大切なものはひとつでいい



※現代パロ。長いです
※ハッピーエンドではありません
※鶴さに&いちさに企画サイト「茜さす 君が袖振る」様に寄稿したものです




 そこは小高い山の上にあった。
 医師と看護師が二人いるだけの小さな診療所である。この診療所の主である医師は、の父親の古い友人であった。 高原というほどではないが、都会の喧騒から外れた山──というより、丘といったほうがいいだろうか、日中であっても自動車の走る音も聞こえないような静かな場所だった。小さな集落はあるものの、診療所はその集落から少し外れたところに位置していた。日が落ちれば、風が草木を揺らす音と、虫の鳴き声しか聞こえないような、現代日本とは思えないようなところだった。

 診療所といっても外来はやっていない。往診も、標榜する科の性質ゆえにめったに呼ばれることはない。看護師が二人いるのも、ただ交代制を取らせるためのようなものだと、は診療所に入って三日目には感じていた。それほど、ここはなにもない。

 とにかく時間を持て余していた。診療所には療養目的で入れられたのだが、三日目にして退屈で死にそうになっていた。なにしろここには娯楽がない。久しく見ていなかったテレビ番組もさすがに飽きてくる。電波はあるものの、ずっと携帯端末をいじっているのにも限界がある。

 そもそも、療養とはいうが身体には異常はない。体力は有り余っているのだ。

(たしか、暇つぶしに本が置いてあるんだっけ……行ってみるか)

 図書室というわけではないが、書斎のような部屋がある。そこにあるものはいつでも読んでも構わないと、ここの主から初日に説明を受けている。その時は、読書など柄ではないと思っていたのだが、こうも時間が余るとそうもいっていられない。は腰かけていたベッドから出ると、一階の書斎へ向かった。

 途中で看護師の一人に行き会った。「あら、今日は外に出るの」という問いに、ちょっと書斎を見てみようかと、と短く答えた。今は八月初旬、夏の盛りだ。いくらここが市街地よりも涼しいからといって、暑くないわけではない。それに日差しも強い。とてもではないが、日中に外に出る気にはなれない。

 看護師と別れ、一階の奥まった部屋へと足を向ける。古めかしい部屋札に書斎と書かれている。ドアを開けると、部屋の中は薄暗かった。少々かび臭い匂いが鼻をくすぐる。ああ、学生時代に学校の図書室でかいだ匂いだ。中へ入り、ドアを閉める。本棚のある部分の窓にはカーテンが引かれており、部屋の奥から光が漏れている。奥はカーテンが引かれてないのだろう。

 その光に導かれるように本棚の奥へと行くと、開け放たれた窓から入り込んだ風が、レースカーテンを揺らしていた。窓の手前にある机と椅子は、書斎で読み物などをするために置かれているものだろう。本当に簡易版の図書室のようだった。

 そこに、一人の青年が座って本を開いていた。これから読む本なのか、それとももう読んでしまった後なのか、傍らには数冊本が積まれている。窓際で風に揺れるカーテンと、本を読む青年の姿が一枚の絵のように整っていた。明るい髪色をした青年が、の視線に気づいて視線を上げた。

 目が合った。優しそうなやわらかい雰囲気をまとった青年だった。明るい髪の色と、優しげな色をした淡い茶色の瞳。をうつして驚いたように大きく見開かれていた目は、すぐにの正体に見当をつけたのか、普段していると思われる表情にもどった。

「あなたは……こんにちは、お加減はもうよろしいのですか」
「……あ、えっと……」
「失礼、私は粟田口一期といいます。あなたと同じで、ここに入院しているものです」
「粟田口さん」
「言いづらいでしょう、一期でいいですよ」
「い、いちご、さん」

 いきなり初対面の相手を名前で呼ぶのはなんとなく恥ずかしく、声が震えて上ずってしまった。それでも蝉の鳴声以外は聞こえない室内ではちゃんと聞き取れたようで、一期がうなずいて微笑んだ。

「あなたはさん、ですよね」
「どうして、私の名前を」
「あなたがここに来てから、皆あなたのことをうわさしていたので、自然と覚えてしまいました」
「そ、そうだったんですか」
「はい。今日は散歩ですか」
「あ、えっと、はい。少し歩いてみようかと」

 退屈だったから、とは言わなかった。嘘ではないだろうとぼやかした言い方をすると、一期がうなずいた。

「ここは、なにもありませんからね。私もここにお世話になっている身分なので、あまり大きな声では言えませんが」
「あ、う、はい……その通りです」
さん、私がこんなことを言っていたことは内緒にしていてもらえますかな」
「……はい」

