太郎さんに○×したい!


※名前変換ありません
※2016年1月に完売したたろさに本の再録です。



 あれはまだ夏になる前のこと。審神者になった私のもとに一振りの大太刀がやってきた。

「私は太郎太刀。見た目の通り、とても人間には使えるはずのない大きさで、それ故に奉納された刀です」

 腰までまっすぐに伸びた黒い髪を、ひとつにまとめている青年。顔立ちがとても整っていて、美しい、麗しいという形容がぴったりと当てはまる。なにより目を引いたのは、朱で囲まれた目元。切れ長で涼やかな目元の真ん中にあるのは、この世のものでは到底出しえない、金色の目。その瞳に思わず見入ってしまう。金色の目をした刀剣男士は、この本丸にほかにも数人いるのだが、ここまで澄んだ瞳を見るのは初めてだった。先ほど彼が自己紹介したように「御神刀」だからだろうか。俗っぽいものがまるで感じられないその目は、この世のなにものも映してないかのような錯覚に陥る。
 鍛刀場に静かに響いた彼の声は、鈴のように澄んでいた。その声で私は正気に戻った。後々思い返すと、この時は太郎さんを目の前にして平静を失っていた。
 それはともかく、気を取り直した私も自己紹介するべく、頭の中で言ううべきことをまとめる。太郎さんは私が惚けているので、ちょっと首をかしげていた。可愛い。

「あ、は、初めまして。審神者をやっています。今日からあなたの主になります。主といっても直接あなたを振るったりはしないんですけど」
「はあ」
「え、えーっと、よろしくお願いします」

 あ、とか、え、とかどもりまくりのコミュ障全開の自己紹介になってしまった。しかも頭の中にまとめたわりに、全然要領を得ない。太郎さんの反応も案の定芳しくない。なに言ってんだこいつ……と思われてもおかしくない。

「……あなたが私の主、ということでよろしいのでしょうか」
「あっ、はい」

 太郎さんの問いに慌てて頷くと、太郎さんはそれだけ聞ければ十分といったように頷き返してくれた。太郎さんの首の動きに合わせて、絹糸のような黒髪がさらさらと揺れる。鍛刀場の窓から入ってくる光に照らされて艶めいているそれに見とれていると、太郎さんがまた首を傾げた。可愛い。

「あの……なにか?」
「あっ、ごめんなさい、不躾にじろじろと……」
「いえ……」
「きれいだったからつい見とれちゃって……」
「え?」

 あ、と口を覆った時には時すでに遅し。私の惚けた声がしっかりと太郎さんの耳に入っていた後だった。やばいこれは絶対変な女だと思われた、と冷や汗をかいてみても現実は変わらない。太郎さんは怪訝そうな顔で私を見ている。苦しくても今言い訳しなければ、この先太郎さんは私との付き合いに距離を置いてしまうだろう。もう距離が空いている気もするけど、まだ会ったばっかりなのだから縮められると思いたい。

「あ、いや、すみません、別に変な意味とかないですから」
「変な意味とは……」
「えっと、ただ単純に太郎さんがきれいだなあと思っただけでして……なんというか、きれいな人とか可愛い人とかかっこいい人とか、刀剣男士のみんなはとても整った容姿の人らばかりなんですけど、太郎さんは……一層この世のものとは思えないような感じで……人に対するきれい、とは違うと思ったんですよね」

 自分でなにをしゃべっているかよくわからなくなってきた。自分の中の語彙が全然出てこない。なんと表現したらいいかわからない。頭を最大限に働かせて言葉を重ねるが、太郎さんはやはり、なに言ってんだこいつ、という顔をしていた。うん、自分でもそうなんだから、ほかの人からすればなおさらだ。これでも今すごく頭を使ったんだけど。

「……よくわかりませんが、それは私の由縁からすれば、当然のことだと思います」
「そ、そうですね。なんかよくわからないことしゃべる奴だなと思われたかもしれませんが、これからよろしくお願いします」
「はい」

 太郎さんが元の無表情で頷くのを見て、私は立ち上がった。とりあえず、この本丸を案内して、いろいろな説明をしなければいけない。近侍の山姥切くんも生暖かい視線を送ってきていたけど、私が立ち上がると表情を元に戻した。なんだその目は。なにやってんだ、は自分でも思ってるからそんな目で見ないでほしい。
 鍛刀場から出て本丸の母屋に向かおうとすると、背後から鈍い音が聞こえてきた。振り向くと、太郎さんが額を押さえていた。出入り口の鴨居が低いから額をぶつけてしまったのだろう。

「だ、大丈夫ですか……?」
「大丈夫です……」
「でも結構大きい音だった気が」
「大丈夫、です」

 太郎さんの表情は先ほどと変わらなかったが、声が明らかに震えていた。たぶん今頃じーんときてるはずだ。刀剣男士なので、手入れをすればどんな傷でも治る。だが、痛みはひとの体と同じようにあるはずだ。隣の山姥切くんだって、足の小指をぶつけて苦しみ悶えていたこともある。私は人間だから別に隠さなくてもいいのに。鍛刀早々に頭をぶつけてやせ我慢する太郎さんが、なぜだかとても可愛く思えた。

「可愛い……」

 と思わず声に出していた。太郎さんが怪訝な顔をしている。怪訝というよりも、戸惑っているようだ。可愛いと言われたことに、どう反応していいかわからないのかもしれない。そりゃそうだ。今まで刀として奉納されていても可愛いなどと言われたことはないだろうし、太郎さんの体格や顔の造形から見ても可愛いとは離れている。おそらく太郎さんを可愛いと形容したのは私が初めてだろう。

「太郎さん、可愛いです」
「はあ……主、出会ったばかりで大変失礼だと思いますが、主は少々……いえ、とても変わった方ですね」
「えっそうですか?」
「はい。私には理解しがたいことばかり言われます」

 もう額の痛みが治まってきたのか、太郎さんが額から手を下して姿勢を正した。その表情も元の無表情に戻ってしまい、私は少し残念に思った。太郎さんの色々な表情をもっと見たい。そんな表情をさせてあげたい。私はそう思うのを止められなかった。
 思えば、これがきっかけだ。太郎さんにいろんな手段で構うようになったのは。

 これは、審神者の私と太郎太刀さんの日々をつづった記録である。「太郎さんにもっと色々な表情をさせたい」という目的の元、太郎さんに体当たりでぶつかっていく私、それをあしらう太郎さんの──。



◇太郎さんのポニーテールにくるまって窒息したい!

