いつもと違う髪型、同じ温度、まなざし、微笑み


 いつも普通にできていることが、今日はなぜか上手くいかない。
 そういうことは人生には往々にしてあるもので、その日の藤丸もそうだった。

(うーん……なんか、気に食わないなあ……)

 洗面所の鏡の前で顔を曇らせると、結い上げた髪を崩した。
 今朝はなぜだかいつものサイドテールが上手くいかない。毎日同じ時間、同じ位置に結んでいて、今ではほとんど鏡を見なくても大体同じように結べるほどに習慣化しているのに。
 今朝はいつもと同じようにやっても、なぜかいつもと違うように見えてならない。高さが悪いのか、毛量が違うのか、それともまた別の理由があるのか。
 何度も結び直しているうちに腕が疲れてきてしまい、は一旦洗面台に手をついた。
 かれこれ二十分は格闘していただろうか。朝のブリーフィングに行かなければならない時間になろうとしているのに、髪は一向に言うことを聞いてくれない。いっそ今日は髪を下ろしたままで過ごそうか。
 そう考え始めた時、部屋の扉がノックされた。

「どうぞー。ごめんマシュ、もう少しかかりそうだから座って待ってて」

 いつものようにマシュが迎えに来たのかと思い、そう言った後で洗面所から顔を出すと、部屋の扉の前にはマシュではない人物が立っていた。
 スラリとした長身に黒と赤の道士服、切り揃えられた黒髪、しっぽのように伸びたおさげ。稀代の名軍師太公望が、若干困ったような顔をして立っていた。

「おはようございます、殿」
「あれ、太公望? おはよう、どうしたの?」
「マシュ殿から、殿を起こしてきてほしいと頼まれまして。マシュ殿は技術顧問殿となにやらお話があるとのことで、自分は行けないから代わりにと」
「ああ、なるほど」

 最近カルデアに召喚されたばかりの彼が、の部屋に自分から訪れるなんて珍しいと思ったら、そういうことだったのか。おそらく、マシュとダ・ヴィンチちゃんが話しているところに偶然行きあった太公望が、マシュの頼みを聞いてあげた、ということなのだろう。

(そんな雑用を聞いてあげるなんて、この人も人がいいよなあ……)

 頼みごとをするマシュの苦い顔が目に浮かぶ。マシュはこの大軍師を顎で使うようなことはしたくなかっただろうが、の遅刻と天秤にかけて、を優先したのだろう。

「なんか、わざわざごめん」
「ああ、いえいえ、あなたを呼びに来るくらいなんともないのですが、それはそれとして……僕が言うのもアレですけど、こんな時間から殿の部屋に入ってもよかったんでしょうか?」
「あ、そっち? 別に、いいけど。ノックもしてくれたし」

 時間問わずサーヴァントの来訪がある部屋である。もう今更といった感じだ。ノックがあるだけマシである。
 の返答に、太公望はまた微妙な顔をした。しかし、結局それ以上追求せず、先程のの発言を拾った。

「んー……まあ、いいでしょう。それより、もう少しかかるとは、どうかしました? なにかお困りごとでも」
「そう、困ってるんだ。今朝に限って上手く髪が結べなくてさ。もう今日は下ろしたままでもいいかなーって思ってたとこ」
「ふむ」

 音もなく近くに寄ってきていた太公望が、確かに、といつものサイドテールがないを見下ろした。

「僕がお手伝いしましょうか?」
「……え?」
「僕が髪を結ってあげましょうか、と言ったんです」
「太公望が?」

 突然の申し出に思わず彼を見上げると、ニッコリと自信に満ちた笑みが返ってきた。

「さあ、そちらに座って。僕も椅子を借りますね」
「え、え?」
「ほらほら、もうすぐブリーフィングの時間でしょう? 手早く結ってあげますから、ね」
「う、うん……いいの?」
「ええ」
「……じゃあ、お願いします」