 茶目っ気のある微笑みに、肩の力が抜ける。もつられて表情をほころばせると、一期も笑みを深くした。

 彼は本にしおりを挟んでから閉じた。傍らに置いてあった数冊の本の上に手にしたものを乗せ、日の当たらない場所に寄せた。

「これからここを見て回るのでしたら、ご案内いたします」
「え、そんな、悪いですよ」
「なに、暇を持て余しているのは私も同じです。お付き合いいただけますか」
「本当にいいんですか?」
「はい、あなたさえよければ」

 と、人当たりのいい笑みを浮かべる彼に、お願いしますと返した。それから二人で、そう広くはない診療所を見て回る。本当は初日に大体の説明は受けているのだが、一期の説明を聞くのは純粋に楽しかった。彼はまじめそうに見えて、意外と歯に衣着せぬ物言いをするところがあるらしい。ここは特に何の用事もない部屋ですな、などという彼に、時折笑い声をあげながらついていった。歳はそんなに大きく離れてはいないだろうが、なんとなく彼のほうが年上のような気がして、知らず緊張していたようだった。だが、言葉を重ねるうちにその緊張もすっかり解けていた。

「昼も夜も、本を読む以外はやることがないのは同じですが、夜は一つだけ、楽しみなことがあるんです」
「夜に楽しみなこと?」
「なんだと思いますか」
「ええ……うーん……」

 問われては首をひねった。思いつかない。昼も夜もやることはない、と一期も言っているように、たった三日たっただけで時間を持て余すのだ。夜は消灯時間も決まっているので、あまり遅くまで明かりをつけていられない。読書も限られているのだ。だとすると、ほかになにがあるのだろうか。は早々に答えを考えるのをやめた。

「……わかりません、夜にすること、ですよね」
「ではヒントを出しますか。夜になると、空が暗くなりますよね。それから見えるものといえば」
「あ……星?」
「正解。ここは、本当に星がきれいなんです。今は夏なので空も晴れていることが多いので、毎夜のように見えますよ」
「へえ……」
「ただし、虫よけスプレーは必須なのですが」
「そ、外に出て星を見てるんですか?」
「部屋にいてはよく見えんので。それに」
「?」
「外に出て星空を見上げていると、星が降ってくるような……星に囲まれているような気分になるんです。それくらい、空が近くて星がよく見える」
「そんなに……」
「今夜も晴れるでしょうから、よければご一緒にどうです」
「いいんですか?」
「ええ。常々、この星空を独り占めにするのはもったいないと思っておりました」

 その夜、診療所の玄関先で虫よけスプレーを振りまき、は一期に手を引かれて外へ出た。診療所の中庭に置いてあるベンチに腰かけ、空を眺める。隣に座る彼の言う通りだった。爛々と輝く星が、さえぎるものが少ない空一面に散っている。深い藍色の布にダイヤモンドを砕いてばらまいたようなきらめきだった。見入っていると、空との距離感があやふやになってきて、一期の言うように、星に囲まれているような気分になってくる。

 なにも話さずにただ星を見上げる。言葉が出なかったというべきか。今まで見たことのないような星空を前にして、はただ黙って息をするしかできなかった。の中にある語彙では、うまくこの感動を言い表せない。だから黙って見上げるしかできないのだ。

 どれくらいそうしていたのか、気が付けば月が中天を通り越していた。まぶしいな、とぼんやりしていると、肩をたたかれた。

「中に入りましょう。そろそろ寝なければ、明日の起床がつらいですよ」

 妙に説得力のある言葉だった。経験者は語るというやつなのかもしれない。は素直にうなずいて、一期にまた手を引かれながら中へ戻った。なにかに足を取られないように、との気遣いで一期が手を引いてくれているのだが、今はもう必要なかった。星を見る前なら目が暗闇に慣れておらず、一期の助けが必要だった。だが、今はもう暗闇に目が慣れているし、星も月も影を作るほどに明るいので、彼についていくのは簡単だった。それでも差し出される手を取ったのは、単純に頭が惚けていたのだ。

「す、ごい星でした。月も」
「でしょう」

 よかった、と一期がつぶやいた。それはに星空を見せることができたからなのか、がそれに感動を覚える人間であったからなのか。ぼんやりする頭で考えたが、よくわからなかった。

 翌朝、看護師が起こしに来るまで夢を見ていた。満点の星空の下で、粟田口一期という青年が空を見上げている光景だ。昨夜見たはずなのに、なぜだか新鮮な気分で、はその整った形の横顔を見ていた。横顔はとても悲しそうで、きれいだった。