 太郎さんのチャームポイントのひとつといえば、直毛できれいな黒髪のポニーテール。これに触りたいと思う審神者は大勢いるだろう。かくいう私もその大勢の一人だ。そのポニーテールに触りたい、というか私がポニーテールに結ってあげたい。あわよくばそのポニーテールにくるまって窒息したい。ここまで太郎さんが好きな審神者あるあるだと思う。
 問題は任務遂行までの手段だ。太郎さんは幸い身長が高いから、物陰に潜んでいれば私のことには気が付かないだろう。
 こっそり後ろから近寄ってポニーテールを触るのは、おそらく簡単にできる。ただ、それにくるまるというのは少し難しい。まず、髪を必要以上に引っ張ってしまわないように立ち止まっている、あるいは座っている状態で実行しなければならない。立ち止まっている状態はなかなかない。本丸にいる間は内番などで働いていることが多いので、立ち止まっていたとしても、いつなんどき動き出すかわからないのだ。タイミングが悪ければ、髪に触れた瞬間に太郎さんが動いて、意図せず太郎さんのポニーテールを引っ張ってしまった……ということになりかねない。座っているときもなかなか難しい。太郎さんは一人でいるときは、大体割り当てられた自分の部屋にいる。その部屋に忍んで、後ろから太郎さんのポニーテールを触るなど至難の技だ。自室にいない時は、ほかの刀剣男士と一緒にいることが多い。弟の次郎さんだったり、同じ大太刀の蛍丸や石切丸だったり、短刀たちだったり。太郎さんは意外と人気者なのだ。
 誰かといる時にポニーテールで窒息というのは、いくら何でも私の主としての矜持が許さない。別に立派な主であろうとしているわけでも尊敬されたいわけでもないけど、奇行をする変人とは思われたくない。それは主としてというより、ひとりの人間としてのプライドかもしれない。
 となると、やはり太郎さんが一人の時を狙って突撃したほうがいいかもしれない。自室にいる時は、もうあきらめて太郎さんの部屋に真正面から訪ねていって、堂々と「髪に触らせて」とお願いするしかない。太郎さんも鬼ではない、真摯にお願いすれば、断りはしないだろう。困惑するかもしれないが。
 そう考えた私は、太郎さんが出陣も遠征も、そして内番もない完全な非番の日に、太郎さんの部屋に行くことにした。普段、審神者の私が刀剣男士の私室にいくことはあまりない。というか数えるほどしかない。それも、近侍の山姥切くんや、本丸の家事を取り仕切っている堀川くんのもとに行ったことしかない。太郎さんの部屋への道すがら、誰かに行き会ってなんでここに、と問われないかどうか内心びくびくしながら歩いていたが、幸いなことに誰ともすれ違わなかった。よし、今日はついてるぞ。今日ならこの計画もうまく実行できるだろう。
 太郎さんの部屋の前に立って、声をかける前に深呼吸する。緊張する。太郎さんになんの用かって聞かれたらこう答えるとか、部屋に入るのを断られたらどうしようとか色々考える。いかん余計に緊張してきた。

「私になにか御用でしょうか」
「わあぁぁ!」

 私が緊張できりきりする胃をさすっていると、いきなり太郎さんの部屋の障子が開いた。奇声を上げて驚く私を、やはり変な生き物を見る目で見下ろしている。

「び、びっくりした……太郎さん、驚かさないで下さいよ」
「すみません、驚かせたつもりはないのですが」
「心臓が口から飛び出るかと思いましたよ……」
「はあ……それで主、私になにか用があってこちらへ来たのでは」
「そうでした。ここではちょっとあれなので……お部屋にお邪魔してもいいですか?」

 勇気を出して部屋に入りたいことを伝えると、太郎さんはじろりと私を見下ろした。とても威圧的に見えるけれど、それは太郎さんの身長と、人間離れした金色の瞳のせいだと思いたい。私の発言の裏を読んでるわけじゃないと思いたい。

「ここではいけませんか」
「あっ、はい。できればお部屋で……人に聞かれたくないので……」

 と、大嘘をつく。うそをつくことが後ろめたくて視線を泳がせてしまう。だが、それが太郎さんには、周囲に人がいないか確認しているように見えたようで、「どうぞ」と私を部屋へ招き入れた。
 ありがとうございます、とお礼を言いながら部屋へ入る。ああここが太郎さんの部屋かあ、と別の感慨に浸りながら、太郎さんが用意してくれた座布団に座る。

「それで」

 太郎さんが短く本題を促してくる。はい、と返事をして、私は唾を飲み込んだ。

「太郎さん、最初にお願いがあります。これからなにも言わずに私の言う通りにしてください。あ、これは主の命令とかじゃなくて、あくまでお願いなんですけど……」
「は?」

 案の定太郎さんが素っ頓狂な声を上げる。だが、ここでひるむわけにはいかない。お願いします、という思いを込めて太郎さんを見つめる。それを受けて、太郎さんは腑に落ちない様子だけど頷いた。

「ありがとうございます。じゃあまずは私に背を向けてください」

 太郎さんは私の言う通り、なにも言わずに後ろを向いた。かなり戸惑った様子だったが、ここまで来たらもう後は野となれ山となれ、だ。

(このチャンスを逃す手はない……!)

 私は息を深く吸い込むと、太郎さんのポニーテールにそっと触れた。太郎さんは少し肩を動かしたが、私がお願いした通りになにも言わなかった。それをいいことに、私はじっくりと髪を堪能する。
 真っ黒な直毛はハリがあってつやつやだった。椿油かなにかをなじませているのかもしれない。手触りを両手で堪能した後、鼻を近づける。共用のお風呂に置いてあるシャンプーの香りがする。思わずくらくらとしてしまい、目を閉じて眩暈をこらえた。

(これが、女の子のいい匂いに耐える男子の気持ちなのかな)

 なるほどこれはたまらん。女の子っていい匂いするよなぁ……といいたくなるその心理がようやく理解できた。一生理解できなくても別に困らないが、今はすごく男子と握手を交わしたい気分だ。
 この後だ。髪にくるまりたい。その欲望を満たすために、私は太郎さんの背中ににじり寄った。太郎さんの頭に疑問符が飛び交っている気がしたけど、気のせいだと思うことにした。非情な主ですまない。
 太郎さんのポニーテールを持ち上げると、毛先から順に自分の顔に巻き付けた。太郎さんの肩が大きく動いた。時間がない。私は口元を太郎さんの髪で覆い、それから思いっきり息を吸い込んだ。ああ、この窒息感だ。たまらない。

