極彩色よ、さいわいの一年をかざれ


※たろさにアンソロ再録。名前変換なし


「一年間、あなたと過ごしてきて、人間のように暮らせるようになったこと。そして――」

 私の目の前でそう言葉を発する男は、最初に抱いた印象からはずいぶんと柔らかい目元になっていた。主である私の部屋は、私と男のふたりきり。触れ合った手は、真冬の張りつめた温度とは裏腹に、温かい微熱が伝わってくる。



 その男、太郎太刀と最初に出会ったのは冬だった。私が審神者になってまだ十日もたっていない頃、初めて私の本丸に来た大太刀が彼だった。春なんてまだ先の、冬の真っただ中の朝だった。

「おや……私は太郎太刀。人に使えるはずのない実戦刀です」

 太郎さんはそう名乗った。彼が手にしている本体はとても長く、刀身だけでも私の身長より高い。柄まで含めると、私が見上げるほどの身長の太郎さんよりも長かった。だから「人に使えるはずがない」なのだろう。なのに、実戦刀を強調するなんて。その怜悧な美貌とは裏腹に、実は負けず嫌いなところもあるのではないか、という印象を持った。
 私は簡単に自己紹介して、本丸を案内しようと鍛冶場を出ようとした。私に続こうとした太郎さんは、歩き出そうとして段差に躓いた。顕現したての刀剣男士にまま見られる光景だった。人間の体に慣れていないので、歩くという動作にも感覚がつかめずにいるのだ。思わず手を伸ばした。太郎さんも私の手を掴み、その場になんとか踏みとどまった。
 触れた手の、なんと冷たいことか。
 自分の手も、真冬の外気と冷え性のせいで冷えている自覚がある。触れた手はそれよりも冷たかった。まるで体温が感じられなかった。

(このひとは、このひとたちは、人間じゃないんだ)

 この時ほど、この本丸で衣食住をともにしている存在は人間ではなく付喪神なのだと実感した日はない。触れ合った手から温度が伝わればいいのに、と彼の手を握ってみたが、体勢を立て直した彼にそっと振り払われた。
 太郎さんの私に対する態度は、冬の冷たさにも似ていた。必要な時以外でこちらに接触してこず、私からの接触にも硬い姿勢を崩さなかった。ただ主の命令に従って、戦に出て日々の役割をこなす。本丸にいる分にはなんの支障もない過ごし方だ。だから、なにも口を出せない。
 この人のことを知りたいという気持ちはあった。今まで本丸に来た刀剣男士とは、ある程度接触を重ねて信頼関係を築いていた。最初はそれと同じ感情からくるものだと思っていた。 だが、前述の通り、太郎さんは私との接触のきっかけすら与えないような態度だった。臣下という意識は持っていないが、私が主という立場にいる以上は、必然的に刀剣男士は臣下という立場になる。その「臣下」という面で、太郎さんは申し分なかった。ある意味で、私を冷たく拒絶していた。
 雪の積もった地面と、雪が降ってくる白い空。一面真っ白い景色を廊から眺めている太郎さんは、切り取った絵のようだった。現実味がない。その風景を眺めている私の気配に気が付いたのか、太郎さんが私をゆっくりと振り返った。金の目に射られた私は、呼吸の仕方を忘れた。

「主、どうされましたか」

 低く平坦な声で話しかけられ、やっと息をする。早くなった鼓動と息苦しさで胸を押さえる。落ち着くのをしばらく待って、しかしその苦しさが抜けないことを知ると、私は唐突に気が付いてしまったのだ。

「ああ……好き、なんだ、このひとの……あなたのことが」

 目の前の男は、私がこぼしたつぶやきにも、表情を変えることはなかった。ただ少し、怪訝そうに首が動いた。



 鍛刀時となにも変わらない距離感のまま、春になった。本丸の庭の桜も花を開かせた。

「お花見でもできたら楽しいだろうなあ」

 気温が上がりそろそろ桜が開花するのでは、という頃に私が何気なくつぶやくと、周囲にいた刀剣男士がそれに興味を示し、あれよあれよという間にみんなでお花見をすることが決まった。
 私が初期刀の山姥切国広とともにここへ来てから、初めての宴会だった。本丸にある桜はそう多くないので、こぢんまりとした花見になると思うが、本丸に集まっている刀剣男士もまだ部隊を二つ分超えた数であったので、ちょうどよい規模かもしれない。朝から料理などを手伝って忙しなく動いていると、山姥切くんに呆れ顔で台所からほっぽり出された。こんな時まで働くな、と小言をもらった私は、庭に面している花見会場へと足を運んだ。そこでは縁側に腰かけた太郎さんが、静かに盃を傾けていた。私が静かに彼の隣へ腰かけると、私に視線を向けてから、また桜へと視線を戻したのがわかった。
 桜の下では、短刀たちが元気に走り回り、ほかの仲間たちも笑い合って遊びに興じている。よく晴れていて、風もそこまで強く吹かず、外で飲んで騒ぐにはもってこいの日だった。