 大きく頷いた太公望にヘアブラシ、ヘアゴム、シュシュ、ヘアオイルといった道具を渡すと、太公望の前に座った。手鏡を持って、と言われたので、以前にメイヴが置いていった、持ち手の細工が美しい手鏡を手に取った。
 太公望が櫛で髪を梳かしていくのを、鏡越しに見る。

「な、なんか恥ずかしいな……」
「おや、誰かに結われるのは初めてですか?」
「まあ、ここに来てからは。いつもは自分でやってるしね。ほんと、今日はなんで上手くいかないかなあ。ハネやすいところ以外は特に悩みなんかなかったのに」
「まあまあ、そういう日もありますよ」

 太公望の手つきは、確かに自信ありげに頷いた通り、慣れたものに見えた。

「太公望、こういうの得意なの?」
「うーん……得意というか、昔取った杵柄といいますか……」
「あ、そっか、結婚してたんだっけ。奥さんの髪も結ってあげてたんだ?」
「ええ、まあ。彼女、結構気が強い御仁でしてねぇ……夫婦になった頃の僕はまだたいした稼ぎもなくて、よくこうやって彼女の機嫌を取ったものです」
「……実は、尻に敷かれてた?」
「あはは、まあ、ご想像にお任せします。あ、でも、昔取った杵柄とはいえ、マスターの髪はちゃんと結いますよ。自分でも毎日やってることですし、そこは安心してください」
「う、うん」

 別にそこは疑ってない。こうして大軍師にやってもらえるだけで十分貴重な体験なのだから、太公望の腕前如何に関わらず今日は結ってもらった髪型で過ごすつもりだ。
 というか、今の発言で少し気になるところがあった。

(自分でも、って……自分で毎日髪を結ってるってこと? サーヴァントなのに……?)

 髪に櫛が通っていく感覚をよそに、はちらりと鏡の中の太公望の様子を伺う。手のひら大の鏡面では太公望の表情の一部しか見えないが、至って普通――いつも通りだ。変わったところはない。時折頭やうなじに触れる太公望の指先から伝わる熱も、特に違和感はない。
 サーヴァントであれば睡眠も食事も必要としない。基本的に全盛期の頃の姿が保たれているので、髪を結うという行動を毎日しているのは、おかしい。そんな必要がないから。趣味として身だしなみを毎日整えるというサーヴァントもいることにはいるが、太公望がそんなタイプには見えなかった。
 今の発言は、そう、まるで今も髪を毎日結う必要があると言っているも同然で――
 やはりこの太公望は、英霊の座からの召喚ではなく、崑崙山から分霊を飛ばしているのではないだろうか。
 この目の前の太公望は実際にサーヴァントかもしれない。が、大元の太公望はおそらく、今も。

(まあ、マーリンも似たようなものだし……?)

 ほかに例外がないわけではない。カルデアの英霊召喚も本来の聖杯戦争のそれではない。人理の危機とあっては、通常ならば召喚できない英霊もカルデアにいるし、英霊の座以外から来る英霊もいてもおかしくはない。例外中の例外が起こっても、「なんかこうしたらこうなった」と言われれば、それで納得するしかないのである。

(斉の祖となった太公望じゃなくて、殷を倒した後崑崙で三千年修行した太公望……)

 途方もない時間、途方もない努力の末に、神仙化した伝説の軍師。それこそ分霊でありながら冠位の力を有するような。

(もしかして私、ものすごい存在にどうでもいい雑用させてる……?)
「はい、出来ましたよ」

 という太公望の声で我に返る。すっかり下がっていた手鏡を持ち上げて自分の顔を映すと、そこには、

「あれ、これ……?」

 いつものサイドテールではなく、ハーフアップになった自分が映っていた。
 鏡越しに太公望を見ると、彼は再び自信満々に笑みを返した。

「たまにはこういうのもいいんじゃないですか? ほら、どうです?」

 彼に促されるままに首を左右にひねってみる。ゆるくねじられたハーフアップは、確かに普段よりも少し大人っぽく見えた。

「うん、なんか新鮮。違う自分みたい」
「んふふ、簡単なものですが、お気に召したようでなによりです」

 と言って、ヘアオイルを両手に含ませての毛先に塗り始めた。その仕草も慣れたものである。

「太公望、昔取った杵柄って言ってたけど、私より全然うまいと思う」
「そうですか?」
「うん……太公望の髪、いつもきれいだし」
「おや、そうくるとは」
「だって、サラサラのストレートだしツヤツヤの黒だし、正直言ってうらやましいよ。私、毛量が多いし、ハネやすいし……」