「主、いったい何を……」

 困惑の頂点に達した太郎さんが問うてきた。だが私はそれに答えるどころではない。今は一秒でも長く、この倒錯的な窒息感に酔いしれていたいのだ。何度も言うが、非情な主で本当に申し訳ないと思う。だが気になって仕方ないのだ。太郎さんの揺れるポニーテールを見るたびにうずうずしてしまう。今日ここでこの欲望を発散しなければ夜も眠れない。というかそもそも今は口を開けられない。
 私がなにも答えずにいると、太郎さんがこちらを振り返ろうとした。私がなにをやっているのか直接見ようというのだ。やばい、このままだと太郎さんのポニーテールが引っ張られてしまう。どうする、と焦ったその時だった。

「兄貴、暇なら酒盛りに付き合ってくんない? …………ってあんたたち、なにしてんの……?」

 障子の開く音とともに、ハスキーな声が部屋に響いた。次郎さんが酒瓶を片手に持って、部屋に入ってきたのだ。そして、部屋の現状を目にして、口をぽかんと開いたまま動かなくなった。私は慌てて太郎さんの髪を自分の顔からほどいた。

「じ、次郎さん……! 部屋に入ってくるときはちゃんと、障子を開ける前に声をかけなきゃだめですよ」
「え、うん、うん? あのね、そりゃ声かけるの忘れてたアタシも悪いけどさぁ。急に開けられちゃ困るんだったら、ちゃんと不在の札でも部屋の前にかけておきなよ。ていうかさっきのなに」
「えっ……さっきの……とは」
「さっき兄貴の髪にくるまってたじゃん」
「わー! 次郎さん言わないで! 事情話すから!」
「主……」

 大声を出したが時すでに遅し。次郎さんによって、先ほど太郎さんに私がなにをしていたのかを暴露されてしまった。太郎さんの呆れたような声で彼を振り返ると、声の通りの表情をしていた。理解できない、というようにこめかみを揉んでいる。
 にへら、と愛想笑いを浮かべてみたが、状況が変わるわけがなかった。



◇太郎さんの匂いを堪能したい!

「うう……ひどい目にあった……」

 私が太郎さんのポニーテールにくるまっているのを目撃されてから、三日たった。あのあと次郎さんからお説教を食らってしまった。次郎さんの説教はまだいい、短いからだ。そのあと事情を知った近侍で初期刀の山姥切くんに、小言のラッシュを食らってしまったのだ。初期刀なので人一倍彼は私に厳しい気がする。その分近侍としてこの本丸を支えてくれているのもわかっているのだが、それにしたって厳しい。もっと上に立つ者の威厳を意識しろ、みっともない真似をしてほかの者に立つ瀬がない、変態を主に持ったと皆に知れたらどうするつもりだ。彼の説教を要約するとこういうことらしい。二つ目までは割と言われることが多かったのでわかるが、最後のはなんだろう。変態とはこれいかに。私はただ太郎さんのポニーテールが気になっただけだ。
 と言い訳をしても、

「髪にくるまってそれで窒息したいというのは、どう考えても普通じゃないだろう」
「まあ変態っていうか、特殊な性的嗜好になるのかねぇ」

 と近侍と次郎さんに言い返されてしまった。冷静な分析ありがとう。おかげで太郎さんの私を見る目が一層冷たくなったよ。
 そして罰として私に下されたのは、三日間の謹慎だった。私は三日間も自室としている離れから出られなかったのだ。もちろんトイレと風呂は母屋のほうで済ませていたけれど、その間山姥切くんが私を見張っていた。トイレと風呂を刀剣男士とはいえ異性に見張られるなんて、とんだ羞恥プレイだった。もちろんその三日間は太郎さんには会えなかった。太郎さんだけじゃなくてほかの大部分の刀剣男士たちにもだ。淋しかった。
 だけど私は転んでもただでは起きない。もうしません、と太郎さんや山姥切くんの前で誓った言葉を違える気はない。だが、かといって私は自分の願望をかなえるために努力しなければならない。要するに、次にやるときはもっとスマートに、ほかの人にばれなければいいのだ。できれば太郎さんにも気づかれない完全な任務遂行を。その決意を胸に、私は次の目標を立てた。
 謹慎が明け、三日ぶりに太郎さんを見た瞬間に、次の目標は決まった。

(はあ太郎さん素敵だな……髪があんなにいい匂いしてたなら服とかも絶対いい匂いしそう……)

 そう、次の目標は「太郎さんの匂いを堪能するために太郎さんの脱ぎたての服を失敬したい」だ。
 私はその任務遂行のために、まず綿密な計画を練った。過去の失敗を繰り返してはならない。誰にも目撃されず、誰にも邪魔されない計画を。
 太郎さんの服、それも脱ぎたてとなれば、お風呂に入るとき、起床して着替えるときか。起床時の着替えは人が多い上に、刀剣男士の私室へ主の私がその時間に行くのは不自然だ。となると、お風呂に入るときだ。私はみんなの出陣・遠征・内番の予定表を、目を皿のようにして見ながら、どこが一番ねらい目かを考えた。
 刀剣男士がお風呂に入る順番は、私が考えているわけではない。その日の出陣から帰ってきた部隊、遠征部隊、内番組、翌早朝から遠征に出るもの、そして完全な非番だった刀剣男士で、なんとなく風呂の順番を譲り合いながら入っていると、近侍の山姥切くんから聞いたことがある。本丸は集団生活をするための場所なので広い。だが、さすがに刀剣男士が同時に何人も入れるほど広い風呂ではない。四、五人で入り、上がったものはまだ風呂に入っていないものに声をかける、というシステムになっているらしい。だから、最初に入浴する組以外は、いつ次に風呂に入りに来る刀剣男士が風呂場に来るか、予測が立てづらい。最低限、遠征部隊が帰還する予定ではない日を選ばないといけないだろう。
 どの服を失敬するのか、私の中ではもう答えが決まっている。内番をこなした後の服だ。出陣した後の服は、たとえ太郎さん自身が無傷であっても、時間遡行軍の返り血などで結構鉄臭いのだ。できれば血の匂いが付いていない、純然たる太郎さんの匂いを嗅ぎたい。
 となると、太郎さんが内番で、遠征組が帰ってこない日。プラス、できればその日の出陣先が、帰還まで少し時間のかかりそうなところ。まあこれはある程度出陣先を変更できるから、優先順位は低めだ。
 そうして日を絞っていくと、ちょうどいい日を見つけた。約一週間後だ。私は思わず、小さくガッツポーズをした。