「こういう宴会は苦手でしたか」

 仲間のみんなの様子を、ただ静かに眺めている太郎さんは、そこへは加わろうとは思っていないようだった。もしかして苦手だっただろうかと不安になる。

「苦手、なのでしょうか。よくわかりません。ただ……」

 うまく言葉が見つからないのだろうか。言いよどむ太郎さんを見ると、視線を空中に漂わせていた。

「桜を見ているのは、苦痛ではありません」
「……桜が好きなんですね」
「……好き」
「ずっと見ていても飽きないってことは、好きってことじゃないですかね」

 太郎さんは再び桜へと目を向けた。満開の桜は晴天の日光を受けて白く輝いている。青空とのコントラストがまぶしくて、私は目を細めた。

「あなたが以前私に言った好きも、同じ感情なのでしょうか」

 ぼんやりとしていた意識が冷や水を浴びたようにはっきりとする。隣を振り返り、なにを言われたのか理解するまでその顔を凝視した。彼はまっすぐに私を見つめ返してくる。

「同じ……じゃないですよ、とてもじゃないけど」

 ものに対する好きと、ひとに対する好きは違う。もっと言うと、ひとにも個人に向ける感情はそれぞれ違う。それをうまく言葉にできない。太郎さんに対する好きは、私の中でも言いようのない感情の渦だった。このひとに見てもらいたい、見ないでほしい、近くへいきたい、近寄りたくない。



 雨が降り続いた梅雨があけると、すぐに蒸し暑い夏がやってきた。毎日小雨がしとしとと降り続けるさまは風流ではあったが、いかんせん洗濯物がたまってしょうがない。重そうに雨粒を貯める紫陽花の葉を眺めてはため息をつく日々だった。本格的な夏に突入してからはそれが嘘のように晴天続きで、たまっていた洗濯物はあっという間に消化できた。一方で日中の日差しの強さと気温の高さに、内番で外の作業に当たっている刀剣男士たちは悲鳴を上げていた。熱中症にならないようこまめに休憩を取るように言って聞かせていたが、それでも作業を終えて本丸に帰ってきた彼らはぐったりとしている。無理もない。私だって一日外で畑作業をしろと言われたらげんなりする。
 夜になると、太陽が出ていない分少しは過ごしやすくなる。湿度が高いので涼しいということはなかったが、暑さに参ってしまう心配はない。
 現世に赴いたついでに花火を買ってくると、思いのほか好評だった。色とりどりに変化して散っていく火花を、刀剣男士たちは目を輝かせて見ていた。たくさん買ってきてよかったと思いつつ、お手洗いからみんなのいるところに戻る。途中、太郎さんに行き会った。というより、縁側から池のほとりを眺めている彼を偶然見かけた、という方が正しい。なにをしているのかと近寄り、視線の先を追うと、そこにはほのかに暗闇の中で光を放っている虫がいた。蛍だ。
 私の元いた現代では、蛍を実際に見ることはない。資料として、そういう虫がいたのだと知っているだけだ。この本丸で見ることができるなんて、と私は太郎さんの近くへ寄ると、声もかけずにその淡い光に見入る。本丸へ来て、初めての経験をするのは刀剣男士だけではないのが不思議だった。
 光ったり消えたりを繰り返している蛍を眺めていると、花火に興じる仲間の声がここまで聞こえてきた。

「太郎さんは、花火はしないんですか」

 太郎さんの顔を見上げると、暗闇に慣れた目には、いつもの無表情が映った。

「私が行くと、皆が心から楽しめないでしょうから」
「なに言って……そんなことない、というかみんな喜ぶと思いますよ」

 太郎さんの言葉を思わず早口で否定する。太郎さんは確かに先頭を切って遊んだり騒いだりするほうではないが、ほかの仲間がそれで太郎さんを嫌うということはない。真面目で責任感のあるふるまいや仕事ぶりから信頼も厚いのだ。太郎さんがなぜそんなことを思うのか原因がよくわからないが、それはまったくの見当違いであることをここで理解してもらわなければならない。

