施しの英雄から体温をもらう話


 標高六千メートルの地に建てられたカルデアの周囲は、一年のほとんどを吹雪が取り巻いている。日光どころか空を見ることも少なく、文字通り三百六十度を白に包まれている。絶えず白い雪がほぼ真横に移動する視界は、昼夜問わず「白」である。カルデアの内部は窓というものが存在せず、何層にもわたる重厚な扉と何重にも繰り返されるチェックを受けて外部に出なければ外の景色を拝むことはできない。機密保持やら安全面やらを考えての窓のない施設というのは理解できる。実際内部に入って数日を過ごしてみると、窓などあったところで見えるのは朝も昼も夜も白一色しかないことは容易に想像できる。閉鎖病棟かなにかかな、とつぶやいたのは、もう一年以上も前のことだった。
 そんな極寒の地でも、一年のほんの数日だけ吹雪が止む。風もなく雪も降らず、痛いほどに澄んだ空気と寒さしかない。もちろん周囲を見渡したところで見えるのは雪が積もった地表しかないが、夜にひときわ美しく輝くものが見られる。星だ。
 人理の救済を果たした私にはやることが山積みだったが、人理救済のために脇目もふらずに奔走していた頃とは違い、圧倒的に精神的な余裕がある。この先自分がどうなるのか、必ずしも明るい未来が待っているわけではなさそうだと思うとほの暗い気持ちになる。しかし、失敗すなわち死という状況よりは、心に余裕がある。なにより、旅の過程で契約して、今もなお残ってくれているサーヴァントや、一年以上も死ぬ気でバックアップしてくれた職員たちもいる。
 こうして、先を考えることをいったん中断して、ただ星を見に来るくらいの余裕はできたのだ。
 外に出ているのではない。窓のないカルデアといったが、一つだけ星を──空を見ることができる部屋があるのだ。世にも珍しい天体望遠鏡が置いてある観測部屋がカルデアには存在した。
 いつ頃からあるのかも、いつから使われなくなったのかもわからないが、今はほとんど使われておらず、忘れ去られた部屋となっている。
 ──このカルデアの外が数日間だけ吹雪が止む時期があってね、星を見ることができるんだよ。前に占星術が専門の魔術師でもいたのかなあ、その人たちが使っていた観測部屋から星が見れるんだ。今年……は残念ながらその時期は過ぎてしまったけど、来年なら見られるかな? 見られるように、一緒に頑張ろうね。
 人理を救済する前、そう言ってこの場所のことを教えてくれたひとはいない。
 部屋の天井全体が星を見られるわけではない。天文台によくある構造で、望遠レンズの同線上の天井だけがくりぬかれている。くりぬいた箇所は望遠レンズの向きと同調して移動できるようになっている。私はその操作の方法を知らないから、そのくりぬかれた長方形の窓から星を見ている。少し埃っぽかった床を部屋に備え付けられた掃除用具でぬぐい、今は床に仰向けに寝転んでいる。空調が利いているのかいないのか、部屋の中は普段生活している区画と比べるとめっきり寒い。外は気温が低すぎて寒いどうこうのレベルではないので、それを考えるとこの部屋も少しは空調が入っているようだ。
 長方形の夜空を見上げる。目視ではわからないが、ほんの少しずつ星が移動している。ひとつひとつの星をじっと見ていると、きらきらと瞬いているのがわかる。それぞれの星の大きさは違えど、放つ光は時折眩しく感じるほどだった。現に、星明りで部屋の中はほんのりと照らされ、長方形の真下以外は影ができている。魔術師になる前に暮らしていたところで見た星空とは、なにもかもが違っていた。

「マスター」

 部屋の中に響いた声に、星空から視線を外す。突然の声かけにも特に驚かなかった。気配を読むことはできないが、さすがにこんなに静まり返った部屋の中では、誰かが近寄ってきたことぐらい気が付く。それが、霊体化したサーヴァントでも。
 部屋に入ってから姿を現した声の主──カルナは、そのままゆっくりと私に近づいてきた。私が星明りの下で寝転がっているのを見下ろしてから口を開いた。