 それからというもの、晴れている日には二人で夜空を見上げることが多くなった。時折空に雲がかかっている日もあったが、雲間に見える星や月を見ているだけでも退屈しなかった。夏や初秋の頃は虫が多いので、毎回外に出て見上げる、というわけではなかった。秋が深まり、朝夕の気温が下がってくると、もっぱら外に出る。うるさいほどの虫の鳴き声を聞きながら、二人で言葉を交わすことなく、ただ星に見入る。そんな日々が続いた。



 と一期は、日中はそれほど一緒に過ごしているわけではなかった。は、一期と星を見るようになってから昼寝をすることが多くなった。入院しているからには決まった起床時間があるし、出歩ける場所といえば診療所の周辺と図書室しかないので、行き会わないわけではない。ただ、圧倒的に夜に顔を合わせることが多いだけだ。

 昼間に図書室で会った時は、一期のおすすめの本を教えてもらい、それを読んで感想を言い、また教えてもらうということが多かった。

 彼がどれくらい前からこの診療所にいるのかわからない。とにかくよりも先にいたのだ。よりも当然、この図書室の本にも目を通している。ほかにすることがないのだから。

 この診療所にいる以上は、と同じように、精神になんらかの異常をきたしているのだ。いつからここにいるのか、なぜここに来たのか。それを聞くことはためらわれた。答えにくいことは聞きたくなかった。

 その夜は小雨が降っていて星を見ることができなかった。も一期も就寝時間通りにベッドに入っていた。

 はベッドに入っていただけで起きていた。普段は起きている時間だ。特に疲れることがないので眠れるわけがない。目をつぶったり開けたり、なんとはなしに寝返りを打つことを繰り返していた。

 その時、の耳に布団の布ずれ以外の物音が入ってきた。ぴたりと動きを止めて耳を澄ませる。人のうめくような、ぐぐもった声がかすかに聞こえる。

 音の心当たりは隣の部屋だけだ。は身を起こして薄手のカーディガンを羽織ると、隣の一期の部屋に向かった。

 部屋の真ん中にあるベッドの上で丸まっていた布団を、そっとのけて一期の様子をうかがう。胎児のような体勢なので表情はよく見えない。だが、こめかみのあたりが汗に濡れている。こぶしを作っている手が異様に白い。力いっぱい握りしめているせいだ。その間にもひっきりなしに苦悶の声が聞こえてくる。

 あのままこぶしを握っていたのでは手が壊れてしまう。が手を伸ばすが、触れた瞬間に振り払われてしまった。

「あっ」

 その振り払った勢いで胎児のような体勢が仰向けに変わった。やっと見えた顔は、眉間にしわが深く刻まれている。汗もひどい。

 なにか汗をぬぐうものは、とベッドの周りを見渡してみるが、タオルのようなものはなかった。せめてこぶしだけでも開かせようと、再び彼の手に触れた。がちがちに固まったこぶしを、親指からそっと離していく。今度は振り払われず、右手を開かせることに成功した。掌に爪のあとがある。血がにじんでいるわけではないようだ。一期が爪を切りそろえていてよかった、と一息ついて、今度は左手をほどこうと、ベッドの反対側へ回ろうとした。ぐっ、と手を握られて、は足を止めた。

「え……?」
「……う、ぁ……」
「一期さん」

 大丈夫か、と声をかけようとしたが、一期の口がまた言葉を発した。起きているわけではないようだが、やけにはっきりとの耳に入ってきた。

「……ひ……ひが……」
(ひ、って……火、かな)

 手を握る力がぐっと強くなった。痛みを感じるまでの握力だった。思わず眉根が寄るが、一期の手のひらの感触がおかしいことに気が付き、目を見開いた。

 なにか、ざらざらとした感触だった。皮膚の滑らかなものではない。

 一期の手を凝視すると、手首に皮膚の色が変わっているところが見て取れる。まるで火傷のような。そこまで考えて、一期のうめき声に得心がいった。彼は火にまかれたことがあるのだ。手のひらの感触も、おそらくそこに火傷があることを表している。もうほとんど治りかけで、あとは火傷のあとが消えるまで軟膏などを塗るだけなのだろう。普段包帯をしている姿は見かけたことがない。ということは、包帯が取れた状態になってからこの診療所に来たということだろうか。

 考えてみるものの、本人に聞かなければわからないことだった。あまり勘ぐるのもよくないことだと思い直し、首を振って考えを打ち切った。代わりに、一期の手をそっと握り返す。大丈夫だと伝えるようにもう片方の手を彼の手に重ねて包み込むと、安心したのか徐々に握る力が弱まっていった。苦悶の表情も少しずつ消えていき、呼吸も落ち着いてきた。そのころには、空が少し明るくなっていた。