(決戦に備えて、それまではおとなしくしてなきゃね……反省したっていう姿勢を見せておかないと、太郎さんは私に警戒したままだ……)

 謹慎が明けてから太郎さんに会うと、まず少し身構えられたのがショックだった。なんでそんな身構えるんですか、と聞くと、

「あんな不可解なことをされたら、身構えるのは当然でしょう。現世のことはよくわかりませんが、あのようなことをする主は変わっている、ということだけはわかります」
「不可解ですか? 私としては、太郎さんが大好きだからその髪に触りたいなって思っただけなんですけど」
「触りたい、までは、まあわかります。ですが、そこからなぜ髪を口元に巻き付けて窒息感を味わうという行動になるのでしょうか……」
「あ、そこですか……確かに、太郎さんはまだ人の体を得てから日が浅いので、わかりづらいかもしれませんね」
「この先何年たとうと理解できる気がしません」
「はっはーん、太郎さん好きな人とかまだいないんですね? じゃあまだわからないかもしれませんね」
「今主が言った通り、顕現して日が浅いので」
「私を好きになっても……いいんですよ……」
「は?」

 このときの太郎さんの顔は忘れられない。あまり表情を大きく変えたりせず、いつも冷静で静かな太郎さんが、狂人を憐れむような顔をしていた。そんな表情は、当然ながら今まで見たことがなかった。私の言ったことを的確に理解しているけれど、なに言ってんだこいつ、の意味で聞き返していた。さすがの私でもショックだ。
 そのようなやりとりがあったことからも、太郎さんが私を警戒しているのは間違いない。その警戒を、一週間後の決戦の日までどこまで緩ませられるかが、今回の作戦の重要な点だ。いい子にしてるから早く油断しよう、太郎さん。
 そして一週間後。時は来た。私は意味もなく早起きした。それだけ楽しみにしていたということだろう。この日のために、今日の出陣部隊の編制と出陣先を変更している。やたら真剣な表情で、そのことについて山姥切くんと話していたところを太郎さんは目撃しているので、油断もそこそこしているはずだ。遠征部隊も、昨夜遠征の目的地に到着したとの通信が入った。今日中に帰還してくることはない。太郎さんは朝食が終わった後、内番の畑仕事に出ている。計画通りだ。
 作戦はこうだ。

一、 内番が終わった太郎さんが戻ってくるのを出迎えて、「今日も暑かったでしょう、夕飯前にお風呂に入って汗を流して来たらどうですか? 出陣部隊もまだ帰ってきてないので」と伝え、内番勢を風呂に入らせる。
二、 そして、脱衣所に人がいなくなった頃合いを見計らい、脱衣所にある洗濯籠から太郎さんの服を失敬する。
三、 匂いを堪能した後、太郎さんがお風呂からあがってくる前に服を籠に戻す。

 完璧だ。どこをとっても抜けがない。これなら誰にも見つかることなく任務を遂行できるだろう。
 ただし油断は禁物だ。餌(太郎さんの汗の染みついた服)を目の前にして、気を急くようなことはあってはならない。明鏡止水のような心で任務に取り掛かるのだ。
 任務の決行は、内番が終わる夕方。その日の担当や作業内容にもよるが、大体夕飯の支度がまだ済んでいない頃に作業を終えて帰ってくる。それまでになんとしても私は自分の仕事を終わらせなければ。近侍の山姥切くんを伴って、いつも以上に真剣に審神者の仕事に取り掛かった。いや、いつも仕事を溜めないように、その日にできる仕事はできる限りしているけども。
 山姥切くんに変に思われないように、いつも通りを装って、なんとか夕方までには仕事を終わらせた。というか出陣部隊が帰ってきていないから、その部隊の報告を待って報告書を仕上げなければいけない。だから厳密には仕事はまだ終わってないが、現時点でできる限りのことはやった。これで内番勢を出迎えても文句は誰も言うまい。私は机にかじりつきっぱなしで凝り固まった肩をほぐすと、母屋のほうへ向かった。
 食事当番の刀剣男士たちが、夕飯の支度でせわしなく手を動かしている中、私はお茶をもらいに厨房へ顔を出した。本丸に顕現して以来、厨房で包丁を握る姿がすっかり板についている歌仙兼定さんが、私を一瞥する。お茶、と口を動かすと、無言で広間のほうを指でさされた。広間にお茶セットとお湯が入ったポットがあるから、という意味らしい。こわい。夕飯の支度中邪魔してすみませんでした。
 広間では、作業の合間やおやつ時などに、各々休憩をとってお茶を飲んでいる刀剣男士の姿を見かけることがある。私は普段離れにいるけれど、午前中は鍛刀や刀装づくりの時間で、母屋とは別棟にある作業小屋と母屋を行き来することが多い。おやつも堀川くんが離れの部屋に持ってきてくれることがあるけれど、たいていは気分転換も兼ねて自分でもらいに行って、広間で刀剣男士と一緒におやつを食べる。堀川くんが部屋までおやつを持ってきてくれるのは、よっぽど仕事が立て込んでいるときぐらいだ。今日のおやつは主権限で常備されているチョコパイだ。おいしい。しかしこのお菓子は高いので歌仙さんが特売の時にしか買うことを許してくれない。限られた食費内で、食材にこだわる歌仙さんは、絞れるところは絞りたいらしい。いいじゃないかチョコパイ。そういう歌仙さんだって高い上生菓子を買ってきてるのに……上生菓子おいしいけど。
 今日の広間は誰もいない。出陣と遠征、それに内番で出払っているのだ。近侍の山姥切くんは作業小屋のほうの様子を見てくる、といって厨房に顔を出す前に私と別れている。一人だと少し淋しいが、静かで落ち着く。静けさの中で、少しだけもれ聞こえてくる厨房からの物音を聞きながら、ゆっくりとお茶の時間を楽しんだ。夏だから冷えたお茶でもいいが、私はお菓子をいただくときは熱いお茶のほうが好きだ。だから、暑くても熱いお茶を飲んでいる。
 誰もいないので、ついだらけた姿勢でいると、玄関のほうから数人の話声が聞こえてきた。内番勢が帰ってきたようだ。よし、と私は気を引き締める。任務開始だ。
 私は姿勢をもとに戻し、何食わぬ顔でお茶をすする。足音が近づいてきて、内番勢が広間へ顔を見せた。私がいることに少し驚いている面々に、お疲れ様と声をかける。その面々には太郎さんもいる。