「星を見ているのか」
「うん。カルデアにいると、こんな機会めったにないから」
「そうか」
「床、大体掃除したからきれいになってるよ。カルナも寝転がる?」

 私の提案に首を横に振ると、失礼する、と言って私の隣に座った。寝転がることはしないまでも、私に付き合って星を見るようだ。

「なにか用事だった?」
「いや。姿が見えず、近くにも魔力を感じなかったのでな」
「ごめん、探した?」
「魔力をたどった」

 なるほど、と返事をして、私は口を閉ざした。カルナもそれ以上なにも言わず、沈黙が下りた。
 空に視線を戻すと、相変わらず瞬きが目を刺激する。気にせいだと思うが、心なしか地上で生活していた頃に見た星空よりも、距離が近いように感じる。弱く瞬いていた星が見えるようになったせいもあるかもしれない。

「レイシフトした色んな場所で星空を見たけど、どこもそんなに変わらないな」
「そうなのか」
「うん。場所によって見える星は違ったりするけど、基本的には変わらない」

 だから、見ていると安心するのだ。いつだって不変なものなどありはしないけれど、私が生きているほんの短い間、変わらずにいてくれるものもあるのだと。

「不安なのか、マスター」
「え?」

 なにが、と聞き返そうとして、じっと私を見つめてくる透明な視線にいき合った。なにもかもを見透かす二つの瞳。いつもは安心する色が、今は少しだけ、居心地が悪い。
 私の心の奥にしまった不安を、彼はすっかり見抜いている。

「そりゃ、まあ」

 ぽつりと口を出た肯定。体を起こしてカルナの隣に腰を落ち着けると、星明りが照らす白い床を、なんとはなしに見る。手持ち無沙汰に指先を揉む。

「人理救済できてよかったと思ってる。それは、本当だけど。カルデアのスタッフのみんなとかダ・ヴィンチちゃんとか、これからどうなるかわからないし。サーヴァントのみんなだって」

 カルナから静かな視線を受けて、私は言葉を探す。どこまでも透明な視線は、どこまで見通しているのだろう。

「もう終わったから、みんな座に戻ったってそれは当然のことなんだけど。なんだか……さびしくて。もちろんお別れもさびしいんだけど、それ以上に、サーヴァントのみんながどれだけ尽力してくれたのか、それを実際に見て知っているのは私だけになっちゃう。私だって、いつまで忘れずにいられるか」

 みんなが私をマスターと呼んでくれた今のまま、変わらずにいられるのか。それがこわくて不安で、さびしかった。
 私の言っていることは、まとまりきらずに衝動的に出た言葉の羅列で要領を得ない。けれど、隣の施しの英雄は、それらを受け止めてくれている。

「忘れるということは、なくなるということではない」
「……?」
「そこに確かにあり続ける。それが、少しだけ覚えているときよりも表しづらくなるだけだ。貴女が俺やほかのサーヴァントたちのマスターであったこと、俺たちの戦いを見て苦しみを分かち合ってきたことは、確かな事実だ。貴女がこの先老いて忘れようと、サーヴァントが座に還ろうとも。そこにある事実だ。それは変わらないことではないのか」
「……!」
「なにも、一生寸分たがわずに覚えていることが変わらないこととは限らないだろう。それに、貴女だけではない」
「え?」
「俺たちが戦ったことを貴女が知っているように、俺たちサーヴァントも……俺も、貴女が必死で戦ってきたことを見て、知っている。そしてそれはもう変わらない事実だ」

 隣から伸びてきた大きな手が、いつの間にか拳を握りしめていた手に重なった。凝り固まった拳をほどいていくように両手を添えられ、緩んだ隙間から指が入り込んでくる。私の手が広がると、もう一方の手も同じようにしてほどいていった。
 カルナは私の隣から正面にしゃがみ込むと、開いた両手をつないだ。力いっぱい握りしめられていた指先から、彼のぬくもりが伝わってくる。