 その気になれば、その手をほどいて部屋に戻ることもできた。だが、なんとなくこの手を離したくなかった。せめて看護師が出勤してくる時間までは、彼のそばにいたかった。

 重ねていたほうの手を使って、一期に布団をかけなおしてやる。その後、ベッドの横の床に座り込む。握った手はそのままなので、片方の手を上げている状態だ。時間がたてば少しつらくなるだろうが、起床時間まで二時間ほどだ。それまでには看護師も出勤してくるだろうし、耐えられるだろう。

 一期の手を握ったまま、彼の規則正しい寝息をBGMに、夜が明けていくのをぼんやりと眺めていた。さすがに眠たくなってきた。一期がうなされている間はそんなことを感じる余裕がなかった。今寝ては、一期が起きる時間まで寝てしまうのではないか……そう思っているうちにも、どんどん意識が沈んでいった。


 一期が目覚めたのはいつもの時間だった。いつも、看護師が起こしに来る起床時間より早く目覚める。身を起こそうとすると、どうも体が重い。悪い夢でも見ていたのだろうか。目をこすろうと右手を動かそうとして、右手がなにかにつかまれていることに気が付いた。

「……、さん」

 身を起こして右手をつかんでいるものの正体を見ると、隣室で寝ているはずのがいた。自分の右手を握って、ベッドのすぐそばで座り込んで寝ている。いつからそうしていたのか、なぜそんなところで寝ているのか、そもそもなぜ自分の病室に。疑問が湧いて出てくるが、それに答えられる彼女は寝ている。とにかく、そのままの体勢では体に悪い。一期はそっと手を解くと、ベッドから降りた。

 夢を見ていた。なんの夢かはよく思い出せないが、この体の重さなら悪夢だろう。そして、一期がみる悪夢は決まって、あの出来事の夢だ。


「ん……あ……あれ」

 が目覚めると、見慣れた天井が見えた。なんとはなしにベッドの傍らに置いてある時計を見ると、もう昼前だった。

「えっ……!?」

 いつの間にそんなに寝ていたのだろうか。というかいつの間にベッドに寝ていたのだろうか。あれから一期はどうなったのか。

 起き抜けでうまく働かない頭を混乱させていると、看護師が部屋の前を通りかかった。

「あら、起きたのね。昨夜は夜更かしだったのねぇ」
「あ、おはようございます……えっと……」
「いいのいいの、たまにはお寝坊したって。一期くんが、寝かせておいてくださいって言ってたし、昨日は二人で遊んでたのかしら?」

 含み笑いを向けてくる看護師に苦笑いを返すと、看護師は仕事に戻った。

 先の話。一期がを寝かせておいてくれと頼んだということは、一期はが彼の部屋にいたことを知っているのだ。ということは、やはりあのまま彼の手を握って寝てしまい、それから彼がその状態のまま起きたと考えるのが一番しっくりくるだろう。

 恥ずかしさで気まずいが、一期から話を聞かなければ。はベッドから降り、顔を洗ってから彼を探した。

 彼はやはり図書室にいた。いつも通りだった。

「おや、おはようございます」

「おはようございます……あの、昨夜、というか今朝は……もしかしなくとも私を部屋まで運んでくれたんですよね」
「ええ……あのまま床で寝かせておくのはつらいだろうと思ったので」
「うわあ、すみません、ご迷惑おかけして。重かったですよね」
「なんの、あなたは軽いですよ。弟たちと……そう変わりません」

 弟たち、と言った後に、一期は少し口ごもった。弟がいるのか、とは聞き返そうとしたが、その一期の様子から、踏み込んではいけないような気がした。結局、なにも聞けなかった。

「私こそ、ご迷惑をおかけしたのでは……なぜ、さんは私の部屋に」
「え、あ、えっと、一期さん、昨夜はうなされていたので……すごく苦しそうで、こぶしを力いっぱい握りしめていたんです。だから、落ち着くまで……と思っていたんですけど、そのまま寝ちゃったみたいです、すみません」
「いいえ、ありがとうございました、さん」

 お互いに頭を下げあっていたのがなぜだかおかしくて、はつい吹き出してしまった。一期も、うなされていたとから聞いて少し表情を硬くしていたのだが、が突然笑い出したことによってあっけにとられたような顔になった。

「……なぜ、突然笑い出されたのでしょうか」
「ご、ごめんなさい、でもなんかおかしくて」
「私がですか?」

 と、憮然とした表情になった。その様子もおかしくて、はますます笑ってしまう。一期はをにらんでいたが、やがて一期も顔をくしゃくしゃにして笑い出した。

「あなたは、本当に……」
「え?」
「……いえ」

 一期がなにを言いかけたのか、その場では結局わからなかった。気になるが、は深く追求しようとは思わなかった。伝えたくなったら、いつか彼の口から出てくるだろうと。あれからしばらくたっても、一期がなにを言いたかったのか、わかっていない。



