいと思っていることがわかって、安心した。のペースに合わせるとなると、仲の進展はかなりゆっくりになりそうである。だが、それでもいいと歩調を合わせてくれることに、彼なりにを大切にしてくれていることが伝わってきて嬉しくなる。
 少し体を伸ばして、の頭を撫でていた太公望の頬にキスをする。

「ありがとう、太公望。……大好きだよ」

 ダメ押しの一言を添えると、太公望の糸目が丸くなった。それからおもむろに胸の中に閉じ込められてしまったので、彼の顔は見えなくなった。ただ、頭上から特大のため息が聞こえてきた。

「太公望?」
「参ったなァ……本当に可愛い……うん、僕も大好きです、

 独り言のようになにかをつぶやいた後、太公望も大好きと返してくれたことが嬉しくて、ももうなにも言わずに彼に体を預けた。ため息の理由に心当たりはなかったが、太公望が黙ったままだったので、それ以上深く考えなかった。
 一方の太公望は、赤くなった顔をを抱きしめることで隠しながら、自分を戒めていた。

(僕は大人、僕は大人、僕は大人……)

 あれほど胸を張っていくらでも待つと言った手前、太公望から手を出しづらくなってしまった。なにもなければ待つことなど容易いが、はいちいち可愛いし、こうやってたまに不意打ちを仕掛けてくるものだから、なかなかに忍耐を試されている。
 たまに自分だけのでいてくれる時間があればそれでいいと言ったのは、確かに本心だったはず。しかし、恋人の可愛さに早くもぐらつき始める理性を前にして、太公望は危機感を抱かざるを得なかった。


番外編2話→



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