「目に見えるもの、はっきりとした形のあるものだけがすべてではない。だからマスター、怖がらなくてもいい」

 星の薄明りの下、蒼氷の瞳から向けられる視線はどこまでも澄んでいて、私を包み込むような温かさに満ちていた。ちょうど、私の両手を包んでいる温かさと同じような。

「うん、うん……」

 カルナは言葉を違えたことなど一度もない。きっと今の言葉も。
 私が何度も頷くのを見て、カルナもまた一つ頷き返した。それから、私の手の甲を親指でさする。



「ところでマスター」
「ん?」
「手が冷え切っている。部屋に戻るべきだ」
「え、あ、まあ……そうだね、そうかもしれない。でも」

 まだ星を見ていたい。この部屋に来た当初抱えていた不安はなくなったものの、星の輝きはこれを逃したら、次に見られるのは一年後だ。その頃にはカルデアに残っているのかも定かではないが、とにかくカルデアの星空は貴重ということには変わりない。
 まだここにいたい、という私の視線を受けて、カルナが眉尻を下げた。マスターの要望は聞いてやりたいが、私の体調も心配なのだろう。彼はどこまでも優しい。

「カルナの手、あったかいね」
「マスターの手が冷たいんだ」
「う、うん……」
「だが……今の俺にもマスターに与えられるものがあるということか」
「え?」

 そう言うとカルナは口を閉ざし、代わりに私の両手を握りこんだ。両手をくっつけて包み込むと、そこに吐息を吹きかけた。

「!!」

 なんだこれ。なにが起こっている。
 大きくてあったかい手が自分の両手をこれ以上冷えることのないように包み、ぬくもりを与えようと彼の口から吐息が吹きかけられている。
 これ乙女ゲームでよく見るやつでは。黒髭先生、どうしよう、私乙女ゲームのヒロインじゃないからわからない。
 手を引こうとするが、手を温めようとしている彼の手は逃してくれなかった。 カルナのくちびるが手に触れることはなかったが、触れそうなほど指先の近くにある光景は目の毒だった。せめてその光景を見まいと、目をつぶる。見続けていたら心臓がどうにかなってしまいそうだ。
 どれくらいその状態でいたのか、数分のことのようにも思えるし、一時間ほど経っているようにも思える。カルナが私の手をもう一度握りしめ、私の指先が自分のものと同じ熱を持ったと確認すると、ゆっくりと手を離した。私の心臓は相変わらず早鐘を打っていて、カルナの手が離れたことに安堵を覚えた。安堵と、少しのさびしさを。

「これでいい」
「う、あ、ああありがとう……」

 まぶたを開くと、カルナの白い顔が満足そうに微笑んでいるのが飛び込んできた。今そんな顔をしないでほしい。心臓が落ち着かない。
 カルナの顔やざっくりと空いた胸元を見ると、彼のほうがよほど寒そうな格好をしている。薄明りでも十分にわかる、というか薄明りだからより一層カルナの肌の白さが強調されて、その白い肌の下に体温があるのかどうか不安になるほどだった。でも、私はもう知っている。彼の肌は確かに温かいのだ。

「カルナの肌はこんなに白くて冷たそうなのに、ちゃんとあったかいんだね」

 思わずその白皙の頬に触れる。彼は驚いたように少し目を見開いた。その反応に、もしかして自分は大胆なことをやってしまったのでは、と恥ずかしくなる。手を引こうとする前に、私の手に再びカルナの手が重なった。

「マスターは──貴女は、俺よりもよほど温かそうな肌をしているのに、触れてみると冷たい。……不思議だ」
「カ、ルナ」
「願わくば、この手をこうして温めるのは、俺だけであってほしいものだ」

 それって、どういう意味だ。
 そう聞き返そうとしていたのに、言葉は喉元で霧散した。問いかけるよりも饒舌な答えが返ってきたから。
 重ねられた私の手を取って、そこにくちびるを落としたのだ。
 指先。
 指先から手のひらへ。
 手のひらから手の甲へ。
 手の甲から手首へ。
 なにが起こっているか、よくわからない。よくわからずに固まってしまった私をちらりと見ると、カルナはそのまま、手首を舐めた。

「…………っ!!」
「マスター」

 握られた手をそのままに、もう片方の長い腕が伸びてくる。抱き寄せられ、いつの間にか彼の白い顔が私の耳の横にあった。

「──」

 耳元でささやかれたのは、私の名前。いつもと変わらない自分の名前のはずなのに、とびきり甘く聞こえたのは、きっと気のせいではない。
 くちびるに覆いかぶさってきた柔らかい彼のそれを受け止めて、ああ、彼のくちびるも確かに熱を持っているのだと知る。


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