 紅葉もすっかりと葉を落として、寒さが身に染みるようになった。手足の先から冷え込む寒さは、いつ雪がちらついてもおかしくないように思われた。がここに来てから、もう四ヶ月たとうとしていた。

 四ヶ月もたつのに、まだ退院する兆しはない。少しずつ快方に向かっているのだが、のいつ退院できそうかという問いに、医師は「今はゆっくりすることだけを考えて」と言葉を濁すだけだった。

(焦っても治るわけじゃないってわかってるのに)

 それでも、季節の移り変わりという、目に見える時間の経過が焦燥を掻き立てた。もとより責任感の強いまじめな性格が災いして、精神を病んでしまったというのに。

 もう雪が降る。ほかの、同じ年の者たちは、年の瀬の仕事に追われている頃だ。自分よりももっともっと、仕事にも職場にも慣れて。

(どんどん置いて行かれる)

 ちくちくと胸が痛んだ。焦ってもしょうがないのに。そんなことを考えては、治るものも治らないのに。

(でも、現に私は、こんなところで、ひとりで)


「……さん、さん……」

 自分を呼びかける声に目を開ける。そこで気が付く、自分が今まで眠っていたことに。見慣れた天井を背景にして、見慣れた青年の顔が浮かび上がる。にじむ視界をはっきりさせようと、目をこする。指にじっとりと汗の感触が伝わってくる。

「……い、ちごさん……?」
「大丈夫、ではないようですね。かなりうなされていました」
「うなされて……」

 直前まで自分を苛んでいた夢のような、意識のようなものを思い出す。途端に、また胸をつかまれたような痛みが襲う。

「無理をしないで」
「一期さん」

 の歪んだ表情を見て、一期が自分の胸にを収めた。とっさのことになにも考えられず、されるがままになる。一期は、を安心させるように、こわばったの背を優しくなでた。

「落ち着いて、大丈夫です。ここには、誰もいませんから……本音を言っても、弱音を吐いても、誰も聞いていませんから……」
「一期、さん」

 大丈夫、大丈夫、と言い聞かせるような優しい声に、心の中で抑えていたものがあふれてきた。みるみるうちにこみあげて、一期のシャツを濡らす。

「……っ、わ、たし、仕事も、職場のみんなとも、うまくできなくて」
「……」
「失敗するのが怖くて、失望したような目が怖くて、あんたはもういいからって言われるのが怖くて」
「……」
「がんばって、がんばってるのに、うまくいかなくて、でも、毎日行かなくちゃいけなくて」
「……」
「もういや、期待にこたえられないのがいや、なにもできないと思われるのがいや、なのに、言い訳しかできないのが、いやなの」
「……うん、うん」
「きらい、いやだ、消えてしまいたい……! こんなところで、ゆっくりしている場合じゃないのに」

 一期はをぎゅっと強く抱きしめた。小さい子をあやすようにの頭をなでる。

「がんばったね、、よくがんばったね……」
「う、うう……!」
「……少し、頑張りすぎて、疲れてしまったんだ。今は、ゆっくりしなさい。大丈夫だから」

 優しく諭す声が、の心にしみこんでいった。一期の胸に顔を押し付けて、鼻をすすりながらうめき声をあげる。久しぶりに、本当に久しぶりに人前で泣いた。人前で泣くのは、ここに来る前──職場でなんの前触れもなく突然涙が出て以来だった。

 やがて、存分に泣いて、感情の波が収まると、自然と涙も止まった。呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、一期がを離した。彼の胸はの涙でぐっしょりと湿っていた。

「ご、ごめんなさい、汚してしまって」
「気になさらず」

 が頭を下げるのを見て、一期は笑って手を振った。本当にまるで気にした様子がない彼を見て、は自覚せざるを得なかった。この優しい青年に好意を抱いていることを。

「あ、あの」
「はい」
「一期さんは、どうして……私に優しくしてくれるんですか」

 思いを伝えようとした言葉は、口を出るとこんな質問になっていた。直前で怖くなってしまったのだ。一期が、単に優しさから自分に良くしてくれているのではないか、ここには自分しかいないから、一期も優しくせざるを得ないのではないかと。

 質問を受けた一期は、少し驚いたようだった。そして、の質問の真意を読むような間を置いた。

「私は、一期さんが」
「私がここに来たのは、実家の火事がきっかけでした」

 の言葉をさえぎるように、一期が語りだした。は一期の顔を見上げた。向き合っているはずの彼の視線は、をとらえていてもを見ていなかった。優しく微笑んでいた顔も、今は悲しく苦痛に歪んでいる。