 思わず自分の髪の不満点が浮かんでしまい、愚痴を言ってしまう。自分の明るい髪色も別に嫌いではないが、サーヴァントたちの見事な黒髪や金髪を見てしまうと、どうしてもうらやましくなる。

「ん−……僕からすると、マスターの髪もきれいだと思いますけどね」

 後ろの髪にオイルを塗りこんでいた太公望がつぶやいた。毛先を指で梳かしながら、の体の前面に毛先が出るように流していく。
 その長い指が、白く、なまめかしくて。
 きれい、と髪を褒められたことも相まって、どきりとしてしまった。

「え、」
「若々しくハリもあってツヤもあって、なにより、あなたにすごく似合っている」

 の両頬にかかる後れ毛に指を通した太公望は、普段は細めている薄紫の瞳を見せて、穏やかに微笑んでいた。
 それを鏡越しに見てしまって、は大いに動揺した。カッと熱くなった頬を隠そうと手鏡を下ろす。

「え、えっと、その……あ、ありがとう、太公望」
「ええ、どういたしまして」
「じゃ、じゃあ、ブリーフィング行ってくるから……」
「はい、僕も途中までお供します」
「え!?」
「おや、だめですか?」

 今絶対に顔が赤いし、変な顔をしている。照れているところを太公望に見られたくなくて部屋を出ていこうとしているのに、一緒についてきては隠せないではないか。の思惑をよそに、後ろから顔を覗き込んでくる。

「だ、だめっていうか……」
「では、行きましょう。ほらほら、もう行かないと遅れてしまいますよ」
「うう……」

 先に立ち上がった太公望は椅子をもとの位置に戻すと、へ手を差し出す。が照れていることも、それを隠したいこともわかっている。わかっていて、穏やかに微笑んでいるこの男が、今は憎らしかった。
 諦めて白い手を取る。手を引かれて立ち上がり、ようやっと自室を後にする。

「太公望……いじわるって言われない?」
「さあ、どうでしょう。でも、僕はいじわるであなたの赤い顔を見ようとしているんじゃありませんよ」
「え?」
「だって、いい仕事をした後の成果は見たいじゃないですか。それが、僕のマスターの可愛いらしい姿ならなおさら、ね」
(……!!)

 こういう時に限ってその薄い紫の瞳をのぞかせてくるのだから、この軍師はたぶんいじわるだ。本人としてはそんなつもりはないかもしれないが、が照れ隠しで顔を見られたくないとわかっていて、それでも顔を見たいと言ってくる時点で。

(いじわるだ……)

 直接言ってもよかったのだが、このよく口が回る男に言っても勝てる気がしない。基本的にはいい人なのに、方便――言いくるめのスキルはトップクラスである。せめてもの抵抗に睨み上げてみるが、微笑み返されてしまった。くそ、むかつく。
 そうして、上機嫌な太公望の視線に耐えているうちに、ブリーフィングルームに着いた。

「では、僕はここで。マスター、良い一日を」

 太公望はいつものように笑みを残して去っていった。別れ際にさりげなく離れていった手の温度で初めて、部屋を出るときからずっと手をつないでいたことには気づいたのである。
 当然、マシュにもダ・ヴィンチちゃん達にも驚かれた。髪型もそうだが、赤く染まった頬に。ブリーフィングには全然集中できなかった。
 いつもと違う髪型をした自分を鏡で見るたびに、髪型のことをほかのサーヴァントに指摘されるたびに、脳裏に糸目の大軍師が浮かんでしまう一日を過ごす羽目になったであった。


第二話→



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