「少なくとも私は、太郎さんがいてくれると嬉しいです」

 訝るような視線を向けてきた太郎さんに向かって、はっきりと言い返した。以前にこぼれるように伝えてしまった、太郎さんへの好意も含めて言ったつもりだったのだが、彼には届いていないようだ。

「そうですか」

 とだけ返された。彼の心を揺らすことは、ここでもできなかった。それを心で理解すると、途端に悲しくなってきた。
 このひとにとって、私は単なる審神者でしかないのか。心を通わせるような人間ではないのか。
 目頭が熱くなってきた。じわりと目のふちを水分が濡らす。なんとかこぼれないように弱く瞬いたつもりだったが、一粒だけこぼれてしまった。夏の夜の蛍は、それを照らさない。



 秋には落ち葉を集めて焼き芋を作った。紅葉は盛りを過ぎて葉を落とし、処分に困っていた刀剣男士を見た私が、焼き芋でもすればいいんじゃないかな、といったのがきっかけだ。畑で獲れたさつま芋をアルミホイルでくるんで焼いていく。多少煙いけれど、刀種関係なくみんな初めての焼き芋にはしゃいでいた。
 ふと太郎さんの姿を目で探すと、やはり縁側に腰かけて皆を眺めている。用意したさつま芋は一人一本、ちゃんと太郎さんの分まであるのだが。
 私は焼きあがった芋を持って、太郎さんの元へと歩み寄った。いつものように隣に腰かけて、横からの怪訝そうな視線を無視する。芋を半分に割ると、真っ黄色の断面から蒸気が上がった。熱そうだ。

「はい、太郎さん。太郎さんの分はまだ焼けてないんですけど、一足先に」
「これは、主の分では」
「私食べるの遅いから、一本食べきる前に冷めちゃうんですよね。だから分け合いっこしましょう。熱いので気を付けてくださいね」

 といって、半ば強引に芋を押し付ける。太郎さんはなにか言いたげな視線を送ってきたが、私がそれを汲むつもりがないことを悟ると、あきらめたように芋の皮をむき始めた。

「おーい、こっち焼けたぞ!」
「これ、半生だった!」

 初めての焼き芋に四苦八苦しながらも楽しそうな様子を眺めつつ、少し冷めたところをかじる。なるほど、少し硬いかもしれないが、甘くておいしい。もう少し冷めるのを待つと、熱が通ってほくほくになるかもしれない。と思って太郎さんを見ると、口元を押さえていた。

「ど、どうかしましたか?」
「……っ、あつ……」
「ああ……焼き芋が熱かったんですね。大丈夫ですか?」

 冷まさないまま食べたのだとしたら、舌を火傷したかもしれない。太郎さんはこくり、と頷いたが、あとで冷たい水を持って来よう。

(そういえば、焼き芋をするのも食べるのも初めてだったな)
「太郎さん、焼きたてとか蒸したての芋は中がとても熱いので、息を吹きかけて冷ましてから食べるんですよ」

 こんな感じで、と私が手本を見せてやる。太郎さんは私の一連の動作を見ると、見よう見まねで芋を食べる。今度は口元を覆ったりはしなかった。どうやら、ちょうどいい温度に冷ませたようだ。

「おいしい?」
「……これがおいしい、というのかはよくわかりませんが、また食べたいと思いました」
「それが、おいしいってことですよ」

 前と同じようなやり取りだな、と笑いをかみ殺しながらそう言うと、太郎さんがじっと私を見返してきた。

「主も、焼き芋をおいしいと思いますか」
「私?」

 なぜ私のこと聞かれたんだろうと不思議に思いつつ、特に深く考えずに太郎さんの質問に答える。

「おいしいと思うし、好きですよ。太郎さんと一緒に食べてるから、さらにおいしく感じます」
「……私と一緒だとさらに、ですか」
「あ、えっと……す、好きな人と一緒に食べたり過ごしたり、それ自体が嬉しくて、特別になるから……だと思います」