「知っていますか、私の腕に火傷があるのを」
「え……はい、この間ので……」
「……私には弟がたくさんいます。実家にはその弟が、みな住んでいました。弟たちと私で、やんちゃ盛りに手を焼かれながらも、平穏な毎日でした。ある日、炎が家を焼くまでは」

 弟たち、と以前に漏らしたことと、手にあった治りかけの火傷。彼に関して気にかかっていたことを同時に打ち明けられ、は相槌を打つことを忘れて彼の話に聞き入った。

「火災はすぐに消し止められるはずでした。古い木造の家屋は思いのほか火の回りが早かった。そして、広い敷地は弟たちの体力を奪っていった。私は皆を起こし、一心不乱に逃げました。しかし、途中で煙に巻かれて意識を失ってしまった弟がいました。そのことに気が付き、急いで助けに行きました。直接火にくるまれてはいなかったものの、倒れていた床から伝わってきた熱で火傷を負っていました」

 一期の口調は淡々としていたが、瞳には深い後悔と悲しみが見て取れた。赤の他人のでもわかるほどだ。彼の家族も、それを一期から感じ取っていることだろう。そして、その家族も、同じ目をしているのだろう。

「幸い、火傷は重症ではありませんでした。しかし範囲が広かった。そして、火傷の箇所も顔と手と、下肢……見える箇所でした。私は……私はそれを見るたびに自分をめちゃくちゃに殴ってしまいたくなりました。どうして途中で、弟が意識を失ったことに気が付かなかったのか。それ以前に、煙を吸ってふらふらになっていることに気が付きもせず、ただ急かすだけで、なにが兄なのかと。守れなかった。大切にしてきたただひとつのもの……弟を、守れなかったんです」

 それは違う、と否定してしまいたかった。一期の話では取り残された弟も存命で、火傷も軽いものならば後遺症などは体には残らないだろう。しかし、は口をはさめなかった。命が助かるだけでは一期にとっては意味がないのだ。弟たちを炎の恐怖から守れなかったと、そのことを悔いているのだ。

「その傷を、包帯に巻かれた姿を見るたびに、私は後悔しました。自分を責めました。また火災があったらと、身を寄せた親戚の家でも夜眠れませんでした。弟たちの学校で火事があるのでは、遊んでいるときになにかあるのでは、考えるときりがないことばかりが私の中を占めていったのです。日中、何度も弟たちに電話をかけ、無事を確認しなければ気が済まない。ひどいときは、それでおさまらずに学校まで行って、弟の顔を見なければ安心できない。安心できたとしても一瞬のことで、すぐに別の不安が私を襲いました」

 が今いる場所は、精神科を標榜する診療所だ。療養を目的として、小高い丘の上に建っている小さな。も、目の前で頭をかきむしる青年も、心の治療を目的として、ここに来ているのだ。

「次から次へときりがなかった。弟たちは私のことを心配して、医者に診てもらうようにいった。そして……私はここへ来ました。今の私には弟たちを守るどころか、逆に弟たちの負担にさえなっている……耐えきれない……! だから……!」

 感情が高ぶってきた彼を慌てて制止した。もう話さなくていいと。まだ治療中であるのに、しゃべらせすぎた。普段は落ち着いていて優しい彼だから、失念していたのだ。彼も同じ患者であることを。

 しばらくして、落ち着きを取り戻した一期が、ゆるゆるとに視線を合わせた。

「だから……その先はどうか言わないで。私はもう、大切なものを増やしたくはないのです。……増やせない」

 微笑んだ彼の顔は優しくを拒絶していた。が言おうとした言葉の先も、の心の内もわかっていて、だから一期は自分の身の上を語ったのだ。の思いを摘むために。

 なにも言えなかった。彼のことを好きだと思う気持ちは、彼のことを思うがゆえにの心を殺した。摘まれてしまった思いは、の心の中で花を咲かせることはない。



 雪が降った。すっかり冬本番といった季節になって、平地よりも標高が高いこの診療所の周りは雪が積もった。連日雪が降ることが多く、空も曇りばかりで、日はあまり差さない。それがの憂鬱な気分を促進していた。

 あの夜の出来事以来、もうかれこれ二週間ほどたつが、一期とすっかりぎこちなくなってしまった。話さないわけではない。顔を合わせればあいさつと当たり障りのない世間話もする。だが、以前のように二人で過ごすことはなくなった。は彼の顔を見るのがつらいし、彼ものそんな心情を慮って、のいる場所に長居しようとはしなかった。当然、ふたりで星を見ることなどない。そもそも夜は雪が降っていたし、たまに雪が止んでいても曇っていたのだ。