「今日も暑い中お疲れ様でした。出陣部隊はまだ帰ってきてないので、今のうちにお風呂で汗を流してきたらどうかな?」

 太郎さんがこの本丸に顕現したのは夏に差し掛かろうという頃だったが、今は夏真っ盛りだ。今日はまだ雲が出ているが、晴れていて相変わらず気温は高い。馬の世話も畑仕事もさぞ疲れただろう。本当にお疲れ様である。
 私の言葉は特に不自然ではない。内番勢は、口々に暑いと言いながらお風呂場へと向かっていった。計画通りだ。太郎さんの揺れる黒髪を見送りながら、私は誰にも気づかれないように笑みを殺した。
 彼らが風呂に向かって十数分たった。私は周囲の人気に目を配りながら広間を出た。幸い、周囲には誰もいない。今がチャンス。音を立てないように、早足で風呂場に向かう。
 私と刀剣男士では使う風呂が違う。女の審神者も少なくないので、審神者用と刀剣男士用で分けられて本丸は作られているのだ。どの審神者がどの本丸に配置になってもいいように、すべての本丸がそのように設計されていると聞いている。しかし、男の審神者は性別が同じなので、主と刀剣男士で垣根を作らない審神者だったら、刀剣男士と一緒にお風呂に入ったりするのだろうか。今度審神者が集まる会議の時に、男性審神者に聞いてみるのもいいかもしれない。刀剣男士と一緒にお風呂入れるなんて、今の私にはうらやましすぎる。太郎さん限定だけど。
 刀剣男士用の脱衣所の戸の前に立って、耳をそばだてる。中からはお湯を使っているような音しか聞こえない。念のため、引き戸を少しだけ開けて、中の様子をうかがう。見える範囲には誰もいないし、脱衣所内からは物音はしない。これはいける。そう判断した私は、はやる気持ちを抑えるために深呼吸をしてから、浴場内に聞こえないように引き戸をそっと開けた。
 開けた瞬間に息が止まった。太郎さんが戸の前に立っていたからだ。

「…………! ……っ!」

 声に出さずに叫び声を上げる。太郎さんは私を見た瞬間に、今まで見た中では一番に渋い顔になった。思考が停止して口を開けたまま突っ立っている私に、長い息を吐いてからこう問うた。

「……主、刀剣男士の風呂場になにか御用ですか」
「あ……あはは……はは……た、太郎さん、お風呂に入ったはずじゃ」
「その予定だったのですが、私が入ると少々狭いようなので、どなたか一人上がった後に入ることにしました。主、私の質問に答えてください」
「あは、はは……」

 内番に当たっていた人数は四人。その中に小柄な短刀や線の細い脇差はいない。全員打刀以上の体格の刀剣男士だった。そのことが災いして、四人はまだ許容範囲の風呂場だったが、ぎゅうぎゅうになってしまったのだろう。誤算だった。
 私は乾いた笑いを上げながら言い訳を考える。しかしこの状況はどう言いつくろっても苦しい。言い逃れはあきらめるべきだろうか。いや、だからといって正直に話して理解を得られるだろうか。

「まさかとは思いますが、主は刀剣男士たちの風呂をのぞきに来たのですか」
「えっ……! 違います、それは断じて違います!」

 一向に質問に答えない私に、業を煮やした太郎さんが疑いの目を私に向ける。しかしそれは違うので、私は力いっぱい首を横に振った。否定の言葉も思わず声が大きくなってしまう。太郎さんが、ちらりと浴場のほうを見た。そして、脱衣所の外に一歩出てから戸を閉めた。私との会話を聞かれないようにするために。

「ではなぜ」
「え……い、いやあ……脱衣所に、用があったというか」
「男士用の脱衣所にですか。さて、どんな用事なんでしょう」
「う、うう……言わなきゃだめです……? 見逃しては」
「だめです」
「ううう……ですよね……」
「言い訳は無用ですよ。言い訳をした場合、あなたを山姥切殿と歌仙殿に突き出します」
「ひいっそれだけは! それだけはご勘弁を!」
「でしたら、正直に話してください」

 太郎さんに思わずしがみついて懇願すると、彼は呆れたように眉を下げた。ここまで言われてしまったら、観念して話すしかない。私は太郎さんから離れると、顔を覆った。

「……た、太郎さんの服……」
「私の服がどうしたのですか」
「……服の、においを、かぎたかったんです……脱ぎたての……」
「…………………………………………………………」

 私が動機を白状すると、太郎さんは珍しく口を開けて呆然としていた。沈黙が痛い。針の筵とはこのことか。
 太郎さんは長い息を吐いた。

「……それで、刀剣男士用の風呂場に来たと。私の脱いだ後の服で自分の欲望を満たそうとしたわけですね」
「…………はい」

 太郎さんに的確に言い当てられ、私はうなだれた。完全犯罪を狙ったつもりだったのにどうしてこうなったのか。この後太郎さんはどうするんだろうと思ったその時だった。

「いっ、いだだだっ……!」

 両の側頭部、ちょうど耳の上ぐらいに衝撃と圧力がかかった。顔を上げると、太郎さんの両腕が私の頭に伸びている。げんこつで頭をぐりぐりされているのだ。痛い。結構な圧力で、骨ばっている男性の手でぐりぐりされては悲鳴も出る。というか涙も出てきた。

「いいいいたい痛い……! た、太郎さ、いだい」
「痛くしているんです。犯罪すれすれ、というかもう犯罪ですね、そんなことをしたあなたに対しての罰です」

 ぐりぐりぐりぐり。

「いぃぃ〜!」
「反省してください。もうしないと誓ってください」
「うう反省します、もうしません、もうしませんから!」

 ぐりぐりぐりぐりぐりぐり。

「本当ですね? 誓いなさい」
「誓います、もうしません、ごめんなさい〜!」

 誓います、の言葉を聞いて、太郎さんは手を離した。私はその場にへたり込んだ。急に圧力から解放されたはいいが、ぐりぐりされた衝撃のせいで天地が不明だ。眩暈のあまり吐き気までする。涙と眩暈でまともに目を開けていられない。太郎太刀、容赦がない。

「うううう」
「泣くくらいなら、最初からこのような倫理観に欠けることはしないでください。ほら、立てますか」
「無理でず……」

 というか言葉を発するのもつらい。ぐりぐりって力が強い人がやると、こんなに恐ろしいものなんだ。ぐらぐらする。へたり込んだままうつむいて涙をぬぐっていると、太郎さんが私の背中側に移動した。それから私のおなかに手を回すと、一気に抱き上げた。

「うぇっ」

 さっきから色気のない声ばかり出しているけれど、そんなことに気を遣っている余裕がないのだ。腹、腹が苦しい。小脇に抱える体勢なので、腹に自分の全体重がかかってしまうのだ。太郎さんが私を抱えて歩くたびにおなかが苦しい。これも罰の一環かと思うほどだ。
 しばらくして私の部屋にたどり着くと、太郎さんは私を座布団の上に降ろした。息苦しさから解放される。私はまともに座っていられず、畳に手をついてうなだれた。痩せよう、自分がこんなに重いとは思ってなかった。まだ腹が苦しい。
 太郎さんは私を降ろすとそのまま母屋のほうに去っていった。あとには、頭と腹の痛みに、うめき声を上げる私だけが残された。



◇太郎さんに笑ってほしい!