 言っていて恥ずかしくなってしまい、最後のほうは尻すぼみになってしまった。隣の彼は、顔を赤くして顔を俯かせてしまった私を見て、また少し首を傾げたようだった。



 焼き芋をしてから数日後に木々に残っていた葉はすべて落ち、気温がぐっと冷え込んだ。雪が降るのではないかと期待半分不安半分に過ごすうちに、あっという間に年の瀬になる。任務をこなす傍らで大掃除をしていると、いつの間にか新年を迎えていた。結局雪は年が明けても降らなかった。
 そんな中、三箇日が明けて早々に政府から書状が届いた。

「新年会と審神者就任一周年の祝いを兼ねたパーティか」

 確かにそろそろそんな時期だ。しかし面倒くさい。去年の忘年会も任務が立て込んでいるので、とかなんとか言いつくろって断ったのは記憶に新しい。近侍を任せている太郎さんの目の前だったが、思わず愚痴をこぼす。

「大体、会議でしか顔を合わせない役人連中の相手とか嫌すぎる……仲のいい審神者たちは、たぶん私と同じで来ないだろうし」
「ですが、一年にそう何度もあるわけではありません。出席しては?」
「それは、そうなんですけど」

 太郎さんがめずらしくそんなことを言うものだから、先ほどまでの行きたくないモードが勢力を弱め、代わりに行ってみようかな、という気になってきた。
 太郎さんの言う通り、こんなパーティに呼ばれることなど一年に何度もあるわけではないし、一周年ももう巡ってこない。面倒だが、最初の今年だけ出席して、あとは欠席することにしてもいいかもしれない。

「そう……ですね、一年目で欠席すると後でなんか言われそうだし……せっかくなので出席することにします。太郎さん、すみませんが本丸のことよろしくお願いします。山姥切くんにも頼んでおきますけど」

 というと、太郎さんはこくりと頷いた。特に強敵が出たという知らせもなく、どこかの攻略に手間取っている状況でもないので、後を頼むといっても特になにもない。ただ夕飯の時間にいないというだけなのだ。しかし、私が本丸を空けるというのも珍しいことなので、なぜかみんなに見送られることになった。いや、重要任務に赴くわけじゃないんだけど、とこそばゆくなりつつ本丸をあとにする。
 パーティは予想に反せず退屈で、それでいて色々な人に挨拶したりと面倒であった。仲のいい審神者の姿も少なく、パーティ中は料理を胃に放り込みながら時間が早く過ぎるのを祈るばかりだった。料理はおいしかった。
 やっとお開きになって、私はすぐに会場を後にした。パーティ中は一周年のことや新年のことについてお偉い方々のありがたい言葉をもらった気がするが、正直なにひとつ覚えていない。料理がおいしかったことぐらいしか覚えてない。

「ただいま」

 と本丸の玄関をくぐると、広間で待っていたらしい刀剣男士たちが出迎えてくれた。その中には太郎さんの姿もあって、私はなんだか嬉しくなってしまった。単に近侍だから帰りを待っていたのかもしれないけど、それでも。

「なにか変わったことはありませんでしたか?」
「いいえ、これといって特に。皆、あなたの帰りを静かに待っていましたよ」
「そっか、よかった」

 報告を聞き終わって太郎さんが部屋から下がる。私は部屋着に着替え、ほっと一息つこうとした。なんだか疲れてしまった。だが、このまま休むと風呂にも入らず寝てしまうので、なんとか気力を振り絞って立ち上がった。

(なんか、気持ち悪い、かも)

 退屈まぎれに食べて飲んでいたせいか、おなかが苦しい。胸やけのような、消化不良のような。食べすぎだなと自分の中で結論付け、さっさと風呂を済ませてその日は床についた。
 しかし、気持ち悪さはその後も抜けなかった。布団に入ったはいいものの、まったく眠れない。絶えず吐き気の波が胃を襲い、それをこらえることで精一杯だった。
 まんじりともせずに夜を明かした私は、みんなが起きてくる時間になる前にトイレに立った。その時にはもう、ああこれは食べすぎではないなと自覚していた。
 しばらくしてトイレからなんとか出てきた私は、物音を聞きつけた山姥切くんと、その山姥切くんが呼んだであろう薬研藤四郎に支えられて自室へと戻った。薬研は途中でほかの刀剣男士を捕まえて色々必要なものを持ってくるように言いつけていた。

「一応、整腸剤を出しておくが、効かないようならすぐに病院に連れていく。どうやら熱も少し出てきたみたいだし。大将のことは俺っちたちが看てるから、ゆっくり休んでくれ」