 一期と話さなくなって以来、味気ないここでの生活はより一層色彩を失ってしまった。退屈だ。以前も暇を持て余し気味だったが、話し相手がいないだけで、こうも違ってくるとは。その上、一期は単なる話し相手ではない。が恋心を抱いた相手だ。話しているだけでも楽しかったし、時間がたつのも早かった。

 それが、今はなにもない。

 夕方になって、雪が止んだ。本降りになることはここ数日ないので、除雪した後にまた除雪、という必要もない。看護師たちも助かることだろう。

さん」

 夕食後にぼうっと窓の外を見ていると、ふいに声をかけられた。聞きなれた青年の声。振り向くと、の部屋の入り口に、一期が防寒着を着込んで立っていた。

「い、一期さん……」
「そう警戒せんでください。ひさしぶりに今夜は晴れそうだから、さんもどうですか」

 そう言って一期は天を指さした。久しぶりに、星を見ようと誘っているのだ。

 は一瞬だけ迷って、首を縦に振った。彼とはまだ気まずい、というか、どんな顔をすればよいかわからないが、久しぶりに星を見たくなった。冬の星は、さぞきれいだろう。

 一期は顔をほころばせて、では防寒を、とを促した。が洋箪笥からコートとマフラーを出して身にまとう。手袋はない。外に出ることなどあまりないだろうと、家族には持ってきてもらわなかったのだ。まあ、少しだけ星を見るだけだし、とそのまま一期のもとに寄った。

「手袋は持ってない?」
「……はい」
「では、これを」

 というと、自分の手にはまっていた手袋をとってに渡してきた。

「えっ、いやだめですよ」
「あなたの手にしもやけができては大変だから」
「いやでも」
「いいから、黙ってそれをつけてください」

 一期が有無を言わさずの手に手袋を握らせた。一度言い出したら案外と頑固な青年は、にっこりと笑ってが手袋をはめるのを待っている。は、その無言の圧力にやがて屈し、一期の少し大きい手袋をはめた。一期の体温が残っていて、あったかい。

 が両手に手袋をはめたのを見届けて、一期は今までのようにの手を引いて中庭へ出た。手袋越しに伝わってくる彼の手の感触と体温に、思わず心音が早くなる。彼は単に、足場が悪いから、という意味で手を引いているだけなのに。もう伝えることもないのに、思いが募っていく。それがやるせなくて苦しかった。

「う、わ」

 外へ出て、空を見上げて思わず声が出た。
 冬の、雪の降った後の空は澄んでいて、星がまばゆいばかりに瞬いていた。雪が光って見えるほどの星明りで、木々や建物が雪原に影を落としていた。星の瞬きひとつも見えてしまいそうな近さだった。

 どさっと音がした。音のしたほうを向くと、一期が雪原に寝転んで星を見上げていた。

「い、一期さん」
さんもどうですか。気持ちいいですよ」
「で、でも風邪ひくんじゃ……」
「なに、そう長居はしませんから。ほら」

 といって、彼は再びを手招きした。珍しい、一期の無邪気な表情につられて、も恐る恐る雪の上に寝転んだ。雪はの形に少しだけ沈んだ。

「あ……すごい……」

 寝転んでみると、視界には星空しか見えなくなった。まるで、本当に星の中に寝転んでいるかのような、そんな気さえ起きる。きらきらと、瞬きの音さえ聞こえてきそうな静かな夜。一期は長居はしない、と言ったが、時間も忘れては目の前のきらめきに見入っていた。

 白い息とともに、星がゆっくりと流れていく。息が星空に溶けていくのも、の目を楽しませた。


 ふいに、手を握られた。隣にいるはずの一期に視線をやると、彼は身を起こしてを見ていた。

「もう、戻りましょう。手が震えています」

 言われてみれば、体が冷えている気がする。思いのほか時間がたってしまったようだ。が慌てて身を起こして立ち上がると、一期も立ち上がった。そしてそのまま、彼に抱き寄せられた。

「っ、いちごさ」

 なにも言うな、と言わんばかりに、きつく抱きしめられる。彼の吐息を耳のそばで感じて、胸が苦しくなった。力の強さは、一体なにを表しているのだろう。

「……ずるい、よ……一期さん、ずるいよ……」

 彼が好きなのに、自分を抱きしめているのは好いた男のはずなのに。なのに思いを口にできない。なにも言わせてもらえない。なのに、思いを完全に捨て去ることも許してくれない。せめて泣くことだけは許してほしい。また彼の胸に顔を押し付けた。