 先日のお風呂場事件から二週間ほどたった。あの事件以来、太郎さんが私を見る目は、絶対零度のように冷めたものになってしまった。あまり目を合わせてくれないけれど、合った時の目は温度が感じられなかった。美しく整った容姿も相まって、かなり冷たいものに感じられる。というか実際そうなんだろう。私のしたことは太郎さんを引かせるには十分な異常行動だったんだ。今更反省したところで遅い。もう太郎さんの中の私の評価は地に落ちていることだろう。
 あの事件のあと、三日ほどは普通に、今まで通り過ごしていた。今まで通り、食事は広間でみんなと取って、指示は私ができる限り自分で直接みんなに伝えていた。だが、太郎さんの態度が想像以上につらかった。私は四日目に離れから出るのを拒否してしまった。自業自得ということがわかっているだけに、さらにつらい。反省している、と謝ったものの、太郎さんからすれば許しがたいと思っていても仕方ないことである。その現実を受け止めることが怖くなって、私は逃げてしまった。

(あんな思い切ったことした割に、なんでこんなに怖いんだろう)

 太郎さんの髪に巻き付いたときも、服を失敬しようとしたときも、これまでの人生で一番の行動力だった。それくらい盲目的になっていたのだ。太郎さんのことが知りたくて、もっと近づきたくて、もっといろんな顔を見たくて。それなのに、冷たい顔ひとつで逃げてしまうのは、なぜなのか。
離れにこもっているせいで、やけに仕事が進んでしまい、必然的に手すきの時間が増えた。その時間にぼんやりとそんなことを考えるが、答えはよくわからないままだった。
 近侍の山姥切くんや、私の部屋に出入りすることが多かった堀川くんが、一気に引きこもりと化してしまった私の世話を焼いてくれる。世話といっても、食事をここに運んだり、郵便物を取ってきてくれたりすることぐらいだが。風呂は相変わらず母屋のほうまで足を延ばしている。母屋にしかないからだ。しかし、その時間はかなり遅くなった。刀剣男士──太郎さんにあわせる顔がないから、こわいから。
 もう今日処理しなければいけないことは終わってしまった。やることがないので、夕飯までごろごろする。座布団を枕にして、部屋の天井をなんとはなしに眺めて、ぼんやりする。以前なら本を読むなりなんなりして暇をつぶしていたのに、今はなにもする気が起こらなかった。
 ぼんやりしていると思い浮かぶのは、太郎さんのことだった。

(引きこもる前に見た顔も、冷たかったなあ)

 太郎さんの表情を崩したくて色々してきたわけだが、そんな冷たい表情を見たかったわけじゃない。常軌を逸した行動を取った私が全面的に悪いが。
 笑った顔が見たかったのだと今更気づいても遅い。笑ってほしいがためにしてきた行動を振り返って、自分が埋まる穴を掘りたい気分だった。

(頭おかしかったな……というか、太郎さんになにをしたいのかもはっきり自覚してなかったから、あんなばかなことをしてたんだろうな……)

 とにかく太郎さんに近づきたかった。普通ならばそれは、会話なり普段の態度で少しずつ信用を得て、距離をつめていく。それを一気に飛ばして、いきなり相手に対してあれこれしたいというのでは、それは警戒されて当たり前だ。自分の思いしか押し付けてないのだから。まるで幼い子供のような自分の過去のふるまいに、やはり穴を掘って埋まりたい気分だった。
 太郎さんのあの冷たい表情が、私に対しての警戒しきった心情の表れだとするならば、私が離れに引きこもったのは正解かもしれない。もとの距離に戻って、もう太郎さんに干渉しないのがいいだろう。この本丸にいることが不快だと思われるのだけは避けたかった。手遅れになる前に、距離を取らなければ。
 今朝、いつまで引きこもるつもりだ、と山姥切くんに聞かれた。私が急に顔を見せなくなったので、刀剣男士の誰かから訊かれたのかもしれない。山姥切くんは、私がここから出たくない、といったらそれ以上は深く聞かなかった。堀川くんも、時々気遣わしげに「たまには外に出ないと、体に毒だよ」と言ってくるだけで、理由を聞いてはこなかった。それがありがたかった。
いつまでと言われても、もうずっとこのままのほうがいいように思えてきた。多少食事時が味気ないけれど、離れに引きこもっていても特に不都合はない。近侍のやることが増えて申し訳ないけれど。わざわざ私が姿を見せずとも、きちんと役割を果たしてくれているとの報告も受けている。もともと刀剣男士にそこまで主として慕われているわけでもないし、逆に今まで母屋に顔を見せていたのが不思議に思えてきた。

(いつまでかは、まだわからないとしか答えられないな……あんまりみんなを不可解な気持ちにはさせたくないけど……)

 などととりとめもなく考え事を巡らせていたら、いつのまにか眠っていたようだ。もう日がかなり赤くなっている。日暮れ間際のようだ。夏の日暮れということは、もう母屋の夕飯時を過ぎている。誰かが私の部屋に夕飯を運んできてくれていてもおかしくないが、寝かせておいてくれたのだろうか。
 目をこすりながら身を起こす。畳の上で寝ていたから、体が少し痛い。枕も、一応座布団は下に敷いていたものの、普段使っているものより低いので寝違えたときのように首筋が痛い。うたた寝はするもんじゃないな、と体にかかっていたタオルケットをのけながらため息をついた。