 薬研の低い声が聞こえてくるが、声を出すのも頷くのも億劫で瞬きだけを返した。それでも薬研は私の意を汲み取ってくれたらしく、大きく頷き返してくれた。
 整腸剤やら解熱剤やら、薬研が渡してくれた薬を飲んでしばらく休んでみるも、一向に症状は改善しなかった。熱はむしろ上がる一方だった。薬研はすぐに病院に連絡をするように山姥切くんに指示を出した。

「寝間着のまんまで恥ずかしいかもしれねえが、悠長に着替えてる時間もなさそうだしな、我慢してくれ。おい旦那。見てないで大将を運ぶの手伝ってくれるとありがたいんだが」

 薬研の声で薄く目を開けると、部屋の隅で太郎さんが立っているのが見えた、表情はよくわからなかったが、なにか落ち着かない様子だった。
 私の意識があったのはそこまでで、あとはうっすらとしか記憶にない。私は病院まで運ばれ、そこでも一度胃の中のものを吐き出した。医者と看護師が私の周りでなにやらしゃべっていたが、私はそれになんと返したかまでは覚えていない。そもそもちゃんと受け答えできていたのかも定かではない。
 次に目が覚めると、いくらか症状は軽減されていた。そばには薬研が付き添ってくれていた。薬研の説明によると、どうやら食中毒とインフルエンザが重なってしまったらしい。それは薬が効かないわけだ。完全に快復するまで入院を言い渡された。本丸に帰ったところでまた症状がぶり返しては手間がかかるだけであるし、帰ったら帰ったで落ち着かずに仕事をするだろう、との初期刀の判断らしい。そんなに仕事熱心な自覚はないが、確かに一日寝ているのは性に合わない。本丸を空けるのは心苦しいが、この際は仕方ない。
 食中毒もインフルエンザも、正しい対処法をとっておとなしく医者の言う通りにしていれば、そんなに長引くことはない。ましてや、私はまだ体力がある年齢だ。ほどなくして症状が改善した私はすぐに退院が決まり、一週間ぶりに本丸へ帰ることとなった。
 迎えに来てくれた山姥切くんとともに本丸の玄関をくぐると、待っていた刀剣男士たちに一斉に出迎えられた。みんな口々に、おかえり、心配した、すぐに治ってよかった、と言ってくれた。一人一人に謝ったり礼を言っていると、みんなから離れたところに立っている太郎さんの姿が目に入った。その表情はやはり無表情で、私に向ける視線もなにひとつ変わっていないように見えた。
 みんなが集まった広間で改めて帰還の報告をした後、自室に戻ろうと廊下に出る。近侍の太郎さんが当たり前のように私の後ろを歩く。近侍だから、私の不在の間の報告をするつもりなのだろう。一瞬、私を心配してくれたのか、と淡い期待がよぎったが、すぐに自分で打ち消すこととなった。少しだけ胸が痛くなった。

(太郎さんは別に、私が好きだとか特別に思っているとか、そういうんじゃないのに)

 胸の痛みに言い聞かせるが、逆効果だったようでますます胸は痛み、さらに悲しくなってきた。
 私が太郎さんを好きと唐突に自覚して告白して、もうすぐ一年がたつ。その間に、私と太郎さんの関係が変わったということもなく、告白に対してはっきりと反応を返してくれたということもない。これは、彼の中でなかったことになっているのではないだろうか。
 だめだ、これ以上考えると自分で自分を再起不能にしてしまう。首を振って思考を打ち切ると、自分の机の前に座り、太郎さんを振り返った。太郎さんへ座布団を勧めると、失礼します、と小さく言ってから座った。

「太郎さん、先ほども言いましたが、入院中はありがとうございました。なにか変わったことはなかったですか」

 向かい合って、改めて彼の表情を見ても、変わりない無表情だった。やっぱりな、と思う一方で、どうしても期待をしていた自分がいて、また少し胸が痛んだ。懲りない心だ。

「いいえ、特に日々の任務に支障はありませんでした」
「そうですか……山姥切くんも太郎さんも、お疲れ様でした。長い間不在にしてすみません」

 と言って頭を下げた。頭を上げたときには、彼の表情がほんの少し変化していた。視線をさまよわせて、口を薄く開いては閉じている。なにか言いたいことでもあるのだろうか。

「どうかしましたか? やっぱり、私がいない間なにかあったんじゃ」

 私が太郎さんの言葉を促すと、彼は逡巡したような間を置いてから、歯切れ悪く語りだした。

「……本丸に、支障はありませんでした。確かに……」
「……?」
「私は、主が……あなたがいない間、ここに空虚な感覚が常に……まるで、胸に穴が開いてしまったかのような……」