 凍えてしまいそうな寒さの中だったが、一期に抱きしめられて、そんな寒さもいつの間に感じなくなっていた。



 目が覚めると、日がすっかり高くなっていた。昨夜、一期と久しぶりに星を見てから、あれからどうやって自分の部屋に戻ってきたのか、よく覚えていない。ただ、ちゃんと防寒着が洋箪笥にしまわれて、ちゃんとベッドで寝ていたことから、一期と部屋まで帰ってきたあとで就寝したのだろうということは推察できた。結構長く外に出ていたが、幸いにも体調を崩したりはしていないようだ。一期はどうしているだろうか。

 は起き上がって厚手のカーディガンを羽織ると、一期の部屋まで行った。しかし、そこには一期の姿はなかった。

 いや、それだけではない。彼の少ない私物類も、なにもかもなくなっている。きれいに片づけられ、まるで入院していた患者などいなかったかのように整っている部屋。いやな予感がして、は走り出した。

 図書室にも、玄関にも、中庭にもどこにもいない。窓から診療所の周囲を見渡しても、どこにも車などは通っていない。一期の痕跡もない。昨日まで話して、触れて、抱き合っていたひとは、どこへ。

 まさか、との頭が結論を出そうとしたその時、「あら、ちゃんどうしたの」と看護師に声をかけられた。

「あのっ、一期さんは……」
「ああ……一期くんは、今朝早くに退院していったわ」
「え……」
「知らなかったの? ちゃんに言ってなかったのね。一週間ほど前に退院が決まって、少しずつ準備していたんだけど」

 知らなかった。一期とはずっとぎこちなかったし、昨日もそんな話をしてはいなかった。

(あ……もしかして、昨日の抱擁は、退院のことがあるから?)

 昨日の彼の様子を思い返して、そんな考えに至る。そんな、そんなことって。

「そうそう、一期くんからちゃんに手紙預かってるわよ。はい」

 くちびるを震わせるに、看護師が一通の手紙を渡してきた。それを受け取ると、看護師に手短に礼を告げて、部屋に戻った。急いで手紙を開ける。几帳面な字で、こう書かれていた。

「私の大切なものは、今は家族です。今は、この一つの大切なものを守っていきたいのです。だから、あなたが大切なものになる前にあなたの前から去ることを、どうかお許しください」

「ずるい……やっぱり、ずるいよ、一期さん……」

 便箋がの涙を吸って、インクがにじむ。その便箋をくしゃくしゃに握ると、はそれを真っ二つに破った。破ったあとで、壊れ物を扱うかのように胸に抱いて、ベッドに突っ伏して泣いた。



 それから、はしばらく抜け殻のように過ごした。図書室に行って本を読むことも、診療所内を歩き回ることも、星を見ることもなくなった。看護師は、一期という話し相手がいなくなって意気消沈しているのだろうと思っていたようだ。

 それでも、時間は流れて、季節は変わっていくものだ。年が明けるころにはは少しずつ心を持ち直して、春になるころには退院が決まった。

 家族が迎えに来た。すっかり片付けられ、のいた痕跡は、私物類の入った鞄だけだ。それも、もうすぐとともにここからなくなる。一期のいた部屋と同じような部屋になる。元に戻る。

 看護師が呼びに来た。鞄を持って、玄関へ向かう。

 ここで過ごした夏からのことを思い返すと、まだ胸が痛い。夏も秋も冬も、一期がそばにいて、の日々に色を与えていた。彼が去ってからは、雪景色と同じように、何もかもが白くて、色が感じられなかった。

 この胸の痛みがすっかり和らいだころには、小高い丘の上で過ごしていた時期を、いい思い出として思い返せるだろうか。優しい顔をして、優しくの心を摘んでいった青年のことも。素敵なひとがいたのだと、思い出にできる日が来るだろうか。






 の去った部屋の隣の病室。そこは、と一緒に過ごした青年が使っていた部屋だった。その青年の部屋は、もうすでに片づけられ、きれいに掃除されていた。青年が退院する日の朝には、もうすっかりきれいになっていたのだ。ゴミ箱の中のものさえきれいになくなっているものだから、看護師たちは几帳面な青年だと感心していたものだった。

 そのゴミ箱には、細かく破かれた便箋があるのを、看護師たちは気づいてなかった。青年が退院する間際まで、宛の手紙に入れるかどうか迷っていた便箋が一枚、破かれて残っていた。

 そこに書かれてあったことは、それを書いた本人にしかわからない。もう誰も知り得ないことだった。


「もしも、大切なものを守り、私が役目を終えて、またどこかであなたと会えたら その時は、あなたをただひとつの大切なものにします」




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