(ん……? 私、寝る前にこんなのかけて寝てないよね……?)
「目が覚めましたか」

 部屋の中に響いた低い声を耳にした瞬間、血の気が引いていった。恐る恐る声のしたほうへ顔を向けると、太郎さんが部屋の隅に座っていた。座布団もしかないで、正座している。太郎さんの傍らには夕飯と思われる食事の膳が置かれている。

「た、ろうさん……」

 寝起きの声はかすれていて、思った以上に低い。自分の声じゃないみたいだった。太郎さんはいつもの無表情だった。日が落ちかけて、部屋が赤い。その赤い夕陽を、金色の瞳が反射していた。

「夕餉を持ってきました」
「あ……えっと……今日は、いらないです」

 太郎さんが膳を勧めてくるけれど、今はまったく食欲がなかった。目が覚めた直後は、確かに空腹感はあった。だが、太郎さんを目の前にして、食欲はどこかへ失せてしまった。
 私の返答に、そうですか、とだけ太郎さんは返した。そのまま膳を持って部屋から立ち去るのかと思っていたが、太郎さんは座ったままだった。

「聞いてもいいでしょうか」
「……は、い、なんですか?」
「突然皆の前に姿を現さなくなったのは、なぜでしょうか」

 これを聞きに来たのが主たる目的のようだ。おそらく、山姥切くんと同じように、誰かから聞いて来いと頼まれたのだろう。普段私の部屋に出入りしている山姥切くんや堀川くんも、今までそういったことを頼まれていたかもしれないが、私にそれを尋ねることはなかった。自分から話そうとしない私に気を遣ってくれたのだ。しかし、今夜ここへ彼ら二人ではなく太郎さんが食事を持ってきたということは、二人がそれを許可したからだ。太郎さんから、私の引きこもりについて問われる可能性もわかった上でだ。それだけ、私がみんなの前に姿を見せなくなったことが困惑を与えているのか。

「なぜと言われても……」

 適当な言い訳を考えていると、太郎さんが先に口を開いた。

「私に対して、なにか思うところがあるからでは?」

 ずばり切り込まれて、私は声を詰まらせた。太郎さんの姿もまともに見られない。どんな顔をしてこれを聞いてきたのか、知るのが怖かった。
 私が答えずにいると、太郎さんが例のごとく長い息を吐いた。

「主、あまり私を困らせないでください」
「こま……困らせるようなこと、今してますか」
「はい。あなたは私たちの主なんです。あなたに呼ばれてこちらへ来た刀剣たちの主。いうなれば、私たちにはあなたしかいません。あなたがいなくなれば、私たちは寄る辺を失います。ですから、急にこのようなことをされては困りますし、理由を答えていただかないと困ります」

 ここまでたくさんしゃべる太郎さんを初めてみた。呆気に取られて、つい太郎さんをまじまじと見てしまう。太郎さんは相変わらず無表情に近い顔だったが、どことなく怒っているようだった。
 太郎さんの言い分はもっともだ。突然主が引きこもったら誰だって困惑する。ただ、だからといって素直に理由を話せるはずがない。本人を目の前にしているのだから。

「…………」
「言えませんか。では、私が先ほど言った、私に思うところがあって……私と顔を合わせたくなくて、主は部屋に引きこもっていると、皆にはそう伝えます」
「えっ……! ちょっと待ってください!」

 図星すぎる。なんでこうも的確に当ててくるのか。私がわかりやすいだけなのかもしれないが、わかっているならもう少し気を遣ってくれてもいいのではないか。

「当たりなんでしょう」
「うっ……まあ……はい……」
「まったくあなたは……童のような人ですね」
「え?」
「まるで子供のようだと言ったんです」
「こども……そ、そんなことは、自分でもわかってます」
「いいえ、わかっていませんよ。あなたは私に合わせる顔がないから、という理由をつけていじけているだけです」
「い、いじけてる?」
「違うとでも?」
「ち、違いますよ! 私、本当に反省してるんです、太郎さんに色々迷惑をかけちゃったこと……だから、太郎さんにどんな顔をして会えばいいか、わからなくて」

 そこまで聞いていた太郎さんは、不意に立ち上がった。私のすぐ目の前に座ると、私の顔を覗き込んできた。

「それは本心かもしれませんね。ですが、そこであなたは私から逃げた。自分の部屋に引きこもって、私と向き合うことを放棄したんです。散々私をかき乱しておきながら」

 私が顔を俯かせると、視線をそらすことは許さない、とでも言うように、両頬に手を当てられ、顔を上げさせられた。赤色に染まった金の目が、まっすぐに私を射る。

「私への接し方も、まるで子供のようでした」
「わ、わかってます……! 自分の気持ちしか考えてなかったんだなって、自分でもわかってます。でも」
「でも、なんですか?」
「でも、だって……太郎さんのこと気になって仕方なくて、太郎さんのことで頭がいっぱいで、太郎さんのいろんな顔が見たくて……私を見てほしかった……だから」
「だから、私の髪に巻き付いたり、服の匂いを嗅ごうとしたり、ですか?」

 太郎さんの問いに、言葉が出ずにただ頷いた。そのせいで涙が頬をつたって流れ落ちた。困ったな、泣くつもりなんか全然なかったのに。これじゃあますます私が子供みたいじゃないか。
 涙が止まらずにそのまま泣いていると、太郎さんが少し困ったような顔をした。両頬に添えた手はそのままに、指で私の涙をぬぐった。

「ご、ごめんなさい、泣いてしまって。いいんです、放っておいてください。そのうち泣き止みますから」
「目の前で泣かれて放っておけるはずがないでしょう」
「でも、本当にいいんです、もう。私明日からちゃんとします。突然引きこもったこと、みんなの前でちゃんと謝って説明します。だから、今日は太郎さん、もういいんです」
「ですから、そうやって一人で完結してしまうのをやめてください。あなたの欠点です」
「え?」
「私は、泣いているあなたを放っておけません」

 どういう意味なのかさっぱり理解できない。太郎さんをただ見つめ返していると、太郎さんがまた困ったような顔をする。

「わかりませんか?」
「う、わかりません……どういう……?」
「はあ、鈍いひとですね」
「にぶ……?」 

 太郎さんは目じりの涙をぬぐうと、できの悪い子に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。

「あなたが好きだから……だから、泣いているあなたを放っておけないんですよ」

 私はというと、その言葉を正しく耳で聞きとって、正しく脳で判別していても。すぐに理解できなかった。え、という口の形を作って、パクパクと口を開けたり閉めたりを繰り返すのが精いっぱいだった。