 太郎さんらしくもなく、まるで要領を得ない言葉だった。けれど意味は伝わってくる。ここに、と自分の胸を指す様子を私は呆然と眺めていた。言葉を探りながら、彼は続ける。

「あんなにも色づいていた景色は色あせて見え、冬の、四季の温度を感じていた肌はなにも感じず、食事は味がよくわからなくなりました。……あなたがいなくなってからです。――気づいてしまった」

 なにを、と視線だけで先を促す。太郎さんはゆっくりと顔を上げ、私を見つめ返した。金色の目が、どこか不安げに揺れていた。

「私が感じていたものはすべて、抱いていた感情はすべて、あなたに教えてもらったものだと。そしてそれらは、あなたがあってこそのものだった」

 私は呼吸の仕方を忘れたように息を止めていた。あの時と同じように。太郎さんへの思いに気づいたあの時と、一年前と同じように。太郎さんと私だけが切り取られたように、世界にふたりしかいないかのように感じる。

「主、教えてください。あなたへの感情は、あなたがなくてはならないと思うこの気持ちは、好きという感情なのでしょうか。あなたが私に伝えてくれた気持ちと同じなのですか」

 正直に言うと、私は混乱していた。ついさっきまで、太郎さんは私のことなどただの主としてしか見てないんだろうなと思っていたところなのだ。それが本人の口から覆されたのだ。しかも自分が心の奥底で願っている形で。
 いつの間にか太郎さんの手を取っていた。触れられる距離にまで近寄って、膝上にあった彼の大きな手を握っていた。

「太郎さん、正直今混乱していまして」
「はい」
「言ってることとかやっていることがめちゃくちゃだったら、言ってください。よくわからないって」
「はあ」
「太郎さん……こうして、私と触れ合ったら、嬉しいですか?」
「……?」
「もっと触れたい、いつまでもこうしていたいって思ったら……それは、私と同じ感情です、太郎さん」

 太郎さんの手は大きくて、私の手では覆いきれない。両手で触れてみる。白くて細く見えるけれど、こうやって実際に触れてみると、ごつくて骨ばっていて硬い。じんわりと太郎さんの手から伝わってくる微熱が、これが現実なのだと認識させた。とくとく、と自分の心臓の音も、少しずつ聞こえてくるようになる。

「そう、ですか……これが、ひとを好きになるということなんですね。確かに、あなたが以前言ったように、桜が好きというのとは違いますね」
「……覚えててくれたんですか」
「ええ、覚えています。あなたがこの一年、私を好きになってくれて、私にくれた言葉はすべて」

 というと、太郎さんは目元を柔らかく崩した。それだけで無表情の冷たい印象がなくなる。

「あなたと出会ってから、たった一年のことなんですね。だというのに、私を今満たしているのは、その一年の間のことばかりなんです。一年間、あなたと過ごしてきて、人間のように暮らせるようになった。そのことになんの意味があるのかと考えたこともありました。ですが……なににも代えがたいあなたと、あなたへの思いを得たことは、今まで在った時間の中で、ひときわ私を満たしているんです」
「太郎さん……」
「今からでも手遅れでなければ……あなたが、まだ私を見限っていなければ。あなたの好きという感情を、どうか私に向けてください。私のこの感情を、どうか導いてください、主」

 私の手を、いつの間にか太郎さんの両手が包み込んでいた。心地よく伝わる微熱は、彼の言葉を理解するにつれて、より熱く感じられた。
 私だって同じだ。太郎さんと出会ってからの一年は、嬉しくて苦しくて、楽しくて、色にあふれて私を満たしている。その心に届いてないと、この言葉は意味をなしてないのだと何度も心を冷たくしたけれど。届いていたのだ。意味はあったのだ。
 言葉にならずに、ただ首を縦に振ることしかできなかった。彼はそれでも、ほっとしたように息をついた。

「これからあなたと過ごす一年は、どんな一年になるのでしょうね」

 新しい年を迎えて、もうすぐ太郎さんと出会って一年。雪はまだ降らないが、そのうち気まぐれに空と庭を白く染めるだろう。
 私たちの一年を白からはじめて、それから何色を足していくのだろう。
ふたりならきっと、これまでの一年よりもあざやかに。



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