「だから、あなたが、私に見てほしかったからあのような行動を取っていたというのも、あながちまったく的外れでもなかったということです。私も、いつのまにか主のことが気になって、いつも目で追うようになった。その行動を理解できたわけではありませんが……主、聞いていますか」

 私が相変わらず呆けたようになっているから、太郎さんが私の頬を両手で挟んだ。口が強制的に尖ってしまう。

「な、なにふるんでふか」
「私の話を聞いているかと訊いているんです」
「き、聞いてまふ! でも、なんか」

 私は太郎さんの手をそっと叩いた。この状態でしゃべるのはきつい、というか不格好すぎる。太郎さんも聞き取りづらいと思ったのか、すぐに力を緩めてくれた。

「夢、みたいで」

 本当に、これは夢なんじゃないだろうか。私はずっと太郎さんのことが好きで好きで、いろいろと段階をすっ飛ばして異常行動をしてしまうくらいに好きだ。今日やっと自覚したけれど。今日まであわせる顔がなくて、避けていた太郎さん。そんな状態だったのに、今は太郎さんに好きと言われている。これが呆然としないでいられるだろうか。
 でも、これは夢なんかじゃない。それを、私は今から思い知るはめになる。

「夢じゃないですよ。けれど、私も……」

 私の言葉を聞いて、太郎さんはゆっくりと、両手で私の頬を包み込んだ。それから、またゆっくりと、その形のいいくちびるを、笑みの形にしたのだった。

「夢ではないけれど、夢のような心地です」

 そのあと、その笑みの形のくちびるが、そっと私のくちびるに重なった。



 そのあとのことはよく覚えていない。太郎さんによると、口づけをしたあと、私はぶっ倒れたらしい。なにが原因かはわからないが、あまりのことに頭が処理しきれず、失神したのかもしれない。
 失神はそう長い時間ではなくて、その一時間後ぐらいに目が覚めた。自分の寝室で布団の上に寝かされていた。
 起きると、太郎さんが呆れたような、困ったような、でも心配そうな声で言った。

「あなたは本当に、目が離せないひとです」

 それから、みんなの前で謝って説明して、私はまた元のようにみんなと一緒にご飯を食べるようになった。刀剣男士のみんなは、苦笑いして口々に小言を言っていたけど、最後には笑って許してくれた。
 太郎さんと晴れて両想いになってから、半月ほどたつ。私たちの関係性というか、太郎さんの私に対する態度からお察しの通り、進展はない。まったくない。甘い雰囲気になる日なんて週の半分以下だ。むしろ週に一回あるかないかだ。泣いてない。ま、まあまだ付き合って半月出しこれからだよね。太郎さんは俗世のことに疎いほうだけど、まあなんとかなりますって!

 私はまだまだ精神的に子供っぽい部分があるし、すぐに逃げようとする癖がある。太郎さんはそんな私を叱りながら、でも優しく手を引いてくれる。一歩前で先を示してくれる。
 いつの日か、私が今よりももっと精神的に成長して強くなって、太郎さんのお叱りがなくても正しく進めるようになったら。その時はきっと、太郎さんの隣で歩いていけるようになるんだろう。



◇おまけ 太郎さんの弱点を知りたい!

「太郎さんには弱点てありますか?」

 ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。太郎さんは本丸で過ごす分には、一通りなんでもできる。戦闘だって強いし、なにも不自由なことなどないように思える。

「いきなりですね。一体どうしたんですか?」
「え、いや、単純に、弱点あるのかなあと疑問に思ったので……」

 太郎さんの怪訝そうな顔に向かってそう答えると、太郎さんはそうですね、と顎に手を当てた。

「弱点ですか。苦手なことはありますが」
「苦手?」
「料理が少し、苦手です。厨房の台などは、私には低すぎるので……その、手先の細かい作業にも慣れていませんから」

 なるほど、と私は頷いた。確かに料理当番で厨房に立っている時は、たいそう苦労しているようだ。なにをするにも、まず腰をかがめなくてはいけない。そんな姿勢でいるのは刀剣男士といえどつらいだろう。

「主、弱点を知ってどうするつもりなんです」
「え」
「答えるのはやぶさかではありませんが、私の弱点を知って、それでどうするつもりですか」

 じっと太郎さんの金の瞳に見つめられて、私は顔の前で手を振った。本当に、ふとわいた疑問をそのまま口にしてみただけで、他意はない。というか弱点を知って、それで太郎さんをどうにかしてやろうなどと思わない。報復が恐ろしすぎる。頭をぐりぐりされるか、思いっきり頬をつねられるか。どちらにしても痛すぎるし嫌すぎる。

「いや、本当に弱点あるのかなーって思っただけなので、そこから先のことはまったく考えてなかったんですけど」
「そうですか……」

 太郎さんは、ふむ、と考え込むようなしぐさをした。それを見て、まさか弱点が本当にあるのかと、好奇心をくすぐられた。

「えっあるんですか弱点」
「なんですか、主から聞いてきたのでしょう?」
「だって、太郎さんに弱点なんて想像つかないというか……わからなかったから」

 というと、太郎さんはじと、と私を見つめてきた。

「な、なんですか」
「主、本当に私の弱点がわかりませんか」
「え、もしかして私も知ってるんですか?」
「ええ……まあ……というか、心当たりを簡単につけられそうな気がします」
「太郎さんの弱点の心当たり? 私が?」

 私にもわかりそうな、太郎さんの弱点。そう言われても、考えてみてわからなかったので本人に聞いたのだが。本人からそう返されて、私は再び考え込んだ。太郎さんの弱点。苦手なものではなくて、弱点。

「料理……はさっき出たし、うーん……もしかして」
「わかりましたか?」
「鴨居?」
「違います」

 即答された。高身長ゆえの弱点といえば、顕現した初日にもぶつけていた低い鴨居だと思ったのだが。どうやら違うらしい。

「ええ……うーん……わからないです、太郎さんの弱点、教えてください」

 私が根を上げて改めて太郎さんにお願いすると、太郎さんはため息をついた。

「あなたは……本当に鈍い人ですね」
「ううう……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいんですが……そこがあなたの魅力でもあります」
「え」
「教えて差し上げますから、耳を貸してください」

 手招きされて、私は太郎さんに片耳を向けて近寄る。太郎さんは、内緒話をするときのように、口元に手を当てて、私の耳にこうささやいた。

「私の弱点は、あなたですよ」
「…………太郎さん、前々から思ってたんですけど、結構きざですよね……」
「おや、そうでしょうか。だとしても、あなたにだけですよ」
「……! ……!」



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